化かし108 煩悩
「あなたは花子さん! は、裸で何をなさってるんですか!?」
想定外の遭遇に氷の戒めにひびが入った。
「“なに”に決まってるでしょ、処女の巫女め。それと、本名で呼ぶな!」
敵意の籠った視線が向けられる。
――お股のお札は剥がれてないようだけど……。
もう一方の札。臍の上に貼っていたはずの“呪詛返しの札”が見当たらない。
「見つかってしまったもんは仕方がないわ。おい、日和! あの女を退治なさい。そしたら、好きなだけやらせてあげるわ」
天女は太った坊主の顎からこめかみに掛けて舌を這わせた。
「あの狸顔が、おまえの女陰を塞いだのか。知恵と霊験を授けるありがたき女神に対して、なんと罰当たりな」
ニチワが息荒く立ち上がった。衣は着ていない。油樽のような腹の下から粗末な物体が見えている。
しかし、見目には清いとはいえぬものの、それなりに高い霊気を感じた。
「どうやら、邪仙の術で操られているわけではないようですね。照鎮様の怪我は私が治しました。生贄の子供も解放させて頂きました。この一帯の荘園を管理する者なら、その力を正しきことに使いなさい」
オトリも霊気を練り上げる。霊圧で風が起こり、倒れた几帳や脱ぎ捨てられた衣が転がる。
「なんという霊力。だが、ひと様の土地の事情に首を突っ込む輩は折伏してくれるわ」
全裸の坊主は両足を開き、構えを取った。
「その前に服を着てくれませんか。蹴りますよ」
オトリは冷たく言った。ニチワは霊気を動揺させ、いそいそと衣をまとい始めた。
「ハナコさん、私の課した善行の旅はどうなったのですか?」
「してたわよ。でも、一度悪戯をした村に戻ったら、散々な目に遭わされたわ。もう勘弁、それで打ち切り」
手のひらをひらひらさせる天女。
「それはあなたの犯した罪への罰ですよ。誹りは甘んじて受け入れるべきでした」
「うっさいわね。あんたに会わないようにわざわざ伊予の山奥まで来たってのに」
「反省なさっていないのですね?」
オトリは霊気を高め続ける。天女はこちらに手をかざしたが、舌打ちをするだけに終わった。
「してるわよ。ここでのことだって善行でしょ? 橋は人柱を使ったほうが土台がよく固まるって言うじゃないの」
「それは、川の神様が捧げられた魂を受け取って、返礼として便宜を図ってくれるからです。ここに神様は居ないでしょう?」
「私は胃袋の数を減らす言いわけを与えてやったのよ。旱魃の雨乞いでだって柱を立てるでしょう? 罪人だって、ひとの役に立てて幸運じゃないの。それに、神が居なくとも坊主が居る。私はこいつを手伝ってやってんの!」
「その仏道のかたを相手に淫らなことをなさってたようですけど。女犯は破戒でしょうに」
「坊主だって人間よ。お互いに喜んでるんだからいいじゃないの。なんにも分からない稚児を囲ったり、権力任せに抱くよりはましじゃないの?」
天女はつんとそっぽを向いた。
「あなたもこんな邪仙に惑わされて、仏道をゆく者として恥ずかしくないのですか!?」
ニチワに問う。
「衆生、たとい闡堤に終わろうとも世諦を識る。娑婆識らずして聖教説こうとも無常の響き。則ち、偽りの施無畏よりも真如に生きよ。これこそが世の真理よ」
小難しい言葉を並べる油樽。
「同感よ。あの子にはちょっと難しかったみたいだけど。お姉さんが教えてあげるわね。あるがままが一番、悪を知らずして善を語れないってことよ」
「……馬鹿にして! 信じてたんですよ! お腹のお札も剥がしてしまって!」
「ふん、腹の肉を削いででも剥がしてやろうかと悩んだけど、刃物を入れるとあんたの顔が浮かんでむかついて、お札が発動しちゃって駄目だったわ」
「無くなってるでしょうに」
「あんたと別れて二、三ヶ月経った頃かしら? 急に力を失って剥がせるようになったのよ」
――そっか、ギンレイ様が亡くなったからだ。
「“こっち”のほうが先に剥がれてくれたら良かったのにさ。そしたら呪術はなくとも、もっと面白かったのに」
股座の札を指差す天女。
オトリが睨むと、にこりと笑顔が返された。
「ねえ、なんでも仙薬を煎じてあげるから、剥がしてくれない? どうしても剥がれないのよ。もう、旅の安全なんて別に要らないからさ」
「そちらは貼った者にしか剥がせない札です。呪術を解禁してからは悪さをなさっていないでしょうね?」
オトリは愚問だと知っていて問うた。
天女は露骨に考え込む仕草をしたが溜め息をつくと、よこしまな笑いを浮かべた。
「馬っ鹿じゃないの? 剥がれてから何ヶ月経ったと思ってるのよ?」
――また失敗、か。
オトリは氷の戒めが砕ける音を聞いた。
「むっ、妖しげな気配がし始めたぞ。この者、物ノ怪のたぐいではないか?」
ニチワが両の袖を合わせる。何か印を結ぶ気だ。
「そいつは人間の小娘よ。それも多分、処女。やっつけられたら、その子も一緒に楽しみましょ」
「良い提案だ。出でよ、我が護法童子よ!」
ニチワが命ずると、虚無より腹掛け姿の童子が四人現れた。それぞれの手にはつるぎが握られている。
「護法って……これは子供の霊魂よ!?」
高めた霊気に濁りを感じ始める。今、鬼に成れば止まらない。こころを凍らせよ。
「護法童子も知らないの? これだから田舎の古流派は」
天女が嗤う。
「まあ、巫女の言う通りだ。これは御仏に遣わされた真の護法ではなく、陰陽の技、“鳴童剱化ノ法”によるものだ。本当ならば近々もう一匹増えるはずが。余計なことをしおって」
――偽りの生贄の再利用! なんて人!
怒りが沸き上がる。
だが己に命じる。やめろ、殺すな。子供の魂だって、迷霊や悪霊になってしまうよりはましでしょう。
「どうやら、手出しができないみたいね? ニチワ、串刺しにしてやりなさい」
「処女とはいえ、血塗れなのは好かんな。霊力は高そうだが、つるぎに貫かれればただでは済まぬぞ?」
「平気よ。こいつは古流派の水術使い。死なない程度にしてやれば、傷は自分で癒せるわ」
「……ふむ? それならば、血が出ても処女のあかしにならぬではないか」
下卑た笑いを浮かべる太った顔。
……が、床の上を転がった。
「ちょ、ちょっとあんた、今、何を……」
油樽から吹きあがる鮮血が天女の肌を濡らす。
――駄目、抑えきれなかった。
節くれた指の隙間を掻い潜って角が伸びる。
「あはは! そっか、あんた鬼に成り掛けてるのね!? それとも、もう成っちゃったのかしら?」
天女の嬌声、本当に愉しそうな陽ノ気。反してオトリは陰に染まる。
「いやよ……私は鬼になんか、成らない。あなたたちみたいな酷い人と同じになんか……」
「私たちは鬼じゃないわよ。仙人と坊主よ」
天女が近付いてくる。見せ付けるように乳房を揺らし、神聖なる仙気を高めながら。
顔にも恐怖はなく、自信に満ちたうつくしきかたちを維持している。
その堂々たる姿は、今の己が求むものとの鏡写しか。鬼の腕は振り上げられなかった。
「こ、来ないで」
「ほら、殺せばいいじゃない。この坊さんにしたみたいにさ。俗物には寂滅をくれてやるのが一番ってことなんでしょ?」
天女は死んだ坊主の口へと素足を突っ込んだ。彼は笑ったようになる。
「わざとじゃない!」
「私じゃ、あんたに勝てないってことは分かってるのよ」
蹴飛ばされる坊主の頭。
「いや、殺したくない。私は皆を助けたいのに!」
「やっぱり甘ちゃんね。中途半端だから苦しいのよ。好きか嫌いかで生きなさいよ。私、あんたのこと好きよ」
抱き寄せられる。角が乳房に沈むのが分かった。
思いのほか敏感な角が触れた柔らかな肉は、湯の中で冗談をかましたギンレイを思い出させた。
「半端な志なんて棄ててさ、欲に生きなさいよ。あんたの欲しいものは何?」
――私の欲? ミズメさんを取り戻したい。皆が笑っていられる世の中にしたい。
果たして、欲とは全てが悪なのか。願いと欲に境界はあるのか。
娘のそれに応えたのは鬼のあかしであった。心の底からの望みが魂に触れ、黒々とした角は更に怒張した。
「おっきくなってるわ。先が尖ってなきゃ、験してみても良いかも」
――どうして? 私の願いがなんで?
天女の胸の中、手掛かりを掴もうと記憶の糸を手繰る。
鬼の世界。
民のために敵を討たんと刀を集め続けた亡霊。怨みを蓄えて都への復讐を誓った鬼女。
酒と勝負ごとにこだわり抜いた大江山のあるじとその友人たち。
強く求め続け、手放すのを拒絶する心。誰しもが持つ想い。それは執着。
オトリは気付いてしまった。己を鬼に貶めんとしているのは、哀しみや怒りだけではないと。
最愛のひとを取り戻し、いかんともしがたい世界に抗う行為、それこそが一番のきっかけなのだと。
求めれば求めるほどに遠ざかり、相方の配慮を更に踏みにじるという現実。
「ねえ、あなた。私と組まない? 鬼と仙女。面白い取り合わせでしょ? お互いに学ぶところがあると思うわ。導き合いましょうよ」
猫撫で声の誘い。誘いの文言も相まって、ますます銀嶺聖母と重なる。
「食べて、寝て、気持ち良くなってさ。人に感謝されて、騙して、笑って。美味しいところを全部頂いちゃいましょうよ。長い人生、愉しまなきゃ損よ」
被る範囲が聖母から師弟へと広がる。髪までが撫でられる。まるで犯されているかのような不快感。
「おまえは、仙女なんかじゃない」
苦痛と共に拒絶を絞り出す。
「良いわね、その気持ち。あなたのことますます好きになっちゃった。一緒にいきましょうよ」
顎に触れられる。
「オトリちゃん。巫女だって、本当は“したい”と思ったことがあるでしょう?」
囁きが師弟の影をちらつかせる。
「処女を貫くのは神様の言いつけ? 神様なんて居ないんでしょ? あなたはあなたのものよ」
女の桜色のくちびるから濡れた舌が覗く。
「ね、いいじゃない。男だ女なんて、気にしなくってさ。その鬼の顔も、よく見れば可愛いかも……」
甘ったるく、果実の腐ったような吐息が自身の半開きの口へと忍び込んできた。
――いや!!
強い拒絶。拒絶もまた陰。“あのひと”が遠ざかった気がした。
――……それでも、私は絶対に諦めない!!
烈しき執着。魂に巣食う鬼が声を立てて嗤う。
……しかし、その歪んだ鬼の嘲笑は凍り付いたように動かなくなった。
――あのひとは自分の魂に嘘をついた。私だって!
音を立てて氷結してゆく“こころ”。
その零度は肉体を媒介として伝播し、あたりの空気を急激に冷やし始めた。
「何!? 何が起こってるの!?」
天女が身を離しうろたえる。
「そっか、ギンレイ様はこんな気持ちでいたんだ……」
オトリは銀嶺聖母が氷術を操った時の“こころ”を識った。
弟子のために彼女を討とうとした時、零落した水龍に手を下した時、自身の子を斬り裂かねばならなかった時。
不真面目さや奔放さは、あの深き愛と哀を隠すためのものだったのであろう。
「誰よ、そいつ?」
天女が問う。
「仙人ですよ。本物の」
オトリは天女の手を優しく取り、もう一方の手を甲へと重ねた。
「私も本物の仙人よ? うふふ、一緒に行ってくれるのね?」
天女の無邪気な笑顔が披露される。
そしてそれは、そのまま動かなくなった。
――他者の血肉、氷に結ぶは招命ノ霊性。
音を立て、絶世の美女の裸体が凍り付いてゆく。
「あなたは約束を破りました。罰を下します。欲に生けるを望むあなたに相応しき罰は、肉体の死です」
うつくしき氷像から青白い魂が抜け出てくる。
「ですが、愚かで奔放なだけであり、純然たる悪とは呼べないでしょう」
オトリは庭を指差す。池から引き寄せられた水のかたまりが水術師の腕の周りで蜷局を巻く。
発気の一声と共に腕を振り上げれば、水が氷槍と化し、寺の天井を突き破った。
空には半月。
「罪を屠り、穢れを祓い、旅立ちを祝るが巫女の務め。いざ、その御霊を相応しき國へ」
角を生やした巫女を、空より降りた神聖な光の柱が包み込んだ。
「高天に、還りし命を寿ぎます」
鬼の祝詞に天が応えた。彼女の湛える気はいまだに陰のまま。掟破りの寿ぎが天女の魂を天へと導く。
「私の願いは薄汚い欲とは違う。私のは、綺麗なのよ」
誰も居ない部屋で呟く。
いつの間にか、坊主の魂も護法童子の気配も消え去っていた。
強烈な陰陽両の気に巻き込まれたのであろうが、どうでもよかった。
「私はあなたが嫌い」
自身でこしらえた氷像を鬼の爪で弾く。
あるじを失った美女の肉体は八百万の赤きかけらへと変じた。
「私はあのひとを取り戻す。絶対に」
決意を口にしながらも、その角を収めるオトリ。
「絶対に、絶対に」
繰り返し呟く。
「世界の理も、巫女の運命も、神々の手繰る糸も。邪魔をするなら全部ぶっ壊して、この手で断ち切ってやる!」
見上げ睨むは半月。
彼女の目もまた半月であった。
……月に嗤い返された気がした。
オトリはそれを鼻であしらうと、血塗れの寺をあとにした。
*****
衆生……あらゆる生物。
闡堤……成仏できない者。
世諦……俗世の真理。
娑婆……俗世、人間界。
聖教……釈迦の教え。
施無畏……仏門の施し。
真如……あるがまま。




