優しさのオムライス
第1節のどこかしら
岡山家の末っ子友希が、異端たる兄の優しさに触れるお話(健兄、優しいじゃん発言のきっかけです)
空腹感に背中を押されるように友希は階段を下っていた。
時刻はあと数分で正午になるというところ。まあ、つまりは昼食時である。
部活もなければ、友達との約束もない休日。だらだらと無為に時間を使っていても腹は減っていくものなのである。育ち盛りだから尚更。
そろそろただ部屋でごろごろするのにも飽きてきたので、誰か暇なやつがいないか探してみるかと思案しながらリビングを目指す。
そこでふと思い出した。
今日は女性陣はこぞって出掛けているのだということに。
母は友人と食事、姉は大学のサークルで遅くなるという。居候をしている兄の彼女はバイトの後、勉強会をするとか。兄もまた一緒に勉強会をするらしい。
二番目の兄はいつもいるのかいないのか分からないし、下の兄は兄で何か用事があると言っていた。
とどのつまり、この家には友希しかいない(推定)。
「家にあるもの適当に食べてね」
なんて母が言い残していたのを思い出した。
それを言うくらいだからインスタントラーメンの一つくらいはあるだろいと行き先を台所へと変更する。
「って何もないじゃねーか!」
いや、何もないことはない。
食材はある。調理する前の食材が。
しかしながら友希には料理ができない。というか、今までまともにしたことがない。
インスタントラーメンを作るのが精々だ。
何かしら冷凍食品があればと期待して冷凍庫を開けてみても、めぼしいものは見つからなかった。
「何が、適当に食べてね、だよ」
どこか緩い母親にため息を零しつつ、台所を出る。何もないのなら用はない、と。
にしても小学生相手にこんな雑な対応でいいのだろうか。上の兄姉を育てた経験を経て、下の扱いが雑になるというやつなのだろうとまたため息をつく。
「コンビニで何か買ってくるか」
もしくは友人でも誘って、ファミレス辺りで食事をするか。
そんなことを考えながらリビングを過ぎる友希は、部屋の中に人影を見つけて思考を停止させた。
ソファの上で眠っている人物がいる。
年上だということを疑いたくなるような小柄な少年。白すぎる肌は本当に眠っているだけなのかと不安を掻き立てる。
思わず近寄りかけてやめる。近づいて起こしてしまったとき、どうしていいか分からないから。
彼は友希の兄だ。
三つ上なんて言っても誰も信じてくれはしない小柄な身体。小柄なのに圧倒的な空気をまとう兄。友希はこの兄が苦手だった。
物心ついた頃にはすでにこの兄は岡山家にとって異端だった。両親が、姉がそうしているように友希もまた彼のことを避けた。
だからこそ、触れ合い方が分からない。
眠っているのならば放っておけばいい。話しかける必要もないとそう考えて、そのまま通り過ぎようとする――。
「お昼、ないの?」
不意に、高めだが落ち着いた声が耳朶を打った。一瞬、思考が停止する。
閉じられていた瞼が開かれ、機械めいた目が友希を静かに見つめている。
「わ、悪い。起こして……」
「目瞑ってただけだから」
しどろもどろになりながら言葉を紡ぐ友希へ返されるのは淡白な言葉だ。
「それより、お昼ないの?」
身体を起こしながら二番目の兄は同じ質問をする。
じっと見つめるその目から逃れるように視線を逸らしながら小さく頷いた。
「母さん、出掛けてる、から」
「そう」
返答は短い。気まずさというか、やりにくさを感じる友希を他所に兄は立ち上がった。
「待ってて」
それだけ言って兄の姿は台所へと消えていく。理解が追いつかない友希はただそれを見送った。
言われたからには待っておいた方がいいのだろう。ほとんど停止した頭でぼんやりと考えて、つい先程まで兄が寝ていたソファの上に座る。
人の熱が少しも残っていない。
あの人は本当に人間なんだろうか。機械とか、人形と言われた方が納得できると現実逃避するように考える。
「……この匂い」
友希の鼻が馨しい香りを嗅ぎ取り、現実逃避を停止させた。微かに何かを炒めているような音も聞こえる。
数拍置いた後に、誰かが料理をしているのだと理解が追いついた。
この場合の誰かは一人しかいない。
「健兄って料理、できたんだ……」
ほとんど関わりを持ったことがないから、当然のように知らなかった。
浮世離れした雰囲気からは想像できず、それでも完璧超人のイメージから納得はできる。
今まで料理したことなかったとしても、有名店のシェフばりの料理を作れそうな、そんなイメージ。
「はい、お待たせ」
言って、出されたのは黄色い塊。シンプルにケチャップがかけられたオムライスである。
母が作る、卵が破けたオムライスとは格段に違う出来である。
「すげぇ、店のやつみてぇ」
警戒するように考えていたことがすべて吹き飛んで、素直な感想が零れる。
家ではまず見ないくらいに完成されたフォルム。食べる前からその味を確約されているようなものだ。
「あれ、健兄の分は?」
「俺はお腹空いてないから。友希だけ食べなよ」
当然のようにそう言って小さな兄は部屋を出ようとする。
彼はいつだってそうだ。いつも、自分たち家族から距離を取ろうとする。
その癖、こんな風に優しくしてくれるから分からない。
「健兄!」
「どう――むぐっ」
掬いあげたオムライスを振り返った兄の口に押し込む。量が少し多かったのか、頬を大きく膨らませて咀嚼する姿は小動物のようで愛らしい。
「どう? うまい?」
「……これでおいしいって答えたら自画自賛になると思うんだけど」
「そっか」と友希はもりもりに掬いあげられたオムライスを口に運ぶ。
ケチャップライスと卵が口の中で混ざり合う。目が覚めるような美味しさというよりは素朴な味わいだ。
あの浮世離れした空気とは一線引いた普通っぽさ。まあ、当たり前かと考える。
「うまっ」
素朴な味わいでも舌先は歓喜に踊る。
格式ばった料理よりも友希の舌にはこちらの方が合っている。
普通といえども、母が作った同じく普通のオムライスよりも数段おいしいような、そんな気がする。
「口に合ったならよかった」
「これが口に合わねぇやつなんていねえって」
スプーンを口に運ぶ手が止まらず次々に口に入れる。
今度は立ち去ろうとはせず、兄はそんな友希を柔らかく見守っている。
「ちゃんと噛んで食べなよ」
柔らかさにそんな呆れを混じえて。
「健兄って料理出来たんだな。どっかで習ってんの?」
「ほぼ独学だよ。春野家のシェフから裏技とかたまに聞くぐらいかな」
「なんで?」
問いかけに意味はない。なんとなく口についた問いだ。
多分、期待していたのだ。
好きだからとか、興味があったからとか。
そんななんでもない答えが返ってくることに期待をした。
「できることは多い方がいーでしょ」
素っ気ない答え。友希が期待したなんでもない答えに彩られているようで、その中身は期待したものとは違う。違う、気がした。
この兄はいつだって一人離れていく。岡山家の人間はみな、それを許容する。友希だって今の今までそうだった。
でも、まるで独りで生きることを当然とするような兄の返答に何とも言えない複雑な想いが込み上がる。
一瞬近づいた気がしたのにすぐにまた遠ざかった。伸ばした手が触れられない距離にもういて、それがたまらなく悲しかった。
「友希」
何も返せないでいる友希へ、淡白な声が優しく呼びかける。
「ピーマン食べられるようになりなよ」
なんでもないことのようにそう言って、小さな兄は今度こそ部屋を後にした。
そっと視線を落した先にある食べかけのオムライスの中に、小さく刻まれた緑のものを見つけた。
言われるまで気付きもしなかった存在。
ほとんど関わってもいなかったのに友希の苦手な食べ物を知っていた姿に胸が詰まる思いがした。
「なんで……っ」
こんなに優しいのに、こんなに温かいのに、どうして彼は家族の一員でいられないのだろう。
まるで腫れ物を扱うような家族の態度を思い出してただひたすらに悔しかった。