化かし001 哄笑
椛が青き月華と歌い合わせる端山近き辻にて。
寅鶫のごとしの侘しきすすり泣きを響かせる娘がひとり。
「おやおや、こんなところでどうしたんだい? 若い娘の出歩く時分じゃあないが」
娘に声をかけたのは烏帽子を被った狩衣姿の男。手にした松明が持ち上げられた口元を映し出す。
「父に折檻されて追い出されただけにございます。貴いお方にお声をかけられるまでもございません」
娘は両の掌で顔を覆ったままで答えた。
「このあたりの荘民の娘かい? 見ない顔だが、私のことは知っておろう。受領は年貢を取り立てるばかりではない。おまえたち下賤の民を護る任も受け持っておるんだよ」
狩衣の男はそう言いつつ、脂の満ちた手で娘の手首を掴んだ。
「辻捕りでございますか? いけません。私のような卑しい身分の者を」
娘は身をよじり、男から離れようとする。
「スメラギ様の威光も薄暗い日ノ本の端じゃ。少々贔屓したところで、誰も咎めはしまい。おまえの父の年貢を免除してやるから、ひとつ私と袖を交わそうではないか」
細い手首を引く力が強くなった。
「いけません!」
「いけなくはない。おまえに何を決める権利もない!」
男の薄笑いはどこへやら、煩悩と怒りの雑駁した貌へと変じた。
「……いいや、いけないね。ここから先は銭を取るよ」
豹変したのは男だけではなかった。娘も同じく卑しき笑みを浮かべて男の顔を見返したのである。
「売女か? 卑しい身分の者は頭まで貧しいと見える。この状況で小娘ひとりで何ができるというのだ。さっさと私に従え! 次の取り立てでは、おまえの身柄ごと頂いてくれるわ!」
「取り立てるのは“あたし”のほうさ!」
娘はそう言うと、軽々と男の腕を振り解き、“どこからともなく”妖しき煙を漂わせながら宙へと跳ねた。
夜の真円に映る娘の影。月光のまぶしさにその容貌が朧げになる。
「うっ、さては貴様……!」
男は衣の袖で顔を覆い、苦々しく言った。
「ばーか! 何遍、あたしに化かされたら気が済むんだい?」
からからと笑う声は、辻の目印である岩山の上から響いた。
声の主は先ほど高く跳ねたみすぼらしい娘。しかし、その風采は一変。
豊かな生地の鈴懸を纏い、春のわたのごとし結袈裟の菊綴を夜風に揺らし、頭頂には小さな頭襟が乗っている。
法術の力か妖しの力か、余裕の笑みとともに血のごとくに光るは右の瞳。
それから、彼女の手には銅銭の束が握られていた。
「また盗られた! 口惜しや!」
男が腰を確かめて悔しがる。何かを探していた手は腰の反対に伸び、携えていた太刀の柄を握った。
「銭束を見せびらかすように腰に下げてるんだもんなー。こんな田舎じゃ、銅銭なんか通らないよ。これがそんなに自慢なら、さっさと都に帰るんだね。……ってこの銭、“延喜通寳”じゃん。一つ古い銅銭じゃんか。こんなの後生大事に持っててどーすんだよ!」
山伏風の娘は文句を言いながら銅銭の束を懐に仕舞い込んだ。
「やかましいわ! 今日という今日は赦さんぞ。調伏してくれる!」
男は太刀を抜き去り、その切っ先を岩上で仁王立つ娘へと向けた。
「生臭坊主ほどの霊気もないくせに、あたしに勝てるわけないでしょーが」
溜め息ひとつ。娘は“どこからともなく”己の身の丈よりも長い真巻弓を取り出した。
「さあ、どうする? そのなまくらはここまで届かないでしょ。あたしが手を離したらあんたの頭は、ばん! だ。それが嫌なら、この地の貧乏人を虐めるのは金輪際やめることだね」
矢を番え、その鋭き鏃を向ける娘。
「……ふん。ばん! されるのは貴様じゃ!」
男は鼻を鳴らすと太刀を仕舞い、椛の森の中へと駆け込んで行った。
「ありゃ、逃げた?」
予想外の行動に弦が緩む。
刹那。
月明かりも届かぬ暗がりで、尋常でない霊気の胎動が起こった。
白い発光。清き祓えの力を帯びた不思議な球体が、紅葉散らしてこちらへと高速で飛来する。
「あのおっさん、なんか雇ったね!」
娘は唇を舐めると腕を振り上げた。その腕にも妖しげな霊力が満ち満つ。
飛来する光球が目前に迫り、霊気の腕はそれを弾き飛ばした。
「重いね。どうやら、ちょっと面倒な相手みたいだ」
妖しき娘は静寂に戻った闇を睨みつつ、“どこへともなく”弓を仕舞い込んだ。
代わりに取り出されたるは一本の錫杖。虚空に遊環の音色が響く。
「人の暮らしを脅かす妖しき物ノ怪め! 私が退治して差し上げます!」
暗闇の中から飛び出してきたのは若い娘の声。自らの居場所を晒すかのごとくの警告は、余裕か油断か。
「若い女? おっさんか爺婆が出てくるかと思ったけど」
首を傾げる山伏風の娘。
先程の“祓え玉”を撃てるほどの実力のある術師となれば、それなりに修行を積んだ者が普通だ。
田舎であればそういう血筋の者もなくはないが、都に目を着けられぬように国司どもと関わるようなことはしない。
さて、あの小娘は何者か?
「うんたらかんたら……えいっ!」
木々のあいだから、何やら間の抜けた文言の詠唱。再び祓えの光球が生じ、妖しげな山伏を調伏せしめんと迫り来る。
しかし、彼女は岩山を蹴るとひらりと身をかわし、その須臾の間に、光が照らした術者の正体を見定めた。
白い衣、緋色の袴。闇に黒く光る長き提髪。化粧っけの見当たらない、少しあどけない娘の顔付き。
――若い巫女じゃん。それも、見覚えのない奴。
敵対者への疑問に思考を巡らすも、その余裕はすぐに打ち砕かれた。
山伏の娘に向かって打ち出された光球はひとつに非ず。星空のごとくの祓えの力が地から天へとさかしまに降り注ぐ。
「ちょっ!? なんて数だよ!」
慌てる山伏。しかし、身体は未だ宙。不利な姿勢のままに錫杖へ気を込め、杖を振るって次々と光球を弾くも、打ち漏らしたひとつが彼女の腹を叩いた。
痛みと共に光の球が弾け、閃光が夜の辻を包み込む。
「やったぞ!」
歓喜の声を上げたのは逃亡した男。彼は松明を消し、木陰から顔だけを覗かせていた。
光が収まり、夜の静寂が戻る。岩上にも地にも山伏の姿は無し。
「跡形も無く消えおったわ。わはは、あの物ノ怪娘め。この貴い私を馬鹿にした罰が当たったのだ! 旅の巫女よ。この前は漂泊の売笑などと言ってすまなかったな。これでこの出羽国にも平穏が戻るぞ」
狩衣の男はのこのこと木陰から出てくると、岩の前に立つ巫女へと歩み寄った。
「待ってください。霊気は消えてません」
若い巫女は袖を持ち上げ男を制止する。それから彼女は、まっすぐと“こちらを見上げた”。
その様子を窺うは当の山伏の娘。眼下に小さくなった男と巫女の影を睨みながら痛む腹を擦った。
「いてて……。なんて威力だ。雑魚なら一発で消し飛ぶじゃんか」
暖かな月光と秋の夜風が、娘の頬と背中の“翼”を撫ぜた。
翼。彼女は満月の空に浮いていた。
それから背に生えた黒き翼で風を抱き撫でつつ、元居た岩の上へと降り立った。
「ひ、ひええ! 物ノ怪が正体を現しおった。化け鳥じゃ! 巫女殿、任せたぞ!」
情けない悲鳴と共に駆け足の遁走をする受領の男。
「おっきな翼……。鳥の物ノ怪かしら? ちょっと手強そうだけど、皆を困らせる妖怪は退治しなくっちゃ」
巫女の娘は呟くと再び袖を持ち上げ、両手を握り合わせて何やら印を結んだ。
「ちょっと待った!」
黒翼の娘が両手を突き出し制止をする。
「困らせてるのはあたしじゃないよ。あの色好みのおっさんのほうだ。あいつは都から派遣されて来た国司で、農民たちから無理な年貢を取り立てたりしてるんだぞ」
「彼はそんなことは一言もおっしゃってませんでしたよ。この辻では様々な天狗が起こり、人を誑かす稜威なるものが現れると。あなたの仕業でしょう? 物ノ怪の言うことなんて、巫女が聞き入れると思ってるんですか?」
「天狗が起こり? 違うね、むしろあたし自身が“天狗”なのさ」
天狗なる娘は胸を張る。
「巫女さんよ。聞いたことない? 出羽の銀嶺のお膝元に、弱きを助け悪しきを挫く善行を行う妖しの者がいるって!」
敵対者に尋ねかける声は少し弾んでいる。
「物ノ怪が善行なんて聞いたことがありません! そうやって人を騙そうとして! 問答無用です!」
巫女は再び「むにゃむにゃ」と間抜けた詠唱を始めた。指も何やらつたなく動かされ、奇妙な形の印を結び続けている。
しかし、出鱈目に見えるそれらとは反して、確かな霊気の高まりがあった。
「そりゃ、あたしは人を騙す妖怪だけどさ。荘民たちから話は聞いてないのかい? あたしは一応、金持ちから奪って貧乏人に配ってるから、良い噂も流れてるはずなんだけどなー」
“天狗”の娘は錫杖の先で短い黒髪を掻いた。
「聞いてませんけど……。どちらにせよ、物ノ怪は物ノ怪です! 大人しく退治されてください!」
巫女は頑なだ。
「やれやれ。……いいよ、真面目に相手してあげる。あんたを伸してからあたしの善行を篤と聞かせてあげるから。巫女さん、名前は何て言うんだい?」
「物ノ怪に名乗る名はありません!」
巫女の眼前に身体を隠すほどの特大の光球が生じ、天狗の娘へと発射された。
「ほっ! 天狗返し!」
天狗は口元に二本の指を立ててそう叫ぶと、特に霊気を練ることも手を触れることもなく、巨大な祓えの術をそっくりそのまま巫女へと跳ね返した。
光に包まれる巫女。天狗の娘が光球を受けた時のようにそれは弾けたが、瞬きを終えても巫女は平然とその場に立っていた。
巫女の祓えの聖なる気は、それを発した本人を害することはないのである。
「驚いた? あたしの名前は……」
天狗は名乗ろうとした……が、巫女は再び祓えの光を発していた。またも地上に広がる星図。
「話を聞かない奴だな! だったらこれだ!」
天狗は両手を口に添えると、唐突に「やっほー!」と叫んだ。声の響きは妖しげな霊気を孕み、周囲一帯の空気に溶け込む。
すると、巫女が作り出した祓えの星図と隣り合って、数多の光の球が生じた。
「私と同じ巫女の技を? さては幻術ね!?」
たじろぐ巫女。その刹那を突き天狗が空へと飛翔する。巫女の視線が敵を見逃すまいと天狗を追った。
「残念。本物だよ!」
天狗は不敵な笑みを浮かべると、満月を背に腕を掲げた。彼女の手のひらの先には先程に巫女が作り出したのと同等の巨大な光の球が生まれた。
月に重なるように現れたそれは、まばゆい光を発しながら巫女へと落下した。
落雷のような音が轟き、辻と岩山、それらを取り囲む椛の森が葉を散らし光に包まれた。
「秘法、山彦ノ術!」
天狗の娘は岩の上へと降り立った。眼下には倒れ伏した紅白の衣装の娘。
「あんたと同じで、手加減をしたから安心しな。あたしは殺生をしない主義なんだ」
天狗は勝利の笑みを浮かべながら巫女を見やった。……が微動だにしない。だが霊気は消えてはいない。天狗の娘は短く息を吐いた。
「あたしの名前は“水目桜月鳥”。出羽国の正義の味方で、いつか天狗と言い伝えられるようになる物ノ怪さ。ま、聞こえていないだろうけどね!」
名乗りを上げた天狗の娘は、空に浮かぶ満月を見上げ、声高らかに笑ったのであった。
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狩衣……平安期などに用いられた身分のある男子の普段着の衣。
烏帽子……平安期などに用いられた身分のある男子の普段着の帽子。
荘民……荘園と呼ばれる貴族や僧侶所有の土地で働く農民。
受領……荘民から年貢を取り立てる役人。
辻捕り……平安期の略奪婚、あるいはナンパのようなもの。
鈴懸……修験道の山伏の衣。
結袈裟……山伏の衣の上に掛けた袈裟で、菊綴という綿毛のようなものが付いている。
頭襟……山伏が被っていた小さな帽子。十二角形それぞれの褶が頂点に集まる形をしている。頭に乗せ、紐で顎に結ぶ。
錫杖……遊行する僧侶や山伏が使った杖。杖の先には金属でできた輪っかが六つある。遊環はその輪っかを指す。法術で用いるための短いものや、杖を兼ねた長いものがある。
出羽国……現在の山形県にあたる。
天狗……皆さんご存知、山伏姿に鳥の翼の妖怪……ではなく、天狗は元は山で起こる怪異全般を指した。中国の天の狗の怪異が由来。