化かし126 笑顔
鳥人は地に叩きつけられた。
羽が散り、血が跳ね、衝撃が痛みをどこかへと飛ばした。
もはや己がどういった形であったかも見当がつかない。
だが、その残骸から魂が剥がれてゆこうとするのははっきりと感じた。
彼女が夢に見た最期の光景。それがこれであった。
――だけど、ここから先はまだ分からない。
水目桜月鳥は諦めない。彼女は知っていた。自分の相方はもっと意地っ張りであることを。
「ミズメさん!!」
降りてくるオトリ。太陽を受けて彼女の羽衣と瞳から散った雫が輝いていた。
『オトリ……』
ミズメは見つけていた。相方が泣きながらも、その瞳の奥は光を失っていないのを。
オトリはミズメの肉塊に向かって両手をかざした。
――オトリは鬼に成っていたからね。ツクヨミと戦っていた時に出していた血の翼はクレハの血操ノ術と同じってわけだ。
ならば、水術の領域外の治療もできよう。オトリほどの術師が操れば、この状態からの蘇生もきっと可能だ。
――これが“お約束”って奴さ。
『いやあ、正直なところ、どうなることかと思ったよ』
あっはっは。魂だけで笑う。相方が真剣な表情を崩さないあたり、この声は聞こえていないらしい。
ところが、相方から一向に陰ノ気が吐き出される様子がない。
その顔もやや狸似の愛おしいもののままである。
「……ごめんなさい。今に限って、上手くいかない。一番大事なところなのに」
オトリは鼻をすすると袖でそれを拭い、手をかざすのをやめた。
『えっ? 諦めるの早くない?』
「……」
彼女はもう一度験そうとしたか、怒らせたり、哀しませたり表情をくるくると変えている。
それから顔をくしゃくしゃにして、鼻水と涙と共に笑顔を見せた。
「私ね、あなたに逢えて幸せだった」
『う、うん。あたしもだよ』
聞こえていないだろうが返事をしておく。どうも嫌な予感がする。
「里から出て、本当のことを沢山知って、絶望して。人も物ノ怪も沢山殺しちゃった」
『えっ、人も!?』
人殺しは初耳であった。初めて大喧嘩をして別れたさいはミズメの人殺し経験が原因になったはずだが……。
「本当にこの世界は、酷いものだと思ってたから……」
――きっと、わざと昏くなろうとしてるんだ。
魂はめりめりと剥がれ続けているが、ここは根気よく付き合ってやらねば。
「だけど、あなたのお陰で良くなることができました。世界に対しての見かたも、ちょっとだけましに。それまで殺してきたようなひとたちも、沢山救えて良かったです」
『お、おう……』
釈然としないがまあ、昔のことは気にしないのがミズメである。二、三歩歩ける状態でもないが、ここは忘れておいてやろう。
「でも、あなたの悪い癖はちっとも治らなかったね」
『自分のことは棚に上げておいて?』
「何かにつけてひとの物を盗るし、すうぐ手を抜いたり、ずるをしたりするし」
『まあね、それはね……』
「着替えてるところを覗くし、私の胸とか触るし」
『おまえだろ!?』
ミズメは思わず突っ込んだ。
「起こす時ちっとも優しくしてくれないし、飴玉を預かったままツクヨミに身体を乗っ取られちゃうし」
『どっちもオトリが悪いよね!?』
なにやら魂が一気に剥がれた。
「お酒ばっーかり飲んでるし! 息がお酒くさいとあんまり近くに寄れないんですよ」
『別に、近寄らなくていいじゃんか……』
意識はもはや肉体より魂魄に寄っていたが、頬が熱くなった気がした。
「私、初めてだったんですよ」
オトリの告白は続く。
――どうでもいいけど、一向に昏くならないね。
相方はずっとにこやかである。
「好きな人ができたのって初めてだったんです。ミズメさんも私のこと、好き?」
頬染める娘。陰ノ気など微塵も感じさせない。
『好きって……そりゃあ、あたしも好きだけどさ』
魂の尾っぽの部分であろうか、そこがむず痒くなった。
「お友達としてじゃないですよ」
『ちぇっ、そっちの好きだったか……』
ぷつり、魂が肉体から完全に離れた。
『っていうか、今あたし死んだじゃん!? 何をのんびりしてるんだよ!』
完全なる肉体の喪失。
その瞬間、ミズメは悟った。
――あー……そっか、あたしの好きも、やっぱりそっちだったみたいだね。
男を持つ肉体を失って始めて気付くも、後悔先に立たず。
不真面目にも、ここまで近しくなれて気持ちも同じくしていたのならば、一度くらいは襲っておけば良かったかと思う。
「摩羅さえなかったら襲ったのに」
『はあっ!? オトリってそっちだったんだ!? 通りでいやらしい手つきだったわけだ……』
告白に次ぐ告白。
『ま、あたしはそれでも全然構わないんだけどさ……』
許容も今や虚しい。
「大好きなあなただから、また逢いたい。私は巫女だから、この身体も心も綺麗なままにして逝くので、待っていてくださいね」
オトリがこちらに向けたのは“ほんとうの笑顔”であった。
「だから、あなたを寿ぎます」
『分かった……待ってるよ』
ミズメは観念した。
しかし、ここぞとなってからまたも情けない顔になるオトリ。
「ごめんなさい。やっぱりあなたを手放したくない……」
角がにょきりと生えた。
『今更かい!』
「でも、あなたが笑ってるほうが好きって言うから、笑ってるオトリが可愛いって言うから」
『そこまで言ったっけ?』
ミズメは魂を傾げた。
「だから、あなたが死ぬ時は無理に苦しめないで、魂をちゃんと笑顔で送れるようにしようって決めたの」
『あたし自滅してるじゃん』
オトリは袖で顔を拭う。角に気付いたか、一所懸命叩いて引っ込ませようとしている。
「駄目駄目、笑顔笑顔! あのひとは私が泣いてるのはいやなんだから。愉しいことを考えて、笑顔にならなきゃ」
複雑である。
「愉しいこと……猫ちゃん……」
オトリの顔がとろけた。すぐさま引っ込み始める角。
『早っ。せめて、あたしに関係あることでやってよ』
「飴ちゃん……」
オトリはちらと目を開け死体を見た。
『いや、死んだしもう出せないからね。もうちょい、あたしのことに寄せてよ。向こうで一緒になったら何しようかなーとかあるでしょ』
人の死体を前にしてなんて食い意地だ。
「ふふっ、ミズメさんってば、ぐちゃぐちゃで、私よりもぶさいくだ」
角が完全に消えた。
『おいっ!?』
「あっ、そうだミズメさん。高天國には美味しいお酒やお料理がありますけど、美女や美男子もたくさん居るんですよ。浮気とかしちゃ駄目ですからね」
『それは愉しそうだね』
「浮気したら黄泉に贈りますからね」
『恐いな! っていうか夫婦の仲も恋仲も約束してないよね?』
「あっ、もしかしてミズメさんのほうは私のこと好きじゃなかったり……?」
『勘が良いな。聞こえてるんじゃないの? まあ、好きだけどさ』
「へへへ、そんなはずないですよね。でも、私って意外と早とちりや調子乗りをしてしまうほうなので、上で見守っていてくださいね?」
『意外でもなんでもない』
「私、ちゃんと幸せに生きますから……」
にこり、涙を残すも笑顔である。
『良い顔だな! 浮気の話のあとに幸せになるとか言われたらこっちが心配だよ!』
「いっそもう、ミズメさんのぶんまで生きてやりますね!」
『あたしは長命の物ノ怪なんですけど!? いつまで待てばいいのさ。どうせなら、あとを追いますとか言ってくれたほうが可愛げがあるよ!』
――いや、そんな姿も見たくないか。
『……ったく。馬鹿なんだから』
「ふふっ、今ありがとうって言ったでしょ?」
巫女が笑顔を見せる。
『言ってないわ!』
「……まあ、聞こえてるんですけどね」
吹き出すオトリ。
『聞こえてたのかよ』
乗せられた。霊声も半笑いになってしまう。
「やっと騙し返してやれました」
『向こうでずっと待ってるから、そっちは騙し無しで頼むよ』
「はい……。上手く鬼に成れなくて、ごめんなさい。もしかしたら、助けられたかもしれなかったけど、ちゃんと送ってあげたくて、どっちつかずで……」
表情もまた曖昧であった。
『いいよ、ありがとう』
「それでは」
巫女の娘は息をつき、両手を握り合わせた。
「……高天に、還りし命を寿ぎます」
祝詞を詠う巫女。
ミズメはその顔を見て、とても綺麗だと思った。
天から降りる光の柱がふたりを包みこみ、ふわり、ミズメの魂魄が吸い寄せられ始めた。
『オトリ!』
巫女の頭へと呼び掛ける。
見上げたその顔は、角の少し出た可愛い泣き顔へと戻っていた。
『愛してるよ!』
天狗の置き土産。
巫女は一瞬、目を丸くしたが満面の笑顔になり、
「もうっ、最初に言ってくれたら良かったのに!」
と、わざとらしいふくれっ面を作った。
遠ざかる大地。小さくなってゆく相方。
空に昇ってようやく気付いた。ふたりのやり取りは、見守られていたのだ。
人も獣も、神も魔物もみな、ミズメを見送っていた。
敬愛する聖の言葉を思い出す。
ひととは、肉を持ち迷い生きているあいだだけが生ではない。
けだし、出逢い別れてきた人々の“こころ”に置き去りにした“たましい”が消えぬ限り、その道は果てしなく続くのであろう。
――みんな、ありがとう。……さようなら。
真人たる“ひと”、水目桜月鳥のたましいが天へと還る。
全ての者を煽動して流星を砕き、世を救った天狗の名は後世まで末永く語り続けられるであろう。
がくん。おもむろに上昇が止まった。
“なにか”に魂魄の尻尾を掴まれる感触。
続いて、景色があっという間に地上へと引き戻される。
己の魂に触れるこの気配は……。あの女……。
「ミナカミ様!? どうして、ミズメさんの霊魂を捕まえちゃったんですか!?」
コウヅルに憑依したオトリの神であった。
「好きなんでしょう? この子のことが」
女神が問う。
「え……は、はい。好きですよ」
巫女は頬染めて答える。
「だったら、生き返らせちゃいましょう」
ミナカミは笑顔で言った。
『「えっ!?」』
「そんなことができるんですか?」
ミナカミがミズメの残骸に指をかざすと、骨や血肉が全て赤い液体へと変じた。
「肉体を織り直して、魂を結び付ければいいだけです。本当は自然の理を大きく捻じ曲げる行いなので、禁じてきたことなのだけれど……」
『「やったあ!」』
オトリの目が輝く。ミズメも小躍りしたい気分である。
『だったら、さっきのやりとりの意味は?』
「そうですよ、早くおっしゃってくだされば良かったのに!」
「本当は摂理に任せて放っておく気でした。でも、あなたたちの続きを見たくなっちゃったから」
悪戯っぽく笑う女神。
「危うく終わりになっちゃうところでした」
『オトリは諦めるのが早過ぎだよ』
「ミズメさんとの最後の思い出を“助けられなかった”じゃなくて、“寿いであげられた”にしたかったんですよ」
『それにしたって、もうちょっとあったでしょ。あたしの声だって聞こえてたんだから』
「喋れる霊魂なんて、神様と凶悪な悪霊以外に見たことなかったから、驚いちゃって」
『だからって今更、驚くことじゃないだろ!』
「ミズメさんが最初に愛してるって言ってくれたら良かったの!」
『逆だっての! それを先に言ったらあたしは今ごろ高天だったじゃんか!』
「はいはい。喧嘩はあとにしましょうね」
女神はつと、表情を引き締める。
「肉体を織り直す前に、あなたたちに問います。ミズメさんの身体は男女両方の性が共存する不自然な状態。月讀命は和魂の解放と晴れにより姿を消しましたが、この肉体がまた悪用されないとも限りません。どちらかの性を選び、もう片方を欠いてしまわねばなりません。悩む時間はありません。真人たる存在はツクヨミだけでなく、上や下からも欲しがられる逸材。魂の離れた中途半端な状態で長く待てば、また面倒ごとを引き寄せてしまいますから」
『どっちかを選べってことか』
「ミズメさんが決めてください、ミズメさんの身体のことなので」
オトリが言った。
――さて、どちらかね。
今後、“そういう仲”を目指してやっていくのならミズメとしては男性一択であろう。
だが、オトリの苦手や告白も聞いており、己自身も性への執着が雑なところを鑑みれば女性でも構わない気もした。
相方へ克服を強いるか、己の欲を諦めるか……。
『オトリが決めてよ。あたしはどっちでもいい』
ミズメは判断を投げた。面倒になったからである。
「じゃあ、私は……」
オトリは腕を組んで唸り始めた。
「摩羅は邪魔。でも、おっぱいも捨てがたいし……」
こちらはこちらで煩悩であった。
「あまりのんびりしてる暇はありませんよ」
「ミズメさんの摩羅ならまあいいかな。でも、おっぱいがなあ……」
オトリは宙を揉み始めた。
――こりゃ、女になりそうだね。
自分でまかせておいてなんだが、狸どもの言を借りていうところの“こころのきんたま”が疼く気がした。
ちょん切られるよりはましな失いかたであるが、酷くもの哀しい気持ちになる。ははあ、これが“もののあはれ”というやつか。
ツクヨミではないが、星でもひとつ落としたい気分である。
「あの、ミナカミ様」
「決まりましたか?」
「どっちも残すって駄目ですか?」
オトリは媚びるように言った。
『オトリは話を聞いてたの?』
「また真人の身体が狙われるかもってことは分かってます。だけどミズメさんは、鬼の私のことも、ちゃんと大切にしてくれたから……」
『またそんな我がままを』
「私にとっては、そっちのほうが大切なことなの!」
「それでもしも、また何かあったら……」
女神の表情は硬い。
「その時は、また助けて下さいますよね?」
オトリははにかみ、神に問う。
「……勝手なんですから。まったく、誰に似たのかしら?」
「神様にですよ」
「そうね……。それじゃあ、私も自分勝手に、世界よりも私たちの御子たちの幸せを願って……」
ミズメの魂がいのちの原液へと吸い込まれた。
……。
そしてミズメは目を開き……、
視界いっぱいの笑顔とまた出逢った。
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