化かし122 月鏡
「星が落ちたのはあなたの仕業でしょうか」
オトリはツクヨミに問う。
「そなたは香香背男という神を知っているか? 星を司っておってな。天津の産まれのくせに我が父母の挿話を持たず、どちらにも祀ろわぬ愚かな神だ」
「よその夫婦喧嘩に口を挟まないのは賢いと思いますが」
「珍しく一端が地上をうろついておったから調伏ついでに取り込んでやった。少々扱いの悪い力であるが、とみに強力だ」
――やっぱり、ツクヨミが。
心が黒く染まるのを感じる。ミズメの身体を使って無数のいのちを絶ったのだ。
「何もかも滅ぼしてしまって……。畏怖する者も居なくなれば、荒魂も祀られません。筋が違うのではありませんか?」
オトリは問い続ける。
神穢しのための陰ノ気が僅かでも惜しく、その声は平静を装っていた。
「問題ない。この星落としは“穴”作りと結界を乱すためのものだ。混沌は、この破壊の事実に乗じた者どもが作ってくれよう」
“ミズメ”はそう言うと人差し指で円を描いた。
すると、宙に満月のごとき神気の円が現れた。
円の中に別の景色が広がった。見覚えのある……。
「これは都!?」
「そうだ。この器が招いた混沌をそなたに見せてやりたくてな」
“ミズメ”が笑った。
悪鬼悪霊、殺賊、謀反。
円の中の魔都では、先の地震の時の結界の揺らぎ以上の混乱が起こっているように見えた。
「烏合の衆だが、期待通りに禍を生んでくれているようだ。念のために言っておくが、これは幻ではないぞ。まことの都の様子を映している。この地はもはや泯びた。救うべきは都であろう?」
「誰かがやってくれるでしょう。私はあなたからミズメさんを取り戻すためにここに居ます」
「この器が私のものとなったのは、そなたの手落ちだ。都の混乱も、この地の滅亡もそれに根差すものだ」
――揺さぶりを掛ける気だ。
オトリは臍を噛んだ。ざれごとであったが、負の思考に陥った今ではなめらかに呑み込めてしまう理屈。苦しかった。
しかし、ツクヨミを穢すためには願ってもないことでもある。
帯に挟んでおいた勾玉が何かを訴えかけるように気配を強めた。
「オトリよ。何もかもがそなたのせいだ」
「どうしてそんなことを言うの?」
オトリは哀しみを露わにした。勾玉の反応は思い消しておいた。
「言ったであろう。そなたが障りになると。そなたは不要どころか、産まれぬほうが良かったのだ。私にとってだけではない。今、泯び苦しみゆく者たちにとっても、貴神の器という誉れを得たこの者にとっても」
“ミズメ”は自身の胸に手を当てる。
オトリは胎の奥に着々と穢れを溜めつつあった。
反面、頭は冷静である。
恐らくツクヨミは、この地を巨大な黄泉路へと変じ、イザナミを招く気であろう。
それにさいして強力な祓えの力を持つ巫女は邪魔となる。
鬼に堕とし続け、巫女としての力を封じ、黄泉の母への贄とすることまで考えているに違いない。
――でも、無駄だから。
鬼の蔭には巫女の姿あり。ふたつのオトリは完全に結託していた。
今や、鬼のままで巫女の清らかなる祓えの気を満開にできる。
――精々利用させてもらいます。
「……」
オトリは涙を流してみせた。
「つらかろう。共存共栄を唱えてこの者と救った数よりも、殺した数のほうが多くなった。そなたはそなた自身とこの者をひと殺しに変えたのだ」
――馬鹿みたい。私たちは最初からひと殺しだったのに。
月神を嘲笑う。それでもあえてそのこじつけの罪を呑み込み、更に陰ノ気を蓄えてゆく。
またも勾玉が反応した。じれったそうに燻ぶる神気。
手順違い。まずは勾玉を験すべきであろう。あの神の授けてくれた神器の効果はあらたかであると霊感が認めていた。
しかし、こころの中の娘はいまだに顔を覆いうずくまったままである。
鬼と巫女は結託していたが、それと同時に娘とも繋がっており、ふたつの存在は彼女を護り続けていた。
「見よ。都では死者や悪霊が増え始めてきたようだ」
素直に従い、円を見上げる。前回以上の混乱だが、その時はおもに夜に襲撃や暗躍が起こった。此度は白昼堂々である。
「私は、あなたからミズメさんを取り戻すんです」
「ならば討てばどうだ? 今のそなたが私を斃そうと思うのなら、打つ手はひとつしかないはずだ」
――まだ気づかれていない。
オトリがツクヨミを斃す手は、本来ならば二つあった。
一つは今の企み、神気を穢してから祓う方法。
もう一つは始めから除外されていた。力を使用させて気を減少させて弱らせる方法である。
後者はすなわち、ミズメの身体と切り結ぶことである。多くの神の力を吸った今、攻撃を許せば日ノ本の混乱は広がる。
ならば、器を殺し続けてやり、月の再生の力を利用して力を消耗させるのが最良であった。
「そなたには、できぬであろうがな」
「おっしゃる通りです……」
「ならば、なにゆえにここに残る? ほかにも策があるというのか?」
“ミズメ”の顔が不審への探りを示した。
これ以上付き合えば勘付かれるか。だが、ツクヨミを穢し切るには陰ノ気が不充分であった。
「ごめんなさい、ミズメさん!」
オトリは周囲の水気を集め、水弾を成した。射出するも容易に回避される。
――……!
動揺。無論、オトリ自身が躊躇したこともあったが、ツクヨミが操る鳥人の身体の切れが増していた。
それだけ肉体がツクヨミのものへと変じてきたということ。四六時中の神降ろしが半年以上も続けば、ミズメの魂の保証は危うい。
「そなたは水分の巫女だったな。異国の野分けの神と力比べをしてみぬか?」
風。
空に未だ鎮座する異形の雲が遥か上空に吸い寄せられ渦を巻き、雷光を抱き始める。
嵐が訪れた。烈しく打ちつけるそれには違和感があった。
「黒い雨……」
鬼の手のひらに溜まるは焦土より舞い上げられた灰燼を含んだ水。
神気が籠り、一度火で清められたものだというのに、これが元はなんだったのかと考えれば、酷く穢れたもののように思えた。
「この雨、風に流されてどこまで降るであろうな。ただの灰の水だが……」
見透かしたように笑う“ミズメ”。
人里に降れば不安を招き、田畑に降り注げば作物を殺す。
「これ以上、その身体で酷いことをしないで!」
霊気を練り上げれば、嵐に揉まれた鬼の神衣と髪が更に烈しく乱れる。
……が、それは再び風に任せるままとなった。
――強過ぎる。
「どうした? 水はそなたの領分ではなかったのか?」
雲へ霊気を送って験すまでもなかった。
呑まれたであろう嵐の神は、到底人間の霊気で対抗できる相手ではない。
「恐ろしき音色だな」
大岩の転がるような音が空の全てに響き渡る。
オトリは玉響のあいだ、忘我となった。
閃光と雷鳴は雲から絶え間なく続いている。
あれだけ恐れていたはずの落雷に無闇な恐れを抱くことが無くなっていたことに、今更になって気が付いた。
それは恐怖の克服か、あるいはその根となったミナカミからの離脱を示すか。
否。
もう、あの落雷の音真似で起こしてもらう日は来ないということ。
次の瞬間、オトリは自身の身体に無数の神気の点を感じた。
練り上げた気を使い、なんとかそれを弾く。危うく雷撃に撃たれるところであった。
「いかづちを見抜くか。流石は水分の巫女。だが所詮、そなたは女に過ぎぬ」
“ミズメ”が手のひらをこちらへ翳す。
人差し指と中指のあいだに親指を握り込む奇妙なこぶしの仕草。
月神は月を司る。月は海の潮、よろずの霊性、そして女の胎を支配する。
オトリは過去に受けた悶絶の痛みを思い起こし、全身から凍った汗を噴出させた。
しかし、何も起こらず。
「ふむ、奇妙だな? なぜ、私の術が効かぬ?」
“ミズメ”はとぼけた貌を見せた。
女の胎に痛みを与える術は、その胎が機能していないと通じない。
「そうか、そなたはもう、女ではなく鬼なのだな」
とぼけ転じて憐憫。
――揺さぶりに乗っては駄目。鬼か巫女か、それだけ。
オトリは相手をしなかった。
これは気丈や意地のなせる業ではない。単にツクヨミの発言が空言であると見抜いてのことである。
あえて術を不発させただけ。オトリは自身が女性を失っていないことを承知している。
この悩み抜いた半月と少しのあいだに、女の憂鬱の日も挟んでいた。
処女神に仕えながらも恋に憧れる娘が、その点に注意を払わぬはずがない。
もしも、女でなくなってそれに気づいていたのならば、自身の鬼の素顔を覗き込むことを決意するのはもっと容易であった。
「鬼のそなたはもはや女ではないのだ。男でもない。この器は両方を揃えているというのに、交わりに意味が起こらぬとは哀しき運命よな」
みやびな月、その裏側の本質は極めて無粋。
オトリはその発言を耳に入れた瞬間、出逢ってきた鬼女や物ノ怪の女たちの誇りを思い出し、陰ノ気を一気に増加させた。
これ以上の揺さぶりは不要。オトリは心を雪に鎖ざす。
打ちつける暴風雨は彼女の肌に当たると溶けかけた削り氷のように変じてゆく。
――そろそろ、行こう。
オトリの髪を束ねていた絵元が弾けた。
つま先から大袖、鬼の顔から髪の先までの全てから赤黒き邪気が噴出する。
決して穢れぬはずの神衣さえも味方をして白と黒を反転させた。
「ちっ」
“ミズメ”の舌打ち。
これならいけるとオトリは穢れの翼を羽ばたかせて一気に距離を詰めた。
「オトリ!!」
“ミズメ”が叫んだ。その貌、声色はまぎれもなく“あのひと”のもの。
「ミズメさん!」
オトリは叫んでいた。装いなどではなく、素の反応。あれだけ溜め込んでいたはずの穢れが散り、衣ももとの白へと還ってしまう。
そして愚かな娘は、攻めも護りも放棄してただ腕を伸ばした。
“ミズメ”の顔が嗤う。
「どうした? 私はミズメではなく、月讀命であるぞ。オトリよ、神に抱かれたいのか?」
姿形は確かに“あのひと”。両腕を広げる所作もまた“あのひと”。
『オトリちゃん、駄目だって!』
勾玉が再び警告する。今度は霊声まで聞こえた。
オトリの鬼の手に収束する陰ノ気。抱擁の刹那、穢れを感染さんと左腕が愛しの人に掴みかかった。
「痛いっ!」
オトリの手は捻り上げられた。
「あさはかな娘よ。私の神気を穢し、祓い消すつもりであったか」
声には敵意、しかし彼の腕がこの身を強く抱きしめた。
「ははは、月とは鏡だ。そなたのこころも企みも、しっかりと映し出しているぞ」
間近に哄笑するは“あのひとじゃない”顔。
「あなたなんかに、私のことが分かるもんですか」
「そうか? まあ、そなたが分からずとも、今は亡きこの器の霊魂がそなたをどう思っていたかは知っているぞ?」
「ミズメさんは死んでない!」
オトリは暴れるも“あのひと”の身体は放さず。
「そうだな。魂の視えるそなたにつまらぬ嘘をついた。そなたは巫女だ。それも良き才を持った。仕える神を私か母に鞍替えすれば、この身に辛うじて生き残るミズメの霊魂を消さずにおいてやってもいい」
甘言。
抵抗を続ける娘は鬼であり巫女であった。だが、その鬼の大力も水術も機能をしないままである。
「どうだ? どうせ勝てぬと分かっているのだ。何を捨ててまで、ここまで来たのであろう? 私を受け入れてみぬか?」
後頭部に触れる“あのひと”の手。
鬼と成ってもそのままであった自慢の黒髪を撫ぜられるのを感じる。
近づく貌。肉的にいくら同一だからとはいえ、オトリには表情やその所作から別人であると分かる。
「受け入れよ」
近づく“あのひとじゃない”くちびる。オトリは自身のくちびるを固く結んだ。
「母の望みが叶えば、この器を返すことも誓う」
優しげな囁き。
「さあ、受け入れろ」
実に男的な強要。
――そういえばミズメさんも、時々男らしかったかったな……。
男どもの魔の手から逃れ続けた処女の経験を、新しい思い出が塗り替え始める。
オトリのくちびるが緩み、僅かに開いた隙間から相手の吐息を吸い込んだ。
かえって分からぬほどに近付いた“あのひとじゃない”顔と、想い出の“あのひと”の顔が重なる。
しかしそれは離れ、
「やめておこう。少しばかり戯れてみようかとも思ったが、醜き鬼のつらでは厳しいな」
“あのひと”の顔が苦笑した。
玉響、乾いた音が響いた。
ツクヨミが顔を背けた。娘の平手打ち。
「ミズメさんから出て行って!!!」
神衣の内側から爽やかな風が駆け抜ける。
『そういうことだよ、ツクヨミくん』
若き男神の美声が響いた。ふたりのあいだに浮かび、眩しく光り輝くは藤色の勾玉。
「貴様は祝詞の神、“天児屋命”!!」
ツクヨミの顔が歪んだ。
視界が青白き閃光に覆われる。
一瞬の眩みの中、ふわりと漂う墨の香りと共にコヤネの勾玉が割れるのが見えた。
「……あらら。良いところだったんじゃないの?」
その見知った顔は、天を見上げていた。
どくり、心臓が高鳴る。
勾玉の使用は故意ではなかったが、オトリの目の前には紛れもない結果があった。
――どうしよう、私、今、こんな顔……。
隠す間も背ける間もなく。
「久し振りだね、オトリ……」
ミズメがこちらを見た。
「あちゃー、鬼に成っちゃったんだ?」
目に映っているはずの表情が見えない。頑なな拒否。
だが、口は必死に謝罪を述べようと空回りをした。
「そんなになってまで、あたしのこと追い掛けてくれたんだね」
――“そんな”になって。
「私、鬼に成っちゃった。可愛くないよ。ぶさいくだよ……」
「そうだね、可愛くはない」
きらり、輝いたのは言葉のやいばか。
「いかにも鬼って感じでかっこいいじゃんか! ありがとう、オトリ」
白い歯を見せ笑う相方の顔。
――ねえ、それは……。
しつこくも疑おうとする頭、いくつもの感情がごちゃまぜになり、何もかもが分からない。
動揺のさなか、返事と回答を示したのは、“からだ”。
角が震え、血術の翼が霧散した。
「おっと危ない! 落ちるよ!」
オトリはミズメの腕に抱きとめられる。
「あれ? ちょっと痩せたよね?」
「……あなたは髪が伸びたね」
返す抱擁。それには歓びだけでなく、顔を見せまいとする意志も混じっていた。
「ん……? 胸がおっきくなってない?」
抱き合い慣れた相方は身を離し、疑いの視線を向けた。
すると、鬼の乳房がしぼみ始めた。
「あっはっは! 面白いなあ、戻っていってるぞ」
不真面目な観察。
乳だけでなく、角もどんどんと引っ込み、緊張していた顔の筋も解きほぐれてゆくのを感じる。
「眼はなんか、猫みたいだね」
単純な感想。
「猫ちゃん……」
素直な反応。だが、すぐさま視界は見慣れたものへと戻った。
「その、もとの顔に角がちょっとだけ残ってるのは可愛いかも」
真顔である。
「可愛い……!」
オトリが頬を緩めると、さかしまに角は完全に引っ込んだ。
それからオトリの中で、捻くれ者の鬼が娘を巫女のほうへと突き飛ばし、背を向けた。
――さよなら。
娘は鬼に言った。鬼は返事をせず、遠ざかり始めた。
幽か、鼻を啜る音が聞こえた。
「……でも、全部があたしのオトリだ」
ふたたびの強い抱擁。
その瞬間、オトリは世界がぱっと明るくなった気がした。
「……ミズメさんのじゃないもん」
“オトリたち”も同じくらいに強い抱擁を返した。
それから、互いに額を擦り合わせる。ほんの少しだけ感覚を残していた角がくすぐったかった。
「お疲れ様。あとはあたしに任せなよ」
ミズメは言った。
「私も頑張ります!」
今日まで心身霊の摩耗は烈しかったが、あともうひと踏ん張りである。
オトリは笑顔を努める。
「いいって、オトリはもう頑張ったあとなんだから」
「でも!」
「“でも”も“へちま”もないよ。もう、くたくたでしょ。あたしは頑張ってるオトリは好きだけど、つらそうな姿を見るのはいやなんだよ。オトリには、“ほんとの笑顔”でいて欲しいからさ」
恰好をつけたつもりなのだろうが、少しはにかみ頬を赤くするミズメ。
「……欲張りですね」
今度は自然な笑みが漏れる。
「知ってるでしょ。ま、オトリも大概だけどね。どうしてもって言うなら、好きにさせたげるけど?」
「ほんとですか? それじゃあ……」
オトリは自分たちへ問い掛けた。満場一致の返答を得る。
「あとはよろしくお願いします、ミズメさん!」
腰に提げた小太刀の紐を解き、相方へと渡す。
「よし来た! それじゃ、最終決戦といきましょうかね!」
天狗たる娘は上を見上げて不敵な笑みを浮かべた。
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野分け……台風、嵐。