化かし107 生贄
オトリは目覚めた。
あれからどれだけ経ったかも、自分がどこに居るかも不明瞭であった。
ただ、黒松の枝から飛び降り、硬くなって痛む背中を伸ばした。
二、三歩歩き、また二、三歩歩き。背伸びをする振りをして、手の甲をそっと額に擦らせる。
それから、付近に水の流れを察知して歩き始めた。
どこかの森の中。夏のじめついた熱気。見上げれば昼近くを示す太陽が枝葉から覗く。
人の手の入っていない小川を見つけ出し、自然を佑わう精霊たちにお辞儀をする。
「元に戻ってる」
稲荷の使いの娘より賜った神衣の背中。管狐たちに斬り裂かれたはずのそれは新品と変わらなかった。
それを検めるのもまた、畑仕事を知らぬ都の娘のような掌である。
衣を脱いだものの、川の水量に不満を抱いて、襦袢一枚の格好で辿る。川は支流多くして先細りらしく、上流を目指さねばならなかった。
「湧き水か……」
辿り着いたのは泉。小さな落胆。オトリは滝を期待していた。あれならば、水面は常に忙しそうにしているからである。
オトリは霊感の探知を験し、周囲に人間の居ないことを確認すると、襦袢の紐を解いた。
自身の身体を注意深く見たのは久方振りであった。
「痩せちゃったな」
呟き、水面が見えぬようにわざとしぶきを上げて泉に入る。冷水が心を引き締め、爽やかな余韻が全身を震わせた。
その震えもどこか物足りない肉の重さを示した。
オトリは一人旅となってからも食事はしっかりと摂っていた。だが、無作法に水術を行使しし続けた旅は、身体の貯えを確実に減らしていた。
――あのひとは気付くかな。
ふたりの時はじゃれ合ったり、静かに湯の中で身体を寄せ合ったりが多かった。
今そうすれば何か言及をして貰えるだろうか。努力を労ってもらえるだろうか。あるいは、胸や尻まで痩せたことを揶揄われるやもしれない。
水をすくい、玉肌に指を滑らせる。膨らみや窪みも全て調べ上げ、自分が自分であるという感覚を愉しむ。
だがその指は決して、首から上を知ろうとしない。
先程に手の甲が額を偸み見たはずであったが、瞳は頑なに水面を直視することを拒み続けていた。
肌をなぞり終え、指を髪へと移す。すぐにくちびるを噛むこととなった。
「結び直したら分からないかな」
背を斬られた時にやられたのだろう。自分が把握していた以上に髪を失っていた。
覚えは曖昧であったが、抜け毛の痕もある。
髪は身体の一部である。肉体的な感覚こそはないものの、血肉と同じように霊気が流れる。
つまるところ、霊感や、古流派の調和ノ霊性の調律に大きく影響する。
一定の髪型を維持するか、あるいはすべて剃ってしまうかが霊能力者にとって扱いやすい。
オトリの場合は巫女であり、御守りをこしらえるのに便利が良いように特に長く伸ばしている。何よりそのほうが“可愛い”。
恐ろしい話だが、漂泊の術者をやり込めるさいに髪をいびつに切ったり、剃り上げてやるという話を聞いたことがある。
オトリ自身も、助けてやった村人たちが客人の小屋へ押しかけたさいに「まずは髪を切れ」と口にしたのに震えあがったことがある。
「まっ、また伸びるしいいや」
あえて誰かの口調を真似て割り切る。
禊を澄まし、次は自身の流派の行に入る。
全身から力を抜いて身体を水面に浮かせ、肉体、水、空気の境界を強く意識する。
それから、霊気を水や宙に溶け込ませ、己と他との境界を曖昧にしてゆく。
全くの無防備。ふと気が乱れ、オトリは片目を開けて泉のそばの木陰を確認した。
――覗かれたこともあったな。
思い出すと身体が火照り始める。
まあ、覗いた数もそれなりであったが。よくよく思い返せば、相手は音術に通じている。
音も偸み聞かれたのではないかと考えると、恥ずかしさのあまりに手のひらで顔を覆った。
「あっ」
無意識の所作。触れる額、頬、鼻先や顎。
――私の顔だ。
水底に足を着け、取り急ぎ水術でみなもを落ち着かせる。
そこに映ったのは見知った娘の顔。
「狸じゃないし。可愛いもん」
独りごち頬を膨らませてみる。空言。顔は己のものだったが、可愛くもなんとも思えなかった。
魂が言っている。「おまえは鬼だ。醜い化け物だ」と。
人に戻ったのではない。ただ本性が隠れただけのこと。多くの鬼たちが身に着けている作法に過ぎない。
――私、やっぱり鬼に成っちゃったんだ。
たとえ、救世と引き換えでも呑めぬ変容。処女を贄てでも避けたい裏切り。
見掛けや気配を人間に偽れても、本当に人の身に戻っても、鬼化した裏切りの事実が付けばそれでもう赦せなかった。
「ごめんなさい……」
もう一度だけ謝る。
――なるべく落ち込まないようにしなくっちゃ。
愉しいことを考えろ。明るいことを考えろ。ものごとを気楽に受け止め、なんとかなると笑い飛ばせ。
“あのひと”を取り戻したら最初に何をしようか。どこへ行こうか。
土地土地の味覚を噛み、地酒を呷ろう。ふたり揃って酔っ払ったら、どうなってしまうだろうか。
「……よし!」
オトリは帯を堅く結んだ。それから現在地を確認するために人里を探し始めた。
しばらく下ると、切り株や枝を払われた立木が目に留まった。更に歩けば先程の小川とは流れを別にする川へゆきあたった。
自分がどこをどう走ったかなど覚えていないが、海を渡ったとは思えない。川の多さからも、まだ四国のいずれかに居るのだろう。
「この川、ちょっと危ないかな」
川には人の手が入っている様子があった。精霊の滞りや土の密度が崩壊の危険を示している。
増水すれば削れて川幅が広がるだろう。上流を見れば谷間を苦し気に流れている箇所も見えた。
たとえ山水の神威があろうとも、南方の神気を孕んだ台風が来れば容易く全てを押し流してしまうように思えた。
――人里も近そうだし、注意してあげないと。
これが水分の巫女の本業だ。ついでに祓えや悪霊退治をしてもいいだろう。
狸のちょっとした悪さなら、狸の英雄と友人であるよしみで見逃してやろう。
下流へ出ると、大勢の男たちが膝まで浸かって何かの工事に勤しんでいた。
「何をなさってるんですか?」
「なんじゃ? 見ねえ巫女さんじゃな」
「私は水分の巫女です。水神の名のもとに各地の治水に努めています」
久々に本来の所属を名乗る。いつかは里に帰るつもりなのを思い出していた。
「そりゃ、ありがたい! いでらしい橋を作りたくての。坊さんにやれ言われてて。よもだなお人なんで、銭だけ出して知恵をくれんのじゃ」
どうやら川に橋を架けたいらしい。
男たちが言うには、自分たちの荘園を管理する坊主は、費用こそは惜しまないものの、寺に籠りっきりで助言の一つもしてくれないのだとか。
橋が架かれば瀬戸内に面した駅路まで通じるらしく、色々便利が良いらしい。
しかし、月日を掛けて橋を架けても、川が増水すると流されてしまうらしく、これで三度目の架け直しだという。
「柱がみぞいのかねえ。軽いと流されるじゃろ?」
「建築についてはあまり詳しくないんです。でも、上流の川幅の狭さが悪さをしてるのは分かります。雨が降れば決壊して急な増水が押し流してしまうんですよ。少し人手をお貸しいただければ、山に迷惑を掛けない範囲で水量の調整をしますよ」
この山には特に面倒な山祇の気配はないように思えた。水もまた神の管轄ではなく、自然のままに任されていた。
動植物を困らせない範囲でなら、川や山を弄っても差し支えないだろう。
「ほんじゃ、巫女さんには長くいて貰わんとな……」
「えっと……」
なんでも疑って掛かるのは失礼だとは分かっているが、余所者として掟の違う世界に足を踏み入れるのは避けておきたい気分であった。
巫女で招かれ鬼で帰るのは流石に困る。
オトリは男たちが数人がかりで橋杭を運んでいるのを見つけ、霊気を練って大力を発揮した。
「私が柱を挿してあげます」
水術の大盤振る舞い。男たちから巨大な木の柱を取り上げ、川の流れも割き、橋杭を挿しこむために掘られた穴を晒す。
「魂消た。がいにがいな娘ごだ! このおかたは本物じゃ! おい、急いで袋を放り込め!」
男たちは慌てて川へ入り、穴に袋を投げ込んだ。
「これがないと土台が固まらんからな」
「じゃあ、入れますよー」
オトリは柱を穴へと挿しこんだ。
……玉響、柱の下に離魂を感じた。
「えっ……? 今、誰かが亡くなった」
「そりゃあ、袋に贄が入っとるからの。柱がにえこんだら、しゃげて死ぬるに決まっとるじゃろ」
後出しの無残ごとがお邦言葉で淡々と語られる。
――また、殺した!?
「残りの杭も頼めますかのう?」
別の袋を担いだ男が言う。袋は大きくない。
「そ、それには何が?」
訊ねる声が震える。
「余った女の童じゃ。しゃげたそっちは罪びとじゃ」
男は欠伸をしながら言った。
「どうしてそんなことを!?」
「坊さんが人柱立てろ言うからじゃが……」
「ここには神様なんて居ない!! 誰かを捧げても、なんの意味もない!!」
「わしらに言われても困る」
「すぐにその子を出してあげて!」
オトリの周りで水が弾ける。男どもは恐れをなしてすぐに従った。
「なんで、うちは出されたんじゃ?」
袋から出された童女が問う。
「神様なんて居ないの。あなたは生贄になんてならなくていいの」
オトリが教えると、童女は顔を覆って泣き始めた。
「もう大丈夫よ」
「なんで神さんがおいでん言うんじゃ! 要らん言われてうちにおれんくなったけん、神さんに欲しい言われてしんからええと思ったのに!」
泣きじゃくる童女。
子供など暇があればできる、どうせ嫁に行く女に食わす飯が惜しい、ゆえに邪魔者扱い。ここもまた、そういう土地なのだろう。
オトリは額を抑えた。小さな突起が顔を出しつつあった。
義憤だというのに、憐憫だというのに。正しいと信じてやまない想いが、己を鬼に引き戻そうとしている。
――もう、いや。
オトリは唐突に大声で叫んだ。驚く童女や男たちを放って、上流へと駆けた。
それから鬼と水術の力をもって、神の居ない山を目いっぱい殴りつけた。陰ノ気を発散させれば元の姿に戻れるはずだ。
山を削り、川幅を広げてもまだ治まらない。不在の神への怒りをこぶしに籠めて、ただの杉の木に八当たった。
はたと、童女が心配になった。自分が離れればまた、柱の土台にされるのではないか。
オトリは鬼の姿のまま、構わずに戻った。
童女は所在なさげに男たちの仕事を眺めていた。誰も彼女に構わない。痩せた童女の頬はまだ乾いていなかった。
「お、鬼じゃ! 巫女は鬼じゃった!」
男が指をさす。
――こうなったら。
オトリは男たちのほうへ詰め寄ると、柱を挿す作業を奪った。
「橋づくりはこの鬼が手伝ってやる。だが、あの童を大切にしなかったら、大水で全てを流してくれようぞ」
なるべくおどろおどろしく、濁声で。男たちは震えながらも頷いた。
オトリはわざくれになったのではない。
幻術をもって神仏の姿を借りて説教や諫言を行うのは天狗娘の特技である。
ただ、彼女は本物の鬼であったが。
オトリはこころを凍らせ、自身を鬼と認めた。
それからその日は、角を生やしたまま橋の工事を手伝い、大量の飯を要求し、童女を大事にするようにと何度も念を押した。
大禍に乗じて立ち去り、日が沈むと次の仕事場へ足を向けた。
少しだけ胸がすく思いがした。鬼に成っても、これなら“まし”だ。きっと“あのひと”は喜んでくれるだろう。
ほんの僅か、鬼に感謝をした。化かしを愉快と笑う“あのひと”の気持ちが分かったのだ。
頬とこころを緩ませ夜道をゆく。この道の先には寺がある。手抜きの坊主のもとに乗り込んで、叱り飛ばす気でいた。
――どうしよう。
立ち止まる。寺の付近に魂の気配を感知した。
明らかに死に近い弱々しい魂の気配。だが、それはまさしく聖の風格であった。
どうやら、これもまた訳ありなのか。恐らく、助けが必要なのだろう。
だが、瀕死の霊感持ちを相手に鬼の姿のままで近寄るわけにはいかない。
仏教徒のためには仏教徒の流儀で。
――ミズメさんは弓を引く時、遠い目をしていたな……。
相方と自身を重ねる。
ハレが巫覡、ケガレが鬼ならば、御仏は無念無想。
全てを思い消し、こころを凍らせて佇む。
「やった!」
感覚で分かった。角が引っ込んだ。やればできるじゃないか。
無我の境地からは須臾の間に遠ざかったが、まあ陽の感情ならば問題はない。
オトリは自信と巫女の気を胎に籠め、聖の気配のあるほうへと進んだ。
そこには一人の僧侶が倒れていた。身体には無数の刺し傷。
「お爺さん、大丈夫ですか?」
僧侶を抱きかかえるオトリ。
「む、無念じゃ。日和の奴め……」
「ニチワ?」
「そこの寺の坊主じゃ。奴はかつてわしの弟子だったのじゃが、奴が橋づくりに何度も頓挫しておると聞いて手助けに参ったのじゃ。じゃが、奴はこの地に神がおらぬことを知っておりながら、人柱を立てさせようとしておった。畑でも、雨乞いでも人柱じゃ」
「霊感があるのにどうしてそんなことを」
「女じゃ。奴は女に誑かされておった。あれは妖しの者に違いない。奴は女に命じられてわしを討った。ありがたい護法の技を持ちながら、我が弟子は落ちぶれてしまった。折伏せんとしたが、力及ばず……」
僧侶は血を吐いた。
「そうですか。では私が代わりにお弟子さんを正気に戻して、その妖しの女を退治しましょう」
オトリは霊気を練ってみせる。
「おお、なんとも清く、験のあるおかたか。この照鎮の無念を晴らしてくだされ。わしはここで果てる」
聖は数珠を擦り合わせ拝む。
――よし、気を許してくれた。
「来世を見るにはまだ早いかと思います。あなたもまだ道半ばでしょう。生きてもっと徳を積むべきです」
「お戯れを。わしはもう、長くない」
「……決して、見ないでくださいね」
オトリは僧侶の目を手のひらで覆った。
反芻。過去の過ち、敗北、倫理の違いが生んだ無常の結末。
――他者の血肉手繰るは招命ノ霊性。
僧侶の心が拒絶を宿す前に、陰ノ気を送り込み傷付いた血肉を癒す。
すでに失われた血の多くは戻らなかったが、剥がれ掛けていた魂が繋がったのを感じた。
「おぬし、今……」
目を覆われたままの僧侶が声を震わす。
「ごめんなさい。お弟子さんは傷付けず正しますから、お坊様はここから離れていて。生贄になっていた女の子も、すでに助けてありますから」
オトリは遠巻きに「逃げたければ逃げろ」と伝えたつもりであった。
「……まるで、鬼子母神じゃな。わしは最澄殿の教えに憶えがある。たとい鬼であろうとも、尊ぶべきありがたいものじゃ」
僧侶は起き上がると、またも数珠を擦り合わせた。彼は顔をこちらへ向けていたが、瞼を閉じたままであった。
そして、口から幽かに漏れてくるのは法華経か。感謝の念仏であろうが、今のオトリの耳には優しくはなかった。
「ありがとうございます。でも私、そんな良いものじゃないみたいです」
鬼子母神は分からなかったが、褒められたのだとは分かる。頬を少し熱くしながらも、一抹の寂しさと共に耳を読経から護る。
オトリは立ち上がり、拝み続ける聖に背を向けて歩き始めた。
寺は山奥の荘園には不釣り合いな土地を有していた。
都の屋敷宜しく、わざわざ四方を塀で囲っており、内側には人口の庭や池が作られていた。
本堂もまた寺と呼ぶよりは屋敷と呼ぶが相応しい。
貴人や豪族が作らせた私寺であろうか。このぶんだと官人の正義も当てにならなそうに思えた。
元より独りで解決するつもりである。照鎮なる聖を倒した坊主よりも、それを操る女の術を警戒せねばならない。
オトリは気づかれるのを承知で、霊気の膜を広げ敵となり得る者の気配の数を察知した。
どうやら、当の坊主と女以外は誰も居ないらしい。
門にはオトリにも影響が出そうな強力な呪術らしきものが仕掛けられていたが、塀を飛び越えて侵入していたために回避されていた。
さて、ふたりの気配は部屋のひとつで、聖邪陰陽入り乱れて、ひと固まりとなっている。
――邪魔してやろうかしら。それとも……終わってからのほうが良いかな?
気後れする娘。正義の執行と聖の仇討ちをしなければならない。かつ、鬼に堕ちぬようにせねば。
なるべく余計なことは考えず、今一度こころを氷結させる。
「お邪魔します!」
宣言と共に几帳を派手に払いのける。
男女が驚きの声を上げた。オトリは直視はせず、目の端で肌色のかたまりを睨んだ。
「げっ、あんたは!」
何やら聞いた声。
オトリはそろりそろりと視線を裸体の女に移す。
頭のてっぺんで結った黒髪、並んだ菘のごとき乳房。極端に絞られた腰。
それと、股座に貼りついたお札。
いつぞや見逃した自称天女の仙人“花子”であった。
*****
禊……罪や穢れを落とす水浴。
いでらしい……長持ち。
よもだ……テキトー。
みぞい……短い。
がいに……とても、非常に。
がいな……乱暴、強い。
にえこむ……めり込む。
しゃげて……押しつぶされて。
わざくれ……やけくそ。
几帳……寝殿造りの屋敷などで用いられた移動可能な壁代わり仕切りのひとつで、長い布を垂らして目隠しにしてある。中には覗くために切り込みが入っているものもあるとか。