化かし116 意地
翌日、ヒヨは里へ帰ることを決めた。
彼女は酷い消沈ぶりで、オトリが目覚めてもまだ襦袢姿で隣の寝床におり、髪は乱れたままで、頬にはまだ新しい筋が光っていた。
オトリは何も言わずに髪を梳かしてやった。すると、「都から離れるまではおねえさまに送って欲しい」とせがまれた。
巫女が並んで路を歩く。オトリは頼み込んだり珍しがる人々に頭を下げ、後輩の手を引き続けた。
握り返す手は力無く、酷く重く、それでも着実に紀伊国へと近付いた。
――ミナカミ様は何を考えていらっしゃるのかしら。
何度も反芻される疑問。ヒヨは何も知らないようであった。答えを知りたくば里に戻って直接に問いただすほかにないだろう。
あまり期待はしていないが、ツクヨミを取り巻く難事解決に対しての協力を申し出る伝言代わりとして後輩を向けた可能性もありうる。
一度、里に戻ることを考えても良いかもしれない。あれだけ烈しい言い立てをして飛び出したが、前言撤回の恥よりも相方を取り戻す助力を得るほうが遥かに大切である。
後輩の歩みが遅れ始め、鼻を啜る音が聞こえた。
「だんない?」
「……」
返事はない。昨晩に起こった程度のことでこの様子では、水分の任には到底耐えないだろう。
「落ち着くまで待ってるわ。このあたりはひとけも無いし」
ふたりは駅路を外れ山へと入っていた。土の少ない岩場であるが、近くに急流の水音が聞こえる。
群がる人や難事を避け、水分の巫女に親しい水のそばのほうが後輩を慰めるのに都合がよいと思ってのことだった。
岩に腰掛け、遠方を見渡す。大和国、取り残された南都を抱く盆地。
今は見る影もないが、遥か昔にはこの地には巨大な湖があったという。
「なあ、おねえさま。水分の旅はつらかったんけ?」
ヒヨが訊ねる。
「つらいことだらけ。想像してたのとは全然違った」
「おねえさまは、なんでかしら目指したんけ?」
「私は、お母さんのことが知りたくて巫女頭を目指したの」
「何か分かったんけ?」
「はっきりしたことは何も。もしかしたら私が忌み子だったかもしれないってことくらい」
「おねえさまは里でも嫌われてへんやん」
「そうね……。あとは、里が、今のミナカミ様が間違ってることと、外の世界も間違いだらけのことが分かったかな」
「うちらの里、ええとこやん。神様はなんも間違ってへんやん」
「これも昨日の話と同じ。里や神様たちから見たら間違ってないだけで、もっと広い目で見たら変わってくる。うちは日ノ本の律令に従ってないから、朝廷から見れば祀ろわない蟲の一族ともとれる。神様や巫覡の力が他の土地よりも遥かに強いから、その力を知られれば攻撃されるわ」
「なっとな? なんで攻められるん。なんもしてへんやん」
「理由も分からず隠れていたり、考えが違って強い武力を持ってる者が居るなんてことは、とても恐いからよ。ヒヨが昨日、僧侶のかたを攻撃したのと似てるわ」
「ちゃうやん。あれはおねえさまにええとこ見せたくて……」
「誰でもよかったわけじゃないでしょう? でも、攻撃する側だって理由は一つじゃない。従ってる人の命令があるとか、戦うことを生業にして誰かを食べさせてるとかね」
「でもうち、巫女頭になりたいんやに。里で一番になりたいんや……」
気に揺らぎ。里では優等生だったはずのヒヨに、幽かな陰ノ気を感じる。
「私はもう、巫女頭はいいかな。里には帰りたいけど、なんとなくもう、目指さなくていいような気がする」
「ならへんのけ」
「うん、だからヒヨがなったらいいよ。歳の近い私が戻ったら、あなたの邪魔をしちゃうし。でも、今のあなたじゃ、水分の任を一年も続けるのは厳しいと思う」
ヒヨが立ち上がった。深呼吸をしている。焦げた袖と白い胸が上下する。
「オトリおねえさま。ほんまはうち、ミナカミ様におねえさまを倒せ言われて来ました」
「……退治するっていう意味?」
どきり、自身の魂を覗き込む。鬼は眠っている。
「ちゃいます。おねえさまが里抜けをしたあと、ミナカミ様は次の候補を鍛える水分の任を行わないことにしたんです。でも、それやと……それだと、次点の候補だった私には納得がいきません。ミナカミ様に直談判をしたら、あなたと術比べをして勝てば、旅無しでも次の巫女頭に決めてくれるって」
――里を余計に鎖してしまう気なんだ。お母さんと……私のせいだろうな。
「負けてあげよっか」
オトリも立ち上がった。
「いりません。そんなことしたって、コウヅル様に嘘がばれて叱られるだけです」
ヒヨは早くも霊気を練り始めたようだ。
「勝てると思ってるの?」
霊気は練らずに問う。
「思ってません。でも、勝ちます。ちゃんと一番にならなきゃ意味がないんです」
「意地っ張りね」
「オトリおねえさまも意地っ張りなんで。私はもっと意地を張るんです」
「競ってもしょうがないわ。私が辞退すれば済む話よ」
「ふたつ上のあなたはなんでも出来て、私の憧れでした」
弾ける急流にヒヨの霊気が忍び寄るのを感じる。
「私なんて追い掛けても、良いことはないわ」
「この前まで追い掛けるつもりじゃなくって、追い抜く、追い抜いた気でいました。人助けにしたって、おねえさまを利用していたんです。あなたの旅の知識を貰えば、勝負でも有利になるだろうって」
「この前まで? 今は?」
「私が勝ったら、オトリおねえさまには私が追い掛けやすいように里へ戻って貰います。それにきっと、里にはおねえさまが必要。もう二度と、出て行かせはしない」
周辺からヒヨの周りに水気が集まっていく。彼女は懐から水筒を取り出した。
「必要なら私が戻ったら、ヒヨは絶対に巫女頭にはなれないわ。巫力には顔も人望も関係ないのよ」
「巫女頭は里長ですよ。里長には人気だって大切だし、男の人は皆、私のほうが良いっていうもん。ミナカミ様だって、神代は美人のほうが良いに決まってる!」
ヒヨの周りに水の弾が生成され宙に並ぶ。
「世界は広いのよ。里のためだけにやっても、真に里のためにはならないの」
オトリは瞬く間に霊気を練り上げた。ヒヨが支配していた全ての水から彼女の霊気を追い出し、おのがものに変ずる。
「……私だって旅さえできれば世の中を良くできます! あなたよりも強くなれます! 昨日までは、なんだって上手くやれてたんだから!」
ヒヨは水筒をこちらに突き出す。術は為されず。
「きれいごとを通せるのは何も知らない籠の中の鳥か、圧倒的な力を持つ者だけです」
オトリのものとなった水の弾がヒヨを取り囲んだ。
「撃てるもんなら撃てばいいやん!」
ヒヨが霊気を練り上げた。同時に、空手で弓を構える動作。オトリは咄嗟に飛んだ。
「ほっ!」
ヒヨが発声一発。続いて、先程までオトリが立っていた岩場に刺さる光の矢。
――今のは“音矢ノ術”!!
音の震えを霊気と共に圧縮し、光の矢に変じて撃ち込む破壊の術。
霊気と動作は看破したが、発射から着弾は目に映らず。
「コウヅル様との修行中に偸みました。おねえさまは日誘ノ音は使われへん、ここやったら埴ヤス大地もあかん!」
指摘通り。オトリに音術の才はなく、岩の多いこの地形で無理に土を動かせば山が崩れて川も消えてしまうであろう。
「ほんで、うちのことも殺せへん!」
またも射撃の動作。難なく回避。だが、時差や騙しを織り込まれればまさかもありうる。
矢の狙いも二度とも胴体や頭部ではなかったが、これもまた事故が起こりうる。
無論、いかに光速の術を使われようとも、負けてやる気は毛頭ない。
だが、万が一自身が死すようなことがあれば里は永遠に解放されず、後輩の“こころ”も死に、相方の魂もツクヨミのために潰えるであろう。
「力づくで諦めさせます!」
オトリは大量の水をヒヨへと集めた。ヒヨは水球の中に封じ込まれ、喉を押さえて泡を吐く。
無意識に手加減をしてしまったか、後輩の意地か。水音両方に通じる才が水球を震わせた。音震。姿なき打撃が水球を抜けて飛来する。
オトリは結界で身を護るも、出鱈目に撃たれたその衝撃波が草木や鳥を叩くのを見た。
結界の解除と共に……結界の再展開。無敵の天蓋が光の矢を遮断する。
――迂闊だった!
結界解除の時差を狙われれば隙ができる。反撃に転ずるにはひと工夫必要であろう。
オトリは結界の範囲を広げてヒヨへぶつけて退かせ、その隙に解除と別の術の仕度を行った。
ヒヨは短く跳躍する。慣れていないのが丸分かりの足元のおぼつかなさ。
それでも彼女なりに翻弄しているつもりらしく、ひと跳びの距離や角度はばらばらで、岩を蹴り土を跳ねさせ動き回っている。
「ほっ!」
予想外、跳躍と呼吸の半端な時機に発声。オトリは足がすくみ、再度の結界籠りを強いられる。
結界に矢が弾かれ消える。
オトリは結界の中を駆け、急接近からの解除。
解除からこちらの攻撃までに音術を使うだけの隙はあったはずだが、眼前に迫ったヒヨは声を飲み込んで後ずさった。
――殺したくないのはあなたも同じ。
鳩尾に掌底打ちをお見舞いし、体勢を崩したところでヒヨの沓を掴み持ち上げる。
ヒヨの身体が宙で回転する。墜落の先は硬い岩。すかさず水を繰って下に敷いて衝撃を和らげてやる。
「馬鹿にして!」
ヒヨが手のひらで水を叩く。緩衝用の水にオトリの霊気は少なく、水の制御は奪われ、威力不足の水弾と、霊気の籠った硬い水音がこちらへと飛来した。
オトリは両手のひらを突き出し発気する。霊気それ自体のかたまりが壁となり、水を烈しく散らしてあたりを霧に包んだ。
……そのさい、オトリの姿が音波により揺らいだ。
ヒヨは起き上がり飛び蹴りを試みる。オトリは受けずにかわす。またも揺らぐオトリ。
「ほっ!」
またも音矢ノ術。狙いは顔面。だが、射撃動作込みの露骨な一矢である。
オトリはそれをかわさず、頭部を霧散させた。
「……!」
ヒヨの貌から色が消えた。
玉響、周辺に数人のオトリが現れた。森はいつの間にか濃霧に沈んでいる。木の下、岩の上、水の上……オトリたちが揺らいでいる。
「これは、幻術!? おねえさま、いつの間に月讀ム心を! 里では禁止やったやん!」
「はあ……」
オトリは溜め息をついた。これは水術を使って水気と霊気で自分の像を作り出す技であり、幻術ではない。扱う気も陽だというのにヒヨは勘違いしたようだ。
しかし、声を出すと居場所がばれるので黙る。
立て続けにオトリの頭が散った。
肝が冷える。
意図的に術の精度をばらつかせて看破しやすい偽の像を作っていたが、それにしても容赦がない。
戦闘経験の浅いものへの搦め手はかえって悪手となるか。
「やっぱ、ミナカミ様のおっしゃる通りやったんかいな? 魔に堕ちとった時は殺してもええって。おねえさまは物ノ怪になってもーたんや!!」
ヒヨの涙、それからひとつ震えて鋭い敵意。
誤解。
「待って、私は……!」
――私はなあに? 鬼じゃないの?
嘲りが聞こえた。
その鬼の哄笑は美人の後輩の顔と重なっていた。それは想像に非ず、実像。
「……嘘ぴょん。おねえさま、見ーっけ!」
笑顔と共にこぶし一発。
オトリはもろに頬を打たれて吹き飛んだ。腹立たしさを燃料にこっそりと血操ノ術を使い、抜け飛ぼうとした奥歯を繋ぎ止める。
ゆっくりと流れる景色を見ながら、ヒヨから追撃を仕掛ける気配が無いことを感じ、安堵と共にそのまま地に伏した。
「おねえさま、私の勝ちです。術比べは霊気の量だけじゃないんですよ。顔でも勝ち、腕前でも勝ち、善行でも私のほうが大人気でしたよね!」
勝ち誇った声が聞こえる。
「里に帰って来て下さい。そしたら、そしたらうちはやっと、追い掛けられるんやに……」
「一番になりたいんでしょう? 追い掛けるんじゃなくて、追い抜きなさい。私のことなんて、置いて行きなさい」
オトリは身を起こす。
「知りたくなったんやわー。おねえさまが、里の外の世界で何を見て来たのかを」
――ごめんね、やっぱりあなたには知って欲しくない。
二羽の鳥が交叉する。
オトリの沓がヒヨの腹へとめり込んだ。吹き飛び転がり、起き上がるも腹を押さえ、透き通った体液を吐き出すヒヨ。
「な、なんぞ……」
「自然の水を繰るは探求ノ霊性」
オトリはヒヨの周囲に無数の光り輝く水弾を浮かせる。
それらは蜂の羽音らしき音と共に姿を消し、岩場の地面に無数の巣穴を作り出した。
「ひっ!」
頭を抱え震える後輩。
「他者の水気操るは招命ノ霊性」
「痛いっ!」
水術で無理矢理立ち上がらされたヒヨは霊気の抵抗に悲鳴を上げた。
「何を見て来たのかは一言で語り尽くせない。だけど、見て来た人間が“どう成った”のか……その目に焼き付けてあげます」
オトリは天を指差した。
宙に水気が集まり、特濃の霧……雲のようなものを生成する。
それから後輩の足元へ“邪視”を向ける。
――天地に雷糸結ぶは探求ノ霊性。
発光、爆音。岩が割れ煙が上がる。
全ての鳥が飛び去った。
「い、今のはミナカミ様の術……?」
「……」
雷術は陰陽の気の両方を用いる。
オトリは自身が鬼に成り、陰ノ気の扱いに慣れたことで相方と共同で開発した雷術を単独で行うことが出来るようになっていた。
それは圧倒的な破壊の力で、頼れるものであったが、習得に気付きながらも頑なに使用を拒んできたものでもあった。
――ヒトリ天雷ノ術。
聞かせる相手もなく、名付けた名前を心で反芻する。
「かみなりの術は、陰ノ気がないとできへんって……。おねえさま、流派の約束を破ったんけ?」
「それだけじゃない」
オトリは腰に結わえたミズメの小太刀を抜くと、その鈍い切先で己の親指の先を刺した。
肌に小さく浮かぶ血の玉。
「もしかして……」
オトリは陰ノ気を込めた血玉を次々と引きずり出し、宙へ浮かべる。
「与母ス血液! それも里の禁忌やん……!」
ヒヨは震え、自身の身を掻き抱いた。
「それだけじゃ、ないの」
オトリは陰ノ気を吐き続けた。
周囲の獣や精霊たちが悲鳴を上げ、どこからともなく悪霊が吸い寄せられ、夏場の豊かな川が冬の音をたて始めた。
太陽は高く、雲も少ない空であったが、これは“夜”であった。
――来なさい、私の鬼。それで永遠に、さよなら。
「さ、寒い。オトリおねえさま、恐いよ……!」
怯える後輩を冷めた目で見ながら、己の魂へ招き掛ける。
無意識に額へ伸びる腕に気付き、自身を叱咤して下ろす。
「私はもう帰らない。あなたは帰って……ずっと里に居なさい」
――さあ、早く!
鬼がやって来た。
それから、
――ねえ、私。私ってばミナカミ様とおんなじね?
腹を抱えて笑い転げた。
「……」
鬼はひとしきり笑うと、去っていった。
狂気、静寂、蝉の鳴き声。森が夏の昼下がりに還る。
恐怖の箍が外れたか、後輩は気を失いその場に倒れ伏していた。
オトリは駆け寄り、その美麗な横顔を見つめる。
解け残った川の氷に映るのも、いつもの自分。
「ヒヨ、起きて。あなたを放っておけないじゃない」
抱き起す。
きゅっと袖が引かれる。
気を失ったままの後輩のどこかあどけない掌は、オトリの袖を頑なに握りしめていた。
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