化かし115 後輩
「この霊気は……もしかして!?」
こちらを見た巫女は村民たちに拝まれている最中であった。彼女は小咲の笑顔から大輪の笑顔へと切り替えて駆けて来る。
「やっぱ、オトリおねえさまやん! 独りで心細かったわー。探したんやにー! ……おっと、お邦言葉が出ちゃった」
手を握られ、腕をぶんぶんと振られる。
「ヒヨ、あなたどうして里の外に居るの? 水分の巫女にでもなったの?」
「水分の旅は暫く見合わせるそうです。私はミナカミ様に命じられて、今回の地震の救援に派遣されたんです!」
「抜け出してきたわけじゃないならいいけど……」
――今更、どういう風の吹きまわしかしら?
ミナカミは里外の難事に関しての巫覡の派遣を渋っていた。オトリがツクヨミの件に関わるのも酷く嫌がっていた。
それをいきなり、この水分小町とあだ名される鵯を魔都の周辺に派遣するなど納得できようはずがない。
ヒヨはオトリの二年後輩の巫女で、術力こそは彼女に及ばないものの、巫力は十二分で巫女頭候補の次点であった存在である。
オトリが里を抜けたままの今、現巫女頭の次に惜しい人材のはずであるが……。
「オトリ様、本当に里を抜けてしまわれたんですね。てっきり、ずっとおうちで寝てるだけかと思って信じていませんでした!」
「それは冗談で言ってるの?」
「へへへ、半分冗談やに! だって、本当に一日中寝てらしたことだってあったでしょう? それに、ミナカミ様のお気に入りですし、お母様や伯母様だって……」
オトリはくちびるを噛んだ。
――この子はいつもひとこと余計。悪気があるわけじゃないのは知ってるのだけれど……。
「その話はいいから、私を探していたってどういうこと? ミナカミ様の命じられて連れ戻しに来たの?」
「……いいえ。都の周辺で人助けをすれば、必ず現れるだろうから頼りなさいっておっしゃられました。私は里の近所の村くらいしか行ったことがないので、分からないことや困ることが沢山あるだろうからって!」
またもくちびるを噛む。
――本当にどういうつもりなの。私のことは許さないでこの子には行かせて、しかも私を頼らせようだなんて。
「いつ出てきたの? 何かと戦ったりはした?」
「おねえさま、さっきから恐い顔で訊ねてばかり。ずっこいです。聞きたいことがあるのは私のほうやん! どうして里を出て行ったんですか? 探し回っても全然見つけられないし、里から来てからは術も不安定になってしまうし」
「畿内には大きな結界が張ってあるの。洛中には更に強い結界があるわ。地震でそれが不安定になってるせいよ。それで、何かと戦ったりはしたの?」
「してへん……です! まだこの村のお手伝いをしただけです。でも、悪霊や悪党を見つけたら退治してやりますよ」
オトリは溜め息をつく。
後輩がまだなんの存在を害していないことへの安堵と、ことの面倒さに対して。
矢張り、自分にもまだ強い里心があったようだ。なんとかしてヒヨが俗世の毒に穢される前に里へ帰してやりたいと考えた。
「ヒヨ様ーっ!」
村人が手を振った。ヒヨが振り返すと、彼は笑顔になりどこかへ去った。
「さいこ焼いとったら……お世話をしていたら人気になってしまいました!」
半端なお邦言葉も煩わしい。
「わざわざ言葉を直してるの? 畿内くらいなら私たちの里の言葉でも不自由しないでしょうに」
「だって、なんだか格好悪いじゃないですか」
悪びれずに言う。オトリもかつてそうであった。外の言葉遣いに憧れたものだ。
水分の任が決まってから出立するまでの短い期間に、発音や言葉の選択をそれに合わせるのには苦労をした。
国を跨ぐ者は言葉が通じやすいように、お邦言葉を薄めて話すように心がけることが多い。あまりに僻地であると、それでもお互いに言葉の意味が分からなかったり、取り違えたりすることもしばしばであるが。
「私、おねえさまに憧れてるんですよ。前に里へ帰って来てらした時にはすっかり綺麗な言葉遣いになっていらっしゃいましたし。霊気も随分と高くなっていらっしゃいましたし、物ノ怪まで子分にして連れて来ちゃうし!」
「あのひとは子分じゃなくてお友達。それに、私の命の恩人よ」
「ふーん。ま、物ノ怪は物ノ怪ですよ。で、その人はどこに?」
ヒヨはあたりを見回す。
「別行動中よ。それよりあなた、まだ帰る気はないんでしょう? 」
「勿論ですよ!」
「じゃあ、私と一緒に人助けをして行きましょう。初めてだと困ることが色々あるでしょうし」
「そのつもりですよ。ちょっと験してみたぶんには、めっさ楽ちんに思えましたけど」
ヒヨは先ほどまで群がっていた村民たちを振り返る。
彼らはまだこちらを見ている。ヒヨは笑顔を見せ、手を振った。老若男女問わずに感嘆の声が上がる。
「……まあ、やってゆけば分かるでしょう」
ふたり揃って並んでいるはずだが、オトリは村民からの視線を感じなかった。
「愉しみだなーっ。おねえさまと善行! おねえさまが水分の任で学んだこと、たっぷり教えて下さいね」
後輩はこちらを見てにこりと笑った。
さて、この“本物の”水分小町のヒヨであるが、どうやら碌に旅の教えを受けずに出てきたらしく、何度もオトリに肝を潰させた。
こういったご時世でも、男の本性というものは素直で、助けられたついでに言い寄ったり、“下”も助けてもらおうとすることはざらである。
中には、騙して連れて行こうとする者もあり、オトリは後輩の虫よけに注力しなければならなかった。
都の女どもも逞しく、霊験のある巫女と見抜くや否や、ヒヨに呪いの依頼や、寄ってくる生霊の祓えなどを要求してきた。
隠れ里の巫女は対抗するために呪術を学ぶものの、行使は禁じられている。
生霊は無闇に祓うと送り主の魂が削れる上に、送った当人は無自覚であるという事例も珍しくない。祓えでなく話し合いで解決すべき案件である。
しかし、この後輩は「呪術って一度やってみたかったんですよ。ミナカミ様の見てない里の外でなら平気ですよね?」だとか、「生霊と悪霊の違いってなんですか? 祓っちゃいましょうよ」などと宣う。
もっと悪いのは本人の気性。
人助け自体には積極的であり、清めの類はしっかりとこなせていたが、里で見かけない不具の者へ一瞬だが霊気を棘立たせたり、すでに完治した疱瘡の患者の痘痕の肌へ触れるのを躊躇したりした。
オトリも旅立ってすぐは己の知見の狭さに難儀したが、改めて閉鎖された故郷の巫覡の経験不足を痛感した。
ヒヨはほぼまっすぐにオトリと出くわすことができていたが、少し踏み違えていれば自身や母よりもつらい運命を辿っていた可能性も想像に難くない。
オトリは一層、ミナカミや守護神に対しての不満を募らせた。
それから、もうひとつの不満。
――なんで、この子にばっかり頼むのかしら?
同じ衣をした巫女がふたり並んで、人々が声を掛けるのは決まってヒヨのほうであった。
「なあなあ、巫女さん。わい、怪我してもうてん。ちょっと、看てくれんか」
鼻の下を伸ばした男である。
――分かってはいたけれど……。
オトリは決して自分が“ぶさいく”だとは思っていない。
顔の作りは「美女かと訊かれれば微妙かもしれない可能性も無きにしも非ずかなあ」と考えているが、狸ではなくちゃんとした人間の目鼻口がくっ付いているし、都の女のように化粧をしていないのは己の職の流儀であるためで、田舎くさいというよりは“神聖なるかほり”であるというべきだと思う。
男関連だけなら、八千歩譲ってよしとしよう。
他の巫行においても、まず最初に声が掛かるのはヒヨのほうなのである。
オトリには免許状もあり、知名度や実績、実力で上回るのに加え、安倍晴明や蘆屋道満、東北の天狗娘などの著名人の知り合いという付加価値もあり、自身ももちろん善行者としての顔が知られている場合もあるというのにだ。
実際のところ、オトリでもヒヨでも同じように解決ができてしまうのだから、助けられるほうにとっては多少の実力の差や知名度などどうでも良いのだろう。“ぱっと見”で決めているのだ。
――我慢、我慢。
ここは先輩として快く袂を開き、若輩者を教える立場に徹しようではないか。私は添え物で充分。ああ、腹立たしい。
オトリは明白な嫉妬をなんとか思い消し、巫行を続けるも、俗人たちはヒヨ、ヒヨ、ヒヨ、ヒヨのピーヨピヨである。
美人の巫女さん、ちょっと良いですか。あなたがかの有名なオトリさんですか。あら、その後輩さんでしたか、てっきりこちらがそうかと……。
――あかんあかん、鬼がでそうやわー。
あえてお邦言葉で自制を促し、額をこぶしで叩く。
先程は、同じく霊験があるであろう同業者にまでヒヨびいきをされて、角の先っちょが出掛かった気がした。結界外であれば鬼であることが発覚してしまうところである。
「にへへ、人助けって愉しいもんやにー」
こちらも素が出ている。ヒヨは人とのやり取りを繰り返すうちに、面倒になってお邦言葉を正さないことも増えていた。
しかし、その少々芋くさい話しかたは、人々にはかえって魅力として映ったようであった。
――散々だわ。どうして私ばっかり……。
目立とうと思ってやっているわけではない。人に好かれるためにやっているわけではない。
自身が助けたいから助けているのだ。それでも、頑張ったぶんは褒めてもらいたいし、感謝の気持ちは何ものにも代えがたい報酬である。
手柄をことごとく後輩に奪われ続けたオトリは、しょんぼりとした。
災難はまだ続く。
被災地の救済が一日程度で終わるはずはない。オトリは仲間に頼んでヒヨのぶんの寝床を確保してやった。
そこでも差が付けられたのだ。
あの真面目なミヨシは十六足らずの小娘に色目を使って悪霊の妻に祟られたし、乳好きな神童はふたりを見比べて素直な感想を述べてまたもオトリを傷付けたし、玉無し野郎であるはずのヒサギまでもがヒヨの美貌と爛漫な性格に頬を染めたのである。
オトリは邪念を打ち消すために、トウネンに頼んで読めもしない経を粛々と写したのであった。
当の怨みのもとは「おねえさま、漢字も書かれるんですか? すごーい!」などとほざいた。
……それでも、オトリはヒヨを突き放すことはしなかった。
ふたりが畿内を駆け巡るようになってから数日、初めての新月の晩のことである。
新月。月は生きとし生けるものの“本性”に働き掛ける。獣の獰猛さ、物ノ怪の害意、術師達の霊力。
単純な悪霊や物ノ怪は満月の晩に活発化するのがつねであるが、知性を備えた鬼や呪術師、光を嫌う人間の悪人は敢えて月の無い夜を選んで活動する。
オトリは、これまではそういった存在の現れそうな場所を敢えて避けてヒヨを教えていた。
それは“本番”に差し掛かる前に後輩の腕前や現在の性格を把握しておくためと、不安定な結界下での活動に彼女を慣らすためであった。
――そろそろ潮時ね。
オトリはヒヨを連れて、噂も悲鳴も聞こえぬ都の一条大路の東側へと来た。
都の心臓部である内裏の裏側。この近隣は特に結界の歪みを強く感じていた。
――私が鬼として都を陥落させに訪れるなら、ここから入る。
「オトリおねえさま、何も居ませんけど。よそを探したほうが良くないですか? 月も出てないので物ノ怪や悪霊より、泥棒が心配ですよ」
「来た……」
鬼の気配。鬼は隠密の名手である。結界は霊力を弱めるが、その存在を隠すのを手伝う。洛中にある大きな寺に鬼が潜んでいても気付かれないほどに厄介。
しかし、練磨された霊感と経験、そして鬼に足を踏み入れた魂を研ぎ澄ませれば、看破は容易かった。
「お、鬼やん!!」
ヒヨが悲鳴交じりに声を上げる。
城壁を越えて現れたのは露骨な魔物であった。小屋ほどの大きさで、手足の代わりに鋭い爪があり、顔は醜く角は雄牛。
典型的な物ノ怪であり、鬼の代表格。牛鬼であった。
牛の名を頂くものの、元は何の化生かも不明で、言語も通じぬ相手。
だが鳥獣のように一種を構成する種族なのか、同じ容姿のものが何匹も存在しており、オトリも複数回これを退治した経験があった。
「これは牛鬼よ。海岸でよく見る物ノ怪のはずだけど、今の都なら何が出ても不思議じゃないわ。人喰いで毒吐きの悪鬼よ。ヒヨ、退治してみなさい」
「独りでですか!?」
「そうよ。あなたの術力なら雑魚のはず。私が初めて遭遇したときは少し苦戦したけど……」
あまり認めたくなかった。以前のヒヨは術力において、旅立つ前のオトリにそれなりの引けを取っていた。
だが、先日邂逅したさいにはすでに、オトリが水分の任で旅立った時と同等か、それ以上の霊気を感じさせていた。
この数日では些細な悪霊や小悪党の退治しか行っていないゆえ、更に実力を伸ばしているとは考えられないが、指導のもとであれば牛鬼はちょうど良い程度の存在と言えよう。
「おねえさまが苦戦した……。よおし、やってみます!」
壁を半壊させながら侵入してきた牛鬼はこちらを見比べ、人と同じ理由か霊気を読んだか、ヒヨのほうへと顔を向けた。
ヒヨは身体に霊気を漲らせ、祓え玉を作って、鬼へとぶつけた。
鬼は陰ノ気と不気味な悲鳴を散らしてのけぞった。
「嘘、あんまり効いてない!?」
動揺するヒヨ。
「教えておいたでしょう? 肉のある鬼には祓え玉はあまり効果がないの。先に自然術や打撃で傷を負わせてから祓いなさい」
指導しつつも、少しだけほくそ笑む。
霊気の量と祓えの効能は同一ではない。祓えは気の質の清らかさで威力を増す。オトリの祓え玉は出立当初でも牛鬼の肉を削げたし、今ならば魂も残さず消滅させることが可能である。
「よし、じゃあ水術の大力で!」
ヒヨは霊気を練り上げる。調和ノ霊性は悪くないように思えた。後輩は大跳躍を披露する。
化け物は測るようにやや後退して、口からなんぞ吐き掛けて迎え撃った。
「危ない!」
オトリは即座に吐き出された物体へ気を送り込み、軌道を逸らした。
鬼の体液。水気があるとはいえ、陰ノ気のかたまりで霊的に非常に重いそれ。
逸らしは不充分だったようで、ヒヨの頬を掠めて地面へと落ちた。焼け石に水を掛けたような音と共に地面が泡立った。
「か、顔が!」
ヒヨは着地をするなり後退し、目に涙を浮かべながら自身の頬を押さえた。
「毒の傷の治療は急ぎ過ぎないで。まずは毒を肉から除いてから治癒を促すの。焦ったら痕が残るわよ!」
警告。単騎でやらせる気でいたが、オトリは飛来する二発目の毒液を守護神の結界で遮断してやった。
「ちゃんと治ってますか?」
血の気のすっかり引いた後輩の顔。だが施術は確かだったようで、その美貌に欠けはない。
「大丈夫よ。私の指導不足だったわ。ごめんなさい」
後輩の玉肌を撫ぜてやりながら、魂のどこかでの舌打ちを聞く。
「許さへん! 物ノ怪ってやっぱ碌なもんやないやん!」
練り上げられる後輩の陽ノ気。
ヒヨは懐から竹の水筒を取り出すと、それを牛鬼へと向けた。
鋭き水の槍が伸び、鬼を串刺しにする。
「やった!」
若き蕾が笑顔の花を咲かせる。
「気を散らすのはまだ早い。鬼は普通の生物なら死ぬような傷でも、陰ノ気が残ってる限りは再生するのよ!」
再び警告をする。
「はいっ!」
両手を重ね合わせて鬼へ向け、白き袖と黒髪を揺らすヒヨ。
即座に光の波動が鬼を包み込んだ。
「なーんが苦戦や。やっぱ楽勝やに」
口元が嗤う。
「お疲れ様。とりあえずは一匹退治ね。余程に差がある相手でない限りは、先に大きく動かないこと。まずは相手の攻撃方法を見抜くことから始めなきゃ駄目よ」
「はーい。ところで、私の顔、本当に綺麗に治ってますか?」
訊ねられる。祓え玉で照らして細部まで確認してやるが、問題ないように思える。
「だんないわ。都の貴人も裸足で逃げ出しそうよ」
「本当ですか?」
疑いの声は不安というよりは、どこか嘲りのようなものが混じっているように感じた。
「本当よ。それより、次」
すでに気配は読んでいた。この戦いの様子を窺っている存在はひとつやふたつではない。
悪鬼悪霊どもも、己独りで都が落とせると考えてなどいない。だが出自の違う魔物同士で徒党を組むほどの信頼はない。
新月を選ぶ連中は狡猾であるからして、多くは敵と競合相手が潰し合うのを静かに待つ。
「ひひひ! 我は伊邪那美様より洛中を母なる炎で舐め尽くせとの命を受け参じた、寿美産巣日比売! 我が世燃ス焔と結ノ炎、二色の炎によりその身を灰と帰すがよい! 覚悟せいよ、巫女どもよおっ!」
聞き慣れた口上。壁を飛び越えてやって来たのは髪を振り乱した老婆。右手に赤の炎、左手に紫の炎を分けて宿している。
これは黄泉國からの尖兵、醜女である。
下手な人間の術師よりも術力は遥かに高いが、相性の都合上、炎の醜女は水分の巫女の餌食となろう。
「うわっ! ぶさいくなおばあやんやな! それっ!」
ヒヨは霊気を込めた水筒を突き出した。飛び出す水の聖槍。
「甘いわっ!」
老婆はヒヨが水筒を出すと同時に横へ飛んで突きを回避した。
そのさいに手にしていた火の玉をヒヨに向かって投げ付ける。
「あかんわ、水が足りへんっ!」
ヒヨは咄嗟に二本目の水筒の水で身を護るも、醜女の炎がそれを蒸発させた。
「水気は散らされる前提ですぐに集めなさい。熱が生む風も考慮して」
「言うても……きゃあっ!!」
更に炎の連弾がヒヨを襲った。
結界術での防御で致命傷は防げたようだが、発動が少し遅く、袖は黒焦げで腕も押さえている。
「火傷の治療は水気と再生を促す速度に気をつけて、水気が足りないと肌の引きつりが残るし、送る霊気が強過ぎると肉が盛り上がって残ってしまうから」
「いやっ、なっとしよう!? めっさ痛いやん! こんな火傷したことあらへん!!」
ヒヨは頬を赤くし瞳を潤ませ、髪を振って取り乱す。その髪の先もまた、大きく縮れてしまっている。
「私が治す。あなたは結界を維持していて」
オトリは後輩の腕を取り、優しく霊気を送り込む。
「い、痛い」
――混乱して気が抵抗してる。
「気を張らないの。他者の治療の基本でしょう」
「い、痛いよう」
宥めるも痛がり続けるヒヨ。
痛まぬように治療してやることも不可能ではない。だが、火傷の痕が残らぬように癒すのとの両立はできない。
オトリは酷だとは思いながらも、痛みの訴えを無視して治療を行った。
結界の外で騒ぐ醜女と、己の中の鬼が薄汚い言葉を吐いているのを聞いた。
「痛い言うてるやん! わざとやっとー!?」
治療が終わった瞬間、腕が振り払われた。意図したか偶然か、ヒヨの手の甲がオトリの頬を叩く。
「ヒヨの綺麗な手に痕が残らないようにしてあげたかったの。でも、あなたが気を受け入れてくれないから……」
オトリの鬼は嗤った。だが、言葉は本心からである。いくら羨む美貌の持ち主であろうと、醜くなるのを望むのはいやだった。
鬼も嗤ったのは、別の事実に対してである。
「きいい! この結界、なんて頑丈なんじゃあ!」
老婆が爪を立てて叫んでいる。
ヒヨは身内の注意に従えぬほどの混乱を見せていたはずが、光の天蓋はしっかりと維持し続けていたのである。
「おねえさま、うちのこと、うっとい思うとるやろ? だって、ぶさいくやし……ずっと妬んでたん、知っとーよ」
その言葉を吐く貌は台無しといえた。
――わざと抵抗してたのね。
オトリは心が少し冷えた。ほんの少しだけ。
それよりも、目の前にいる綺麗な娘が、自分に思えた。
水の膜で鏡を作るさい、曲面の描きかた次第では逆さに映ることがある。
まるでそれで覗き込んだような気分であった。
「返事せーへんし、図星やんな! うちの腕かて適当に治したに決まって……」
ヒヨが自身の腕を確かめた瞬間、光の天蓋が点滅し、消えた。
「む、破れたか? なんにせよ好機!」
醜女が炎の大蛇を作り出す。
オトリは軽く袖を振り上げて醜女を両断した。穢き断末魔が響く。残った執念の炎がこちらに飛び掛かって来る。
オトリはあえてかわさなかった。炎の蛇は衝突する前に消滅したが、僅かに大切な髪を焦がした。
「髪や衣は水術では治せないから、気をつけてね。初めから火術の使い手だと分かってる時は、気を通した霧や水の膜で保護すると良いわ」
淡々と助言を続ける。壁の向こうにはまだ蠢く気配があった。
「……ごめんなさい」
ヒヨは傷痕一つない腕をさすりながらこうべを垂れた。
「身体や霊気が持っても心が持たないこともあるから。今日はもう休みなさい」
「平気です。まだやらせて下さい!」
「霊気が乱れてる。霊性の調律ができないなら足手まといよ」
「できます! ほらっ、そこに気配!!」
ヒヨは水筒を突き出し、壁のそばの蔭を貫いた。
すると、男の苦悶の声が上がった。
膝をつき腹を押さえた黒装束姿の人間が現れる。
「ヒヨ! 正体を確かめないで術を向けるのは駄目だって教えたでしょう!?」
「でも、この人、霊気を隠してこそこそしてたし……」
オトリは男に近付く。
「あなたは何者?」
「知らずに撃ったか。わしは南都のある御方に雇われたつまらぬ僧だ。奈良に取り残された積年の遺恨を果たすため、寺へ火を放つつもりで忍び込んだ。霊気は隠しきったと思っておったが……」
オトリは男の衣を剥いだ。
腹に穴が開いていたが、それよりも目を引くものがあった。全身に経文が書かれており、その部分は気配が感じられなかった。
「癒します。気を許して、大丈夫だから」
血でぬめる傷を撫で、男の額に己の額を優しく合わせる。男の苦しげな呼吸のにおいは不快であったが思い消す。
まずは弱く霊気を通し、これは治療だと相手の霊感に納得をさせ、徐々にその気を高めてゆく。
「なっとして癒すんですか!? お寺に火を放つって言っとーよ!?」
「それは都と遷都で取り残された人との問題だから。でも、どのお寺にしたって、純粋な気持ちで精進や施しをなさってるかたはきっといるはず。あなたの行いは許されるものではありません」
オトリは男の腹から手を離す。
「き、傷が癒えた。そなたは噂の水術師か」
「一つ問います。あなたが狙った寺はどの寺ですか?」
「……西寺だ」
「南京極寄り……ですね。どうしてわざわざ北から?」
「物ノ怪どもの気配があったから、少し退治すべきかと引き寄せられただけだ」
オトリは息をついた。
「お行きなさい。小競り合いをなさるのなら、私の居ない時にして。もしも私の目の前で罪なき人も苦しめるような行いをした場合は、遠慮なく討ちます」
「……肝に命じておこう」
男は衣をまとうと一礼し、闇の中へと消えて行った。
「なっとして見逃したんですか。今の僧侶は悪もんやったやん」
「都には都の、南都には南都の言いぶんがあるの。お寺の宗派の事情も絡んでいたみたいだし、私はどちらの正義に加担する気もない」
「でも、ほっといたらまた火を放つかもしれへん。治してやらんほうが良かったんとちゃうん?」
「放っておいたらあの男は死んだ。彼は言い分が違うだけのただの人間。あなたが彼に怪我を負わせたの。死んでしまえば、あなたが殺したということなのよ?」
「で、でもあの人やって、他の僧侶殺すかも知れへんやん……」
「彼にも家族がいるかもしれない。言い分を共にする仲間だって。良く調べれば都側のほうが悪いってこともあり得る。何も分からないうちに無関係の人間が断を下すということが、どれほど危険なことかを分かっていない。同じようなことが、善良な村人のあいだでも起こっていたり、人と物ノ怪のあいだで起こっていることだってあるの。里の外に出て善行をするということは、そういう世界に足を踏み入れるということなのよ!」
「だって、ミナカミ様が行けって……」
――……っ!
オトリは右足を強く踏み鳴らし、周囲の屋敷の池の水を持ち上げた。同時に強烈で清廉な霊気を練り上げて周囲の全ての存在を威嚇した。
人間の悪辣な舌打ち、狐狸の悲鳴や悪霊の燃え尽きる音が一斉に耳へ届く。
そして、妖しげな気配たちは散り、静寂。
「ヒヨ。あなたは明日、里に帰りなさい」
オトリがそう言うと、後輩は静かに泣き始めた。
*****




