化かし119 斎院
山城国。日ノ本の心臓が魔都の北郊。賀茂氏が領地、斎院を置く御所。
月の居らぬ闇夜に緋き袴が駆ける。
青く茂る桜の並木、寂しげに啼く梟。
静かに流れる清水。川のそばの茂みには桔梗の花が揺れている。
――なんだか妙だわ。
人は居らず。それは寝静まっているからか、天照の差配であろうが、賀茂の流派が最高峰の巫女とされる者が暮らす地にしては、霊的な護りの施しが一切なされていない。
屋敷に近付くも、尊い気は感じられない。
どころか、屋敷にただひとつ感ぜられる気配は、多少は霊的に強いものの無防備で穢れの多い半端なものであった。
――いやな気配。
霊感と経験から予想されるのは、私利私欲に塗れた受領や、実力不足の巫女であった。
オトリは塀を飛び越える。
斎院は母屋の寝室にて待つと聞いている。
御帳台の帳の向こうに人の気配。
オトリは神聖な気を醸して近付く。何かの香か、花のような香りがうっすらと感じられた。
「天照大神様からのお使いでしょうか?」
さきに問い掛けたのは若い娘の声。
「はい。あなたが斎院様でしょうか?」
オトリの声が固くなる。緊張からではない、娘の声色に高慢さが潜んでいなかったからである。
「そうは視えないでしょうが、わたくしが斎院です。オトリ様、お近づきになってください」
勧めに従い、御帳台のそばに座する。
「貴き巫女様相手に、畳一枚ですが、高い所から申し訳ございません」
中から幾重にも重なった袖が現れ、帳を掻き分け、帳が落ちぬように時間を掛けて留めた。
「手間取ってしまって申し訳ありません。いつもひとにやらせているもので」
開かれた御帳台の中に座する娘の姿。
薄暗くて仔細は分からぬが、恐らくは十二単のよくある貴女の出で立ちであろう。
衣を畳に散り広げ、そのうえに黒く輝く髪を夜の河川のごとくに流している。
「斎院様、早速ですが本題です。朝廷が封印している神器、月讀命の八尺瓊勾玉ですが、あれは御神の荒魂ではなく、和魂でございます。あれを封印しているせいで、月神の司る調和や平穏の力が弱まっています。そして今、もうひとつの勾玉、荒魂の勾玉が出現しており、それが震旦より来た邪仙と結託し、日ノ本を混沌に陥れ、この世を伊邪那美の手に渡そうとしています。今こそ和魂の力が必要なので、斎院様のお力で封印を解くように促して頂きたいのです」
「外はそんなことになっているのですね。残念ですが、わたくしにその力はありません」
娘の声は哀しげだ。
「……失礼ながら、あなたは本当に斎院様なのでしょうか。斎王はスメラギ様の一族より選ばれると聞いております。ならば、現人神の血胤にして、巫覡術師の才覚に優れるのが道理」
「おっしゃる通りです。疑うのも無理はないでしょう。このように力弱く、穢れを孕んだ魂なのですから。しかも実権や実力を持つのは賀茂や藤原のかたがたで、わたくしではありません」
「お飾りということですか」
オトリの問いにやや敵意が混じる。
「はい。それの何がいけないのでしょうか。飾る物も心慰むるだけのものも、立派な“意味”でございます」
「では、あなたはここで座っているだけなのですか?」
「いいえ、寝ております。先程まで、中納言様がここに居られました」
「男性のかたと通じていらっしゃったんですか? 巫女の頂点なのに!」
隠さぬ非難。帳の中の娘の肩が跳ねた気がした。
「……オトリ様は、巫女のなんたるかをお忘れなのでしょうか。巫女はその身を神に捧げてこそ、巫女でございます。日ノ本において、名だたる人は神に等しき存在でございます」
「巫女とは神の妻。色恋どころか、その中納言様はあなたの夫ということですか?」
「まさか。わたくしが通じているのは、かの人だけではありません。ここを訪ねる権利を得た者とは誰とでも袖を交わします。そうすれば、わたくしの魂は穢れ、現人神の力も弱まり、封印されし日照りの女神の使徒としての価値も薄らぐというもの。そして、わたくしと交わったかたは斎院の奥まで辿り着いたという事実に、誇りと誉れを得るのです」
「慰みものにされているっていうこと!?」
敵意反転、憐憫同情。
「いいえ、わたくしは箍でございます」
娘の声は揺らがず。彼女の身体から幽かで小さな神気が燈る。
「いくら現人神の血筋であろうとも、この日ノ本をその一族だけで掌握することは不可能。他家のお力添えが必要でございます。わたくしたち斎王は、それらを繋ぐ“約束”。ここに在り、名だたる人と繋がることこそが価値。わたくしが在るからこそ、スメラギの一族も、賀茂も藤原も表立って日ノ本を取り合うことをしないのです」
「でも、そんなの、絶対に良くない。仲良くするのだって、他にも手段があるはずだわ。沢山の人と交わるのをやめて、禊をすれば、きっと力も少しは戻るはず。そのほうがあなたの力を日ノ本のために使えるはずです」
オトリは膝を立て、ずいと娘に近付いた。
「それはあなたの道理でしょう。わたくしはこういう血筋に生まれ、望んで身を捧げたのです」
返される批難。
斎院は無礼な急接近に顔を背けることも、袖で隠すこともなく。
オトリのほうが下がらねばならなかった。
――私よりも若い子だ。それなのに……。
くちびるを噛む。
それから、垣間見た闇の中の輝き。その力強い瞳に偽りはなく、魂もまた穢れに冒されながらも尊さを失っていなかった。
同じ鳥籠の娘。部屋を見据えるか、空を求めるか。
「……出過ぎたことを申しました。本題に戻りましょう」
オトリは己の正義を押し付けるのを諦めた。道は違えど、向かう先は日ノ本の平穏であることは同じ。
決して交わらずとも、最後に互いに求めた景色を眺められれば、それでよしとしよう。
「多くの貴人のかたと繋がりがあるのなら、勾玉の封印を解く権利を持つかたに働き掛けられないでしょうか? 権力や霊験で駄目だというのなら、そのお身体の力で」
まさか己が女衒になるとは。口の中に血の味が広がる。
「確かに殿方はわたくしを求めますが、わたくしのほうは身を任せるのみとなっております。袖を交わしても、言葉や文を交わすことは固く禁じられているのです」
「その禁、男の人は我慢できていらっしゃりますか? 声を聞かせてくれとせがまれたり、文を押し付けられたりなさるのではありませんか?」
「……どうしてそれを?」
斎院から一瞬、素の娘が見えた。
「男の人とはそういうものですから。いいえ、人というものは堪え性が無いものです」
「正直に申し上げると、困っているのです。これも斎院の運命かと憂いております」
「いやならいやと言えればいいのでしょうけど……」
「いやでないから困っているのです。わたくしのことを聞いて欲しい、かの人たちのことを訊ねたい気持ちが沸きます。男のかたはみな、とてもお優しいのです。掛けてくれる言葉も、抱擁も。決してわたくしを傷付けはしない。彼らを傷付けるなんて、斎院でなくともしたくはならないでしょう。本当にいやなのは、女房たちのほうです」
「お世話係のかたが?」
「女房たちは覗き、偸み聞くのです。わたくしは歌を詠じられても恥しかお返しできませんが、彼女たちはその歌を憶えて何度も詠み上げて辱めますし、文は取り上げられて、押し付けられたわたくしのほうが諫言を頂く始末で」
どうやら虐められているらしい。オトリは慌てて霊感の探知を験すが、屋敷内に人の気配はない。
「全員がそういうかたなわけではありませんけど。本当なら仕返しに呪いのひとつでもしてやりたいのですが、斎王が呪うなどできませんし」
声に露骨な不快感。オトリはそれを感じ取り、ほくそ笑んだ。
「だったら、祟ってやればいいんですよ」
「呪いも祟りも同じことでは?」
娘の鬢が傾く。
「違いますよ。人がやれば呪い、神がやれば祟りです。あなたは名だたる人々の代理人なのですから、あなたを虐めることは彼らに手向かうこと。その無礼を返すのは斎王として当然でしょう?」
「こじつけのような……」
「私たちがこじつけで、何がいけないのかしら? 神様たちはこじつけから信じられて、その力をほんとうにするんだから」
「確かにおっしゃる通りです。わたくしも、多くの交わりを通したせいで“病う力”を身に着けていますし。ですが、混乱を招くようなことは控えたほうが良いのではないでしょうか。仕返せれば気持ちの良いものでしょうけど」
「和魂、荒魂。神とは二極の性質を持つものですよ」
オトリは歌うように言う。愉快であった。
「むむむ……」
唸る斎院。
「あなたの“こころ”が潰れてしまったら、役目も果たせなくなります。こころを痛めているからこそ、男性がたからの言葉も深く染み入ってしまうところもあると思います」
「否定できませんね。祟るのもまた神の役割でしょう。荒らぶり晴らすほうが、今後の斎院の役目とってはよいのかもしれません」
「そして、箍が役目だとおっしゃるのなら、日ノ本を黄泉に手渡そうとする月の荒魂の箍と成り得る和魂の勾玉の解放へのお力添えも、あなたの役目です」
「分かりました。言葉や文が交わせずとも、わたくしのこの身体と呪力をもって、なんとかやってみます。ですが、人の気持ちのことまで、自信が持てません……。歌はともかく、文すらも読んだことがないのですから」
決意一転、憂鬱顔を見せる斎院。
「そうですよね。そもそも、一夜の契りの場で男の人が言ったことなんて当てにならない気がしますね。誰も居ない隙に誰か呼ぼうにも、男の人のほうから訪ねてくるものだし……」
オトリも腕を組み小首を傾げる。
「あっ、そうでした。今日は、残ってるんですよ。天照様がお願いを聞いて下さるとかいう話で女房たちは慌てて出払ってしまったので、先程にお相手をした中納言様から受け取った文はまだ……」
斎院は折りたたまれた紙を取り出した。
「あのかたはあまりわたくしを強く求めるかたではなかったのですが、初めて文をくれたんです」
「やっぱり恋文かしら」
オトリは身を乗り出した。
「読んでみましょう」
紙が広げられる。オトリは祓え玉を出して照らした。
「あれっ、私にも読める」
並ぶのは角ばったものではなく、丸みを帯びた細く黒い文字。
「女子は漢字を避けるものですので、わざわざひらがなを用いてくれたんでしょう」
「いいなあ……。私も恋文を貰いたいなあ」
内容は明らかに恋情を伝えるものであった。加えて、父からの扱いへの物足りなさや、兄弟との諍いなどの愚痴まで書かれている。
「なんだか、色々書いちゃってますね。平気なのかしら?」
「どうせ読まれないことは皆様ご存知ですから。でも、女房たちが勝手に読んで噂にしちゃうんですけどね」
口に袖する斎院。
――読まれないことどころか、この人が穢れてるのも承知の上なんだろうな。
オトリは少し男どものことが憐れに思えた。それと同時に、その一途さにも多少の好感を憶えた。
しかし斎院は、袖が離れればその口元は凛々しく。
「このかた、使えますね」
と言った。
「では、お計らいのほう、よろしくお願いいたします」
オトリは頭を下げた。
「やれるだけやってみます。直接の働きかけでなく、それと分からぬようにしなければ意固地になりますから難しいところですが。手練手管とまではいきませんが、恨み言に関しては女房たちから学んでいますし」
「きっと上手くいきますよ。あなたは天照様の巫女様なんですから」
「神の御心のままに。オトリ様も、日ノ本を襲う大難事への奔走、ご苦労様でございます」
「ありがとうございます。では、次に向かいますのでこれで」
微笑み交わし合い、巫女と斎院は別れた。
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御帳台……貴人が寝たり座ったりするための調度。カーテンのようなもので仕切られており、中には特別な畳が二帖敷かれている。
女衒……売春や性風俗業の仲介やあっせんをする者。




