化かし128 御柱
神無月が半ば、今宵は満つる月が空に浮かぶであろう。
ふたりの出逢いから丸二年。オトリが生まれてから里の数えで十八を迎えた。
霧の里のミナカミの神殿にて。
真新しい大きな柱を前に、じつに四方山、色とりどりのひとびとが坐していた。
巫女頭を初めに里の人々、獣の耳と尻尾を頂いた子供と羽毛の鬼、都の近郊からも狐耳の娘と銀の九尾を持つ使い、寺からは和尚とその弟子たちや神童、識神が集う。
洛中からも陰陽師と悪霊の女、その上司である年齢不詳の大陰陽師に、その好敵手である男も豆を齧っている。
みやびやかなる白塗り眉墨の貴人は涙で化粧を崩し、しかし歌で参加者随一の祝いを述べた。
なんと、その横に居並ぶはお忍び姿の斎院と若き日ノ本の君主である。
畿外からも豆狸が参じており、物ノ怪代表として佐渡の大将も頭を天井近くにして身を屈めている。
狸だけではなく、牛も居る。その横には今日だけに限って泥だらけではない背の低い巫女。
放浪の旅団から折よく駆け付けた陰気な元貴人と蛇女、そして盲目の老人と童女の姿もあった。
一様に愉しげ。祝福の時。
天狗と燕の契りの儀式。
種族や性別を一部被らせながらも違えるふたりは、結ばれることを望んだのである。
ふたりはミナカミの神殿内、心御柱の裏に背中合わせで待っていた。
両者とも、いにしえの神を模したという簡素な徒衣の衣装をまとっている。
樹齢うん百年、あるいは千年の楠の巨木から削り出した柱。短い周期で二度も取り替えられたのは里の歴史で初めてのこと。
まだ湿り気を孕んだそれは刺すような独特の香りを漂わせている。
「では、ここぞと思った時に柱を回ってください」
柱の向こうで音頭を取るのは里の巫女、水分小町のヒヨ。
本来ならば、結婚の義の仕切りを務めるのは巫女頭の役目である。
彼女は、当代の巫女頭でありオトリの伯母でもあるコウヅルに頼み込み、神の反対を押し切ってまでこの役に就いていた。
夫婦が契りを成し祝う儀式。
オトリ曰く、形式ばったものを面倒臭がるミナカミが唯一、自ら決めた儀式とのことだ。
夫婦が柱の裏に回り込み、背中を合わせて立ち、互いに目隠しをし、男は左回り、女は右回りで柱を回る。
片手は柱に沿え、もう片手は相手を求めて前へ。
それから、ふたりが出会った場所で手を握り合い、目隠しを外し、女神から祝いの言葉を投げられる。
歩調の違いや、歩き始めの違いで、夫婦ごとに出会う場所にずれがあり、見る者はそれで、やれの夫はせっかちだ、やれあそこの嫁は尻に敷きそうだと、夫婦の今後の暮らしを予想して愉しむのだそうだ。
中には示し合わせたように同時に歩み始め、綺麗に柱の真正面で出会う夫婦もあるが、それは少数派だ。
オトリは過去にこの儀式を解説したさいに「私は絶対に真正面で出会いたいな」と力強く語っていた。
ミズメは契りの日を夢見る娘のこの言葉をよく憶えていた。
昨晩に見せた「まさか、お祝いをされる側になるなんて」という照れ顔も、何度思い返しても愛おしい。
だが、水目桜月鳥は天狗であり、生粋の化かし屋なのだ。
つねに面白いことを探している。
これは楽天的な彼女の長所であると同時に、悪癖だ。
――ここで逆回りをしたら受けるに違いないね。
ミズメは目隠しを外し、相手の背中をそろりそろりと追い始めた。
オトリは明らかに緊張した様子で、歩幅は踏み出すたびに乱れ、呼吸も少々荒くなっている。
里外の見物人たちにも、事前に儀式の形式は伝えられている。
見物人は夫婦に互いがどの位置に居るかを悟られぬように、声を出すのを禁止されている。
霊感的にも察知できぬように二柱の神が結界を施すほどの徹底ぶりである。
だが、目隠しを外しているミズメには、オトリの位置だけでなく、見物人たちが目を丸くしたり、首を傾げたり、笑いをこらえたりする姿がよく見えた。
それから、女性陣の数名からの睨視もはっきりと。
とりわけ、音頭を取るヒヨからは殺意に等しい視線が向けられており、少々背筋が冷えた。
目の見えぬ者も周囲の気配を読み取ったか、どこか居心地が悪そうにしている。
里の女神は未だに沈黙を守っているが、翡翠の守護神は神殿の隅で不規則なゆらめきを見せていた。
ふたりは静かにゆっくりと柱を回り、真正面を過ぎようとした。
正面に立つオトリの後輩は、いよいよ睨んだ目に涙を湛え始めている。
ミズメはこのあとのことを想像して、自分でやらかしておきながらも後悔が首をもたげ始めた。
……つと、オトリが足を止めた。
それからくるりと振り向くと、ミズメの手を握った。
「やっぱり!」
彼女の口元は笑っている。
ヒヨが目隠しを外してやれば、笑顔が完成した。
『おめでとうございます』
ミナカミから賜った祝いの言葉には安堵のため息が混じっていた。
神の祝いを契機に、参加者たちからも祝福が投げ込まれる。
ヒヨも幸せそうなオトリを知り、先程の睨視を取り消して笑う。
ミズメは冷やかしに不慣れで頬が熱くなるのを感じた。
しかし、ふたりの契りはこれで終わりではなかった。
オトリが手を挙げた。これは別に、儀式を穢した相方の頬を張るためではない。
参加者たちに向かって、である。
祝いの波が消えると、ふたりは再び向かい合った。
オトリは両手を胎の前で結び、目を閉じた。若いくちびるは少しだけ開かれている。
笑みを消した彼女は何かを待つようであった。
そしてミズメは、自身の大きく開けた口に向かって“何かを摘まみだす仕草”をした。
勿忘草色の霧が、物ノ怪の口から人の巫女の口へ。
「あれは、借寿ノ術です!」
神童が声を上げた。坊主が唸り、蛇女が愉しげに声を立てて笑った。
『ミズメさん、あなた、なんてことを……!』
これには神も流石に声を震わせる。
続けてふたりは、役割を交代して同じことを行った。
ミズメはオトリから抜き出された魂の一部を吸い込む。無味無臭だが、少し暖かい気がした。
『オトリまで!?』
神は半ば金切り声である。
銀嶺聖母の蔵書を漁れば、稀代の巫女が仙術を手に入れることは造作もないことであった。
「だってしょうがないじゃんか。こいつが言葉や身体の契りだけじゃ、絶対に足りないからって言うんだからさ」
「まだ処女ですけどね」
魂を交換し合ったふたりは額を合わせあい、笑った。
ふたりは幸せであった。
ゆえに、みなはもう一度祝いの言葉を述べた。
型破りの儀式を終え、宴が始まる。
陽が天を叩き、沈み、空が満月を迎えてもひとびとは騒ぎ続けた。
新たな夫婦のための小屋にて。
“お約束”の行いがあるはずであったが、ミズメはお預けを喰らっていた。
柱の逆回りの件はおいて、神の目の前で物ノ怪と魂の一部を交換するという暴挙を行ったオトリは呼び出しを受けていたのだ。
ミズメは小屋の外に出て、満月を見上げて帰りを待つ。
遠く、広場のほうでは陽ノ気を躍らせる喧噪が聞こえる。
その中を通って戻ってくる相方はきっと、叱られてしょぼくれているだろう。
初夜だというのに無粋なことをするものだと、少々腹立たしく思う。
だが、戻って来た相方は足取り軽く、されど表情はどこか固いものであった。
「怒られちゃった?」
問うもそそくさと小屋へ入ろうとするミズメ。
「少しだけ」
短く答えるオトリ。
「へえ、少しだけ?」
振り返る。オトリは小屋の入り口からやや離れたところで立ち止まっていた。
「大事な話があります」
真剣な面持ち。
「……」
ミズメは思わず押し黙った。
このあと、ミズメはオトリと袖を交わす気でいる。
それへの拒絶であろうか。あるいは神が巫女の純潔を惜しんで禁を課しでもしたか。
――それならそれで、押し倒してやるよ。
ミズメの御柱は満月を拝んでからずっとご立派である。
肉体をそのまま編み直すのを許したのだから誰にも文句は言わせない。
「魂の交換をしたさいに、ミナカミ様は違和感を感じたそうです」
「違和感?」
「はい。本来なら、他者の魂を混ぜ合わせればその性質を変えてしまいます。ミズメさんや月山の子たちがそうですし、カノトミさんが人間に寄ったりも。地続きながらも他の生き物に生まれ変わるといっても過言ではありません」
「うん、それで?」
「ミズメさんは里の外のひとです。その魂が混じってしまえば、私は処女でも神代の資格を失うはずなんです。それが、神和を験したら、ミナカミ様を降ろせてしまったんですよ」
「神和……」
ミズメは硬直する。心の底で蛇のようなものが苛立った。
「いいじゃんかそんなこと。どうせ、もうすぐ降ろせなくなるんだしさ」
少し声を荒げ、オトリの手首を掴み、身体を引き寄せる。
「それは、そうですけど……。そうでなくって、ミズメさんはもしかしたら、やっぱり親戚かもしれないってことですよ」
「この里はずっと長く続いてるんだし、昔は霧もなかったんだから、遠い親戚なんてどこにだって居るでしょ」
「そうじゃないんです。神代になるには、ミナカミ様の加護の純度の高い魂でなくてはいけないんです。要するに、ミズメさんのご両親のどちらかは、この里の出身の者なんですよ。ミズメさんが生まれた時代では、里はすでに霧に覆われてましたから、当時の、帰らなかった水分の巫女の誰かがあなたの母親だってことになるんです!」
オトリは興奮気味である。
「ミナカミ様は歴代の巫女のことをちゃんと覚えていらっしゃりますから、ミズメさんの記憶と照らし合わせれば、お母さんのことが分かるんですよ! ミナカミ様に訊きに行きましょうよ!」
手を引っ張り返されるミズメ。
「いいよ。あたしの親は一人だけだよ。誰と血が繋がっていてもいなくても、あたしはあたし」
「そうかもしれませんけど……」
引く手の力が弱くなる。
「そんなことより、早くやろうよ」
ミズメはオトリを小屋へ引きずり込もうとした。
「あ、あの。訊かないのなら、ミナカミ様にそう伝えてこないと。ミナカミ様、待っていらっしゃりますし……」
オトリが抵抗する。だが、月光に映るその貌は笑みを噛み殺している。
「ミナカミ様ミナカミ様ってうるさいなあ」
ミズメは思わず声を荒げた。
「……もしかして、焼きもち妬いてます?」
「そんなんじゃないやい!」
「ふふっ、じゃあ神様は放っておきましょうね」
オトリは声を立てて笑うと、手を振り解き、逆にこちらをぐいぐいと小屋へと押し込もうとし始めた。
ふたりは寝床の上に向かい合って坐する。
見つめ合ったまま沈黙。
「さっきまでの勢いはどうしたの?」
問うはミズメ、向かいの巫女は正座で、袴の上で固くこぶしを握っている。
「や、やっぱり、あの……」
顔を背けられる。
「恐い?」
「ごめんなさい、愉しみにしてたんですよね……」
とうとう彼女は両手を床に着け、頭を下げた。
「いいって、顔を上げなよ。無理にはしないよ」
ミズメも神からの禁ならばともかく、本人のこころがいやがるところを組み敷く気はない。
「ありがとうございます。男の人の“それ”がまだちょっと……。あと、色々と捨て去る決心もつかなくって……」
心底申し訳なさそうに言うオトリ。
「理由はそれだけ?」
「えっと、それに、お母さんになっちゃうかもしれないのも、恐いです……」
「それだけ?」
念押しをする。
「え? はい、そうですよ。あの、できれば私もミズメさんと添い遂げたいとは……きゃあ!」
ミズメは相手が言い終わらないうちに押し倒した。
弱々しい抵抗。袴の帯を解きに掛かる。
「あの! しないって言ったじゃないですか!」
「無理にはね」
「じゃあ、どうして脱がそうとするんですか!?」
オトリの霊気が濁るのを感じる。
「別に、処女を失わなくとも、愉しむ方法は八百万とございますから」
ミズメがそう言うと、オトリは「ふうん……」と言い、抵抗をやめた。
それから、おもむろに霊気を滾らせたかと思うと、逆にミズメが組み敷かれてしまった。
「それなら遠慮なく、いただきますね」
のしかかる巫女が、にこりと笑った。
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