化かし113 雨宿
現実は厳しい。器や屋根を借りるためには返礼の善行が必要不可欠である。
オトリは己の術の才を己のためだけに使い、人と関わらずに畿内へ帰るのを試みたが、知人の住まいに辿り着く前にどうしても人里に立ち寄りたくなった。
ここ数日間、身を委ねられるような川に恵まれず、胃袋の喜ぶ獣にも恵まれず、手持ちの保存食も尽きてしまっていた。
乱れた髪と垢の浮いた肌も、知人に会うつもりであるし許しておくべきではないだろう。
鬼が引っ込み、巫女も怠けているただの小娘ならば、この渇望は当然と言えよう。
曇り空。葉に露浮き、晴れ待ちて時を潰ゆる梅雨どき。
この季節は水術師にとっては稼ぎどきといえた。領分である湿気由来の困りごとには事欠かない。
水術の無闇な披露を許すのなら、雨天時の物ノ怪退治や術比べもほとんど無敵である。
――このあたりが狙い目ね。だけど用心しなくっちゃ。
オトリは難事の溜まりがちな僻地の山村を選んだ。駅路から離れているため、外界との付き合いが薄く、旅人は警戒されやすい。
人と関わらぬようにして数日程度ではあったが、人里へ近づいていると意識するだけで鼓動や呼吸が早くなった。
村のそばの木立で立ち止まり、村民たちの暮らしぶりを「はあはあ」言いながら覗き込み、そのまま足を踏み出せずにいた。
「どうしたん? 若い巫女様やね。何か困ってはるん?」
背後から急に声を掛けられ、肩を跳ねさせる。
不審がらせてしまったかと慌てるも、声を掛けてきたのは竹の網籠を持った若い女であった。
――大丈夫、若い女性のかたなら恐るるに足らずね。
「雨に濡れたら風邪ひくかんなあ。うちにいらっしゃいな」
本来ならば神社もない地に若い巫女姿の女がうろついていれば、狐狸か詐欺師か売笑かを疑うものであるが間無しの招きである。
――さては、住まいには男が詰めているのね。入ったら身ぐるみを剥がされるのよ。
「あの、雨の中で何をしていらしたんですか?」
「雨は好きやないんやけどね、蕨や銭巻きがようさん取れるから助かるわあ」
籠の中身を見せてくる。山菜がたっぷりだ。どうやら単なる山女らしい。
オトリはこの村に入ることは決めていたので、とりあえず勧めに従うことにした。
女が帰宅し持ち帰った山菜を降ろすと、子供たちがそれに群がり覗き込んだ。
「食べられへんよ。干して灰汁抜かんと。お天道さんが居はらへんからまだ先やで」
「おとんはまだ帰ってこんのー?」
「今日は向こうさんまで行っとるからなあ。梟が鳴くころやなあ」
――なんて無防備なのかしら。
オトリは閉口した。女子供だけの小屋に不審者を招くなど考えられないことである。
「あっ、客人さんや」
子供たちは声を上げると、揃って手を合わせた。母親もまた「ありがたいもんやね」と追従する。
“客人”。あるいは稀人。来訪者を指す言葉。
こういった呼びかたをして、客を神仏のように大切に扱う村には裏があるものだ。
――大丈夫。施しを貰って、少しお手伝いをして、何かあったら逃げればいい。
オトリは自身に言い聞かせ、普段通りに仕事をこなすことにした。
しかし、村の難事は「以前来た僧侶が解決してくれた」らしく、オトリは「ただ持て成されていればいい」と女に言われた。
――客人を大切にする習わし、か。
伝承が事実と歪められていることも多々ある。
“救い”とは動的に誰かが手を貸してやることで起こるばかりではない。
貧困にあえぐ者ならば、“富が移動する”だけで幸せになれるものだ。
招かれて入った旅人が“出てこない”、“知らぬ間に帰ってしまった”などということは珍しくもなんともない。
「神の使いか仏の化身か。不思議なことに気付けば居なくなっていたんです。そして遺されていたのは金目の物でして……」とこういう次第。
ありがたい旅人の“御利益”で暮らしが楽になり救済されるというわけだ。
オトリは銭こそは碌に持っていなかったが、手持ちの薬は確かな品であるし、まとう衣は汚れひとつない美品で、袴も見事に染まった緋色。
長い黒髪も鬘を作るのにうってつけであろう。ミズメの小太刀も刃物としてはいまいちだが、美術的な価値は高い。
けだし、女が無理筋にも自身の住まいへ招いたのは、これらをよそに盗られんとしたためであろう。狼に衣とはよく言ったものである。
オトリは根はお人好しであるが、捨身の月兎には及ばない。同じく己を神の供物とする巫女業も現在は怠けがちである。
愉しげに客人をもてなす親子に調子を合わせながら、いずれ帰って来るであろう男の態度を測ることばかり考えていた。
「おめえ、ありがたい巫女様を招いたのか。これはご加護があることやなあ」
男は妻を褒め、そしてオトリを拝んだ。
――本番は夜ね。
オトリは出された食事をおかわりしながら警戒感を高める。
その夜は満腹と疲労と緊張との戦いであった。夜すがら瞼を閉じながらも寝ないというのは名うて術師との戦いよりも厳しいものだ。
……が何も起こらなかった。きっと自分が寝ずの警戒をしているのに勘付いたのであろう。
「あらあ。巫女様、顔色が悪いなあ。もっと休んでいかはったらどう?」
「ありがとうございます。では、もう少しだけ……」
オトリは一応は再寝を装うも警戒をし続けた。小屋から人が出払ったら逃げてしまおう。今度は集団で来られる可能性が高い。
だが、とうとう疲労が緊張を追い越したらしく、ついうっかり眠ってしまった。
そして目を醒ましてみれば、矢張りオトリは全力疾走で逃げ出さねばならなかった。
……村人からではなく、盛大な勘違いの恥ずかしさから、であるが。
「おはようさん」
目覚めてすぐに目に入ったのは、女の柔和な笑顔である。男は山仕事に出たらしく、小屋の外では子供たちのはしゃぎ声が聞こえた。
「巫女様、髪の毛綺麗やのに、こんな乱れてはって。凡夫の櫛で悪いんやけど、梳かさせてくれへん?」
オトリが女の真意を悟ったのはこの申し出からであった。
相方の梳かしかたは相方よりも上手ではなかったが、気持ちの良いものであった。
女の赤子を扱うかのごとくの手つきと、時折に聞こえてくる羨望の溜め息や魂の震えも心地良い。
この櫛は彼女の夫が夫婦の契りのさいに渡してくれた思い出の品だという挿話は、オトリにも溜め息をつかせた。
だが、勘違いの恥ずかしさで尻がむずがゆくて仕方がなかった。
「巫女様、御居処を動かしてはるけど、うちには樋箱はあらへんし、裏の草むらでして貰わんと」
「あ、いえ。そういうわけでは。でも、少し外に出て村に困りごとがないか聞いて来ますね」
「やっぱりありがたい巫女様やねえ」
知らぬうちに村で話題に上っていたようで、他の村民にも拝まれた。
一応は手助けを申し出てみるものの、先の僧侶の難事解決とやらは事実だったらしく、残されていた仕事は年寄りの話し相手が関の山であった。
それも、作り過ぎた食事を持たされてどっちが施されているのか分からぬ始末。
ただ善意で持て成しただけ。
村は人並みの陽ノ気で溢れており、先に善行をした旅の僧侶の話もつい最近のことで、彼もまた無事に旅路に戻ったという。
オトリは村を出るなり火照った顔を覆って、水術の早駆けをもって遁走した。
――やだ、恥ずかしい。本当に親切にしてくれてたのに。
非常に勿体ないことをしたと後悔する。あれだけの親切を頭から信じて受けたら、どれほどの癒しになったか分からない。
自分はすっかり心がさもしくなってしまったらしいと凹んでしまう。
親切を反芻すれば、その身に鬼が這い寄る心配もないが、痴態を振り切るためにはとりあえず悲鳴を上げて走るしかなかった。
「もーーっ、恥ずかしーーっ!」
そうこうしているうちに、また小雨が降り始めた。
髪を梳いて貰ったばかりなので、水術で雨粒を避けてしまおうかと考えたが、幽かに優しげな神威を感じる慈雨であったために無礼に思えて、ごく普通の雨宿りを考えた。
草葉を潤す程度の雨ならば、雨神の和魂に違いない。これ以上、空回りの裏切りをすることとなれば、オトリは狸のごとく穴に籠ることになる。
「はあ……」
溜め息。これもまた神の思し召しか、雨宿りを思案した直後に古びた祠を発見していた。
それも祠にありがちな小さなものではなく、屋根を借りれば雨を凌げるほどに立派なものであった。
オトリは一礼をして祠に寄り添い膝を抱えた。
「恥ずかしかったな。また失敗……」
これを取り上げて後ろ向きになるのが彼女の気質である。そうやってこれまでを過ごしてきた。
――だけど、あのひとなら良いほうに考えようとするだろうな。
楽観的な相方を思い浮かべる。
些事への心配や、失敗へ杞憂することとは無縁な性分。昨日今日のできことはじつに幸せだったじゃないか。
これから向かうは気の知れた仲間の住まう地だ。彼女に倣い、愉しみにできることを思い浮かべてみよう。
三善文行の妻は識神であり、“元悪霊”だそうだ。その認識をもって改めてふたりの関係を見ると面白いのではないか。
桃念和尚に弟子入りしたヒサギ少年はどうしているだろうか。剃髪をして和尚とお揃いのつるつるになっていたらちょっと面白いかもしれない。いや、失礼か。
稲荷山ではもう“削り氷”を出しているだろうか。稲荷の狐娘と並んで甘いものを愉しむのはきっと幸せなひとときであろう。
「な、なななななんと! そちはオトリではないか!?」
そういえば油小路針麿なる貴人も知人といえば知人である。
彼は面倒な人物であるが、考えてみれば自分に大きな好意を向けてくれる人でもある。お食事程度なら一度くらい付き合ってやっても……。
「やんごとなき偶然。これが御神の導きというものであろうか。麿は驚きのあまり腰が抜けそうになったぞよ」
顔を上げれば白粉に眉引き、紅を入れたおちょぼ口があった。彼は貴人らしく雨よけの笠を身に着けている。
「ハ、ハリマロさん……」
矢張り愛の猛攻が来るのだろうかと、胎の底でこっそりと霊気を練り上げる。
だが、出方次第では相手をしてやってもいいだろう。
「オトリはなにゆえ、このようなところに独りで?」
「雨宿りです。ハリマロさんは?」
深くは話さない。
「麿は各地の祠やお堂を回っておっての。巡礼は終わっておらぬし、ある御方を待たせておるゆえに、名残惜しいがこれにて失礼させて頂くでおじゃるよ」
意外な返答であった。
飽きられてしまったのであろうか。他に相手ができたか。それとも、ミズメのほうだけに御執心だったか。
見えぬ相方へのほんの少しの対抗心。
色事師の駆け引きの可能性もよぎったが、オトリは立ち上がり、礼拝を終えて背を向けるハリマロに声を掛けてしまった。
「ハリマロさん!」
「なんぞよ?」
「……」
呼び止めるも言葉が浮かばない。
ハリマロは察したのか、口に袖して笑った。
「今のそちは追う気にはなれぬのう。ふたり揃ってから、改めて追い掛けさせてもらうぞよ」
貴人はそう言うと立ち去っていった。
彼の魂は非常に穏やかに見えた。貴女を真似るような行き過ぎた所作や、みやびさを欠くほどの好色家だったはずが、巡礼者に相応しい気配を醸していた。
嬉しい変化であるはずが、オトリはどこか自分だけが置き去りにされた気持ちになった。
これから会う友人たちもまた、変わってしまうのだろうか。
――私は……私も変わっちゃったのかな。
再び膝を抱えるオトリ。祠を囲う鎮守の森が静かな雨音を謡う。
「オトリ様」
若い男の声がした。
見上げれば剃髪の僧侶が居た。年のほどは二十くらいであろうか、装いが違えば美男だと疑いようもないほどに顔立ちが整っている。
気配も陽であったが、魂を探れば神仏に近く、どこか底知れなさを感じた。
「あなたは?」
立ち上がるオトリ。これだけの聖に接近されるまで気付かなかった。
「楽になさって下さい。私はつまらない旅の僧侶ですよ」
彼は手を合わせ拝んだ。その袖の動きから連想されたのは、僧侶というよりは貴人であった。
「何か私に御用事でしょうか?」
「私ではなく、祖霊が話をしたいと」
「祖霊……。あなたの御先祖様ですか?」
「まあ、そうなるらしいです。先程、旅の連れ合いにあなたの話を聞いたのですが、御神が興味を示しまして、助言をしたいと宣っているのです」
「それはありがたい話です。是非とも、拝聴させて頂きます」
心は神からは離れがちであったが、善意には寄り添いたい。オトリはとりあえず手を合わせて申し出を受けた。
玉響、湿った緑に支配されていたはずの鼻腔が、墨の香りを感じ取った。
頬にまとわりつくような水気の多い空気も、身が引き締まるような神気へと変じた。
――かなりの存在だ。
「うんうん。上から見るより、人の姿で会うのが一番だね」
“僧侶”は口調を変えると綺麗に剃られた頭を撫でた。
「でも、髪がないのは好かないなあ。神だけにね」
神はなんぞ宣った。その声は、天まで届きそうなほどに透き通った男の美声であった。
「……」
オトリは警戒心を高めた。感じるのは無論、敵意や邪気ではない。
だが、この行き過ぎた神聖さと奔放な態度から連想されたのは“天津神”であったのだ。
古流派の神には大きく分けて二つの種類がある。
一つは覡國、この世や日ノ本と呼ばれる地に住まう国津神。
小さな事象や土地を佑わい、己の領分ために神威を発揮する存在。多くの山祇や海神、里の守護神や小さな道祖神などがこれに属する。
もうひとつは神の国である高天國に居を置く天津神。多くの事象を支配する大神であるが、“存在そのものが事象そのもの”ともいえるために、己の行い自体を存在の目的とし全てとする。
要するに自分勝手であり、彼らの興味で周囲が振り回される“お約束”をもつ。月讀命や天照大神、伊邪那美もこれに属する。記憶に新しいところでは、禍津神の行いもこれに該当する。
「あれ? 笑わないな。今のは受けると思ったんだけど」
“僧侶”は苦笑した。
「ご助言を頂けるとのことですが」
「う、あまり好かれてない? 言葉に棘があるよ」
「天津の御神様でいらっしゃるのでしょう? 無礼かとは存じますが、私にはこれ以上の難事は抱えられません」
気配に対して神気は大したことはない。武力や形ある物を祀る神ではないようだ。
曖昧な存在に諫言をされるかと思うと、オトリは無性に腹が立ってきた。
「はっきり言うんだね。オトリちゃんは、あの子とは正反対だね」
神が独りごちる。一瞬、ギンレイを想起させたが、巫女の霊感はそれを否定した。
「……神様には苦労させられていますから。上から見ていらしたのなら、今の日ノ本の状況をご存知でいらっしゃるのでしょう?」
「うん、知ってる。でも僕には関係ないよ。僕への信仰は文字が流行り出してから安泰だし。神が居ようとも居なくとも祝詞を上げてくれるし、最近は出世を頼む人も増えてきたからね。僕としては今の世の中ほうが都合が良いくらいだ」
――やっぱり勝手な神様。
「姉弟喧嘩や夫婦喧嘩も結構だけど、僕として我慢がならないことがひとつ。君みたいな女の子が苦労しているのを見ることだ」
“僧侶”は、にこりと微笑む。
「おいやなら見なければ宜しいでしょう。それとも、口説いていらっしゃるんですか? あなたが神代になさっているかたは徳の高い聖なんですよ」
「モロサダ君はまあ、聖といえば聖だけど……」
「お誘いなら辞退させて頂きます。里からは離れていますが、私にも一応は仕える神が居ますから」
「う、うん。あの子から取っちゃうようなことはしないよ。僕はただ助けになる道具を君に贈るだけ」
僧侶が両手を握り合わせると、その指の隙間からまばゆい光と神気があふれ出した。
手が開かれると藤色の勾玉がひとつ。
「勾玉……」
正直なところ、勾玉など見たくもなかった。これと同類の道具が相方を神の器にさせしめたのだ。
「そんな嫌そうな顔しないで。これは別に君をどうこうするものじゃないから」
「ありがたい神器のようですが、どういった効果なんですか?」
「僕がひとこと祝詞を奏上する。それだけだよ」
「祝詞? 神様が? どういった意味の?」
「それは君が決めるんだ」
オトリは煙に巻かれたようになり首を傾げた。
「ごめんね。遠回りな言いかたをする性分で。ひとことで言うと、他の神様に何かひとつお願いができる玉だよ」
「あなたが何かしてくれるわけじゃないんですね。神様ってどんな神様なんですか?」
「どんな神様でも。直接に命を否定するような願いや、その神の領分を超えた願いでなければ、どんな願いでも」
「どんな願いでも……」
思い浮かぶのは、“あのひと”の身体からの異物の排除。
「うん、きっとそれも叶うよ。姉君は手強かったけど、弟君のほうはまだ何とかなるかな」
見透かされていたが、そのぶん神意の裏を疑う。オトリの手は勾玉へ伸びなかった。
――どうしよう。
罠かもしれない。事情を知る神であれば、ツクヨミやイザナミ側の可能性もある。
天秤が烈しく揺れ動く。
天津の神意、せんの村で起こした善意への疑いというあやまち、神器の効果が真実であればそれは喉から手が出るほどに欲しい。
だがここで選択を誤れば、相方も日ノ本の平和も永久に失われる、そんな気がした。
「じゃあ、言葉をひとつ」
神が言った。
「騙されてみるのも悪くないんじゃないかな」
騙しとは必ずしも悪意のもとに行われるものではない。
オトリは“僧侶”と見つめ合う。
ふと、天狗の笑い声が聞こえた気がした。
「……頂戴いたします」
オトリは勾玉を手に取った。
「受け取ってくれてありがとう。それから、ひとつ僕からお願い」
ぎくりとした。勾玉はすでに手の内である。
「ことが全て済んだら、ふたり揃って一度くらいはハリマロ君に付き合ってあげて。別に枕を並べろとは言わないからさ」
「は、はい。善処します」
胸をなでおろす。
「彼さ、ずっとお祈りして回ってるんだよ。君たちのためにね。それじゃあね」
神がそう告げると、オトリは一瞬にしてただの森へと引き戻された。
僧侶は両手を合わせると背を向け、立ち去って行った。
幽かな墨の香りのする玉だけがオトリの手の中に残った。
*****
銭巻き……山菜のぜんまい。
御居処……おしり。




