化かし112 道満
数奇な運命の巡り合わせとすれ違い。高みから望む神の意志か、勿体ぶる仏の導きか。
「月神に向ける気でいたゆえに、小鬼には少々荷が重いぞ!」
これが在野最強の本意気か、これまでに見せたことのない莫大な霊気が更に高まる。
「蘇民将来! オン・コロコロ・センダリ・マトウギ・ソワカ! 建速り、進み荒ぶりし神よ、我が力を贄にその力の一端を示し給え!」
ドウマンの背後に炎の五芒星が浮かび上がる。星の中央に亀裂。
そこより這いいずるは岩山のごとき巨体。
燃えさかる怒髪を揺らし、額には牛の角、赤子のような柔肌と怒りの表情、逞しさと豊満さの共存する肉体に天竺の僧を思わせる衣を身に着けた合習の神の上半身。
圧倒。オトリは無意識に飛び退いていた。その霊威、気配は神仏で月讀命のそれと似ており、最強のもう一角、安倍晴明をも優に超えた圧であった。
――何を呼び出したの!?
「俺の識神にも、いのちがあったのだ」
ドウマンがなんぞ語り出す。彼の背後に現れた神は巨大な矛を突いた。
玉響の間に多くの逡巡。
まずは彼に正体を打ち明け敵意は無いことを示すべきか否か、己の正体を明かすよりも敵が共通であることで諭すか、目の前の神の矛を二重の大力でいなし反撃すべきか。
こんな時にでさえ、今の鬼の己と知人の巫女を紐づけることを拒む自分にくちびるを噛む。
オトリは跳躍し、空に逃げた。打突の圧がそれを追って来たが、それに触れただけで肌が焼けるように痛んだ。
鬼のままでは口を開く暇もなく滅されるであろう。
「己で言うのもなんだが、俺は人望が厚い。多くの陰陽師の仲間がいる。だが、真の仲間は矢張り、共に魔を討ち祓い、弱きを助けてきた識神どもだったと、その時になってようやく識ったのだ」
――私だってミズメさんを失った……。
ドウマンの語る挿話が“あのひと”への求めを誘う。
――!?
一瞬、意識が飛んだ。オトリは神の使役者の懐で鬼の腕を振っていた。
ドウマンが太刀を抜き、爪撃を弾く。その刀身は白い何かで覆われていた。オトリはすぐさま距離を取る。
「俺は奴らを追った。だが、道摩法師の勇名も俺を追った。歯痒くも陰陽師の仕事の傍らに仇を追わねばならなかった」
太刀から白いものが剥がれた。幾重にも貼られた無数の紙である。それは白き小鳥の群れへと変じてオトリへと飛び掛かった。
――綺麗。
心奪われるも鳥どもからは明確なる殺意を感ずる。
それでも、あの神を呼ぶのに力の大半を使ったか、今のドウマン自身の霊気はそこまでの脅威には思えなかった。
オトリはまずは自身の得手である水術を避け、名もなき古王の墳墓に毒された土の精霊の力を借りた。
――土の精に命ずるは招命ノ霊性。
己の呼び声に応えた土が鳥とオトリのあいだに盛り上がった。しかし鳥は衝突しなかったようで、土壁の蔭から飛び出してこちらを追い続ける。
背後にも殺気。振り返ればすでにドウマン。今度の一閃には強烈な祓えの気配。
いかに力を落としているとはいえ、有名の陰陽師と鬼では分が悪いか。
――祓われる……!
二指で冷たいやいばを摘まみ受け止める。もう一方の手の甲で男の腕を打ち上げ、刀を弾き飛ばした。
瞬間、彼を掻い潜りすり抜ける。鳥はまだ追う。オトリの周囲に浮かぶは祓えの星図。
星屑と鳥の群れが衝突し、白き閃光があたりを包む。
光の中からまたも神の巨大な矛。
巫女の腕は祓えの力を持ったそれを難なくいなした。突きの生む風が白き大袖をはためかせている。
――良かった、風が涼しい。
オトリの僅かな娘の部分が死への恐怖を叫び、巫女の力を呼び戻していた。
「追えば追うほど憎くなった。罪なき童男が邪仙に誑かされ、月神に操られているとは知ってはいたが、殺す気であった。祓えを扱う大の大人が、情けないと思わんか?」
ドウマンの語りが続く。彼はこちらを振り返らぬままであった。
神はいつの間にか錫杖を手にしていた。叩きつけられるも、刃がないぶん、矛よりは容易くいなせる。
矛よりも発する陽ノ気が強いあたり、こちらは悪鬼悪霊の調伏用の技か。
陽ノ気を取り戻したオトリにとっては脅威ではない。だが、巫女である身ではあれだけの存在を弑す手段も覚悟も持ち得なかった。
「やっと辿り着いたと思えば、月神はその姿を変えていた」
こちらの神もその姿を変えていた。柔肌憤怒はいつの間にか黒々とした髪と髭を茂らせた益荒男に変じていた。
どこか懐かしいその神は、錆びたつるぎを持っていた。
つるぎは荒ぶる中性の神気を孕んでおり、受ければ危険だが、流せばまだ対処できるかと逡巡を誘った。
「想起していた事態のひとつではあった。真人たる物ノ怪もまた知人であったが、大した仲ではない。仲間の仇討ちでもあったが、今や水目桜月鳥は日ノ本を害する大悪の器だ。俺は容赦なく滅する気でいた」
語りが耳に入った瞬間、オトリの意識がまた途切れた。
……途切れたはずのそれはまだ続いていた。娘が眠り、鬼が目覚めただけの話であった。
錆びつるぎが背中を裂いた。鬼の腕が護ったのは肉体ではなく、巫女の提げ髪であった。
まどろむ娘はぼんやりと、その黒髪を褒めながら櫛で梳いてくれたひとを思い出していた。
あたりの水気が収束し、無数の水弾を作り出す。巫女のまばたきと共にそれはドウマンへと撃ち込まれた。
地面に穴。彼の身体にも無数の穴。墨染の衣は更に深く染まっていた。
「オン・コロコロ・センダリ・マトウギ・ソワカ! 薬師の名を望る者を導き給え」
ドウマンは血を吐き唱える。
荒神はいつか東大寺で見た盧遮那仏に似た姿へと変じた。背には光背が輝き、紫雲が立ち込め、何体もの座した如来の幻が現れ回転し始める。
圧倒的な仏の御心に立ちすくむ鬼の身体。教え違いの巫女もまた畏怖を憶える。
しかし娘は、柱の穴に挟まって動けなくなったところを笑いながら引っ張った手のぬくもりを思い出していた。
鬼は腕を繋ぎ直さなければならなかった。蜂の巣のごときにしたはずの男が太刀を振り抜いていた。
彼の衣の穴からは無傷の肌色が見えた。
――己の血に命ずるは調和ノ霊性。
鬼は巫女と共に、散った血をつるぎへと変じ、背から流れる血を翼へと変じた。
「そうか……。来い、オトリよ」
飛翔、滑空、やいば交わす。いのちのつるぎと鳴動の刀が衝突する。
穢れと祓えであったが、勝ったのは穢れ。ドウマンの太刀がまっぷたつに折れた。
ドウマンは飛び退いた。折れた太刀は放さず、もう一方の手は指を立て印を結ぶ所作を行う。
鬼と巫女はまたも背後に殺気を感じる。
「あれでミズメさんを殺す気だったんでしょう!?」
血のつるぎが巨大な矢へと変じ、振りかぶられる。
背後を取っていたのはあれ。再び益荒男に変じていた神の眉間に矢が刺さった。
すると、男神は慟哭。いや、まるで赤ん坊のように情けなく泣きわめき始めた。
鬼の身体が少し揺れた。
矢を射る間に、折れたやいばの破片がこちらへと飛来して刺さっていたようだったが、腹から流れる血は新たな武器にしか見えなかった。
泣きわめく神は錆びたつるぎを天にかざした。
巫女の勘は、その動作で雨乞いによる落雷と嵐を想起させた。一方で娘は、相方と共に必殺技の開発に励んだ修行の日々を夢見ていた。
神気がつるぎから天へと伸びる。
しかし、空は変わらず。
「……俺もまた不発であった。ミズメの本質が善であることは数度の付き合いで気付いておった。俺は迷い、神を招くのに失敗した」
「でも、殺そうと思ったんでしょう?」
鬼と巫女は問う。
――あのひとを殺そうとするひとは皆嫌い。
娘もそう言った。
オトリの胎から血色の両腕が生えた。
それは男神へと伸び、膨張し、包み込み、握り合わされ、祈り殺さんとした。
「いかん!」
ドウマンが声を上げる。
血の掌が開けば、小さくなってゆく五芒星があった。
血の腕には感覚があった。掴んだのは空だと分かった。
「逃がしちゃった。……どうして逃がしたの?」
振り返る。己の血が無数の棘に変じ、ニンゲンの陰陽師を囲った。
「俺を殺す気か」
陰陽師は宙で五芒星をなぞる。眼前に光の五芒星が現れたが、何も感じなかった。
「反転も受け付けぬか。糞、憂さ晴らしついでに救ってやるつもりが……」
「救いたくなんかない! 私を救ってよ! ミズメさんはどこへやったの!? 死にたくないでしょう?」
何を言っているのであろうか。全てのオトリが混濁した“化け物”は自身の吐いた言葉に首を傾げた。
「赦してくれとは言わぬ」
「赦さないわ! どんな事情があったって、赦してもらえるかどうかとは別の話なのよ!」
「……俺も時折、うんざりすることがあった。助けを求む者の言い分が誤りなのも珍しくない。救い護るための律令や検非違使が民を傷付けるさまも何度も見て来た。俺たちもこうやって殺し合うのは、神仏の定めた運命だったのであろうな」
ドウマンは折れた太刀を構えた。
その姿と瞳には確かさがあったが、霊的な力は一切失われているようであった。
「さあ、殺れ。俺はもういい」
血の棘どもが一層鋭くなった。
「……まあ、おまえの相方がどう思うかは知らんがな」
温かな液体が胎の中へと還ってゆく感触。
翼も背へ還り、傷が塞がり、怒張していた額のしるしも萎えた。
「……でもアシヤ様は、ミズメさんを殺そうと思ったんでしょう?」
娘は問う。
「そうだ。オトリよ、俺が憎いか?」
「はい。まだ晴れません」
「ならば、俺がもう少しだけ付き合ってやる」
ドウマンはひげづらを笑わせると折れ刀を構えた。
オトリは腰に差していたミズメの形見を抜く。
雷斧より誂えた、なまくら小太刀。
短き刀のつばぜり合い。オトリは男の腕に圧された。二本の角もなく、水術にも頼らず。
隕鉄の刃が火花を散らす。
白袖ゆらり、緋袴ふわり。くるり黒髪と共に打ち込む。
それを受け止めるドウマンは逃げもせず、責めもせず。
酷く緩慢な打ち合い。
娘は舞う。見えぬあのひとの手を取り、繰る繰る思い出を共に舞った。
娘は想う。いつの間にか義務と化していた人助けを、共存共栄を。
思い出すのは巫女への憧れ。里の若夫婦が神の柱の周りを回り、契り合う姿。
思い出すのは空への憧れ。自分を産んだ母の想いを知ること。
――外の世界は酷いところ。私は自分が正義の味方だと思っていたけれど。
そして出会った本物の翼。
くすり、くちびるから息が漏れる。
――そもそも、あのひとは……暇潰しでやったのにね。
翼もないのに肩が軽くなった気がした。
娘は舞うのをやめ、小太刀を鞘へと納めた。
「もういいのか? 負けてやったほうがすっきりするのではないか」
ドウマンが問う。
「はい、飽きましたから」
微笑み、一礼をする。
「飽きた? ならよいか!」
目を丸くするも、がははと嗤うドウマン。その流しかたはどこか似ていた。
「オトリよ、ひとつだけ問いたい」
「なんでしょう?」
「なぜ、最初に俺たちを頼らなかった? ミズメの身体からツクヨミを追い出すには、陰陽反転の力が必要不可欠だ。それに、おまえはまだ若い。俺たちはじじいもいいところだ。別に父兄を敬えとは言わんが、少しくらいは頼ってみてもよかったんじゃないか?」
「私の力でミズメさんを助けたいからです。それは今も変わりません」
「そうか。ならば矢張り、年長者の話を聞くべきだったな。結んだ縁もまた、おまえの力だ」
「私にはそうは思えません」
「意固地になるな。損をするぞ」
考え方ひとつだろう。互いに敵意は無い。
――きっと、アシヤ様は一緒に頑張ろうって言うんだろうな。
己の表情が翳るのを感じる。
ありがたいことであったが、肩の力が抜けても、疲労が消えたわけではなかった。
「だが、俺は少々疲れたので、しばらくは怠けることにする。もしも、助けが必要なら……今度にしてくれ。それか他の者に言ってくれ」
ドウマンは折れた太刀の破片を拾い上げると、それを柄のほうと合わせてみて、がっくりと肩を落とした。
無論、太刀は繋がらない。それらを鞘へと納め、大きなため息をついた。
「えっと、太刀を折ってしまって、ごめんなさい」
オトリは頭を下げた。
「“奥の手”のほうは握り潰されずに済んだし、こちらもおまえの正体に気付くのに少し遅れたから痛み分けとしておこう。……食うか?」
ドウマンは巾着から豆を出して勧めてきた。
「い、いえ、結構です」
「そうか、美味いのにな」
彼は豆をぼりぼりやりながら古墳の丘を下り始めた。
「あ、あの! アシヤ様!」
オトリは追う。返事は無い。
「ありがとうございました!」
振り返らぬ背中に、提げ髪を跳ねさせ礼を言った。
「おう。おまえも誰かの尻拭いばかりしてないで、怠けろよ」
手を上げ答えるドウマン。
オトリはもう一度頭を下げる。
なんの礼にもならないが、彼が見えなくなるまで見送ってから立ち去ろうと考えた。
道摩法師こと蘆屋道満は麓へと下り、道を歩き始めた。
すると、馬に跨った貴人が土煙と共に現れて、馬から降りて彼を拝んだ。
ドウマンはずれた烏帽子を直すと、貴人に背を向けて全力疾走を試みた。
貴人は手を伸ばしたまましばし硬直し、頼みの綱が充分と距離を取ってからようやく馬に跨り直し、馬の尻を叩いて追跡を始めた。
「ふふっ。私も怠けなくっちゃ」
オトリは吹き出した。
それからなんとなく、知り合いの多い畿内へ戻ろうと思った。
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光背……仏像や仏の背後の光。