ミサキ
いつになく冷え込んだ12月の朝。寝坊した私は駅を目指して走っていた。
必死に走っていると、ポケットに入ったスマホが震えた。画面を見なくてもわかる。駅で待ち合わせしている親友、ミサキからの電話に違いなかった。私がいつもの時間に来ないので心配しているのだ。
私は息を切らして走り続けた。日頃の運動不足のせいで両足はうまく動かず、喉の奥からは血のような味がする。ねばついた唾液が喉の奥に絡み付いていた。
ようやく駅が見えてきた時、ちょうど電車がホームに入って来た。走ってくる私に気がついたミサキが、人目も憚らずホームから叫んでいる。人口の少ないこの町では、電車を一本逃がせば一時間は何もない駅に取り残されることになるのだ。
定期券を改札に叩きつけた瞬間足がもつれ、私は盛大に転んだ。直後にドアが閉まり、倒れた私を独り改札に残したまま、当然のように電車は動き出した。
「あーあ……」
私は何とも言えない声を出し、暫くの間息を切らして冷たいコンクリートの上に横たわっていた。擦りむいた膝がヒリヒリと痛んだ。
どれくらいそうしていただろうか。再びスマホが震動し、手に取るとミサキから電話が来ていた。呼吸を整え、通話ボタンに触れる。
「もしもし!?」
無駄にでかいミサキの声が耳に刺さった。電話越しに電車の走るガタンゴトンという音が聞こえてくる。
うるさいのでスピーカーに切り替え、駅の階段を登る。
「ごめんね、待っててあげられなくて。でも私遅刻常習犯だから。凛ははじめてだから許してもらえるでしょ」
ミサキはそう言うとゲラゲラと笑い出した。
「っていうかさっき転けたよね」
「見なかったことにして」
私がそう返した時、突如電話の向こうで悲鳴のような警笛が鳴り響き、ガタン!という大きな音がして、ブツリと会話が途切れた。
幸い通話は切れなかったようで、何の音だかわからないガサガサという雑音に混ざり、乗客の声が微かに聞こえてくる。心臓を冷たい手で握られたような気持ちで、私はミサキの名前を呼んだ。
「ミサキ……?」
返事はなかった。代わりに聞こえてきたのは、知らない誰かの声だった。
「轢いた? 今轢いたよね?」
「まじかよ。ふざけんな」
「見える? 写真撮れそう?」
何が起こったのかは安易に想像できた。冬にも拘わらず、額にじわりと汗がにじんだ。
それから1分ほどして、ミサキの声が戻ってきた。
「もしもし? あーあ。スマホの画面割れちゃった……」
「何かあったの?」
想像はついていたが、一応尋ねてみた。
「わからない。N駅の近くで急に止まった。何か踏んだみたいだけど……ああ、この前機種変したばっかなのに。まあ、別にいいんだけど」
この時、なんだかとてつもなく嫌な予感がした。自分の腕を見てみると、無数の鳥肌が立っていた。
私は階段を降り、とりあえずホームに設置されたベンチに腰を下ろした。ホームに私以外の人影はなかった。
「あーあ。人、轢いたみたいだよ。いま真下にいるっぽいの」
ミサキはやけに冷静にそう言った。
「ほんとに人なの? 鹿とかイノシシじゃなくて?」
信じたくはなかった。誰かが死んだ。そう考えただけで、サーっと血の気が引いていくのだ。
「ううん。人だよ。窓から見えるってさ。千切れた脚」
しかしミサキは至って冷静にそう言った。
「嘘っ! 大丈夫? ミサキは見てない?」
「うん。私は大丈夫。でも、一旦切るね」
それから暫く連絡が途絶えた。だが15分ほどたった頃、またミサキの方から連絡があった。
「警察とか救急車とかめっちゃきた。今ブルーシートかけてる。なんか野次馬まで来てるよ。写真撮ってるんだけど……人身事故って毎回ああなのかな」
どうせTwitterにでも載せるのだろうなと私はぼんやり思った。
「車輪の下がどうとか言ってる。何かが見つからないって。何が見つからないんだろう? 脚はあるみたいだから、腕とか?」
ミサキは状況説明を続けた。どういうわけか、彼女は気味が悪いくらい淡々としていた。
私は何と返せば良いかわからなかった。おそらく、轢かれた人は死んでしまったのだろう。どうやら身体の一部がどこかへ飛んでいってしまったようだった。よせばいいものを、私はその光景を頭の中に思い描き、独りで背筋を凍らせた。
「……どのみち遅刻だったね」
数秒間の沈黙の末、私は絞り出すように返した。
「そうだね。なんか周りの人もイラついてる。会社や学校に行けないって。ほんとは行きたくなんかないくせにさ」
ミサキがそう返したところで、また会話が途切れた。私はなんとか会話を繋ごうとした。どうしても黙っているのが怖かった。何か、何か話題はないか。
「あっ、そうだ。そういえばそこN駅でしょ、もしかしてあの病院の患者かも」
私は何となくそんなことを言ってみた。不謹慎なのはわかっていた。あの病院というのは、T病院のことだ。T病院は数年前にN駅の近くにできた総合病院で、つい最近精神科ができたばかりだった。精神科なんてこの廃れきった田舎町には存在しなかったこともあり、皆奇妙なものを見るような目で見ていた。実際、私もあまり良いイメージを持っておらず、変な人が外からこの町に入って来そうだから嫌だという話を以前ミサキにしたことがあった。
ミサキが何も言わないので、私は何気なくTwitterでN駅を検索してみた。
案の定、ブルーシートの掛けられた事故現場の写真がいくつか投稿されていた。その様子に、特に疑問はなかった。人が死ねば当然皆が興味を持つ。好奇心を共有して、自分と同じ人間がいることを知る。そのうちまとめサイトも誰かが作るだろう。迷惑かけるくらいなら独りで死ねとはよく言うが、皆は迷惑をかけて死んだ人間にやたらと関心を寄せる。
「……首」
ミサキがぽつりと呟いた。
「首が、見つからないんだって」
病院の話に対しては、何の反応もなかった。
「見つかるまで電車、動きそうにない。これは遅刻確定だなー」
ミサキのため息が聞こえた。
「まじで迷惑だよね。大勢の人巻き込んで。そんなに死にたいなら一人で勝手に首でも吊ればいいのに。なんでわざわざ皆に見えるところでやるんだろうね。そんな性格だから人生うまくいかなかったんだろうけど」
私は言った。それでミサキがすっきりすると思ったのだ。
ミサキが自宅で首を吊って死んだのは、それから2日後のことだった。12月22日。遺書は無かった。
代わりに、Twitterのアカウントが見つかった。所謂「鍵垢」もしくは「裏垢」というやつだ。彼女は数か月前から不眠と強い不安感に悩まされ、T病院に通院していたことがわかった。そんなこと、私には一言も話してくれなかった。ミサキはいつだって底抜けに明るかった。
それなのに、死んだ。
アカウントを拡散したのは、どこの誰かもわからない人間だった。ミサキのツイートのスクショを大量に貼り付け、『このメンヘラガチで死んだっぽい!』とツイートしたところ、盛大にバズったのだ。私の知らないミサキが、知らない誰かの手で世界中にばらまかれ、じわじわと共有されていた。
部屋の写真や学校行事のことについてツイートしていたこともあり、ミサキのアカウントであることはすぐにわかった。アカウントは非公開だった。ツイートした人はミサキと相互フォローの関係にあったのだろうか。非公開ということは、おそらく皆に注目されたくて呟いていたわけではなかったのだろう。
スクショには人生最後のものと思われるツイートも確認できた。12月20日。あの人身事故が起きた日だった。
『あーあ。先を越されちゃった。やりかた変えるわ』
それが、ミサキがネット上に残した最後の言葉だった。
――そんなに死にたいなら一人で勝手に首でも吊ればいいのに。
あの時の私の言葉が引き金になったのだろうか。私のせいだろうか。一瞬そう思ったが、すぐに考え直した。首吊りなんて特に変わった死に方ではないし、あんな言葉、ネットの世界にいくらでも溢れている。皆が思っていることだ。
「死にたいなら一人でひっそり死ね」「死ぬ時まで他人に迷惑をかけるな」というのが皆の、皆の共通認識だ。そのはずだ。
本当にそうか?
ミサキの葬儀にはあまり人が来なかった。私は棺の中に納まっているミサキをどうしても直視する気になれなかった。
「ちゃんと見てやりなさいよ。トモダチだったんでしょ」
母が私の肩を叩いた。その言葉に背中を押され、私は棺に近づいた。勇気を振り絞り、恐る恐る中を覗き込むと、死んでいるはずのミサキの目が開いていた。
白く濁った、今にも飛び出しそうな目玉がぎょろりと私の方を向いていた。彼女の口が微かに開き、ねばついた赤黒い液体がこぼれ出た。
「ねぇ、みんなって誰?」
抑揚のない声でそう言われ、目の前が真っ暗になった。
次に気が付いた時は病院のベッドの上だった。どうやら気を失ってしまったらしい。ミサキは既に火葬され、骨だけになってしまっていた。
あの時見たのはただの幻覚で間違いないと思う。でも、あの恐ろしい顔、あの不気味な声はどうしても忘れられそうにない。
――ねぇ、皆って誰?
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