化かし117 喧嘩
紀伊か伊勢か大和か。
オトリとヒヨの暮らす霧の隠れ里は深き山中に在る。
「ミナカミ様、めっさ恐いし、おねえさまより強いからなー。ま、頑張っておくんない」
ヒヨは笑顔を見せると去っていった。
――結局、帰って来ちゃったな。
オトリが見上げるはミナカミの神殿。
殿中にミナカミの気配はあったが、いまだに何も語り掛けてこない。
里を護る霧も、オトリを惑わすことなく通した。
深呼吸。
春の花、夏の草、秋の実り、冬の澄んだ空気。四季の全てが混在する里を胸いっぱいに吸い込む。
「よし!」
帯を締め直し、神殿の階に足を掛ける。
つと、足を止める。
神殿の中にひとりの人の存在と、ふたつの神の存在を感じた。
守護神である翡翠の霊魂、勝手様は先ほど里の中をふらついているのを見たばかりだ。数が合わない。
「オトリ、ただいま戻りました」
礼、宣言、開戸。再び礼。
「ほら見ろ、我の言うた通りだろう」
「あらあら。私はヒヨだけが戻ると思っていたんですけどねえ」
神殿内、真新しい心御柱の前に座するはオトリの伯母で里長、巫女頭の鸛鶴である。
もう一人、適当な位置で涅槃仏のごとく肘を突いて寝転がっている女。
宝髻を高く結い上げ、金銀珠玉の髪飾りを頂き、偏袒右肩の納衣姿を身にまとい、両の二の腕には黄金の輪。
これは秘密教を基盤とした仏教が真言宗で崇められる大日如来の格好をした……要するに天照大神ご本人である。
「あ、天照様がどうしてここに?」
オトリは挨拶も忘れて問うた。
「地震で結界が歪んだのでな。都は雑魚の起こす騒ぎで手一杯であるゆえ、これはまたとない機会だと思い、方々をふらついておる」
相変わらず勝手な神は愉しげに宣う。
「おい、コウヅル。何か食べ物を寄越せ。口が寂しいぞ」
「駄目ですよ御神様。オトリとミナカミ様のお話が済んでからになさってください」
「おぬしは賭けに負けたろうが。酒と肴はあったほうが良い。見ものになるであろうからな」
天照はまたも笑った。コウヅルは立ち上がり、退席して行った。
天井から溜め息。
『オトリ、なぜ戻ったのですか。勾玉の破壊を済ますまで帰らないと言い立てて飛び出したでしょうに』
若い女の声、里の姿無きあるじ水神である。
「その件は二転三転しまして難航中です。月讀命の企みに震旦の邪仙が加担しており、日ノ本各地の神々が斃されています。御神への警告と、二三問わせて頂きたいことがございまして、一時の帰郷をさせて頂きました」
『警告は不要です。何が来ても迎え撃つまで。問いにはなんでも答えます。その代わり、私の問いにも隠し立てせず全て答えてもらいます』
「分かりました。御神のお問い掛けには、コウヅル様が戻ってから答えましょう」
オトリは何も隠す気はない。加え、ミナカミが“隠していたこと”を一つ看破した。
「まずはひとつ。なぜヒヨを差し向けたのですか。ミナカミ様は彼女を使って私を招いているように思えましたが」
『……』
ミナカミは黙った。
「こやつは相変わらずまぬけだな」
天照は天井へ視線を送り笑う。
「それは、単に私が惜しいからですか。それとも、ヒヨを被災地に派遣していますし、月讀命の件にも御助力を頂けるということでしょうか? ですが、日ノ本の水を清める水分の任を廃止するとも聞きました」
『……』
神は答えず。
「矛盾という奴だな」
天照は仰向けになりながら人差し指で手のひらを突いている。
「あなたは里を開きたいのですか、鎖じたいのですか?」
『……』
これも答えず。
「どちらも答えではなく手段だ。オトリよ、おまえも中々に意地の悪い二択を出すな?」
天照がこちらを見て笑う。
「後者でしょうね。御助力を頂けないのなら、私はもう二度とこの地を踏みません。頂けるのなら、ことが済めば戻らせて頂きたいと思います。ですが、巫女頭の候補からは降りさせて頂きます」
畳み掛けるように宣言するオトリ。問い掛けは無意味。彼女はこれを言いに帰って来た。
『そんな勝手なことは許しません』
「勝手も何も、あなたの可否の及ばない立場になると言っているのです」
『あなたは次期巫女頭で私の神代です』
神の気配が強くなる。
オトリはミナカミの神気の威圧に対して、身体への負荷が以前よりも遥かに少なくなったように感じた。
「違います。私は私です。私は自分の選んだ大切なもののために生きます。この里は、私が選んだものではありません」
『だったら戻って来なければ良かったでしょう!』
神の声が荒ぶる。
「ですが……大切なのは一緒です。今のミナカミ様とこの里のやりかたは間違っています。幸せにしたって不自然ですし、存在が知られれば理想郷を求めて人が集まり、朝廷は神威と術力を恐れて刺客を差し向けて来るに違いありません」
『それらから護るための霧です。日ノ本が落ち着くまで里は鎖じておくべきなのです!』
平行線。神は何も変わっていなかったか。
「お酒とおつまみ、お持ちしましたよ」
膳を持ったコウヅルが戻ってくる。彼女は戸を足で閉めようとしたが、外開きなために足は空振り、半開きのままに終わった。
彼女は戸を放置し、天照に膳を捧げる。
「丁度、始まりそうな頃合いだ」
天照は手酌で盃を満たす。
「私、帰ります。里へはもう来ません! ミズメさんや月山の子たちと暮らします」
『そうはさせません。あの鳥の物ノ怪もツクヨミの器として完成してしまったと聞きます。あなたが世のため里のためと唱えるのであれば、彼女は討ち滅ぼさねばならぬ存在のはずです。共に暮らすなどという世迷言は矛盾しているでしょうに!』
オトリは結界を張った。天井からの落雷を遮断する。
「だったら、日ノ本も里も救いません! だけど、私はあのひとだけは絶対に取り戻す!」
求め、執着。神聖なる神殿、神のお膝元に異物の気配。
額押さえず。怒張しそそり立つ黒き二本柱が心御柱と対峙する。
「まあ! 立派な角」
「面白くなって来たな」
見物するふたりは愉しげである。
『気配で気付いていましたが、自ら鬼の姿を曝すなんて。里の禁をいくつも破って、そんなことで巫女頭になれると思っているのですか?』
「降りると申し上げたはずですが。それに、今ほうがあなたの器に相応しいでしょうに」
オトリは不敵に笑う。彼女は気付いていた。おのが神の中にも鬼の気配があることを。
『あなたは母親の影を追って巫女頭を目指していたのでしょう。その醜い姿があなたの答えですか?』
「私だって鬼には成りたくなかった。だけど、誰にだって醜いところはあります」
『あなたの旅は失敗です。鬼化のことは不問とします。里の者に隠し通せば問題はありません』
「旅は絶対に失敗じゃない! 私が見つけたのはこれだけじゃない!」
『あの鳥の物ノ怪のことを言ってるのですか? 手放しなさい。あなたの今の力ならばこの数代で最高の器になれるでしょう。たとえ、外から天津の神が来ようとも、黄泉のあるじが来ようとも、里を護るのは容易いことです』
「それでは護れないと言ったでしょうに! この里だって、こっそり交易してどこかのお世話になってる。そのどこかだって沢山の人や場所と繋がってる。切り捨てるだけが答えなんて、ありえない!」
『繋がりは際限なく広がるものです。己から始まり身内に繋がり外へ、いずれは悪党や蟲にまで及ぶでしょう。ツクヨミの荒魂もイザナミも然り。それらまで護るというのですか?』
「うるさい!!」
周囲が夜黒に染まる。
娘は己と鬼が一体化するのを感じた。
天からいかづち。されど神罰に非ず。それは空から降りて神の居する天井を破り、鬼の指先へと繋がった。
「こんな里、ぶっ壊してやる!!」
神袖に覆われた鬼の腕が交差する。切断される心御柱。
鬼は満開。されど意識失わず。明確なる“オトリ”の意思による破壊。
『新しくしたばかりなのに!』
神の嘆きが響く。
「ミナカミ様。護れるとおっしゃるのなら、護ってみせて下さい」
オトリは床を叩き割り地面へ降りる。水は支配されているだろうが、ミナカミが埴ヤス大地を使用しているところは見たことがない。
目論見通り、地盤が緩み、神殿が傾いた。
オトリは天井を抜け、屋根の飾りに足を乗せて里を見渡す。
春夏秋冬。旅で目にした色とりどりの景色をひとまとめに収める。
「……相変わらず綺麗な里」
腹立たしいほどに豊かで、見事で、その癖わざとらしく控えめな世界。
ミナカミの気配は己の周囲をうろついているが、神気が明確な敵意を示す様子は今のところはない。
「どうなさいました? 撃ってこないのですか? 私は里に害なす鬼ですよ。聞けば、ミナカミ様も人の身のころは巫女だったそうですね。何故、私を祓い滅さないのでしょうか?」
鬼は飛んだ。日照り知らずの黄金の稲田に立つ。土の精霊が邪気を忌避し、稲穂が萎え始めた。
『やめなさい! それを作った人には罪はないでしょうに!』
「いいえ、人は皆つみびとよ!」
巫女は飛んだ。次に降り立つのは森。
ありったけの陽ノ気を用いてミナカミの水を僅かに奪い、手のひらに雲と陰ノ気を発生させ、両手に無数の雷糸を結ぶ。
「神様だって、この世界を救えない!」
霹靂が枝を撥ね、葉を穿ち、幹や秋葉に火を放った。
『やめなさいって言っているでしょう!? 森になんの罪があるの!?』
玉も響ぬ間に土砂降りの雨が降り始める。
「そう、本当は私たちに罪なんてない!!」
オトリは光の天蓋を広げた。
神気の収束。黒雲から無数の雷撃が降り注ぐ。それは森を害せず、無数の蛇のごとく、結界の表面を執拗に這いまわり続けた。
あえて結界を解く。
あまたの罰が身を裂き焼き尽くす。追うように蘇る鬼と血術の肉体。
『どうして結界を……』
娘は神の問い掛けを無視し、村のほうへと駆け出す。
岩を持ち上げ投げ込み、木を引き抜き得物にして叩き付け、家屋を破壊する。
衝動に任せた悪事。それは手加減がされることはなかったが、手加減の必要性も感じなかった。
――どの家の中にも人が居ない。
聖邪の膜を広げて里中の魂を感知する。
ひとつだけ、感知を遮る場所があった。触れる感覚は守護神の結界。
隠れ里のもう一柱の神“勝手様”。彼を祀る勝手殿。
恐らくはそこに里の民が集められているのであろう。
オトリは殴った。
本家本元の結界が鬼のこぶしを砕く。
構わず二打目。己の水気を操り水術を上乗せ。
肉を爆ぜさせ、腕までへし折れる。瞬く間に治療。
三打目。鬼の大力、水術の大力、更に血術による身体操作。
返る衝撃が骨を砕き、脳を震わせる。
――そっか、血操ノ術で縫い合わせればいくらでも闘れるんだ。
痩せていった酒飲みの鬼を思い浮かべ、謝る。
血術による治療は脂の消耗や、はらへりを呼ばない。
オトリは陰陽の気が尽きるまで結界を殴り、己を砕き、癒し続けるつもりでいた。
『やめなさい! やめて! やめてちょうだい!』
神の懇願。霊声は泣き崩れる手弱女の色であった。
一打一打ごとに懇願と激痛が響く。
朦朧とする意識。殴打が八十を超えたころに懇願が謝罪へと変わっていたことに気付いた。
九十九で己の死の予感に知らんぷりをし、百八発目でとうとう霊気無きこぶしを振り上げた。
結界に亀裂。
中より漏れ聞こえてくるのは、怯えるふるさとの人たちと宥めるふるさとの人たちの声。
オトリの巫女はへたり込み、娘は勝ち誇り、鬼は更に陰ノ気を吐き出した。
結界の中へと鬼の血が忍び込む。
――殺しちゃえ。
唆すのは娘か鬼か。
「……見事な暴れっぷりだな。我がもうひとりの弟も魂消るであろうな」
背後から女の声。
「天照様」
オトリは振り返る。
天照大神は大日如来の装いではなく、自身ら古流派で伝えられる絢爛な刺繍のなされた巫女装束と羽衣の姿で立っていた。
そして彼女は天鉾を地に突いており、神気も先程までの怠惰で疑わしいものではなく、まさに太陽であった。
「そこまでにしておいてやれ。流石の神も、岩戸の中で暴れられてはどうしようもなかったようだな」
太陽の女が見上げる。
『ごめんなさい……ごめんなさい……』
空は静かな啜り泣きと共に糸雨を零し続けていた。
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