化かし104 乙鳥
身を隠すものの無い荒涼と開けた地に湿った風が吹く。雨の季節の足音が香る。
見上げれば煌々と輝く満月。
水分の巫女乙鳥はひとりぼっちだった。
――……。
私が里を出たのは十四の時。“あのひと”と出逢う二年前。
水分の任は里の巫女頭の候補から選ばれる。巫覡には男性もいるけれど、これは女性からのみ選ばれる。
私は霊力と巫力を合わせて里で一番だったから、水分の巫女としてミナカミ様に選ばれた。
単に霊力が高いだけでは駄目。旅に向いた術、例えば水術の早駆けや大力、身を護るための勝手様の結界術に長け、術以外の知識も充分に持っていなければならない。
巫女になるには大して努力は要らなかったけれど、朝の弱い私がそこまで上り詰めるには相当の苦労があった。
嬉しさ半分、恐さ半分。
里から出て日ノ本を旅し、見聞を広めることが許されるのは、基本的には水分の任に就いた巫女だけ。
過去には大災害への派遣で多くの里の巫覡が外へ助けに出たことがあったけれど、今は水分の任を除けば、限られた村との交易くらいだ。
ずっと里から出てみたかった。
里はとても平和で、皆笑っていて、飢えることもなく、嵐や日照りに怯えることもなく、いつでも春で秋だった。
だけど、私には里の空がとても狭く思えた。森の木々のあいだから見上げても、広場から見上げてもそれは同じ。
視界を横切る鳥を見るたびに、あんな風になれたらなといつも考えていた。だから嬉しかった。でも、それだけじゃない。
恐さ半分というのは、外の世界が里と比べて貧しいとか、争いがあるとか、そういうことを心配してのことじゃなかった。
それは私の母が原因だった。
母は巫女頭候補の筆頭で、水分の旅も終えていて、あとは先代が亡くなるかミナカミ様に交代を命じられるのを待つだけの身だった。
巫女頭は里長も兼ねる。責任は重大。だけど実際はミナカミ様がなんでも決めてしまい、里に暮らす人たちに接して意見を集めたり、神事を信徒の代表として勤める程度のものだったりする。
だけど、巫女頭にはミナカミ様を神和ぐ役割がある。有事のさいにミナカミ様に身体をお貸しし、大きな力を発揮してもらうため。
神代となるにはミナカミ様と血筋を同じくして、かつ高い霊力がなければならない。私の母は旅立ちの前にはミナカミ様を降ろして燕舞を披露するほどの素質があったらしい。
神代には他にも、その神様ごとに身体的な条件がある。
多くは性別、出産の有無。ミナカミ様のは一番ありがちだという、処女でなくてはならないというもの。
母は里に戻った時に次期巫女頭の資格を得ると同時にそれを失った。
お腹の中のもうひとつの魂……私の存在は隠しようがなかったからだ。
代わりの巫女頭候補の筆頭は母の妹の鸛鶴様となった。
巫女が旅から戻らなかったことは過去にもあったらしいけれど、母のような事例は初めてだという。
旅立つ前には男の魔手から逃れる手段と、己の袂を決して開かない倫理を厳しく叩き込まれるからだ。
それでも、ミナカミ様は母を責めることも深くを訊ねることも決してしなかったという。母もまた話さなかった。
残されたのは“新しい命の誕生”という祝いだけ。
ミナカミ様が司るのは水といかづち、雨や霧などの水の神としてのそれらに加え、誕生や再生も司る。
だから、本来なら里内における出産の失敗はありえないはずだった。
生まれてくる子の身体がどこか欠けてしまうなんてことは絶対にありはしないし、産みの苦しみはあれども、それが母子の死へ導くことはない。
でも、母の時に限ってはそうじゃなかった。
私の命か母の命か、どちらかを選ばなければならなかった。
ミナカミ様の神威が及ばなかったのだ。私たちの姿無き神様は頭上で啜り泣き、ただただ平謝りだったという。
里の外なら難産は珍しくない。
選ばなければならない場合、子供はまた作ればいいとそちらを諦めるのが当たり前だ。
だけど母は私を産むことを選んだ。周りは反対した。家族も、産婆を務めた当時の巫女頭も、隣近所のひとや飼い犬までもが反対した。
唯一、全てを決める権限を持つ神様たちだけが何も言わなかった。
母は誰の協力も得られなかった。周りは反対に母のほうを生かそうとして、様々な手を打ったそうだ。
それでも母は私を産み落とした。“とある術”を使って。
血操ノ術。陰ノ気をもって血肉そのものを操作する邪法。
またの名を“与母ス血液”。
この術に通じるためには、鬼になるか、黄泉の母イザナミの加護を受けるか。あるいは魔王のような異教の邪神の力を借りるかをするほかにない。
里では陰ノ気を扱う術は固く禁じられている。外では陰陽師や呪術師が陰ノ気も扱っているけど、私たちの里ではそもそも邪気なんて不要なのだ。
水術は万能だし、他者を呪う必要のある世界ではないから。誰もが優しく助け合い、常に柔らかで神聖な気に満ち満ちた世界。
始めから何もかもが上手くいくようになっている。それが私たちのまほろばの里。ミクマリの霧の隠れ里。
私はそんな里の汚点として産まれた。
それでも、里の人たちは私にとても優しくしてくれた。嘘なんかじゃない。
乳飲み子だった私を毎日持ち回りで誰かが面倒を看てくれた。毎日違うお乳だ。贅沢な話でしょう?
決まった誰かは居ないけれど、私にとっては里の多くの女性がお母さんで、多くの家が我が家だったのだ。
六つの時に、他の子と違って両親が居ない理由を簡単に説明された。皆がお母さんでお父さんなんだって。
八つの時に、里の結婚の儀に参加して憧れた。私は縁結びの巫女さんになるんだって。
十では、すでに基本的な巫行を完璧にこなし、術の才能に関しても母の再来だと言われるようになった。
それから十二の時にミナカミ様に呼び出され、母の旅からの帰還と私の出生の話を聞かせてもらった。
そして私は、ある疑問を抱いた。
「母はどうして与母ス血液を扱えたのだろう?」
才があったことや、陰ノ気を扱うのが禁止されていたはずなのを言っているんじゃない。
私は、「母は自分から望んで私を産んでくれたというのに、なぜ陰ノ気を出すことができたのか」が気になったのだ。
陰ノ気の元手は哀しみ、怒り、怨み、恐怖、あるいは妬みなどの負の感情だ。
術を扱えるほどのそんな気持ちがあったということ。
誰に? 何に対して?
私に、というのはあり得ない。だったら産まなければいいのだから。
産むのを反対し、実質的に私を殺そうとした里の皆に? 神威が及ばなかったミナカミ様に?
里の外で見てきた何かに対して? それならやっぱり、私の“父親”に対して?
私は恋の結晶なのか、ただの薄汚い欲望の成れの果てなのか。それも気になった。
私は外の世界が知りたくなった。里の空は狭くなったはその日からだ。ちょっとした子供らしい空への憧れは前からあったけど、本物の羨望へと変わった。
それから……里の皆が他人に見えるようになった。
里の外の世界が輝かしいものだと思えたのは最初だけだった。
まずは、もとより付き合いのある村々を回り、浜から船を出してもらい、気の向くまま風の吹くままに遠方へ進むことにした。
里を出たばかりの私は、まるで神様を扱うかのような待遇を受けた。
だけど、地元を離れてしまえば、私は旅人。見知らぬ不審な巫女に過ぎなかった。
色々なところがあった。水を大切にしている村、そうでない村、立派な神様や巫覡が居る村、あるいはお坊さんが居る村。そうでない村。
よそ者。なんの用だ。病気を持って来ただろう。その全てで手痛い歓迎を受けた。
船から降りた次の晩には、里で習った水膜で寝床を護る結界ごしに覗き込もうとする男の姿を見た。
最初に物ノ怪の難事から助けた村で案内された小屋では、村の男たちが集団で訪ねて来た。私は小屋の壁を壊さなければならなかった。
旅の行きずりに仲良くなった行商人の夫婦には安心しきっていた。若い二人は本当に幸せそうだったから。
だけど私は、妻を裏切って私の両足を開こうとしたその手に抵抗して……彼を死なせなくてはならなかった。
自分の水術が予想外に強力だったのだ。あとになって知ったことだけど、それは大結界のせいだった。
事情を知らず、夫を信じ切っていた女性からは恐ろしいほどの憎悪を向けられた。
私はその怨みに耐えられなかった。里では……里の外でもだけれど、殺人は禁忌だ。
怨念に負けて陰ノ気を抱き、巫女としての資格だけでなく、人としての資格までも失いそうに思えた。
旅で何も掴み切れないまま終わるのなんて絶対にいやだった。
彼がいけなかったのだ。“悪”だったから。
偸み、搾取、殺し、強姦。死んでしまえ。悪党は全員退治。縛り上げて突き出しちゃえ。
……だけど、その場に裁く者が居なければ、仕方がないよね?
私は極悪人の肉も魂も滅するのを辞さなかった。それは、いくら大義を掲げても決して気分の良いものじゃない。
一方で物ノ怪は気が楽だ。人間じゃないのだし。初めから“悪”だって分かり切ってるのだから。鬼や悪霊なんて鬱憤晴らしにちょうど良いくらいだ。
割り切れば旅は随分と楽になった。
善人や普通の人とは距離を置き、他は退治する。それだけだ。
それでも、悪事というものはこっそりと分からないように、時には善意に覆われて行われる。
厄介なのは、“そこではそれが本当に正義”だということもあること。
村や集落の掟にそぐわなければ、恩人や聖者であろうとも穢れ扱いなのも珍しくない。
私は信じては騙されてを繰り返した。別の正義からは逃げ続け、ただの悪人や物ノ怪たちを殺し続けた。
ひっそりと水を調べ、清め、人々を助けては追い出されて、あるいは男の本性を刺激しないようにそっと辞退し、私は日ノ本中を旅し続けた。
一年が近くなったころ、里へ引き返すことを考えた。何も考えずに旅をしていたから、自分がどこに居るかも分かっていなかった。
振り返れば、逃げ続けたばかりの旅だった。私の旅はこんなはずじゃなかった。広い空の下で自由になって、真実を見つけるための旅だったはずだ。
私は母を知りたかった。
そのために母を目指し、近付く必要があった。
だけど、重ね合わせることができたのは母と私ではなく、方々で逃げ回る私と、里の女の乳房のあいだを受け渡される赤ん坊の私だった。
「私は穢れとして、本当は皆に避けられていた?」
疑問がよぎると“こころ”が里から遠く離れてゆくのを感じた。
外の旅で里のありがたさは骨身に染みていたし、里に戻って巫女頭を継ぐことが“母を超えること”にも繋がるとは思っていた。
さかしまに私の足は迷い、里から離れ続けた。
あんな、全てが仕組まれた里なんかに戻らず、自分で求め、見つけ、選んだものがひとつでも欲しかった。
里から旅立ち二度目の秋。私は出羽国という地に来ていた。どこよここ。完全に迷子だった。
そこの荘園の受領から物ノ怪退治の依頼を受けた。相手は少女のふりをして男を騙し、金品を強奪する小悪党だと聞いた。
どうせ狐か狸だろうと思っていた。
私は木陰から様子を窺っていた。依頼主が物ノ怪の化けた少女に言い寄るさまは、演技だとはいえちょっと面白かった。
でも、彼女は……あのひとは狐狸じゃなかった。真の姿も私と同じ年頃の女の子の姿をしていた。
とはいえ、物ノ怪は物ノ怪だ。滅してしまえばいい。
不用意に水術は見せたくない。いつも通りに適当に印を結んで見せて、軽く祓ってしまえばいいだろう。
彼女との戦いでは予想外の事態が立て続けに起こった。
並みの鬼や悪霊なら消滅する程度の祓え玉。それを受けながらも多少の怪我で済ませたのだ。
幻術……私たちの流派でいう“月讀ム心”を扱うのだから、邪気は当然持ち合わせているし、魂の性質も陰を多く含まなければいけないはずだった。
本来は打撃に向かないはずの祓え玉だ。それで肉体にまで怪我をさせたというのに、魂は無傷だったのだ。
聖なる気で打撃を受けない魂は、同じく聖なる性質を持つ……。
しかも彼女は「あたしは正義の味方であり、受領のおっさんが悪者だ」と言い切った。あまつさえ、物ノ怪のくせして「善行をして回ってる」なんて!
勿論、信じられない。ただ魂が頑丈なだけの物ノ怪でしょう?
だけど、もっと驚くことが起こった。彼女が私の術を真似たのだ。
巫覡が修行のすえに身につけるはずの神聖なお祓いの気を、少し妖しげな気配混じりながらも扱ってみせたのだ。
私は起き上がることができなかった。斃されたからじゃない。
「もしも、祓えや魂が示した通り、彼女が善人だとして……彼女のような物ノ怪が例外ではないとしたら?」
問答無用で殺してきた物ノ怪たちの姿が頭の中を駆け巡った。
罰してきた悪人や、力加減を間違って殺めてしまった男性の姿や、その連れ合いの怒りの顔も……。
彼女は名乗った。水目桜月鳥。
あのひとは私にとどめを刺さず、愉しそうに笑ってどこかへ行った。
私は彼女の言った通りに受領に騙されていて、罰をきぬに着た欲望を向けられてまた逃げだした。
逃げた先で出逢ったのは盗賊と赤ちゃん。親に見放されたその子をなんとかしようと村々を訪ねた。やっぱり、よそ者の私は無力だった。
いくら意地を張っても、断られ続け、絶望しかなかった。
遠い見知らぬ地で、何も掴めないまま死ぬのだ。赤ちゃんには申し訳ないけれど、何かを胸に抱いて逝けるならせめてもの慰めだと思った。
そしてあのひとが再び現れ、私を救い、赤ちゃんのためにも飛び回ってくれた。
あの翼はとても素敵なものだった。私がずっと欲しかったものだ。
最初は物ノ怪にも良い物ノ怪がいるなんて信じたくなかった。
だけど、あのひとはそれを証明しようとし続けた。
引き合わされたあのひとの“お師匠様”、銀嶺聖母もすごい人だった。白い髪と白い翼、それから赤い瞳のうつくしいひと。
莫大な仙気と陰ノ気を使った氷術は私を震え上がらせた。相性が悪かったのもあるけれど、私は初めて完全に負けた。彼女は私を殺す気だっただろう。
だけど、またもあのひとが私を救った。
ギンレイ様もまた、話を聞いてみれば善人のように思えた。
私の旅のつらさに理解を示し、人の心を疑いながらも続けてきた善行を優しく肯定してくれた。
そして、あのひともまたつらい思いをしてきたことを知った。私はふたりの言うことを信じることにした。
それと同時に、あのひとを救いたいと強く思った。
それは、殺してきた物ノ怪にも、あのひとのような“訳あり”がいたことを否定しないことにも繋がる勇気の要る決断だった。
私はこれまでの全てを背負い込むことにした。
あのひととの旅はとても楽しかった。
あのひとは明るくて、色々知ってて、なんでも出来て、だけど、ちょっと手癖が悪くて酒好きで……しょうがないひと。
本当は賢いくせに行き当たりばったりで、適当にしてしまうことも多い。それに、たまにずるもする。
泥棒騒ぎは何度もあった。私はそのたびにあのひとに落胆し、叱らなければいけなかった。
私はあのひとのお守り役だった。
ううん、逆。あのひとが私を“ひと”殺しから遠ざけてくれたのだ。
あのひとも同じく、過ちを犯していたのは心強かった。
ずるいのだって私のほうだ。私は私の過ちを打ち明けていないのだから。
それでも旅は上手くいった。互いに学び合い、沢山の難事に関わり、世界の多くと、ひとのなんたるかを知った。
一緒に色々な遊びもやった。里での私は巫行や修行に打ち込んでいたから、そういった不真面目なこととは縁遠かった。
あのひとと出逢いはまるで、貝遊びで貝殻がぴたりとあわさるようなできごとだったのだ。
勿論、ふたり一緒でも上手くいかないこともあったし、村の人に煙たがれることだってあった。
これまでと同じ。世界は変わらない。酷いままだ。
一緒に怒ったり、哀しんだり、愉しんだりする相手がいたから、私の世界への想いが怨みや憎しみに染まることは決してなかった。
あのひとさえいれば、私は挫けずに済むのだ。
だけど一向に、男性に対する認識は好意的にならなかった。
あのひとは女の子のようでも、実は男性の部分も持っているという、とても珍しい半陰陽の身体を持つ。
そのくせ胸が私より女性らしくてちょっと腹立たしい。
私よりも酷い目に遭わされてきたはずなのに、“そういう行為”を特に忌避する様子もない。
そして、男でもあるはずなのに、私に決して手出しをしなかった。
ギンレイ様からの戒めもあったのだろうけど、男性の本能と物ノ怪の性分に逆らうことは大変だったはずだ。
あのひとは普段は女性のふりをしている。だけど、女体に興味がないわけじゃないのは知っている。
私も普段は同じ女の子として扱うのだけれど、あのひとはそれで困って前かがみになってしまうのだ。
面白かった。ちょっとした意地悪もしてやった。だけど、やっぱり男性のそれは疎ましかった。
それさえなければ、私たちはどれだけ近付いても問題ないのに。
何よりも嬉しかったのは、私の選んだあのひとが、決して私を手放さなかったこと。
宴の盃のように、隣に回して飲み合ったりしない。あのひとは気付けばいつも自分だけの盃を抱え込んで顔を赤くしているのだ。
ミズメさん。私が見つけて選んだ、いちばん大切なひと。
あのひとのためなら、神様と喧嘩をして里を抜け出すことだってできてしまう。
私はあのひとと居ることが絶対に正しいと知っている。だから、あのひとを殺そうとしたミナカミ様が間違いだって分かった。
あのひとのためなら、世界の何を敵に回したって構わない。
一緒なら、世界を救うことだって不可能じゃない。
「だけど私は、あのひとを失ってしまった」
全てが終わったら、これまでの感謝を歌に込めて贈って、何もかもを打ち明けてしまおうと思っていたのに。
――……。
オトリは月を見上げながら、静かに涙を零し続けていた。
晴れた月の晩ではいつもそうしていた。
月山が襲撃され、銀嶺聖母が薨せた翌日、オトリとミズメは敵を追った。
敵の姿が見えた時、ミズメは足を止めた。正確には止められた。
結界であった。肉の動きと魂を束縛し、霊力までも封じる強力な仙術。
ミズメはまんまとそれに足を踏み入れたのだ。
オトリは相方を救わんと、いつかイザナミの手から救ってもらった時のように彼女へ手を伸ばした。
だが、その手は払われた。当のミズメによって。
「こっちにきたら駄目だ! あたしを信じろ。あたしもオトリを信じる!」
その言葉ののち、彼女は顔色を変えてこちらを嘲笑った。
「矢張り、成熟した器というものは素晴らしいな。そなたには感謝している」
嗤う“あのひと”。
「おまえはもう用無しじゃ。ツクヨミ様はわしに永遠の命を約束してくださった」
邪仙に付き従っていた少年は捨てられた。
そして、敵たちは潮の水球に包まれ、その姿を消した。
オトリとヒサギ少年はそれぞれ想い人の名を叫ばなければならなかった。
しかし、オトリは頭が冷えると、予備となる少年はともかく、ツクヨミが自分を潰しに掛からなかったことに首を傾げた。
疑問と相方の最後に残した言葉があわさり、オトリの胸には希望が居座った。
彼女は虚のようになってしまったヒサギ少年を健気に励まし、まずは畿内へと向かった。
畿内の大結界内であれば、再び少年が狙われる可能性は低い。彼を信頼できる聖、トウネンのもとへと預けた。
老年の聖との会話によりようやく生気を取り戻した少年はオトリを手伝いたがったが、彼女はそれを断った。
それからオトリは、相方の肉体を奪った月讀命を執拗く探し求め、たった独りで日ノ本中を彷徨った。
各地で邪仙や天狗に似た噂を集め、それを追っては落胆を重ねる日々。
いっときは憎々しく思えた月も、今は愛する人と重なり、毎晩のように見上げずにはいられなくなっていた。
「ようやく、これだけ見つかった」
巫女の手の中には隕鉄誂え、星降りの小太刀が握られている。
紛うことなきミズメの愛刀。
半年近く経った現在も、成果はたったこれだけである。いまだに会うことすら叶っていない。
「早く見つけてあげないと……」
オトリにはふたつの不安があった。
ひとつはミズメの肉体を持つツクヨミが悪事を働き、彼女の綴った天狗の英雄譚を黒く塗りつぶしてしまうこと。
今のところこれは耳には入ってこない。鳥人の噂は聞こえるものの、振る舞いや表情が別人なのが幸いしているのであろう。
だが、相方の身体で悪事を重ねさせるのは決して許してはおけない。
ミズメの魂は肉体と共にあるはずなのだから尚更である。
もうひとつ、神和の弊害である。
一つの肉体には一つの魂であるのが普通だ。長く他の存在が居座れば、魂が、精神が、あるいは命が脅かされることとなる。
――でも、まだ大丈夫。
オトリの衣装、襦袢と素肌のあいだには、ミズメから手渡された鳥の紙型が大切にしまわれている。それは未だに無事で、籠められた霊気も失っていない。
噂を追うと気配が強まったこともある。ミズメの魂はまだ生きているのだ。この紙は彼女とオトリを繋ぐ大切な糸であった。
――今日はまだ歩こう。まだ歩ける。
オトリは小太刀に静かにくちづけ、胸に抱きしめ、腰に結わえ付けた。
それから次の噂を辿るために沓を踏み出した。
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