化かし120 陛下
斎院を唆す仕事を終えたオトリは、南にくだり都へと足を踏み入れた。
洛中の中心を貫く朱雀大路の最北端、朱雀門の向こう側、日ノ本を統べるスメラギがお住まいの宮城。
「禁中は門も多く、殿だの坊だのの建物も多くて複雑でな、日ノ本中を迷子になるような田舎の巫女が、人の目を盗んでスメラギの寝床のある内裏まで辿り着けるはずがない。自ら案内してやりたいところだが、宮中まで戻れば我も人の姿を顕現できぬほどになる。ゆえに、代わりの道案内を付けてやる」
天照大神はそう宣っていた。
――西側の中央の門から奥へ入れって言ってたっけ……。
都の混乱はヒヨと訪れた時と変わらずであった。松明を持った役人や武芸者、術師どもが忙しく駆け回っている。
オトリももののついでで小鬼を退治したり、悪霊に憑かれたものを祓ってやったりした。
「……あのかたは!」
門の前に立つのは、中位の官僚であることを示す浅緋の狩衣と烏帽子姿。
彼の装いは普段の仕事着の白とはある種の正反対であったが、醸す霊気は一度憶えれば二度と忘れまい。
日ノ本最強の陰陽師、播磨晴明こと安倍晴明。
「久しいな、オトリよ。日神から話は聞いておる。今宵は酔ってはおらぬな?」
「ハルアキ様……そんな昔のことをおっしゃって」
オトリは恥のすくい上げに頬を熱くする……と、同時に深く彼の顔を観察した。
いつぞやドウマンが「セイノジの齢は六十を過ぎている」という話をしたが、今目の前にいる人物は四十がいいところの男盛りに見えた。
「少し見ぬ間に色々あったようだな。陛下の前で粗相がないようにな」
強調される忠告。
深く観察したのはあちらも同じか。里で暴れてからは鬼はなりを潜めていたはずだ。
――やっぱり、見抜かれちゃうよね……でも。
オトリは偸み笑いをした。
――大丈夫、だんないわ。
ほんの数刻前の斎院との会話でも、多少の衝撃は受けたものの、落ち着いて提案をできている。
ハルアキがオトリが鬼であることを承知のうえで、日ノ本で一番重要である人物に引き合わせることを承知したことを鑑みれば、これ以上の後押しは無い。
多くの危険の蔓延る日ノ本の心臓部だというのに、オトリは不思議と里の中よりも深い安堵感を憶えた。
「急ぐぞ。しっかりついて参れ。陛下もあまり長くは起きていられぬ」
矢張り御身が悪いのか。オトリは病床に伏す老人を想像した。
ハルアキに連れられて、宮城を闊歩する。
多くの建物があり、眠る人や夜通し起きる人の魂の揺らめきが感じられる。
天照の心配通り、この中を見咎められずにスメラギのもとへ辿り着くのは不可能であったろう。
更に……。
「あの、ハルアキ様。今、向こうのほうを悪霊が横切りました」
「大結界が揺らいでおるからだ。普段は都や内裏の結界と併せれば、あのような雑魚が迷い込むことはない」
ハルアキはオトリの指差すほうに顔すら向けずに歩き続ける。
「退治しなくてよろしいのですか?」
「標代わりになる。憑りついても半端な霊感の持ち主が瘧を起すくらいだ」
「標?」
オトリは首を傾げた。
さて、これぞ風水八卦の真髄か、方違えの極みか。多くの人間や悪霊の気配があるというのに、目的の紫宸殿から北西の清涼殿に到達するまでに、誰にも出くわすことはなかった。
夜御殿、塗籠の中に御帳台。
ここへ向かうまでも陰陽師の歩みに障りなし。
ところが、最後の最後で予想外の事態が起こった。
「む……。またしてもこやつか」
陛下の寝台を前にして気を乱す最強の陰陽師。
寝台の前に立ちはだかるは一匹の獣。
「にゃーん」
猫である。
猫はひと啼きするとごろんと横になった。
「猫ちゃんだ……」
心を鬼にする女衒の行いから魔都へ、そこからの最強の安心の落差に加えて、愛い獣の誘惑。
オトリは涎を垂らした。
しかし、彼女の頭脳がはたと恐るべき事実に気付き、大きな衝撃が走ったのである。
「起きていられないっておっしゃってた……もしかしてスメラギ様って……!!」
猫からは物ノ怪のような妖しき気配も、別段高い霊力も感じない。
そしてこの獣は気紛れな性分ゆえに、まともな政治を執れるはずもない。
しかし可愛いが過ぎるがゆえに、これがスメラギの座に居座ったとすれば、誰が無理矢理に取り除くことができるであろうか。いや、できるはずがない。
けだし、日ノ本が混乱し、都が魔都と呼ばれ、悪党悪霊が跋扈したのも、この一匹の猫がスメラギの座に就いたことが原因であったのだ……!
「そのようなわけがあるか!」
声を荒げるハルアキ。彼は猫の前へかがみ込んだ……が、短き悲鳴を上げた。
「またやられた」
ハルアキの頬に赤い筋。猫は満足げにひと鳴きすると、帳の中へ入っていった。
「スメラギ様を怒らせちゃった」
「だから違うと言っておろう。まあ、ある意味では陛下よりも偉いかたではあるが……」
ハルアキは溜め息をついた。
「はは、くすぐったいぞ。よせ」
帳の中から笑い声が聞こえた。それから咳き込む音。
「……そうか、そういうことだったんだ」
オトリは今度こそ多くを理解した。帳の向こうで起き上がる小さな影。
「起こしてくれたのだな? 相変わらず愛い奴だな。危うく先生に叱られるところであった」
愉しげに猫と話す声が聞こえる。
「む、誰かおるのか?」
「陛下、お目覚めですか? 日神より賜ったご神託にあった巫女をお連れしました」
「余はちゃんと起きておったぞ?」
とぼける帳の中の人。
それからハルアキが燈台に火を点け、帳を上げた。
寝台から姿を現したのはまたも若者。それも、元服するかしないかの少年であった。
彼はまたも咳き込む。
「おお、神託の巫女などと申すから老婆が出て来るかと懸念しておったが、思ったよりもかたち良き娘ではないか」
少年が柔和な笑いを見せる。
「えっ、美人!? す、スメラギ様に褒められちゃった……」
オトリは頬で火を結び、頭で湯を沸かせた。
「ばばあと比べたのだが……。まあよい。それで娘よ、日神がわざわざ遣わすほどの用があるのだろう。早く申せ」
少年はあくびを披露した。その膝の上には猫が納まり、黄櫨染の袖から伸びる掌に撫ぜられている。
「えっと……」
さてはて困ってしまった。
オトリの想定のスメラギの人物像は、頭が石術で鍛えた石のごとくに硬いか、くだらぬ執着やしがらみで身動きの取れなくなっている老人であった。
「ここは私がひとつがつんと言ってやり、日ノ本を根元と頂点から変えてやろう」くらいの意気込みを持ってこの場に臨んでいた。
しかし、十かそこらの子供相手にそんなことをやっても大人げないばかりである。
宮中は地位の取り合いで荒れていると聞いて呆れていたが、彼もまた被害者なのだろう。
「どうした、早く申さぬか。余はもう眠いぞ」
最高権力者はまたもあくびをなさった。
「オトリよ、日神からはおまえが是非に話があるからと聞いておる。いくつもの予定を蹴ってまで膳立てしたのだぞ。それに陛下は、あまりお身体が良くないのだ」
最強の陰陽師も耳打ちをした。
――どうしよう。
困った時には、“あのひと”のやりかたを。
オトリは全てを正直に打ち明けた。勾玉とツクヨミの案件だけでなく、日ノ本と自身の里への憂い、そして旅のことや相方への想いまで。
幼き統治者は始めこそは眠そうにしていたが、そのうちに姿勢を正し、要領を得ないオトリの話に口を挟もうとしたハルアキを手で制し、静かに相槌を打ち続けた。
オトリはそのままの流れで、明かしても得にならなそうなこと……いよいよ鬼のことまで口に出してしまっていた。
矢張り、陰陽師は慌てたがこれも手で制され、感想も無しに続きを促されたのである。
そして、時間を掛けてすっかり話したのちに、「この想いの丈を陛下へ八つ当たるつもりでした」と白状し、床へ両手をつき、額を深々と下げた。
「よい、気にするな、心根の優しき娘よ。そなたの心配も今年限りとなろう。余は来年、元服を迎える。藤原のじじいどもや、ばばあ連中の傀儡などになってやるつもりはない」
最高権力者は愉しげにおっしゃった。それからまた咳き込む。
「陛下、お口が過ぎますよ」
「先生、構いませぬよ。オトリが腹を割ったのに、余が繕うのは道理に合いませぬ。余を左右できるのは天照大神か猫様だけ」
陛下はそうおっしゃると抱いた猫の背に顔を埋めて息を深く吸い込んだ。
「話はそれだけなのだな? 余はいい加減眠い」
三度のあくび。猫のほうはすでに眠っているようだ。
「日神が仕事中の私を呼び出したほどのことであるから、もっと大事なのかと思った」
陰陽師は不満げだ。
「申し訳ありません」
オトリには謝るしかなかった。
「構わぬ。余たちのような、大人と子供の狭間を生きる者が心配せねばならぬ世はどうかしておる。年寄りどもがもう少ししっかりしてくれるとよいのだがな。先代も若いうちから出家などしてしまうし。才で言えば余よりも相応しかったろうに」
「花山院様は少々自由が過ぎますゆえ。私の監督不足です」
ハルアキは頭を下げる。
「先生はしっかりやってくれておる。余も術以外の興味や習いごとが多すぎて、祭事に関しては今しばらく苦労を掛けると思う。今後とも頼むぞ」
スメラギはそう言うと、伸びをした。
同時に陽が昇り、彼を大人びてみせていた蔭を取り払った。
――彼は長くは生きられない。
オトリには魂が読める。そこから推測される感情、霊的な清濁、そして寿命。
時折見せた咳き込みが原因かまでは分からぬが、残り二十年生きれば良いほうであろう。
魂の煌めきからして、短命で終わらせるのに惜しい存在だと感じた。
――でも、外の世界ではそれだけ生き延びるのが難しい……。
「スメラギ様、日ノ本のことを宜しくお頼み申し上げます」
「稜威なる案件や荒事はそなたらに頼ることになろうが、余は文化の発展を目指したいと思っておる。最近は女どもが日記をやったり、物語を織っておるという話もよく聞く……」
烈しい咳き込み。オトリとハルアキが気遣う。
「平気だ。ありがちな病である。オトリよ、そなたは験のある巫女だから見抜いておろうが、余の“魂”の件についての他言は禁ずる」
「……はい」
気付いていたのか。オトリはくちびるを噛んだ。
「病とは、死につながる恐ろしきものだ。胸病、赤痢、疱瘡。多くの病が巷に蔓延っておる。胸病は見ての通り、赤痢は患えば痩せ細る、疱瘡は器量定めと言われるだけあって、治っても痕の残る酷な病だ。これらは物ノ怪だの呪いの仕業だのと言われておるが、そのじつ間違いだ。何か目に映らぬ原因がほかにある」
「おっしゃる通りです。私の里では都のような流行り病は無いので、旅に出てからは特に痛感しております」
薬学と水術の治療に長けるオトリもまた、病に興味があった。
里では滅多に流行り病を患う者が居ない。呪いでない病の原因の多くは不明である。
だが、里を仕合わすミナカミには直接に病へ左右する力は無いため、それが罹患や感染の秘密を知る手になるのではないかと考えている。
「水の神の佑わうまほろばの地か……。一度行ってみたいものだな。本当であれば、余らがその御神と同じ役目を日ノ本全てに果たさねばならぬのだが、実際のところ、人間は弱い。神仏に頼るほかないことも多い。だが、己の力が増すと今度は神仏を軽んじる。ここが人の愚かさよの……」
再度、烈しい咳き込み。
「陛下、そろそろお休みになられたほうが」
ハルアキの進言。
「うむ、また寝床を血で汚すわけにもいかぬしな。だが、この限られた生で何ができるかと考えると、愉しくてしようがない。この娘に会ってから、尚のことそう思う」
微笑みが向けられた。
「スメラギ様……」
互いに見つめ合う。
そしてしばしの沈黙。
「……恐らくは、葉月」
スメラギの顔つきが真剣になった。
「葉月?」
オトリは首を傾げる。
「うむ、葉月の上旬に幾多の災厄が日ノ本を襲うであろう。夢で見たような気がする。弦月かな。難事のさなかであるが、月が満ちゆく時期で、縁起は悪くなかろう」
「私の卜占には何も出ておりませんでしたが」
ハルアキも首を傾げた。
「あの、どういうことでしょうか?」
「余たち日ノ本の決戦が来月の上旬に訪れるということだ。今の余はまだ、籠の中の鶯に過ぎぬゆえ、そなたらが籠の扉をあけ放ってくれることを期待しておるぞ」
今度は咳き込みではなく、あくびをなさった。
「さ、猫を吸いながら寝子となるとするか」
「陛下、晴れ着を着替えてからにしてください」
「面倒じゃ」
手ずから帳を下ろし、猫と共に寝台の中へと御退場あそばせる陛下。
「はあー。やっぱ猫はたまらんのう」
なんぞ聞こえる。
ハルアキは額を押さえ、溜め息をついた。
「……見よ」
彼はつと表情を変え、空を指差した。一匹の悪霊が空を漂っている。
そしてそれは、唐突に消滅した。
「ドウノジが結界を修復し終えたらしい。決戦までおよそひと月と陛下はおっしゃった。諸々の問題は私たちにまかせ、そなたはゆっくりと骨を休めよ」
ハルアキは神妙な面持ちであったが、声は優しげであった。
「はい、ありがとうございました」
娘は空を見上げ、権力者たちへと礼を言った。
*****
瘧……発熱、悪寒や震えのやまい。マラリアを指すことが多いが、この場合は霊障での症状。
夜御殿……当時の天皇の夜間の生活の場。
塗籠……通常よりも壁の厚い部屋。
弦月……上弦の月。新月から満月の中間。




