化かし010 穴熊
ふたりは出羽国を南下し、越後国へと向かう。
佐渡への海路あたりから北陸道へ入るため、そのまま海沿いを行くか、山を一跨ぎしてから都へと至る東山道へ入る道筋を辿る予定としている。
どちらの道を行くかは、その時の天候次第とすることにした。
日ノ本が背負う北海沿いであろうが、山脈山地連なる東山道であろうが、もう少し季節が進めば雪に見舞われるのは避けられぬのは同じこと。
冬場の旅は少々過酷となるであろう。
そして畿内を南下すれば目指す紀伊へと辿り着く。
「……というような道筋で紀伊国を目指すよ」
ミズメが言った。
「なるほど」
オトリは首を傾げた。
「えっと、大変な長旅になると思いますけど、よろしくお願いしますね」
それから彼女は歩きながら頭を下げた。
「あたしは帰りはどうせ空を行くし、縄張りのうちはオトリも楽ができるから、安心していいよ」
「縄張りって言いますけど、具体的に土地とかを持っているんですか?」
またも首を傾げる娘。
「山の外に荘園を持ってるとか、他に管理してる村があるってわけでもないね。天狗たる娘、水目桜月鳥は翼の物ノ怪で弱いものの味方だ! ……って噂が届いてる範囲かな。月山の近辺の人里の大抵には顔を出してるから、あたしのことを知らない人はそう居ないよ」
「そんなにですか?」
「うん。人と物ノ怪のどっちにも名が通ってるよ。だから、あたしと一緒にいれば物ノ怪は化かしたりしてこないし、漂白の巫女だからって里で邪険に扱われたりもしないはず」
「ふうん……」
オトリの視線はなんだか疑わしげである。
「いやいや、本当だよ。ま、出羽を抜けるまでにいくつかの村に泊めて貰う予定だから、その時にでも分かるよ」
「でも、人はともかく、物ノ怪も本当に平気なんでしょうか。ミズメさんやギンレイ様の目だって、隅々まで行き届いてるわけじゃないでしょう?」
「そうだね。縄張りといっても、目に見える壁があるわけじゃないしね。外から入って来るのもいるし、新入りの物ノ怪は知らなくて勝手なことをしたりもするかな」
「物ノ怪って、具体的にはどのあたりまでが領分なんですか? 悪霊も?」
「悪霊は意思の疎通ができない一方的な奴が多いし、浄化されて消滅するか、成仏の道に入るかになるから、基本的には仲良くするのは無理かな。見つけたら巫覡や坊主に教えて対処して貰ってるよ」
「じゃあ、狐や狸は? 人を化かすものもいますけど、どのあたりからが“物ノ怪”なんでしょうか?」
「うーん。境界は曖昧かな。霊力が高いと長生きして人の言葉を理解するようになったり、中には口を利く奴もいるね。そういうのが月山で見た狼みたいに、かしらとして子分を統括してくれてる」
「動物が人の言葉を覚えて話すんですか? 獣の姿を借りた神様とかでなく?」
「うん。やっぱり人間が何をしてるのかが気になるみたいだよ。獣にとって人間は一番危険な生き物だけど、その反対の場合もあるからね。一緒に暮らしたり、餌をくれたりね。そういう時に言葉が話せると便利だ」
「私も小鳥や犬なんかは好きですよ」
「犬は……個人的に苦手だけど、鳥とはよく会話するかな」
「鳥が人の言葉を?」
「そういう種類の鳥もいるけど、あたしが鳥の言葉を理解できるんだ。といっても、鳥同士でも“いろはにほへと”を話してるわけじゃなくて、“あっちへ行け”とか“遊ぼう”とか、簡単な言葉や仕草でやりとりしてるんだけどね」
「羨ましいなあ。私も鳥さんや、わんちゃんとお話したい……」
「お師匠様に物ノ怪にして貰ったらできるようになるよ。鳥の言葉が分かるのも、借寿ノ術の影響だし」
「でも、物ノ怪はやだ……」
「そんなに毛嫌いしなくてもいいのに。あたしも物ノ怪なんだぞ」
「ミズメさんは翼さえ出してなければ女の子……みたいだし」
オトリは頑なに物ノ怪を嫌う。彼女がミズメと出逢うまでに遭遇した物ノ怪の全ては“敵”であったという。
しかし、ミズメは物ノ怪にも色々あるのを知っている。彼女は出羽国代表の物ノ怪として、友人に偏見を緩めて欲しいと考えた。
「じゃあ、この近所に知り合いの物ノ怪が棲んでるから、ちょっと会って行こうか」
ふたりは道をそれて森の中へと踏み入った。
人の踏み固めた道は消えるも、小さな足跡が残したしるべにそって茂みが薄くなっている箇所がある。
そこをしばらく行くと沼が顔を出した。水面には蓮の葉がびっしりと生い茂っている。
夏場ならば運が良ければ見事な蓮華の光景を拝めたであろう。
「おーい! “ハスカケ”!」
ミズメは沼に向かって大きな声を上げた。
すると、沼の中から胴回りが大木ほどもありそうな大蛇が現れた。
「蛇の化生!?」
巫女が構え、霊気を練り始める。
「大丈夫だって。なにも悪さをしないよ」
『なんじゃ、この巫女は? 見ない顔じゃが。ミズメよ、わらわは仏門に宗旨替えしたと言ったであろう。巫女を立てられても、もう神をやる気なぞないぞ』
蛇は話ながらも、口を閉じたまま舌の出し入れを続けている。
霊力による会話、霊声だ。霊感がなければ聴くことはできない。
「今日はそういうのじゃないよ。この巫女はあたしの友達。だけど、物ノ怪嫌いが酷いから、暴れる物ノ怪ばかりじゃないってところを見せたくってね」
『そんなことで呼んだのか。ミズメよ、わらわは物ノ怪ではないぞ。この沼のあるじで元は神じゃ。たまの食事で人の飼っていた馬を飲んだゆえにおぬしに叩かれただけであって、ただの化生であったのはもう五百年は昔のことじゃ』
「あれ? そうだっけ?」
ミズメは頭を掻いた。
『相変わらず忘れっぽいのう……。おぬしの求める答えを持つ者を探すなら、西の川の村へ行けばよいじゃろうに。わらわは魚や蛇どもと念仏を唱えるのに忙しいから、これで失礼させてもらうぞ』
そう言うと大蛇は水中に帰って行った。
「はあ、驚いた。つい物ノ怪かと思っちゃったけど、しっかりと神気を持ってましたね」
「思い出したよ。大昔にこの沼の側に村があって、ハスカケはそこの住人に祀られてたんだ。飢饉で村民が減って生き残りは移住しちゃって信者が減ったから、彼女はこの沼で隠居してる……って話だよ」
「ふうん」
「崇拝者を失ったから、もう百年も生きられないんじゃないかな。最近は仏門に宗旨替えして、死後の魂のことを考えてるみたい」
「神様だったのに、少し寂しいですね」
「仕方無いよ。じゃあ、西の川へ行こう」
「そこにも何か居るんですか?」
「どうだったかな。忘れた。でも、ハスカケの言うことは当たるから、従ってれば間違いないよ」
それからふたりは西へ向かった。幅の広い川があり、そこからほど高いところに家々が建ち並ぶ。
「思い出したぞ。あの村には神樹があるんだ」
「神樹なら分かります。森や山の神様が憑代として降りられる樹齢の高い樹木……御神木ですよね。でも、それは物ノ怪とは違いますよ」
「その木の洞に穴熊が棲んでてね。そいつがとても良い奴なんだ」
「穴熊って、狸ですか?」
「それを言ったら怒られるぞ。あいつがいうには、狸は犬の親戚で、穴熊は鼬の親戚なんだってさ」
「ふうん? いうにはって、その物ノ怪も口を利くんですか?」
「うん。あたしが教えた。その代わりに、幻術の練習に付き合って貰ったんだよね」
「へえ……というか、そんな仲だったのに忘れたんですか?」
「ついうっかり! 百五十年は昔のことだからね。それにあいつがあの村と仲良くなってから、ちょっとした考えの相違があって、近寄らなくなったんだったよ」
「喧嘩したんですか?」
「喧嘩とはちょっと違うんだけど……まあ、オトリとは気が合うと思うよ」
ミズメは苦笑いをした。
『オトリとは気が合うと思うよ』
唐突に声がこだました。
「なんで二回言ったんですか?」
「いや、あたしじゃないよ」
『なんであたしじゃないですか?』
また声がした。
「何言ってるんですかミズメさん?」
「だからあたしじゃないって、これは……」
『あたしは二回と気が合うじゃないよ』
わけの分からない言葉の羅列である。聞こえてくる声には霊気が感ぜられる。
――これは音術だね。
ミズメは音の出処がすぐ側の茂みであると見抜き、そこへと腕を突っ込んだ。
ふさふさとした温かいものが触れ、それを掴んで引っこ抜いた。
「わっ、狸!」
オトリが声を上げる。
「違うよ、これは穴熊」
ミズメは捕まえた小さな獣を睨んだ。
「この悪戯者め」
「今の声はこの子の仕業? やっぱり悪戯者じゃないですか」
オトリが不満を漏らす。
「こいつはあたしが言ったのとは違う穴熊だよ。この小さいのはまだ子供だ」
『違う穴! 違う穴!』
「喧しい!」
ミズメは仔穴熊の頭をげんこつで叩いた。穴熊は悲鳴を上げてぐったりとしてしまった。
「わあ、殺した! 酷いですミズメさん! 私は確かに物ノ怪嫌いですけど、流石にこの程度の悪戯で命を取ったりはしません! ミズメさんのほうがよっぽどたちが悪いですよ!」
巫女から激しい非難が飛んでくる。
「なんだよもう! 嫌いとか殺すなとか。……ほれっ」
ミズメはオトリに向かって穴熊を放り投げた。巫女の衣がそれを受け止める。
「あれ? 息してる……」
オトリが呟くと、穴熊は彼女の衣から飛び出し、茂みの中へと逃げて行ってしまった。
「死んだふりだよ。なんで悪さしたのかは知らないけど、こいつは“クマムシ”の子分か何かだ。まったく、間の悪い奴!」
ミズメはご立腹だ。
さて、その“クマムシ”の暮らす神樹へとやって来た。
見上げればひっくり返りそうになるほどに巨大な櫟の木。常緑の木の葉は付近の山々が秋に染まろうが冬に散ろうが、いつでも瑞々しさを保っている。
その根元には、底の見えぬ暗い穴がひとつ。
穴の前には村民と思しき男が立っていた。大樹に向かって手を合わせて何かを祈っている。
彼はこちらの気配に気付いて振り返った。
「お? あわやに空で見かける鳥の娘じゃねが」
「その通り! 困りごとがあったら何でも相談! 弱いものの味方の天狗娘とはあたしのことだよ!」
「うちは間に合ってっから。クマヌシ様が面倒見てくれるべよ」
「そのクマムシ様が正義に目覚めたのもあたしのお陰なんだけどなー」
胸を叩くも無碍にされる天狗娘。
「嘘こけ。噂はおぼえっが、クマヌシ様はおまえが盗人じゃとおっしゃる。ま、恩人も本当らしいがら邪険にはせんが。それとクマムシじゃねえ、クマヌシだ」
そう言うと村人は立ち去って行った。
「盗人だなんて、善行と反対じゃないですか!」
オトリが睨んでいる。
「ち、違うんだって!」
ミズメは言いわけを始めた。
かつてミズメは、穴熊の化生であったクマヌシに人語を教え、互いに幻術磨きの競争相手を務めた仲であった。
友人といっても差し支えのない関係であったが、ある時にミズメのお気に入りの昼寝用の木が年老いた杣人によって切り倒される事件が起こった。
その杣人は普段からクマヌシと仲良くしていた老人で、クマヌシは赦してやってくれと懇願したそうだ。
ミズメは口で赦してやるとは言ったものの、やはり腹の虫がおさまらず、老人にこっそりと悪戯を繰り返した。
大体は昼飯をくすねたり、昼寝の邪魔をする程度であったが、ある時、彼の斧を隠した。
そばの木の陰に置いただけであったが、運悪くそれを見逃した老人は山で迷い、それを助けたクマヌシが話を聞いて発覚し追求。
以来、二人の仲は冷え込んだままとなっている。
「違わないじゃないですか!」
オトリが突っ込んだ。
「だって、糞爺が悪いんじゃんか」
「樵なんですから木ぐらい切ります」
「あたしのお気に入りだったのにさ。木だって生きてるんだぞう」
「お年寄りも大切にしてください」
「年寄りってのは、好きじゃないんだよね。身体が不自由になったら役に立たないしさ。あたしはそれなのに敬えっていう、儒教の敬老精神ってのが大嫌いなの!」
「どうしてですか? お年寄りは尊いですよ。身体が不自由でも物知りになって皆の相談役になります。長生きするのだって難しいことです。もしも神仏に嫌われるような悪人であれば、そうはなれないでしょう?」
――邪仙みたいな奴もいるけどね。
ミズメは言葉を飲み込んだ。オトリと揉めるのが目的ではない。
「誰ですかあ、御神木の前で大騒ぎをしてるのは。冬眠が近いので、そろそろお休みを頂きたいのですが」
穴の中から人語とともに、穴熊が現れた。
「わ! 本当に口を利くんですね!」
オトリは楽しげに言い、それから穴熊をまじまじと見つめた。
「でも、やっぱり狸に見えますね。うちの里では狸も穴熊も“貉”って一纏めにして呼びます」
「狸ですって……?」
穴熊はすっくと後ろ足で立ち上がった。
「失礼なかたですね! 狸は犬の親戚で、穴熊は鼬の親戚です。狸が得意なのは音術で、狐が得意なのは幻術。穴熊は両方がほどほどで、おいらはそういった術はもっぱら子守りの手伝いにしか使いません! 狸は人の驚く声を聞いて笑い、狐は驚く顔を見て笑います。特に狐の性悪にはご用心! 中には幻術を使って人を裸に剥いて川に放り込んだり、糞をご馳走と見せ掛けるとんでもない奴もいますから」
穴熊は早口で蘊蓄を並べた。
「は、はい……気を付けます」
気圧される巫女。
「自己紹介が遅れました。おいらの名前はクマヌシ。出羽の神の丘の麓が御神木の村、森の神と人々を繋ぐ男覡のクマヌシとはおいらのことです。あなたはどちら様でしょうか? とても神聖な気を感じますね。その紅白の衣装は神に仕える同業のかたに違いありませんね。祈祷お祓い薬学に神様との伝言役。その巫女様が、一体この私になんのご用事でございましょう?」
またも早口。
「えっと、私は紀伊国の里より全国の水難を助けに旅をしている水分の巫女の乙鳥です。あなたのお知り合いのミズメさんの友人で、故郷に帰るための道案内をしていただいています」
オトリも何故か早口で自己紹介をした。
「こいつ、物ノ怪嫌いなんだよ。あたしのほかにも良い物ノ怪が居るってことを見せてやりたくてさ」
ミズメが口を挟む。
「ぬお!? 水目桜月鳥! よくもこの村へ顔を出せたな!」
「よう、クマムシ。五十年ぶりか?」
「クマヌシだよ! それに、五十年じゃなくて四十五年とお月さん三週ぶりだ! お爺さんに謝らずじまいだろう!?」
「なんだ、あの爺さんはくたばったのか」
「当たり前だよ! もうずっと昔の話! 亡くなったのは四十年前!」
クマヌシは繰り返し飛び跳ねて抗議をしている。
「そんな昔の話なら、水に流してくれても良いじゃん。当人も死んじゃったんだしさ」
「断る! お爺さんはおいらの友達だったんだぞ! お爺さんは無事に天へ昇ったけど、そのあともおまえが遊びに来てくれなくて、この四十五年間で富士山のように積み重なった寂寞をどうしてくれる! 寂し過ぎておまえの真似事をして村の手伝いをしたり、それを森の神様に褒められて、とうとう男覡まで始めてしまったりしたんだぞ!」
「う、うるさいな。皆があたしを泥棒だって言うし、おまえがこの辺の面倒を見てたから特に来なくていいと思ったんだよ……」
――なんだよこいつ。富士山だなんて、大袈裟だよ。
「おいらに謝れ! ついでに死んだ爺さんに謝れ!」
烈火のごとく吠える貉。ミズメは一歩後ずさる。後ろからくすくすと笑いの漏れる音がした。
「分かったよ。ごめんって。また、術比べでもしようよ。おまえが怒ってるものだと思って近寄らなかったんだ。それで、ちょいとあたしの友達に物ノ怪にも良い奴がいるってところを見せてやってくれないか」
ミズメは頭を掻く。
「友達、友達友達……。むむむ。ミズメさん。おいらも友達ですよね?」
「うーん、どうかな?」
「ミズメさん!」
声を上げたのはオトリだ。
「なんだよ、うるさいな。ごめんごめん。友達だよ」
「……よろしい。謝るなら水に流しましょう。この巫女様はミズメさんが物ノ怪なのをご存知なのでしょう? ならば、おいらが善行を見せなくとも、もう充分では?」
クマヌシは首を傾げた。
「あたしじゃ納得できないんだってさ」
「別にそんなこと言ってませんよ。ただ、物ノ怪にはやっぱり悪いもののほうが多いと思うだけです」
「うーむ。巫女様の言は否定できません。物ノ怪が霊力を身につける場合は、陰ノ気が切っ掛けのほうが多いですから。たとえ魔性でなくとも、法術を身につけると使ってみたくなる。用もないのに使うとなれば悪戯しかない。そうやって魔に落ちていくものです。おいらはそんなところでミズメさんにぎゅう! とやられて改心しましたけどね」
「改心といえば、さっきも子供の穴熊が音術であたしたちを化かそうとしてきたよ。クマヌシの子分だろ? ちゃんと叱っといてくれよ」
先程の穴熊には逃げられてしまった。きっと繰り返すであろう。
相手が自分だから良かったものの、事故を招いたり、返り討ちにあってしまえばことだ。
「あー……。申し上げ、にくいのですが」
クマヌシは言い淀み、黙り込んでしまった。
「なんだよ。言いなよ」
「そいつは多分、おいらの子供です。この秋に母親のもとを離れたばかりの。ほかの穴熊連中は冬籠りの仕度を始めてるので、まだ遊び回ってるのはそいつしか思い当たりません」
「おまえに子供がねえ」
「おいらだって物ノ怪である前に穴熊ですから。この近辺にはおいらの胤は沢山いますよ」
「人間と揉めたらまずいんじゃないの?」
「そうですね……。山には狩人もいますから。今までも、何度涙を呑んだか。でもそれは、おいらと狩人の問題じゃなくって、穴熊と人間の関係なんですよ。それでもこの村のかたは“秋冬の穴熊は神の子”だって、言ってくれるだけましです。これも共存共栄の御利益です」
クマヌシは寂しげだ。
「そっか、おまえにも色々あるんだな……」
「まあ、そんな暗い顔しないでくださいよミズメさん。今度の子は音術が達者なので、おいらの跡取りにしようと思ってるんです。村人の皆さんと一緒に森の神様に神楽でも供えようかと。村の人にもご了承いただいてますし、悪戯も笑って済ませてくれていますよ。あれもね、脅かしてるんじゃなくて、おしゃべりがしたくてやってるんです。ああやって人の言葉を覚えていってるんですよ」
「……それでも、控えさせたほうが良いかもしれない。このあたりも、開拓が進んできてるから、地元の出じゃない人間も多くなってきた」
ミズメの反論は小さな声だ。
「承知してます。息子だけに限らず、おいらにもそのうち矢が刺さるかもしれません。でも、それも世の中の流れかもしれませんねえ」
穴熊はまるで人間がするように溜め息をついた。
「悪さをしてないおまえが殺されることはないじゃんか! 長生きの動物は尊いから拝まれるってのはお約束だ!!」
一方でミズメは獣のように声を荒げた。
「あはは! ミズメさんにしては妙なことを言いますね」
クマヌシが笑う。
「なんだよ?」
「そう思うなら、お爺さんのために一つ手を合わせてやってくれませんか? お爺さんもただの人の身で八十年の長生きでしたから」
彼がそう言うと、ミズメは黙って神木のほうを向いて手を合わせた。
「ありがとうございます」
「ちぇっ。結局、あたしが折れる羽目になったか」
「四十五年待ったので、たまには勝たせて貰わないと釣り合いませんね。さて、ミズメさんのお手伝いをしたいのはやまやまなのですが、おいらも冬籠りの仕度で忙しいのです。例の息子を早いうちに寝かしつけようかと」
穴熊の大きな欠伸。
「分かったよ。次に会ったら、化かし比べでもしようよ。子供にも何か面白い術を教えてやるよ」
「楽しみにしてます。いやあ良かった。五十年振りに良い夢が見れそうです」
穴熊はそう言うと、ぴょんと穴の中へと戻って行った。
「当てが外れた。また良いところ見せ損なっちゃったね」
ぼやくミズメ。
「あの……ミズメさん。もう充分ですよ」
「まだ善行してるところを見せてないじゃん」
「あなたが根の良いかただっていうことも、物ノ怪や獣にも色々あることは、分かりましたから」
「そう? それならいいけど……」
分かったと言う割には、オトリの表情は明るくない。
「旅が終わったら、またクマヌシさんを訪ねてあげてくださいね」
「気が向いたらね」
「気が向いたら、じゃなくて絶対にです!」
詰め寄るオトリ。
「別にいいじゃん、他人ごとだろー。オトリとあたしとじゃ、考えかたが違うの!」
「でも、クマヌシさんは寂しがってました」
「あたしたちにとっちゃ、五年も五十年もそこまで違わないんだよ。あいつも長生きなんだから平気さ。暖かい季節なら、いつだって会えるんだし」
「そういうことじゃないと思います。ギンレイ様が互いを補い合えと仰ってたのを覚えていますか?」
「言ってたね」
「ミズメさんは長寿だからなんでも忘れるようにしてるようですけど、それは少し勿体ないと思います。人と人との関わり合いって、もう少し複雑で大事なものなんじゃないかと」
「悩んでも得はしないよ。寿命が縮まるだけ」
「あなたは悩まなさ過ぎです。それは欠点でもあるんですよ。私が物ノ怪嫌いなのが良くないとおっしゃるのなら、旅での善行ではミズメさんやギンレイ様のおっしゃる“共存共栄”も意識しますから、その代わりもう少し友達や思い出を大切にしてください」
――ちぇっ、押し付けるなよな。何を偉そうに……。
とは思ったものの。
「分かったよ。約束する。ま、オトリが物ノ怪への偏見を少しでも改めてくれたならそれでいいさ。旅に戻ろう。ここはまだ銀嶺聖母のお膝元だよ」
ミズメは返事をして歩き出した。
「お願いしますよ。共存共栄、私も頑張ろうっと」
巫女の願いが心を打ったとか、失われたと思われていたクマヌシとの友情が彼女を変えたとかいうわけではない。
単に、面倒だったからである。
享楽を求め、目の前の不幸に怒り、怨みを忘れるという水目桜月鳥。
そんなどこか胡乱な天狗の掲げる共存共栄に、人の好過ぎる巫女が加わった。
ミズメはちらと一瞬だけ櫟の大樹を振り返ると、欠伸をひとつして歩き始めたのであった。
*****
越後国……新潟県辺り。
あわやに……たまに。
おぼえっが……知っとるが。
杣人……きこり。
男覡……男性の神職。女の巫女に対して男を男覡という。




