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化かし121 不安

 文月(フミツキ)晦日(ミソカ)


「はあ……」


 三善文行(ミヨシノフミユキ)の屋敷にて、夏虫どもの喧しい合唱を聞きながら、溜め息ひとつ。


 オトリには不安があった。


 それは、来たる運命(サダメ)の日。月讀命と帶走老仙との決戦の日にあった。

 下手を打てば己の落命や、日ノ本の滅亡までもありうる大難事である。

 だが、神にひとつ命令できるという勾玉、公非公両の陰陽師の代表、賀茂の巫女のかしらである斎王、日ノ本を統べるスメラギなど、ありとあらゆる協力を得ており、打てる手は打ち尽くしたと考えている。


 本命の心配は別のところにあった。


――鬼の時の私、どんな顔をしているのかな……。


 鬼の制御にはおおよそ慣れてきたものの、いまだに自身の顔を確かめられずにいた。


 オトリは播磨晴明に勧められての骨休めの期間中、洛中や近郊の知人の住まいを何度も訪ねていた。

 同じ屋根で暮らし、悪霊を妻に持つ陰陽師のミヨシには勿論、稲荷山の神の使い“けえね”、徳の高い聖であるトウネンにも、自身の魂に巣食う鬼を看破されている。

 彼らは一様に、「オトリであれば大丈夫だ」と励ましてくれていた。

 ヒサギ少年には事情を話せば「オトリさんが苦労しているのは僕とお爺さんのせいです」と涙ながらに謝られてこちらが繕ってやらねばならぬ始末。

 友人たちに見放されるのではないかという心配は全くの杞憂であった。


 しかし、実際の鬼の姿は彼らには見せていない。


 角が出ていたさいに立ち会っていたのは、蘆屋道満と神童カムヅミマルの二名のみ。

 前者は、対決以来は顔を合わせておらず、童子については「胸の大きさにばかり気を取られていて顔を憶えていないのです」などと宣う始末であった。


――でも、必ず見ておかないと。ミズメさんに、何を言われてもいいように。


 ミズメは、オトリが最初に鬼化の兆候を見せたさい、自身の母代わりのギンレイの死への哀しみを押し退けてまでこれを防ごうとした。

 それほどまでに心を配ってくれたというのに鬼と化し、今やその力に振り回されることも頼ることも珍しくなくなってしまった。

 オトリはひとりぼっちになってから今日まで、このことで毎日悩み、哀しみ、心の中で謝罪をし続けてきた。


――嫌われちゃうかな。哀しませちゃうかな。


 あのひとを取り戻した時が、別れの時なのではないか。

 追い続け、想い続けている今のほうが幸せなのではないか。


――もしも赦してくれたとしても、私の姿があのひとと一緒に居られないほどに醜かったら……。


 ミズメは東山道では高名な山伏であり、英雄的な物ノ怪“天狗”となっている。

 そして彼女は、美女とも美男ともつかぬうつくしき容姿と翼を有していた。

 “醜い私”が肩を並べることで、その価値を損なうのではないかとの懸念があった。


――絶対に私、ぶさいくだよ……。


 鬼化による肉体の変容が、必ずしも“醜”とは限らぬはずであったが、堂々巡りの思考は徐々に暗がりへ向かいつつあった。

 もはや希望はあらず、夢にまで己の鬼の想像図が現れる始末。

 体感的には人間からかけ離れた姿をしていないはずが、その姿は蜘蛛に似た牛鬼(ウシオニ)や、手足の釣り合いの取れない禍津(マガツ)の使いが元手となった異形の姿であった。


 本来ならば、休暇に入った直後に訪れた満月の夜が、顔を確かめる最良の時機であった。

 鬼化もまた月の満ち欠けに左右されやすく、同時にそれを制する巫女の霊力も好調となる。


 だが、オトリは逃げてしまっていた。


 方々からの助力への安心と、都の取り戻した仮初めの平穏に身を任せ、市場で目を輝かせたり、飴玉を舐めたり、狐娘と削り氷をかき込んだりすることに忙しくしたのである。

 その傍らでも、しっかりと悩み続けた。悩むたびに抱える陰ノ気が強くなった。

 陰ノ気が増せば鬼化も容易くなるが、満月が遠ざる影響のほうが強く、怠惰な日常では日に日に鬼化を行うのに時間が要るようになった。

 鬼と成れても、水鏡を覗き込むだけの勇気は足らず、誰かの気配をそばに感じたことを言いわけに角を引っ込める始末であった。

 そうしてずるずると、新月である今日まで引き延ばしてしまっていた。


――でも絶対に、今日中に鬼の顔を見ておかないと。


 オトリは頑なであった。


 もうひとつの手段、“ミズメに鬼の姿を見せない”は選択肢には無い。


 ツクヨミを追い出す手段には“藤色の勾玉”の力を当てにしている。

 無事に追い出せればミズメとふたりでツクヨミに対抗できるが、神器が上手くいかなかった場合は、乗っ取られたミズメが自ら追い出せるほどにツクヨミの神気を削らなければならない。

 そのさいには、本来ならば陰陽転換の術とお祓いの技を組み合わせるのが最適である。

 その術に長けるのは陰陽師だ。

 だがスメラギの予言は曖昧であり、ただ決戦が訪れるということのみで場所も、日時も明らかでない。

 そのうえ、“幾多の災厄”が日ノ本を襲うという。

 そんな状況ではツクヨミに対抗できるほどの陰陽師、すなわち、安倍晴明や蘆屋道満の手を借りるのは難しかった。

 ミヨシも名うての陰陽師で、オトリに手を貸してくれるかもしれなかったが、ツクヨミとやれるかと訊かれれば、やられるほうの心配が強いと答えざるを得ない。


 そもそも、なるべくなら己の手だけでミズメを取り戻したい。


――そのためには鬼の力が絶対に要る。


 仮に勾玉が効かなかった場合にも、オトリには神を斃すための唯一の手段があった。


 “穢れの伝播”である。


 穢れ、陰ノ気、負の感情、オトリの流派の古呼では夜黒ノ気(ヤグロノケ)

 こういったものは伝染し、ほかの霊気を害して同様の気へとすり替える性質を持つ。

 巫覡僧侶が悪霊などの祓えだけでなく、発生源のお浄めを重視するのもこれが理由だ。


 鬼の力を高めてそれを感染させてツクヨミを穢し、巫女の力で祓い消滅させる。

 理屈の上では可能。だが、敵の強大さの問題があり、己の心や魂への負担も大きい。

 独りでこれを行うのは至難であり、必死ともいえた。

 だが、命を賭さねば裏切りへの謝罪にはならない。そして鬼化の不始末は鬼の手によってつけるのが相応しい。


「……よし、今日こそは!」


 オトリは帯を締め、立ち上がった。

 それから、ミヨシの妻に出かけることを告げ、かねてから目星をつけていた神社仏閣の少ない山へと駆ける。


 辿り着いた山は気味の悪い場所であった。

 放置された迷いの悪霊の姿。古くなった人の白骨死体。

 更に今は夏であり、オトリの苦手な虫どもにも事欠かない。

 流れの滞った濁り池のほとりに座り込み、鬼を目指して気持ちを鬱々とさせる。


 膝を抱え、これまでの不幸や失敗を反芻する。それから、今後訪れるかも知れない、あまたの最悪の事態を想像する。


 自ら己の心を苛み続け、陽が沈むころになってようやく額がむずがゆくなってきた。

 山が闇に呑まれれば、己の瞳が鬼のものになったことに気付く。鬼は夜目が利くのである。

 巫女の力を引き出し、祓え玉で水面を照らす……も、まだ見ないようにする。

 手のひらは骨ばり、爪が黒く長いものへと変じた。

 角は出ているが、まだ最長までは伸び切っていない。

 最後まで鬼に変容し切ってから確認をしなければ意味がない。


 もっともっとと己を悲壮へ追い込み、相方を求める気持ちを強くする。

 己の変容を確かめるたびに、見られることへの忌避が強くなりかえって鬼が遠ざかる。

 鬼と娘を行ったり来たり。


『オトリ、あたしが折角、鬼に成らないようにしてあげたのに、酷いよ』

『いーじゃん、鬼に成ったって。へーきへーき』

 ふたりのミズメの姿を思い浮かべる。



――ミズメさん!



 そのひとを望むことがそのひとを裏切る鬼へ近づくという残酷さ。

 それと同時に、己でそれを意図して行わねばならないという倒錯に大きな背徳感を得る。


 いよいよ角が天を指した。祓え玉の眩しさのせいか、星は見えず。


 オトリは闇を見上げたまま立ち上がり、池に向かって手をかざした。

 水面を操り、鏡のように変ずる術。祓え玉の光もあわさり、よく映すであろう。


「ここで逃げては駄目」

 己を叱咤する。


 なんの助けも無く、偶然も切っ掛けも無く……。



 とうとうオトリは水面を覗き込んだ。

 晦日の夜空。月は無し。されど、己の祓えの光がまるで満ちたかのように浮かぶ。



――私の顔。



 目頭が熱くなった。



 額から伸びる二本の黒き角は猛く鋭く。


 らんらんと輝く黄金の瞳は瞳孔細く、人のものに非ず。


 笑ってなどいなかったはずなのに、不自然につり上がった頬。


 開きかけた口からは、長く伸びた犬歯が覗く。


 酷く哀しい気持ちであったが、その表情には怒りや快楽までも含まれているように思えた。


 そして鬼はその貌を両手で覆い、泣かねばならなかった。



――やっぱり、醜い。



 娘の自分が言った。こんなの、狸のほうがまだ可愛い。

 巫女の自分が言った。鬼としてはましなほうです。

 鬼の自分が言った。ちゃんと見て、これが本当の私よ。



――違う! こんなの、私じゃない!



 受け入れられなかった。

 一晩中泣き続けた。人に悟られることも顧みず、ひとりぼっちの鬼は声を上げて肩を震わせ泣き続けた。


 涙が陰ノ気を押し流したか、落ち着いたころには元の自分へと戻っていた。



 その翌日、オトリはもう一度同じことを繰り返した。

 昨日のは何かの間違いだったかもしれない。心配が見せた幻だろう。

 またも涙。



 更に翌日に、同じことをやった。次は“夜”が悪かったのだと言い聞かせ、昼間に鬼化を目指した。


 無論、変わらず。鬼は鬼のまま。醜き顔は醜きまま。ただ涙が流され続けた。



――これじゃ、絶対に嫌われる。



 オトリは鬼化を験し過ぎたせいか、事実の突き付けが効き過ぎたか、逆に人の姿に戻るのに難儀するようになった。

 戻っても、ちょっとした陰ノ気で額を押さえねばならなかった。


 都や仲間の要る所へは帰れなくなり、決戦の日を迎えるまでは山で過ごそうと決めた。


 最愛のひとを取り戻すための希望の戦いが、絶望へと向かう死出の旅路のように思えた。

 もう一人の頼りである、巫女としての自分だけが最後の慰めであった。

 相方への求めと、日ノ本の平和への願い。これこそが今の自分にとって必要なもの。馬鹿な小娘の自分は眠らせておこう。



 幾度目かの夜を越え、心静かに、山頂の木の上に立つ。

 巫女を維持し、聖なる祓えの力を胎で練り上げ高め続ける。


 ……ふと、真昼間だというのに、空の彼方に光が見えた。


 それは瞬く間に大きくなり、人魂とは違った火のかたまりであることが分かった。

 落ちてきた炎は、南東の山のほうへと消えた。



――あれは何?



 玉響(タマユラ)、世界が光った。

 それから大地が揺れ、音のかたまりが石のごとく硬き風となり、炎のような熱気と共に激流のごとく押し寄せた。


 空に残るのは、巨大で奇妙な形の雲。


 そして、遠方からでも巫女の霊感を逆なでする、多くの生命の断末魔であった。



 星が落ちたのだ。



 オトリは、一瞬、驚くばかりのただの娘へと戻った。


「た、助けに行かなきゃ……」


 夥しきの死と破壊への救いを唱える巫女。


――こんなことが本当に起こるなんて初めて。これって偶然? それとも……。


 月讀命は月の神であり、邪仙の協力により他の多くの神の力も手に入れている。


 星を落としたのが彼の仕業だとすれば、すなわち。



――ツクヨミがあのひとの身体で、沢山のいのちを殺した!!!



 巫女を押し退け、鬼がやってくる。

 鬼はもはや嗤っていなかった。その顔、仁王をもひれ伏さんばかりの憤怒。


 鬼は自身の手首を噛みちぎり、血を噴出させた。その血をやいばに変じて操り、神衣(カンミソ)ごと背中を斬り裂いた。


 鬼の背から生える異形の翼。


 オトリは穢れた翼を震わせ、死と灰の香りのする空へと舞い上がった。


 今や彼女は、その身を完全なる鬼へと変じた。

 だが志には巫女が宿り続け、いまだ生き延びようとする人のもとへと駆ける意思も残る。


 そしてそれと同時に、娘もまた大きく居座っていた。



――やっぱり、見せられないよ。こんな姿。



 胸中、逆巻く不安。それでも翼は死地を真っ直ぐに目指して。



 予言は疑うべくもなく。


 オトリが辿り着いたのは、数代前の都があったはずの飛鳥(アスカ)の地。

 見下ろせばもはや、何も無かった。

 薙ぎ倒された木。木っ端みじんの家屋。道や田畑の区別もなく、全てがえぐれた土に変じ、そこら中に無数の迷霊(マヨイダマ)が溢れている。


 そして、空にはひとりの鳥人の姿があった。

 帯に隠した紙人形が疼く。


 あの器はこの飛鳥にて帶走老仙に拾われ、苦しき生を歩み始めたという。


「久しいな、巫女よ。そなたの祓えの力は脅威だった。あの時に斃し損なったのを憂いておったが、どうやら杞憂であったようだな」


 最愛のひとの右目が血のごとくに輝いた。


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