化かし110 嚮導
「……おい。起きよ、起きよ!」
――男!
オトリは飛び起きた。すぐさま身体の機能が目覚め、既に胎で陽ノ気を練り上げていた。
「不審な巫女め。やり合おうという気か!」
どことなく知人を思い出させるひげづら。くたびれた烏帽子に、布を当てて修復を繰り返した直垂。
そしてその手には、これまた擦り切れた紙人形。
「陰陽師!」
「そうだ、陰陽師だ。貴様は問われるべき立場にある。貴様はなぜこの屋敷に居る? “牛殿”やチブサとはどのような関係だ? 此度の入水事件との関わりは?」
男は紙人形を構えながら問う。
「私は善行行脚をしている巫女です。体調を崩していたところ、チブサさんの御厚意を受けて寝床を借りていました」
オトリは寝床のそばに置いておいた荷物を一瞥する。
畳んだ巫女装束の上には巾着と一緒に一本の巻物。陰陽寮から受け取った都での活動許可証である。
「……陰陽寮お抱えの術師か。まあ、抱えた霊気で巫娼や仕掛け者でないことは分かっておったが」
陰陽師の男はこめかみを抑えた。
「あなたとことを構える気はありません。チブサさんはどこに?」
「おぬし、本気で寝ておったのだな。涎まで垂らして……」
陰陽師は溜め息をついた。
それから表情を落とし、
「チブサの奴は、儚き者となったよ」
と言った。
オトリは後頭部を叩きのめされた思いであった。
「亡くなった? どうして!?」
「泊めて貰っておきながら、何も事情を聴いておらんかったのか?」
「お父様のことや村八分にされていたことは聞きました。私は体調を悪くして寝床を貸してもらっていたんです」
「ならば驚くほどの顛末ではなかろう。今朝がた、村のそばを流れる川に身を投げたのだ」
「そんな。あんなに親切にしてくれたのに……。助けてあげようと思ってたのに……」
チブサのやつれた顔を思い浮かべる。
「おぬしへの施しも、最期に何か徳を積んでゆこうと考えてのことであろうな。あやつは霊感があったゆえに、験のある巫女を選んで助けたのであろう」
「……」
オトリは額を抑えた。鬼は抑えられてはいたが、この動作はもはや癖づいている。
「ご遺体は?」
「荼毘に伏した。村民どもがうるさくてな。呪禁師の娘の遺体は穢れだなんだと」
「酷い。自分たちが殺したようなものなのに」
「ようなもの、ではない。殺したのだ。村八分とはそういうことだ。牛殿がこの地に置かれて国より多くの土地が割賦されたが、それが不満であったのだろう」
「牛殿……」
「ここのあるじ、チブサの父親の通り名だ。流されたとはいえ官人だ。それに、都も讒言だと薄々感付いておったのであろう。流刑であったが、それほど悪い処遇ではなかった」
「牛殿がここの村のかたの土地を奪ったということですか?」
「ほとんどは紙の上の約束事だな。実際は手ずから開墾をした土地を使っただけだ。直接の接収は何も行っておらぬ」
「だったらどうして嫌がらせなんか」
「そりゃ、富んでおったからだろう。畑は小さくとも牛や屋敷がある」
「それだけで!? 他人が豊かなことがどうしていけないの!?」
「おぬし、巫女だろうに。妬みが呪いのもとになることくらいは知っておろう。土地も富も限りのあるものだ。誰かが富めれば、そのぶん自分の取り分が減じたように思えるのだ」
当たり前の話であった。他者への妬みや羨望はオトリにも身に憶えのある話であった。
「……少し見ぬうちに、すっかり持ち去られてしまったな」
陰陽師の男は調度品の無い部屋を見回している。
「あなたはチブサさんとはどういう関係だったんですか? チブサさんは“陰陽師様の導き”とか言ってましたけど。まさか、自殺するように仕向けたのですか?」
平坦に訊ねる。
「俺がチブサを涅槃へ嚮導したと!? 逆だ、俺は救ってやりたかったのだ。こう見えても村の稲霊と通じておる身でな。貧乏ながらも己の地も有しているゆえに、うちの神に仕えんかと誘ったまでだ」
男の目は寂しげだった。
オトリは陰陽師の男から事情を聴いた。
彼は名のある家と血筋を分けた者で、ありがちに都への仕官を夢見ていた男であった。
だが、祖にかつての朝廷の敵である隼人を持つ身であるため、それを利用され競争相手に敗れて没落してしまったらしい。
彼は諦めず、都を目指した政や血筋の方面ではなく、地元で実力での立身に努め、風水八卦を学び羅計盤を手に取ったという。
それからというもの、畑を耕すかたわら、ほそぼそと陰陽師の真似事を行って生活をしているのだそうだ。
この近隣では彼が霊的な事象や難事解決の全般を請け負っており、民からの信頼も厚い。遠国であり、身を立てた競争相手からの扱いも悪いこの土地では、彼のような存在は貴重であった。
「扱いの悪さは俺のせいでもあるのだが、この地に暮らすものに隼人の流れを汲む者は少なくない。だが、都から来たよそ者となれば話は別だ」
牛殿がこの地に流されて来ると、様々な凶事が彼のせいにされた。
なお悪いことに、牛殿の家人が流された理由について漏らしてしまったのである。
村民たちは理由をつけては“呪禁師の私財”を取り上げ、共存を拒み続けた。
物を借りっぱなしにし、牛を打ち殺し、家人を盗人だと告発し、牛殿の娘が呪いを行ったとして髪にやいばを入れ、衣を奪った。
「尼のように切り揃えて誤魔化したが、もとは都暮らしの娘だ。つらかったのであろう。すっかりやつれて髪型も相まって老けて見えるようになってしまった。ここへ来たばかりのころは髪は背丈ほどあったし、頬もふくよかで仏像のように眉目かたちうつくしき女だったのだ。正直言って、焦がれておった」
「惚れていらしたのなら、もっと早く助けられなかったのですか?」
「責めてくれるな。村民たちの行いは古来よりの習わしだ。俺もまた、流れ者を追い出す仕事をしたことがないと言えば、嘘になる。だが、呪禁師の噂が言いがかりなのはすぐ分かった。結局はどちらの肩も持てずに手をこまねいておった。しかし、チブサがあまりにも不憫で、牛殿も昔の俺に重なるようだった……」
彼は病に倒れた牛殿をこっそりと見舞った。元が典薬寮勤めとその娘ということもあり、真似事陰陽師の薬学など大して助けにならなかった。
それでも、牛殿たちへ向けられる怨みの念が引き寄せた下級な動物霊や、放置された穢物の片付けなどを密かに行っていたという。
「俺はこのあたりでは唯一の本物の術師だ。連中は俺を村八分にすることはできない。ゆえに、一緒にならぬかと誘ったつもりであったが、俺ではチブサを繋ぎ止めることはできなかったらしい。じつを言うと、一度は契りもかわしておったゆえに、安心しきっていたのだがな……」
男は溜め息をつく。
「そうでしたか」
またも無常の世か。平静を貫こうとしたが、魂の蔭から鬼が顔を覗かせた。
「ところで、話をしていて、おぬしの持つ気配に気がついたのだが」
――しまった!
相手は陰陽師である。
「その衣、稲荷にゆかりのあるものではないか?」
「……えっ? そうです、伏見のお使い様から賜ったものです」
「うちの稲霊と気配が似ておるから、もしやと思ったのだ。伏見の社には参ったことがあるが、あそこは良いところであった」
男から敵意は感じない。どうやら、神衣が上手く鬼の気配を覆い隠しているようだ。
「伏見様の加護を得ているのであれば、さぞかし霊験のある巫女なのであろう。助けてもらえぬか? じつを言うと、この件はまだ片付いておらぬのだ」
チブサの遺体が上がったさい、陰陽師は現場へと呼び立てられた。
彼は多少の祓えはできるが、成仏を促したり寿ぎを行える技は持ち合わせていない。遺体の処理をしたのち、せめて悪霊に変じてしまわぬようにとチブサの魂を探した。
彼女が身を投げた位置か、絶命した位置か、遺体の上がったやや上流に彷徨う魂を見つけた。
「村の霊感持ちが気付いて騒ぐと面倒だ。だが、魂は神仏の気配を持っておったのだ。そんな魂を滅するわけにもいかんし、処置に困っていた。何か手掛かりになるものがないかと、村民が荒らすのを防ぐのを兼ねて屋敷に立ち入ったところ、おぬしを見つけたというわけだ」
オトリは陰陽師の男に案内されて、川へとやって来た。
確かに彼の言う通り、なんとなく憶えのある気配を持った霊魂が浮いている。チブサのものの可能性は高い。
だが、質が人よりやや神懸っていた。
「この世への未練というわけでもないようで、霊声も聞こえぬのだ。おぬしは口寄せはできんのか?」
「ごめんなさい、うちでは口寄せは習いません。でも、今のチブサさんの霊魂からは、お使い様の気配に近い感じがします」
霊視するオトリ。どこか懐かしいような気配。
「使い? うちの稲霊に使いを持てるほどの神威はないぞ。この辺一帯の田んぼを凶作から護れるかどうかも怪しい幽やかな神だ」
「川からも神様の気配。遠いけど、かなり大きな水神様だわ」
オトリは上流を見上げる。川は青々とした山へと続いている。
「なに……この川にも神が?」
陰陽師の顔が見る見る青くなった。
「私は、水分の巫女なんです。水術が得手。本来仕える神様も水の神様だから分かります」
「俺には全く分からなかった……」
「霊感の強さだけが問題じゃありません。人によって神様との相性がありますから。神様のお住まいはかなり上流のほうでしょうし、この川へ直接の神威は及んでいないと思います。それが何か?」
「チブサはよく牛殿と連れ立って、この川を拝んでおったのだ。神の気配などしないのに何をしているのかと訝しんでおったが……」
陰陽師の顔色は悪い。今にも泣き出しそうである。
「川の水に幽かに残る気配を感じていらしたんでしょうね。水神とご縁のある家系か何かなんでしょ……あっ!」
オトリは気付いた。“チブサを殺した者”の正体に。
神は部下のような存在、使いを持つことがある。それは自身の神気を与えた動植物や、大地の精霊の昇華したものや、生前によく仕えた巫女が取り立てられることが多い。
他にも、なんらかの事情で個人的に気に掛けた魂を選ぶこともある。
「川の神様に呼ばれたんだわ。神様のやることだから、しかたのないことです……」
オトリは陰陽師だけでなく、自分にも言い聞かせる。
「違う!!」
彼は声を荒げた。
「手応えはあったのだ。契りののち、順序は逆になってしまったが、うちの神に仕えないかと聞いた。あやつは頷いてくれたが、泣いておった。てっきりうれし涙かと思っておったが……」
彼にとっての神は稲霊。チブサにとっての神は川の神であった。
――川に仕えろ……川に入れ……!
オトリも血の気が引くのを感じた。
つまりは、村八分の唯一の頼みの綱であった陰陽師からの口説きを、最後通知と受け取ったのであろう。
「なんたる不肖……! チブサを突き落としたのは掟でも噂でもなかった……!」
男はとうとう泣き崩れてしまった。
オトリもまた、頬を熱いものが伝ったのを感じる。
――そもそも村の人たちがもっと……駄目。抑えて、誰しも悪意でやったわけじゃない。彼らにとっては身を護ったに過ぎないこと。
繰り返し言い聞かせる。村八分を己の思う悪意から外すのは難しかったが……外せばそれもまた無常の世を一層と強調することになった。
鬼が笑う。
「……チブサさんの魂がお使いに成り掛けているのに、この場に留まったまま特に変化がないのが気になります」
額を押さえ、心を抑え、声を抑えて言う。
「神様が遠いせいか。それとも、神様がお使いへの昇華を止めるような何かがあったか。調べて来ます!」
オトリは上流へと駆け出した。
背中に小さく「頼む」と投げ掛けられる。
――神様のせいじゃない。神様は悪くない。神様は居たのに!
己の脚力が水術とは別の高まりを持つのを感じる。
川を辿り、神気を追って山道を突き進む。
せめて、御霊が水の大神に仕えられれば、すれ違ったふたりへの慰めとなるだろう。
己は水分の巫女。神は違えど同じ水を司る存在。
――だからお願い、引っ込んで。
走りながらこぶしで角を叩く。敏感なそれは頭蓋や脳までも苛んだ。
引っ込まぬ角、神の前に鬼のまま参じるのか。
さかしまに、別の不安が鬼化の防止に対して「要らぬ」と言った。
近付けば近付くほど、神気が弱まるのを感じる。それとは別の強い神の気配の蠢きも。
多くの難事に遭遇してきた己の経験は、すでに川の神の神去りを確信した。
勘通り。だが、少し外して……。
オトリの辿り着いた先、八尋に広く浅い川に横たわる龍の姿。
そしてそれを弑すのは、追い求める邪仙……でもなく。月神……でもなく。
巨大な黒きひとがたであった。
「これも……神様の使いだ……」
海上で遭遇した“海坊主”なる物ノ怪を想起させる穢れのかたまり。
だが、その黒き巨人は禍々しき穢れと共に確かな神気を有していた。
いつか、ミナカミより聞いたことがあった。
禍津神。まがごとを司る神。
この覡國で“いつか起こるはずの凶事”を集めて使いとし、力のある神や巫覡のもとへ送り込み、滅させしめることで不幸の総量を減らすという存在。
ゆえに、穢れの魔物を送り込もうと、それは神の佑いであり、和魂の行いである。
ミナカミ曰く「高天の神様は身勝手で仕事が雑。地上の神様は真面目だけどやり過ぎる」。
恐らくは禍津神は力のある水龍を当てにして禍人をぶつけたのであろうが、引き起こした結果はこの通りである。
心臓が脈打ち、角が伸びるのを感じる。抑える手から伸びる爪が皮膚を苛むのも。
黒き巨人がこちらを向いた気がした。彼には顔がなかった。そして、手足の位置や関節もでたらめであった。
未来の不幸を集めた滅すべき存在。神すらもそれを望む。己の気持ちのやりどころとして最適な相手。
それでもオトリは、鬼化を止めなければならなかった。なぜならば、あれは穢れのかたまり。
あれを滅するに適するのは祓えの力。すなわち巫女としての己。
陰ノ気同士の衝突でも削ることは不可能ではないが、鬼として未熟な己と、神の作った禍人とは差があり過ぎる。
――駄目、戻れそうもない。
オトリはもはや限界であった。己を長く偽り続けるには若過ぎた。だが、完全に鬼に堕ちる気は毛頭ない。
天女を寿いだ時と同じく、鬼に成りきる前にこころを凍らせて戦うほかに打つ手はなかった。
玉響、川の全てが氷結する。
敵意を察知したか、巨大な歪んだこぶしがこちらへと降り注いできた。
二重の大力でそれを弾き返し、鬼のまま祓え玉を作り上げる。
――やっぱり、威力が出ない。
光の玉は巨人の皮膚をかすめ取ったが微々たるもの。
二分咲きの力では神の意向には適わない。
――お願い、私に力を!
思い起こすはかつての幸せ、空を求む前の無知に護られた暮らし。
“あのひと”との出会い、彼女との旅から広がった数々の友人の顔。
笑顔を星座のごとく浮かべて、宙に祓えの星空を作り出す。
しかし、不発。
得意の祓え玉の流星群は敵に届く前にひとりでに消滅した。
祓えの気を助けたのが善き思い出なら、懐かしさから哀しみを引き出し掻き消したのも同じく思い出であった。
――こうなったら、直接打ち合うしかない。
祓えの技を棄て、陰ノ気のぶつかり合いに切り替えるオトリ。
めくれ上がった袖から見える醜い腕にくちびるを噛みながら、異形のこぶし同士をぶつけ合う。
このまま鬼から戻れないのであろうか、しかし禍津を放っておくわけにもいかない。
川の神が死んだのならチブサの魂はどうなってしまうのか。陰陽師の彼はどうしているだろうか。
不安を掻き消すために、もう一度友人たちの顔を思い浮かべる。
しかし、敵を穿つために振るわれる鬼の爪が、それをも不安の呼び水に変える。
――皆には絶対に、今の姿を見せられないな。
刹那、腕に鋭い痛み。
醜き鬼の腕が、血しぶきと共に宙へ舞った。
何者かの介入。腕の切断。本能が理解を上回り、切れた腕は血操ノ術と水術の同時使用により瞬く間に繋ぎ直された。
もうひと薙ぎを予感していたが、己の緋色の袴が花開き、沓が攻撃者を蹴り飛ばし遠ざけた。
一度に多くの思考が頭を駆け巡ったが、蹴りの瞬間の印象が特に強く脳裏に焼き付いた。
希望、足はまだ人間の娘のものであった。
絶望、攻撃者の正体。
着地し、禍人を相方から教わった武術で投げ飛ばし、凍った川で倒れる介入者を見やった。
「あいててて……。なんて大力だ。オトリ様以上ですね」
頭をさすりながら起き上がるのは水干姿の童子。
――なんであの子がここに?
オトリは後ずさり、袖で己の顔の半分を覆った。
「あっ、痛い痛い! つつかないでください! 僕、また何か間違いましたか!?」
神童“神実丸”。
彼は何やら、仏の使いである雉に頭を烈しく突かれていた。
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隼人……古代の九州地方に居たひとびとで、特に大和政権やその流れを汲む勢力と争ったとされる。