化かし111 化物
「えっ、討つべきは鬼じゃないんですか? でも、あの大きな人からは神様の気配がしますよ」
神童は雉と何ごとか話をしている。
「お使い様は、はぐれマガツが現れる、としかおっしゃらなかったじゃないですか!」
揉めているようだ。
――どうしよう。あの子に見られたくない。
禍人がまたもこぶしを振り下ろしてきた。オトリは顔を隠すために片腕で受けるも、足が地面にめり込む。
「鬼の……お姉さん。事情は存じませんが、助太刀いたします!」
視界を童子の姿が横切った。禍津神の使いの上半身と下半身が離れる。
「祓えを込めれば容易く斬れますね」
身の丈に合わない太刀が眩しく光り輝いている。
オトリは頬がちりりと焼けるように感じた。思わず、顔を背けて座り込んでしまう。
「先程は腕を斬り落として申し訳ありませんでした。はぐれマガツは退治しました。本来ならこれは、滅するだけの力のある者のところへ送られるはずのお使いだそうです。なにか事情があって放置されたものが彷徨っていたのでしょう。僕は御仏の使いに命じられてこれを討伐しに参じたのです。あなたを斬りに来たわけではありません」
童子の声が近付く。
正義を共にする知人、それも自身が導いた経験のある童子に醜態を晒す不安。
「さあ、お顔を見せてください。大きなお胸の鬼のお姉さん」
――大きなお胸!?
オトリの脳は混乱をきたした。
鬼化により人とは違った姿形に変化するのは世旧ことである。
異形と化し身体の部位を増やしたり減らしたりすることもあれば、無双の巨体を得たり、傾国の美貌を得たりもするという。
これは鬼化を促す要素のひとつである“執着心”によるものが大きいのであろう。
オトリは己が乳に執着していることを充分に理解している。
そして、そんな彼女の取った行動は……。
「す、すごい……!」
袂へ手を突っ込み、己で確かめることであった。人のものより大きな鬼の手のひらにも余る寸法。
鬼の印象とかけ離れた柔和さと確かな重量を持ちながらも、鬼の胸筋がそれをしっかりと支え、先端は自信ありげに上を向いている。
豊かな乳を羨む彼女にとっては七珍万宝にも代えがたき逸品であった。
「あっ!?」
オトリの心が強い陽ノ気に包まれた。
その乳揺れの間に掴んだものが、夢がましくも掌の中でしぼんでゆくのを感じた。
鬼の執着で大きくなったというのに、喜びを得れば鬼から遠ざかってしまう。なんという意地悪だ。
徒桜のごときに散りりて遺されしは、枯れ木のごとくに痩せた胸。
卑しくもこの哀しみを糧に再び得られないかと心によぎるが、掌と空胸に残る余韻もまたこころよいという皮肉。
至福もつかの間、彼女はすぐに次の鷲づかみに耐えねばならなかった。
「えっ、あなたはオトリ様……?」
童子の声。明らかな動揺。
まさに心の臓が凍る思い。
オトリは鬼化が解け、両手は胸に行っていたので、つまりは素顔を晒していた。
「ど、どうしてですか?」
カムヅミマルが問う。
オトリは自身の霊感を断ち切ってしまいたかった。知人の魂の揺らぎを思い消したかった。
無論、彼の顔を直視などできるはずもない。
「化け物め!!」
涙が弾けた。胸の奥深くに太刀が挿入された……思いであった。
――――。
オトリはほんのいっとき、世界から、己の身体から魂が隔絶された。
「こいつ、まだ生きてましたよ!」
神童が太刀を振るったのは鬼娘へでは非ず。黒き巨大な魔物へなり。
上下に切断されたはずの禍人は、それぞれでたらめに手足と頭を再生させ、蜘蛛のように神童の周囲を駆け回っていた。
「斬っても斬ってもきりがない!」
輝きの太刀が禍人を斬るも、断片が再び個体と化し、彼に襲い掛かっている。
オトリは「化け物」が己へ向けられたものではないことを理解した。
だが、一度こころの奥へ刺さった言の葉の棘は容易には抜けない。
それでも……混乱と悦びが己を人の身に引き戻した機会を容易く手放すほど愚かではなかった。
「はっ!」
一瞬だが全力の発気。清き袖、白く細い腕、風に乱れるうつくしき黒髪。
巫女を中心に聖なる柱が広がる。凍った川は再び流れを取り戻し、禍人の群れが触れた端から消滅してゆく。
僂指の間も無く祓われる禍き未来の使い。
「流石はオトリ様!」
「退治できたみたい……」
カムヅミマルの称賛はおいて、己の霊感でも敵の掃討を確かめる。
「いやあ、驚きました。とんでもない化け物でしたね」
無邪気に笑う童子は太刀を納めてこちらへと歩み寄ってくる。
――化け物……。
鬼化したさいの素顔は、いまだに自身でも確認が取れていない。
乳房が豊かになったように、狸だと揶揄される顔が美女に変じている可能性もなくはなかったが、オトリは自身の顔を「可愛いもの」だと信じ込んでいるゆえに、楽観視はされなかった。
カムヅミマルは見てしまったのであろうか、鬼のつらを。
そうでなくとも……。
「オトリ様、先程はなぜ……」
なぜ、醜き鬼の姿をしていたのか?
げに恐ろしき問い。邪神や穢神を相手にするほうがこれを受けるよりも八万倍はましであった。
「嬉しそうにご自身のお乳を揉んでいらしたのですか!?」
オトリはずっこけて川の中に顔面を突っ込んだ。
「大丈夫ですか!? 僕が斬った傷が痛むのですか!?」
喰い気味の童子に助け起こされる。緩んでいた袂に川の水が入り、虚しき山谷を流れた。
「腕は平気よ。それより、カムヅミマルさんはどうしてここに? トウネン様に言われた修行は終わったんですか?」
余計な問いを与えぬように即座に問い返す。
「終わってません! またも雉に導かれて抜け出して来ました。山城から遠い地ですから、和尚様はきっと心配していらっしゃるでしょうね」
苦笑する童子。
「そう……」
童子のそばに佇む雄雉を見る。姿こそは鳥であるが、その瞳には知賢を感じる。
――お使い様が導いて、私を斬らせなかったのなら、大丈夫かな……。
ここのところ神の加護と疎遠になっていたぶん、仏の御心に安心できた。
「オトリ様、僕のことはいいんです。お話をしていただけませんか?」
童子に相応しくない大人びた訳知り顔。彼もまた、幼いながらも幾多の難事解決に挑んできた者である。
「うん。あのね……」
オトリは観念し、白状した。
月山での戦いからミズメが奪われたこと、旅を続けるうちに自身が鬼となってしまったこと。
「そうでしたか。新しく入門されたヒサギさんにはそういった事情がおありでしたか。和尚様は僕に何も教えてくれないのです。それにしても鬼に成るなんて、大変おつらい思いをしてきたんですね」
カムヅミマルから同情の視線が向けられる。
「うん……」
嘘を言っても仕方がない。オトリは膝の上に乗せたカムヅミマルの識神の犬を撫でた。柔らかな毛並みの感覚に、まるで撫で返されているような思いになる。
もう一匹の識神の猿も空気を察してか、おどけて河原の石で石投ご遊びを披露してくれていた。
雌猿の名前が仙女と同じ“ハナコ”であったのを思い出したことも手伝って、オトリは久方振りに吹き出し笑いをした。
「いくら追っても、いつまで経ってもツクヨミたちに追い付けない。ミズメさんに早く身体を取り返してあげたいのに。……ちょっと、疲れちゃったかも」
愚痴と共に笑い掛ける。鬼退治に慣れた童子は豆狸のヤソロウとは違い、こちらへ恐怖を向けてこなかった。
「でも、我々は正義の徒ですからね。頑張らなくては」
――頑張ってるもん……。
「ミズメ様まで魔道に堕とすわけにはいきません。神々のなさることではありますが、それが罪なき人の生を脅かすのであれば、正さなくては」
――まで……。
「……オトリ様? お疲れですか? 大丈夫です、一緒に頑張りましょう。龍神様が斃されてしまったのは僕たちの反省すべき点ですが、そのおチブサ様の魂魄のことも気になりますし」
――……。
「ところで、先程鬼に成っていらした時には、オトリ様のお乳房様も大きく見えたのですが。……むむ、元より少々小さくなられましたか?」
腹立たしかった。子供の無邪気さは聖なるものに相似するが、人を傷つけるかいかんに聖邪は問われない。
やいばは歪み汚れたものが付けたの傷のほうが強く苛むが、清く鋭く真っ直ぐなほうがより深手を与えるであろう。
――この子とふたりでは、やっていけない。
膝の上の犬が逃げた。
再びオトリは童子たちから背を向けねばならなくなった。
「龍神様……」
額を抑える。古流派の巫女が頼るべきは仏の導きではなかったようだ。だが神は死んだ。
不思議な胴長の身体、翼も無しに空を駆ける超常の生物、龍。
蛇の昇華した姿とも、多くの獣の寄せ集めともいえるそれは、威厳ある形はそのままに、いのちだけを抜け殻にして横たわっていた。
――殴られた痕がない……?
龍の身体は血の筋も痣も作っていない。
まるで魂をそのまま抜かれたかのような……吸い取られたかのようなありさま。
オトリは無意識に東を見ていた。帯に大切に織り込んである鳥の紙型が幽かに震えた気がした。
なぜその方角を選んだかは分からない。
だが、その身体はすでに怨敵への憎しみと、最愛のひとへの求めで鬼と化し、稀有な水術の才にて更にの強化も済ませていた。
鬼の身体が跳ねる。
「あっ、またお胸の大きな鬼に! どこに行かれるんですか!? 鬼ごっこで鬼を追っては、あべこべではありませんか!」
呼び止める神童。
「あいててて! 何で邪魔をするんですか!?」
雉の嘶きと共に童子の声を遥か後方に置き去る。二重の強化ならば同じく水術の才を持つ神童にも追い付けぬであろう。
オトリは川を下り、憶えのある地点を一瞥した。チブサの魂の姿は無し。
視線こそは僅かに譲ったが、今の彼女にとっては無視すべき些末なことであった。
その後に通り抜けた村で「鬼」や「化け物」の悲鳴や、「非力な紙人形による攻撃」が向けられるも些末なこと。
村を抜け、小川を踏みつけ、森の枝々を乱暴に払いのける。
錯覚かも知れなかったが、走れば走るほどに相方との繋がりが強くなる気がした。
――でも、どうしよう。今、ミズメさんに見られたら、私……。
さりとて脚は止まらず。沓は地を蹴り続け、袖は宙を切り続けた。
胸に這い寄る不安。ミズメはツクヨミをその身に下ろしたさい、おぼろげながらも意識や記憶が残っていたという。
身体が慣れれば憑依されながらもオトリの変異ことをはっきりと知ってしまうだろう。
仮に、前よりも一層分からなくなっているとすれば、それは本来の肉体の持ち主の魂が死に近付いていることを意味する。
どっちに転んでも絶望。
それはオトリの旅が永遠に終わらぬことを示す。
里の禁忌を破り、死に値するか疑わしい者の命までも多く奪った。故郷は神の霧で鬼の帰還を拒むであろう。
だが、彼女が気にしていたのは別のこと。“あのひと”はなんて思うだろうか、今の私はどんな顔をしているだろうか。
「邪魔よ!」
一直線。目の前に立ち塞がる岩山が砕け散った。
露払いをする腕は矢張り、鬼のもの。
力を行使するたびに、魂の蔭からこちらを見つめる燈台のような目が細められ、耳まで裂けた乱杭歯の口が嗤った。
拒絶するごとに孤独に。孤独なほどに求めて。求めるたびに鬼が寄る。そしてまた拒絶。
鬼にも成り切れず、人でも非ず。神の代理でもなければ、仏の導きからも背き……。
――私はただの化け物だ。
化け物がこれより会うのは、最大にして最後の縁。
「恐い。恐いよ……。ミズメさん……」
求めは風に溶け込み……。
彼女が息もつかずに駆け続け、辿り着いたのは海を望む丘の遺跡であった。
古墳から吹き降ろす風には潮の香りと、荒ぶりを隠さぬ馬鹿げたほどに強い霊気があった。
気配の数や質が合わぬことを承知で、オトリは古代の王の墓を駆け上った。
「鬼か。丁度良いところに来おったな。俺は今、煮え湯を呑まされて気分が悪い。ちょっと相手になれ」
怒気孕みの霊気を醸す人影ひとつ。
彼は腰の巾着から何かを一粒取り出すと指で弾いた。
見覚えのあるそれは、激痛と共にオトリの胸を貫いた。
――今のは、豆!?
鬼の目は高速で飛来した物体と、その持ち主を認識した。
豆を弾いたのは墨色の衣をまとったひげづらの男、最強の陰陽師の双璧のひとつ、蘆屋道満であった。
*****
世旧……珍しくない。
七珍万宝……色々な種類の沢山の宝物。
夢がまし……儚い。




