化かし012 弓矢
山鯨は村の人間だけでなく、付近の動植物にまで迷惑を掛けているようであった。
まだ水気を失っていない折れた太い枝や、逃げ損なったと思われる小動物の踏み砕かれた死骸がそれを物語る。
猪の通ったあとには獣の臭気が残されており、尋常の鳥獣はそれを忌避して怯えきってしまっていた。
「アナミスは逃げ切れたんでしょうか?」
「多分ね。ずっと風と音で気配を読んでたけど、思ったより余裕そうだった。猪もまだ生きてる。枝の折れ方からして、ここから上へ行ったみたいだけど、あまり勢いをつけて走ってないな。アナミスを追ったわけでもなく、殺した獣を放置してるあたり、腹も空かせてなさそうだ。今日はもう降りてこないと思うから、奴の風下で寝よう。近付いてきたら音と臭気で分かるし」
ミズメはあたりを検分しながら言った。
「詳しいですね。ミズメさんは弓も使うみたいですけど、狩人もしてたんですか?」
「暇潰しでね。それと……あたしを拾った爺が言うには、拾ったとき一緒に小弓が置いてあったって話でさ。別に矢を射るわけでもなかったけど、弦を引くと気が落ち着いてね」
「その弓は今も?」
「お師匠様に救ってもらったあとは、もう必要ないと思って焼いちゃった。今の弓はお師匠様の手作り!」
無論、銀嶺聖母が弓削に通じているのも暇潰しからのことである。
「小弓……だと梓弓か何かですか?」
「御守り代わりに持ってただけたっだしなー。卜占はあんまり好きじゃないんだよね。明日のことは分からないほうが面白いし」
「そうですか。術もギンレイ様に教わったんですか?」
「基本的な霊気の鍛錬は教わったけど、仙術や風水については教えてくれないんだ。風術や音術もひとに言われてそうだって知っただけで、ちゃんと学んだものじゃないし。得意なのは幻術くらいかな? 霊気の微調整には自信があるよ。他の気のいい物ノ怪と練習して覚えたんだ」
焚き火の仕度を始めるミズメ。
「クマヌシさんとですね。祓えの術も自力ですか? あれって、凄い才能ですよ。私これでも、里ではいちばん霊気が神聖だって言われてるのに……」
それなのにミズメはオトリの術をそっくりそのまま真似ていた。
「お祓いはできないよ。あれはあたしの秘技、山彦ノ術! 秘技といっても、他人の気の性質や流れを読み取って、そのまま真似てるだけだけどね。気の操作が細かいし集中が要るから、見てすぐの一度くらいしか上手くいかないけど」
「理屈は分かるんですけど、術を扱うには系統ごとに才能や神仏の加護が必要なので、なんでもとはいかないはずです。狐狸のたぐいが幻術で、見せかけだけ真似ることはよくありますけど。それに、霊気の性質だって魂に直結しますから、私の術の真似なんてできるはずがないんですけど……」
オトリは小枝を集めながら首を捻る。
「うーん。じゃあ、なんにでも才能があるのかな? でも、暇潰しに坊主や山伏を化かして弟子入りして術を偸もうとしたこともあったけど、どれも上手くいかなかったな。行者の火術とかも、格好良いんだけどなー」
「なんて罰当たりなことを……。でも、風や音には通じていらっしゃるみたいですし……」
余程に納得がいかないのか、オトリはしきりに首を捻っている。
「ま、できることはできる。できないことはできない。やってみたいことはやる! オトリは、そんなにあたしのことが気になる?」
ちょっと意地悪く笑い掛けるミズメ。
「えっと……はい」
少し頬を染めるオトリ。ミズメは仕掛けておいてたじろいだ。
「ミズメさんの生まれは、聞いたお話からして、私の里とそう離れていない地のようですし、私の里の先祖には梓弓を使った占いと音術を得意とする巫覡もいましたから。実は遠くで親戚だったりしないかなー……なんて」
はにかむオトリ。
「どうかなー。暮らしてたのは大和の飛鳥だから、確かに紀伊国に近いけど、拾われた場所がそことも限らないし。それに、遠い祖先の子孫でも親戚だっていうなら、日ノ本に暮らす人間のどれだけが親戚になっちゃうか」
「そっか。そうですよね……」
苦笑いのオトリ。
「さて、飯は“こいつ”でいいかな?」
ミズメは焚き火の仕度を終え、猪に踏み潰された兎を指差す。
「そうですね。放っておくのも可哀想ですし……」
オトリは憐れな獣に手を合わせた。
「坊主じゃないだろ?」
「私も真似をしてみただけです。魂はとっくに去ってしまってるようですけど、こういった感謝や慈しみの心は大切だと思いますから」
「じゃ、あたしも」
ミズメも真似をして手を合わせる。
火を起こし、獣の処理をしているうちに山は闇夜へと呑まれた。
猪騒ぎに加えて、山への闖入者であるふたりが火を焚いたせいか、秋盛りにもかかわらず虫の鳴き声ひとつしない。
風もなく、焚き火の音だけがあたりの闇へと吸い込まれて行く。
「うーん。そろそろ新しい矢が要るかなあ」
片目を閉じ、矢軸をまっすぐと睨むミズメ。
一体どこから出てきたのやら、胡座をかく彼女の周りには弓矢に小刀、小さな鎚や竹材などが広げられている。
「矢矧ぎも自分でしてるんですか?」
「当然。他人の矢なんてそうそう使えないよ」
狩猟や合戦において、かなめとなる弓矢。弓だけでなく、矢も重要な道具である。ただ飛べばいいというわけではない。
軸の歪みや重心、矢羽根の形や枚数、鏃の種類、重さなどの全てが射撃に影響してくる。
扱い慣れた矢でなければ自身の命は預けられぬのである。
「材料が必要ですよね」
「鏃は使い回しで、軸だけ換えるよ。それから羽根は……」
鈴懸の背から鳶色の翼が顔を出す。
「あっ! 自分の翼の羽を使ってるんですね!」
「普段でも鷹や鷲より頑丈だけど、霊気を通すともっと硬くしなやかになるんだ」
ミズメは霊気を練り始めた。すると、彼女の翼の色が鳶の土色から鴉の闇色へと変じた。
「すごい。翼、良いなあ」
憧憬のまなざしが向けられる。
「オトリもお師匠様に物ノ怪にしてもらったらいいよ」
「それは駄目です。でも、狐の耳や尻尾も羨ましいなあ……」
腕を組んで唸るオトリ。
「なんでさ。あんなの役に立たないでしょ」
「だって、可愛いじゃないですか。翼も、どうせなら真っ白のが良いなあ」
「ついでに牛の角と猪の牙に、鷹の爪もつけて貰ったらいいよ。馬の脚とかもさ」
「化け物じゃないですか!」
「そりゃね。物ノ怪だし」
ミズメは笑う。
「そうですけど……。ミズメさんはあんまり物ノ怪っぽくなくて」
「物ノ怪も人も、獣だってあまり変わらないさ。人間のオトリだって、さっきは魂も去った兎のために手を合わせてただろ」
「そうなのかな……」
思案に耽る巫女の顔。
ミズメはそれを視界の隅におさめながら、竹製の箆の束を手に取った。
軽く箆を弾いて振動を確かめ、気に入ったものを束からより分ける。
普段は先を細くした“杉成”の削りを行うが、今回は震えに強い胴太の“麦粒”の削りを験す。
それも、通常よりも太めの細工をしておく。明日の射撃では、少し特別な技を用いた矢を射るつもりである。
「あの、私も何かお手伝いができませんか?」
「いいよ。見つけたら射るだけだし」
小刀を竹に滑らせながら答える。
「そうでなくて、矢づくりとかでも……」
普段は独りでこなしている。先も語ったが、命を預ける重要な仕事でもある。
「気持ちは嬉しいけど……」
――うーん、何かあったかな。
断ろうと思ったが、巫女の娘の真剣な表情に負け、広げた道具や材料を眺める。
「あ、あの。“これ”も新しいものが必要だったりしませんか?」
オトリが指差したのは矢羽と軸を固定するのに使う矧糸である。
「痛んでるのが気になるけど、糸はすぐには用意できないからなあ」
「私、お裁縫は得意なんですよ!」
オトリはそう言うと、その辺の草蔓を千切って、何やら霊気を練った。
すると、蔓の水気がたちまち蒸発して干乾びた。
「逆に、水気に霊気を込めて頑丈にすることもできます。縄や革だって専門のかたより早く仕立てられますよ」
「水術か。便利だけど、ずるいな」
通常、こういった天然物を利用した加工は、風や日光の力を借りて数日から数月を掛けてじっくりと行うものである。
「はい。ずるです。身体の強化も治療も。だから、人前で濫りに憑ルベノ水を使うことは禁止されているんです」
「あたしに見せるのは良いの? 他流派で、しかも物ノ怪だけど」
「ミズメさんの手のうちも見せて貰ってますし、おあいこです。それに怪我でもされて急ぎの治療が必要になれば同じことですから」
「獣を相手に怪我なんてしないよ。あたしには“これ”があるんだから。猪には無いものだよ」
翼を指差すミズメ。そのまま羽根の一枚をつまんで引っこ抜いた。
「あんっ!」
天狗なる娘の口から艶めかしい声が飛び出した。
「へっ!?」
うっすらと頬を染めるオトリ。
「いやー。羽根を引っこ抜くと、つい声がでちゃうんだよね……あんっ!」
またも嬌声。
「そ、そうなんですか」
巫女の娘はうつむいた。
「あんっ!」
半笑いで羽を抜き続けるミズメ。
「……わざとやってません?」
「いや、あと何枚か抜かないと。あたしの矢には一本につき一枚半使うからね。新しくこしらえるのは四本だから、“あんあんあんあんあんあん”になるね」
「怒りますよ!」
オトリが声を荒げ、こちら向かって手を伸ばして勢いよく羽根を引っこ抜いた。
「ぎゃっ!」
身を震わせ肩を抱くミズメ。
「そんな、大袈裟ですよ……」
引っこ抜いた羽根を眺めるオトリ。
彼女の顔色が見る見る青くなった。羽根の根元には赤い液体が光っている。
「羽根は一応、身体の一部だからね。今のはちょっと効いたかな……」
ミズメは翼を手前に引き撫でる。
「ごめんなさい」
「いいよ、あたしもちょっと悪ふざけしてたし。でも、ちょっと癖になる痛みなんだよなー……んっ!」
「もう……これであと二本ですか?」
抜かれた羽根がミズメへと差し出される。
「んー。それはあたしが使いたいのとは位置が違うから、形も大きさも微妙かな。適当に捨てといて」
「ごめんなさい……」
オトリは再び謝った。それから、羽根を指先で弄びながら静かに眺め始めた。焚き火の炎が黒羽を濡らしている。
抜き終えた羽根を縦で半分に割り、オトリに支度して貰った糸を使って箆に固定する。
普段なら弱くて使えないはずの緑の蔓が確かな手ごたえを返した。
接着用の天鼠も、同じくオトリが旅の沓の修繕で使っている霊気の籠った物を借りた。
鏃を古い矢から挿げ替え、軸の歪みや重心を確認して作業を完了とする。
そうしてでき上がった矢は、これまででも最上の品に思われた。
礼を言おうとミズメが視線を水術師へやると、彼女は膝を抱えたまま寝息を立てていた。
眠る巫女はときおり表情を歪ませている。
――また悪い夢を見てるな。
ここ数日、共に旅をして来たが、彼女が夢中で魘されているのを何度も見つけていた。
そういった時は必ず、人助けに関した不足や、道端で出会った弱者の骸などと関わりを持った日であった。
――これだけ魘されても人助けを止めようってならないんだから、大したもんだよな。
苦し気な寝顔を眺め、溜め息をつく。
実際のところ、かなりつらい思いをしてきたのであろう。
本来、オトリが里から命じられたことは「水源を調べる水分の旅」だけでなく「巫女頭として見聞を広める」ことも含まれていたはずである。
それには人通りの多い路を避けるのは不利である。駅路沿いを知らずに見聞を広めたとは到底言えないであろう。
いかに非公式の田舎術師であろうとも、路を歩くだけで必ずしも官や兵が飛んでくるわけでもないし、仮にそうでも逃げ切ることは容易いはずだ。
ミズメと出逢う以前は、野外で寝る時には術を用いて水気に霊気を通した膜を創り出して自身を保護していたという。
ふたりで行動を共にした日はほとんどが屋内で眠れたためか、その技は披露していなかった。
恒例行事であるのならば、送り出した神もこれを知らぬはずはない。どこか矛盾した掟と指令は過酷を極めている。
――疲れて寝落ちただけか。あたしが信用されてるのか。
「ま、今晩はあたしが見張っててやるよ」
眠る娘に微笑むミズメ。
「……あなたのことは私が護りますから……」
オトリが言った。それから、むにゃむにゃとなにごとかを続ける。
――生意気め。十六年しか生きてないくせにさ。
微笑むミズメ。
十六の頃といえば、未だ鞭打たれ春を鬻いでいたか、銀嶺聖母に師事し始めたころである。
当時の彼女もまた、人を信じることを知らなかった。ただ、不思議な術と解放の事実によって具体的な救いを示して見せた師だけが頼りであった。
最近は昔のことをよく思い出す。縄張りの住人たちも月山の子供たちもミズメの過去を詮索しない。
彼女自身も、必要がなければ敢えて思い出すことはしなかった。まるで忘れていたかのように。
何かの拍子に反芻することもあったが、それは朽ちた鉄のように錆びて剥がれており、曖昧なものであったはずだ。
それがオトリと出逢ってからは、それらは再び研ぎ直されたかのように鋭さを増していた。
しかし、汚辱はもはや、天狗を名乗り始めた娘を傷付けることはない。
過去のことは矢のように過ぎ去り、教訓は鏃となって手元に残った。翼から得た羽根と、添えられた蔓草で誂えられた一矢。
――あたしが一緒のあいだは、あんたの善行も簡単にしくじらせたりはしないよ。
見上げる空。娘たちを包む闇夜とは対照的に、弓よろしく欠けた下弦の月が爛々と光り輝いていた。
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矢矧ぎ……矢づくり。
弓削……弓を作ることを生業とした人。また、その一族の氏姓。
梓弓……巫女が占いに使う小弓。弦を弾くというよりは叩くようにして占ったのだとか。地域や流派によっては普通の和弓くらい大きなものも用いたらしい。
箆……矢の軸。特に竹製のものを箆という。
杉成……軸の加工の一種で、先端から羽根のほうにかけて太くなる。竹を利用する際に相性が良く、加工工程も少ないため耐久力に優れる。
麦粒……こちらは中央をやや太く残し、尻と頭に掛けて細くする加工法。飛距離が出やすいため遠射や鏑矢に向いている。
天鼠……弓や矢の糸などの手入れをする油。手薬煉を引いて待つのくすねに同じ。
下弦の月……満月から新月に向かって月が欠ける時期の、ちょうど半分の月。




