2話 運命の出会い
初めて彼女の姿を見た日のことは今も鮮明に覚えている。
その日、霞はちょっとした好奇心で屋敷を抜け出した。
奇跡の子だとかで、生まれたからすぐに両親から引き離された霞は、本家の離れで祀られるように育てられた。物心つく前からそうだったからなんの疑問もなかったものの、退屈だったのは間違いない。
屋敷を覆う透明な膜。悪いものが中に入ること防ぐのと同時に、霞が外に出ることを拒むそれに抜け穴があることに気付いたのは今から一年前。
元々、霞に関わろうとする者はこの屋敷にはいない。世話役を押し付けられた人物の隙をついて霞は外へ抜け出したのであった。
初めての外は楽しくて、ありふれた街並みを堪能するようにあちらこちらと歩いて回った。
外歩きを満喫していたのも束の間、霞は黒い塊に襲われた。後で知ったが、これは邪念体というらしい。
「っはぁ……はぁ、はぁ」
今まで運動らしい運動をしてこなかったつけがこんなところで回ってくるとは思わなかった。
ただひたすらに逃げ回った霞はついに力尽き、転がるように草むらの中に倒れ込む。覚悟は、できていた。
自分でも驚くほどに己の生に頓着していないらしく、訪れようとしている死をあっさりと受け入れる。
その時。
「焔」
――声が聞こえた。
霞の耳に滑り込んだ声は静かで、高価な楽器にも引けを取らない美しい音色だった。
声の主の顔が無性に見たくなった。疲労を訴える身体を無理矢理に起こし、物陰から様子を窺う。
美しい女性だ。背中に流した黒髪は濡れているように艶やかで、黒曜石の切り取ったような瞳は静かな光を宿していた。肌は息を呑むほど白く、纏う雰囲気はどこか冷たさを感じさせる。
辺りに生える草木も、黒い塊を燃やす炎も、全てが彼女の美しさを引き立てるために存在しているかのようだった。
「これで最後だな」
〈うん。他に気配はないし、今日のお仕事はおしまい、だね〉
ただ一心に女性へ視線を注ぐ霞に気付かないまま、彼女は遠ざかっていく。
声をかけたい。そんな衝動に駆られるものの、時すでに遅し。
「……次、会ったときは」
絶対に声をかけよう。
そう心に決めた霞は、彼女についての情報を集めた。といっても、使用人の噂話を盗み聞いたわけだが。
藤咲桜。彼女はかなり有名人らしい。
妖退治を生業とする藤咲家。その中でも群を抜いた実力を持つ人物なのだという。
いっそのこと武藤家に妖が入り込んでくれたら、彼女に会うことができるのに。そんなことを考えはしたが、まさか本当に妖が入り込むとは思っていなかった。しかも二日連続とは本当に予想外だった。
彼女と言葉を交わした。名前も名乗れた。
これほど幸福なことはない。ただ一言、言葉を交わしただけで霞は有り得ないほど幸福感に包まれている。
しかし、人間の欲というのは際限がない。彼女が武藤家を去っていった瞬間から、どうしようもない欲求が霞の中で渦巻いている。
「また会いたいな」
呟けば、思いはどんどん強くなっていく。決して大きくない霞の心の容量を簡単に埋め尽くしてしまうほどに。
会いたい。会いたい。会いたい。会いたい。会いたい。
「そうだ! 今度は、僕から会いに行けばいいんだ」
己の内の欲求と折り合いをつけるように呟いた。名案だ。
彼女によって張り直された透明な膜は、元の膜とは少し違うことを霞は知っていた。
今までの膜は外からの侵入者だけではなく、霞が外に出ることも拒んでいた。けれど、彼女が張り直した膜は、ただ外からの侵入者を拒むためだけのものだ。
これならわざわざ抜け穴を探さなくても外に出ることができる。幸い、藤咲家の場所は家にあった地図で、ある程度把握している。
「思い立ったら吉日。今すぐに行こう」
近くに使用人がいないことを確認し、屋敷を出る。騒ぎにならないように置手紙をすることも忘れずに。
こうして外に出たのは一年ぶりだ。もっと具体的に言うと彼女を初めて見た日以来だ。
彼女に会いたいという思いはあったものの、どうにも決心できなかった。けれど、彼女と再会して言葉を交わしたことで、外に出るために勇気が得られた。
地図を思い出しつつ、問題なく藤咲家に着く――はずだった。
「またかー」
黒い塊――邪念体に追いかけられ、霞は必死に逃げ惑う。
外に出ていなかった一年間、自己流で体力作りをしていたとはいえ、まだまだ体力のない霞は早々に力尽き始めていた。
「はぁ、はぁ……最後に、一目だけでも…っ、会いたかったな」
諦めの早さは相変わらず。走馬灯が流れ出したところで、はたと思いとどまる。
「――ダメだ。彼女に会うまでは死ぬわけにはいかない」
覚悟を決め、邪念体に向かい合ったその時。
「いやぁ、すごい覚悟に感動だよ。でも、ちょっと無謀がすぎるかな」
無邪気さを宿した声が耳朶を打ち、霞の前に円盤型の土が滑り込む。
「そーれ!」
軽い掛け声とともに、円盤から発射された土団子が邪念体の傍で爆発する。飛び散る黒い粘液を全身で浴びながら、霞はきょとんとした表情で目の前に立つ存在を見つめる。
奇妙な出で立ちをした中学生くらいの少年。栗色の髪は二房だけ長く、大きく丸い瞳は真っ直ぐに霞を見ている。
確か、彼は彼女と一緒にいた人物だ。
もしかして――。
「何故、貴方がここに」
「……さくちゃん。理由は聞くまでもないでしょ。まあ、鈍いのはさくちゃんらしいけどさ」
予想を肯定するように姿を現した桜を見て、霞の心が高鳴る。
なんという偶然。これを運命だと自惚れてもいいだろうか。
「貴方に会いに来たんだ!」
「何故」
短く問う桜の横で、真砂は大きく息を吐いた。
藤咲桜という人間は、感情の機微にとてつもなく疎いのだ。
「それはもちろん、愛しているから」
誤魔化しも、飾りもないストレートな愛の告白を受けても、黒曜石の瞳は一切の動揺を見せない。
他人からの好意など興味ないとでも言っているかのように。霞はそれでも構わないと思う。
「ともかく、いったん家に帰らない? 君もその格好のままじゃ、まずいでしょ」
言われて自分が黒い粘液塗れになっていることに初めて気がついた。
確かに、このまま帰れば、屋敷を抜け出していたことがばれてしまう。桜がせっかく施していた結界は元のように霞が外へ出ることを防ぐ代物に戻されることだろう。それは絶対に避けたい。
〈真砂のせいなんだけどな〉
「うっ、悪いとは思ってるよ? ちゃんと反省してるし」
桜の懐から上がった声に、真砂は分かりやすく肩を落とす。
「主として式の犯したことへの責任は取ります。風呂くらいは貸しますのでついて来てください」
そうして桜に案内されるまま、霞は藤咲家に初めて足を踏み入れることになったのだった。
風呂場を借りて付着した粘液を丁寧に洗い流しながら、霞は愛しい彼女に再会できたことに胸を震わせていた。しかも、今いる場所は彼女の家なのである。
幸せすぎて、明日にでも自分は死んでしまうのではないかと疑ってしまうくらいだ。
「ダメだ。せっかく彼女に会えたのに死ぬわけには……」
自分の考えを即座に否定した霞は、これはきっと運命なのだと考え直す。
彼女と自分は運命の赤い糸という奴で結ばれていて、神様が二人の出会いをセッティングしてくれたのだと。
「着替え、ここに置いとくよ」
「あっ、ありがとう、ございます」
「礼には及ばないさ! あと、敬語じゃなくてもいいよ。堅苦しいのは苦手だし、君とは仲良くしたいしね」
「そう?」
会ってからまだ二日しか経っていない上に、会話もほとんど交わしてはいないが、彼とは何となく気が合うような気がする。
「さくちゃんがね、話があるってさ。部屋に案内するから着替えたら教えてね」
「分かったよ」
彼女を待たせるわけにはいかないと慌てて残りの粘液を落とし、用意された浴衣に着替える。
今まで着ていた服の所在に悩んでいると、「置いてていいよ」と扉の向こうから声がかかる。お言葉に甘えることにした霞はそのまま脱衣所を出た。
「さくちゃんの部屋はこっちだよ」
自分より少し身長の低い少年に案内されるがままに歩を進めていく。
藤咲家は純和風の家屋だ。住んでいる人の気配は感じるもの、霞はここまで誰ともすれ違っていない。
霞の暮らす武藤家でも家人に遭遇することは少なく、そういうものかと一人納得する。
「そういえば君の名前を聞いていないけど……」
「あ、そうだったっけ? 僕は真砂、さくちゃんの式の一人だよ」
式がどういうものが分からないながらも、霞は「なるほど」と頷く。
「話って何なのかなー」
「うーん、それは僕にも分からないかな。悪いことではないとは思うけど……あ、僕の勘ね」
誰よりも桜のことを理解していると自負している真砂にも、霞に対する桜の感情は読み取りづらい。嫌っているわけではないことは確かだ。
「あ、ここだよ。さくちゃんの部屋」
言って、ノックをする。部屋の主ではなく同胞の返事を聞き、真砂は戸を開けた。
座布団に鎮座した部屋の主は静かにその目を開ける。黒曜石を切り取ったような瞳は相変わらず感情を読ませない。
促されるまま、桜の前に置かれた座布団に座った霞を見届け、真砂は実体化を解いた。
「霞さん」
「っはい!」
まさか彼女に名前を覚えてもらっているとは思っていなかった霞の返事の声が裏返る。
失礼な話だと言いたいところだが、真砂も桜が名前を覚えているとは思っていなかった。それくらい他人に興味のない人物なのである。
「貴方は私に会いに来たと言っていましたね」
「はい。……さくらさんに会いたくて」
霞の呼ぶ“さくら”は本来の桜ではなく、彼が称した咲蘿という響が込められている気がする。
やっぱり、こっちの響の方が好きだ。そんなことを考えながら真砂は主の反応を注視する。
「目的を聞いてもかまいませんか?」
「……目的。ただ会いたいからじゃ、いけませんか」
「会いたい、から」
不可解そうな目で霞を見つめる桜。
桜は感情の機微に疎い。ただ己の感情に従って行動する霞のことが理解しがたいのだろう。
「用件があるわけではないのですね」
呟き、桜は文机の上に置かれた腕輪を霞に差し出す。透明な玉が連なった腕輪だ。
玉には桜の霊力が込められており、一つだけでもかなりの力を持っている。それが十個以上も連なっている腕輪は、非常に貴重なものだ。
「その様子では来るなと言っても無駄なのでしょう。せめて、これを持ち歩いてください」
「これは?」
「妖避けの腕輪です。来るたびに妖に襲われては迷惑ですので」
その言葉の中に、霞の身を案じる思いがあるのを真砂は確かに感じ取った。
今までだったら絶対になかったことだ。彼との出会いによって少しずつ変化が生まれている。
幼い顔立ちに隠しきれない喜びで溢れされた真砂。この二人の行末を見届けたいと思う。
「これを身に着けていたら、また来てもいいってことですか」
「好きにしてください」
素っ気ない言葉がこの上ない誉れを言わんばかりに笑った霞は真砂と同じ表情をしていた。