化かし102 残酷
「ミズメさん、私たちの屋敷から火の手が!」
オトリは叫んだ。
その相棒は声ではなく、陰陽の雑駁した霊気を揺らがすことで返事とした。
――何があったの? 邪仙が? 皆は? ギンレイ様は?
オトリは走った。不安と焦燥を胸に抱き、月山の面々と、並走するミズメの心の心配をしながら。
オトリは悲鳴を上げた。
炎の中に見た光景に。
オトリは気が狂いそうになった。
燃え盛る冬の始まりに。
昨日、ふたりが人里の助けをするために山を下りると聞いて、毛の混じった握り飯を支度してくれた可愛らしい手。
それは燃焼により固く固く結ばれ、更に小さくなってしまったいた。
同じく、握り飯の支度を手伝ったものの、乳母より言いつけられた別の仕事から逃げ出したすばしっこい足。
それもまたあり得ぬ方向に曲がり、運ぶべき胴体から離れた場所に転がっていた。
僅か羽毛を残し、焦げた肉塊へと変じた骸が一体。
これは猫の耳を頂いた可愛らしい頭を護るように身を丸めていた。
オトリはその猫の首から下には何も無いことを知ると、叫びすらも忘れ、助けを求めて、気持ちを同じくするであろう娘のほうを見た。
ミズメは見上げていた。燃える柱に腹を刺し貫かれ、壁に貼りつけになった師の姿を。
「ミ、ミズメさん……」
オトリはただ名を呼んだ。
惨き現実に正気を失いかけていたが、彼女のほうが己よりもずっとつらいはずだということを思い出し、それは陰ノ気すらも忘れ去らせた。
「邪仙が来たらしい。追うよ」
「何を、言ってるの?」
予想外の反応。オトリは彼女へ何を期待していたのか自身にも定かではなかったが、それはこのような場違いな冷静さではなかったのは確かである。
目の前の光景は恐らくは残酷なる邪仙と月の荒魂の仕業であろうが、オトリにとっては、近親者の惨殺体を前にして取り乱さぬ彼女こそが、もっとも残酷に思えた。
「オトリ、霊気の探知を頼むよ。全力で」
――それは私のため?
泰然、悠揚、沈着。不自然なまでの冷静さ。任の遂行や相方への気遣いを目的とした表層上だけのことか?
否、巫女は魂が視える。水目桜月鳥の魂は陰に呑まれず、鬼へも変じず。さりとて、負荷の果てに破壊されたわけでも非ず。
――裏がある? もしかして、誰も死んでない!?
眼前に広がるのは、まごうことなき親愛なる者たちの無残な遺体の転がる光景。
血も肉も骨もにせものではなく、魂もすでに去っており、それぞれに憶えのある霊気の残滓が残っていた。
それでもオトリは天狗たる娘の冷徹の答えを見つけるべく、己にとっていちばん都合の良い解釈と共に、瞬く間に霊気を高め、それを膜状に広げ、近隣一体に張り巡らせた。
多くの鳥獣の気配があり、木々や土に宿った精霊の気配があり、だが陸魂の気配はなく。
代わりに見つかったのは、“愉悦にまみれた気配”と“貴き神の気配”であった。
「南」
オトリは短く方角を呟いた。それから肉の水気へ霊気を満たし、その肢体を跳ねさせた。
沸き上がる霊気は陰に非ず。それは陽ノ気。陰ノ気の使用を固く禁じる古流派の巫女として魂に叩き込まれる反応。
――勝手に沸き上がるくせに。本当なら憎しみや哀しみであるべきなのに。
巫覡の性もまた残酷か。祓えの巫行に求められるはこころの切り替え。
巫覡が行う厳しき行のすえに、感情と発する気の乖離を起こすことも珍しくはない。
オトリもまた陰ノ気の結晶である涙を流しながらも、神の世界への道を開く祝詞を詠み上げられる域に達している。
ミズメの冷静を非難するのであれば、自分の陽ノ気は嗜虐者と同類と呼べるのではないか。
己の根底を疑う疑問。だが気の色など、観測上の問題に過ぎない。己がそうでないことなどは理解している。
「手加減は無しだ。邪仙は魂まで滅する。ツクヨミは陰に染めてヒサギの身体から祓うよ」
銀嶺聖母の置き土産。ミズメは師の操る陰陽を転換する仙術を習得していた。
邪に染めて聖で祓う。これが神の殺しかた。
――神殺し、仇打ち。それでも、私は巫女の気を使う。でも、あなたは巫女でもないのに……。
水術の早駆けを山彦するミズメの霊気もまた、精一杯の聖を湛えていた。
これはオトリにとって何よりの慰めであった。
――この人が染め変えて、私が祓う。もう絶対、負けはしない。
しかし、現実はしばしば予測を超える。
敵との数度の邂逅がオトリたちに対策を立てさせたのと同じように、相手かたもまた無策で虎の巣に踏み込んだわけではなかった。
「僕が、僕が殺したんです。やめてって言った。身体を返してくれって何度も。だけど、僕は殺したんだ。あの子たちを。なんにも悪いことなんてしてないのに! それに、あのひとのことも。ミズメさんの大事な人だったのに!」
ヒサギ少年は血濡れたたなごころを見つめていた。
降霊や神降ろしも、慣れれば憑依時の記憶や感触が失われないことがある。
あの虐殺はツクヨミと邪仙の意志である。しかし、それを行ったのは紛れもなくヒサギ少年の肉体であった。
邪仙の姿は見えず、ただただ告白と懺悔を繰り返す少年との遭遇。
彼の胸元から妖しき月光。
ツクヨミはこちらへ揺さぶりを掛けたのち、すぐに少年の身体を奪い、殺させた同じ血濡れの手をもってこちらへと襲い掛かって来た。
声なき声が「やめて、助けて」と叫んだ気がした。
「赦さない! 絶対に!」
オトリは自身の“たましい”がちりちりと音を立てて、別の色に染まる……否、生まれ変わってゆくような感覚を憶えていた。
水術とは別のところに、胆力の強化や、身体の頑丈さが高まる気配を感じた。
「出て来い糞爺! 絶対に殺してやる!」
こう叫んだのはオトリであった。
「オトリ、正気に戻れ! このままじゃ……」
相方が呼び掛けている。器用にもツクヨミの神術を真似、いなし、そのうえで敵の気を塗り替えながら。
――あのひとは本当に変わった。強くなった。だけど、私は……。
世界の視えかたが少し変わった気がした。爪を切り忘れていた気がした。
折角、梳かしてもらった髪も乱れている。なんだか額がむず痒い。
オトリは分かっていた。愛するひとたちの死を見てから、自身へ這い寄っていたのが鬼であると。
仇のひとりであるツクヨミを見た瞬間に巫覡の性は揺らぎ、少年の告白により完全に崩れ去った。
「なぜ、あんな酷いことをしたの!? おまえは神様でしょうに!」
今、オトリは全身に陰ノ気、それも害意たる邪気をまといて世界に向かって叫んでいた。
「僕が、僕が……」
玉響の間に“ヒサギ”の貌がヒサギの貌へと変じる。
手を血に染めたはずの加害者は被害者でもあり、それを命じた存在は貴き神。
「人の心とは水に映る月のようなものだな。そなたら人間が見上げるたびにつくづく思う」
普段の月が平穏の極みにあるぶん、その荒魂の性質は邪仙よりも悪辣であった。
「面白き余興であったろう? これは老爺への礼だ。私が新たに力を貯える助けをしてくれたことへの感謝のしるしだ」
「喋るなツクヨミ!」
オトリは叫ぶ。
「今のあたしたちならふたりでもツクヨミを祓える! もう半分、黒に変えた!」
反して冷静を貫く呼び掛け。
だが、いくら天狗が仙術によりツクヨミを塗り替えようとも、巫女はそれに応えることができなかった。
――駄目、お祓いの気が扱えない!
さりとて有り余る霊気。さりとて少年の肉を叩くわけにもいかず。
出て来いじじい、殺してやる。ただ、殺しても構わぬ相手を呼びつける言葉をあたりにぶちまけ続ける。
正気を失おうと、鬼へとつま先を差し入れようと、相方の声に応えられずとも、霊感だけは鋭く研ぎ澄まされてゆく。
そしてオトリは感じ取った。
とある方角から、敵意を持った仙気が、己の背後に立っているであろう最愛のひとへと向けられたのを。
「そこか邪仙!!」
睨視。睨視を越えて邪視。
しかし、心はさかしまに、
――ミズメさんはやらせない!
彼女は殺害よりも守護を優先。守護神の加護、血筋による特異な才能。
絶対防御、光の天蓋を展開した。
霧の隠れ里、オトリの術や巫行における師で母の姉である鸛鶴曰く。
人より速きものは鳥、鳥より速きものは風、風より速きものは音である。
そして、音よりも速きは我らの神が操るいかづち。
いかづちには耳を劈く響き、身を焼く炎、視界を奪う光の三つがあり、これもまたそれぞれ天地ほどの速さの開きがある。
音術を得意とする伯母の音矢ノ術。
それは霊気を込めた声を圧縮し、いかづちを超えた光の速度で敵を貫く奥義。
もしも、それと似た術が莫大な仙気にて行われた場合、何が起こるか。
結界を貫通? 否、オトリの膜はそれすらも拒絶するであろう。
だが、いかに無敵の盾を持とうとも、それを構える雷神の眷属はまだ人であり……。
天蓋の内側でミズメの悲鳴が上がった。
「お師匠様!」
オトリには何が起こったか分からなかった。
ただ瞳には、絶対の自信の内側で、死んだはずの女が腹を爆ぜさせ、その翼を桜色に染め上げて立っており、膝を突いたミズメがそれを見上げている光景が映っていた。
「なんで出てきたんだよ!」
ミズメが叫んでいる。
「ごめんね、最期まで過保護で……やっぱり名前負けね」
崩れ落ちる銀嶺聖母。血染めの羽毛が桜のように舞い上がる。
――ギンレイ様? どうして?
彼女の肉体は水術の治療が死を招くほどの損傷。そして魂の気配は……寿命を示すそれは、ほぼ“無”に等しかった。
「私ね、本当の娘のように思ってたのよ……」
彼女の遺された命は何に使うべきか。
「あなたたちのことをね」
オトリは天蓋を解き、己に掛けていた枷を取り払った。
どこかに潜んでいたもう一人の自分の呼び掛けに返事をする気でいた。
「私がどうして仙人を目指していたのか、もう思い出せないけど、ミズメの精を得てまで不老不死でいようとしたのが、どうしてだったのか、ようやく分かったのよ」
オトリは片手を持ち上げ、たなごころを目いっぱいに開いた。
――肉、それは水気のかたまり。猿だろうと、糞爺だろうと同じこと。
念じれば遠方から黒子姿の老爺が眼前へと転がり込んで来た。
その肉体は絡み合う蛇のようによじれ、顔は醜くゆがみ、血泡と共に愉悦と呪詛を吐いていた。
人形操作の芸能を持ち、死体を操る仙人の肉体を自由にする。オトリは少しだけ気分が良かった。
「ははは! 愚かな奴らめ! 莫大な気をもちてそれで穿つ。単純であるゆえに強い! アズサマルよ、貴様がわしを搦め手で叩きのめしたゆえに思い至ったのじゃ! 貴様がその女を殺したに等しい!」
嗤う糞爺。
「あわれだな。不老不死を求めた先が自死とは。世を儚まずに逝けるのは幸福やもしれぬが……」
“ヒサギ”は視線を師弟から邪仙へと移し、短く笑った。
――とりわけ、脳や心の臓は水気が多い。
他者の水気を操るは招命ノ霊性。古流派の霊気操作の特性のひとつを指す言葉。
本来、自身のものとして確固としてあり続ける生きた血肉。
それは所有者の霊気と色濃く結びついており、水術をもって操作するには宿る霊気を追い出す必要がある。
「私ね、家族が欲しかったの。自分だけの家族が。本当に立派になったわ、ふたりとも。出藍の誉れってやつね。もう叶っちゃったから、だから、いいのよ」
銀嶺聖母の声が聞こえた。
玉響、海千山千の邪仙、帶走老仙の頭蓋と胸が爆ぜた。
「死ね」
オトリが命ずると彼の体液は全て霧散し、あたりの雪と混ざり合った。
「……逃がさない」
巫女の手が掴み取ったのは赤黒き邪仙の魂。
それは酷く暴れ、手のひらに脈動を伝え、そのか弱き抵抗は彼女の胎に痺れを感じさせた。
「母の元、強き者のその御霊、誘い伊邪那美み……」
オトリのくちびるからいずる祝詞。
禁ノ祝詞、黄泉贈りの寿ぎ。
それは、隠れ里で死罪に値する行為をした者の魂に貸せられる刑罰。
血肉を精霊に還すことを許さず、魂を高天へ至らせることを許さず。そして罪は永遠に赦されず。
いかんともしがたい巨悪を、常夜の穢れ、イザナミのもとへ導く禁じ手である。
「黄泉へ贈ら……」
「オトリ」
――あのひとの声だ。聞いたこともないような、なんて哀しい声。
祝詞を呑み、手のひらの中から邪仙の魂が逃げ出してゆくのを感じる。
清浄の間に意識が切り替わった。
怨みなどどうでも良かった。彼女にはやらねばならぬことができていた。
それを識ったとき、己のたましいが巫女へ還り、鬼が去るのを感じた。
「見てよこれ、お師匠様だよ。笑っちゃうよね」
ミズメが掻きいだくのは一羽の鴻鵠。
白く大きな鳥。それは血に塗れていたが、吹き付ける雪が本来の色を補い、とてもうつくしかった。
鳥の身体から魂魄が抜け出てくる。
青く。白く。とても清らかで。酷く弱々しい。
オトリは誰にも邪魔されないように、持てる全ての気を祓えの白へと塗りつぶし、視える世界を聖域へと変じた。
物ノ怪であれば魂が削れてしまうような、誰でも持ちうる些細な邪気すらも祓われてしまうような強烈な祓えの気。
「送ってあげてよ。お師匠様もオトリにして貰いたいってさ」
その中に居るはずの天狗の娘と、物ノ怪の魂は穏やかにあった。
巫女は静かにうなずいた。
「高天に、還りし命を寿ぎます」
詠み上げられる祝詞。
光の柱は一層神聖さを増し、荒ぶる山女神の雪雲すらも退けた。
天に神の国。
地には静寂の聖域。
道が拓く。
その外では吹雪が光を反射して猛り狂っていた。
「「さようなら、ありがとう」」
月山のあるじ、震旦より訪れし稀人、銀嶺聖母の御霊は冬の桜吹雪が見守る中、神々の暮らす高天國へと導かれていった。
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