fleurs de cerisier
時系列的には「積み重ねが大事」の少し前くらい
鼓膜を震わせた音は到底受け入れられるものではなかった。
その衝撃に音になり損なった息が零れ、全身から力が抜けていくようであった。
目の前に立つ少女は真摯にこちらを見つめている。
いつだってそうだ。彼女は何かを伝えるとき、決して目を逸らさずにこちらを見る。
凛とした眼差しは、櫻宮が心惹かれた理由でもあった。
「今、なんと言った……?」
「おさがりする許可をいただきたく思います」
問いかけは慈悲であった。言葉を撤回すれば、許すつもりであった。
しかし性懲りもなく彼女は同じ言葉を繰り返した。
声に乗せた怒りに気付いていないわけがなく、それでもなお己の意思を貫く。彼女は、桜宮沙羅というのはそういう女であった。
「母が病に臥していると聞きました。私ができることがあるならば、力になりたいのです」
「顔も覚えておらぬ女がそんなにも大事か?」
「私を産んでくれてお方です。病に臥していると聞いて、どうして素知らぬ顔ができましょう」
巫女は生まれてすぐに親から引き離され、この桜宮家本家で育てられる。
それは力の制御のできない赤子を他から遠ざけるためであり、鬼神の力を持つ娘を管理するためであった。
沙羅も例に漏れず、生まれてすぐに桜宮家本家に引き取られた。そこから十数年、この空間から一歩も出たことはない。
この先も、沙羅を本家から出すつもりはなかった。
「顔を知らぬといえど、母への情が薄らぐものではありません。宮様も同じでしょう?」
櫻宮もまた母の顔を知らない。
生まれて間もない姿のまま、櫻宮はこのリセット後の世界に取り残された。
母は最後の力を振り絞って、己を百万の桜へと変えてこの地を守っている。
己を守る存在を確かに感じながらも、櫻宮は母親と言うものを知らない。だからといって母への情が薄らぐことがないのは沙羅の言う通りであった。
問いを否定できず、しかし肯定もしたくない櫻宮は内に湧く激情に身を任せる。
「我の心の内がお主に分かるはずもない。気安く語るな」
怒りを乗せ、彼女に迫る。その肩を乱暴に掴んだ。
細く脆い少女の身体を壊すことなど櫻宮には容易いことだ。
二度と生意気な口を利けぬよう、痛みと恐怖で支配することなど容易い。今まで多くの人間をそうして縛ってきた。
この貴族街という土地において櫻宮に逆らえるものなど存在しない。
「お主がこの地を去ることを禁ずる。二度とそのようなことを口にするな」
「宮様――」
「聞かぬ。我の気が変わらぬうちに疾く去ね」
乱暴に掴んだ肩をこれまた乱暴に離した。
軽い身体はそれだけで体勢を崩し、ふらつく沙羅はそれ以上何も言わずこの場を立ち去った。
櫻宮は背を向けたまま、彼女が立ち去っていく音だけをただ聞いていた。
●●●
薄暗い部屋の中で読書に勤しんでいた健は不愉快な気配を感じ取って眉根を寄せた。
光源のない空間を紅い光がぼんやりと照らし出す。
流石に無視することもできず、小さく息を吐いて本を閉じた。
「何の用ですか?」
ベッドに寝そべる形で本を読んでいた健は身体を起こし、紅い光の方を向いた。
宙に浮かぶ紅い光の玉。水晶に似た玉が紅い光を放っているのだ。
それはこの貴族街の最高権力者たる桜宮家当主が外界との連絡手段として用いるものであった。
健も幾度とこの紅く光る水晶玉を通して桜宮家当主と話をしてきた。大抵くだらない内容ばかりであったが。
今回もそうであろう、と当たりをつけた視線を前に紅い玉はうんともすんとも言わない。沈黙を守るそれにさらに眉根を寄せた。
「用件があるのなら早く言ってもらえます? 俺も暇ではないので」
嘘でもあり、本当でもある。
今の健は一応受験生という肩書きなので、暇な時間があれば勉学に費やさなければならない。とはいえ、今更必死になって勉強しなくとも余裕で合格圏内ではあるし、コネとお金さえあれば入学はできる。
健の場合、どちらもあるので、こんな夜更けにまで勉強する必要はない。
実際、今は友人に薦められたベストセラー小説を読んでいるくらいには暇を持て余していると言ってもいい。
だからと言って、沈黙を守り続ける紅い存在に使う時間はない。
わざわざ姿を現したからには用がないということはないだろう。
「何かあったんですか?」
一向に口を開かないことに面倒事の気配を感じながら、問いを重ねる。
そもそも彼が姿を現して面倒事を持ってこなかったことの方が少ない。
「健、お主は……」
言いかけて、また黙する。
さぞかし言いづらいことがあるらしい。
珍しいことだ。どれだけ非人道的なことでも、彼は言葉を躊躇うことはしない。それは彼にとって多くのものが気に留める必要のないものだからだ。
ならば、彼をここまでさせている事情は何か。
呆れを混ぜた心情で、彼に少しだけ向き合う気を起こす。
「沙羅さんと何かあったんですか?」
「……っ」
やっぱり、と心中で呟く。
沙羅。桜宮沙羅。
当代の大姫巫女であり、櫻宮のお気に入り。
桜宮家本家から出たことのない彼女と健に面識はない。
櫻宮本人から、たびたび惚気話を聞かされる程度の認識しかない。多少脚色されているかもしれない話を差し引いても、芯が強く優秀な女性といった印象だ。
人を人とすら思っていない彼がここまで弱っている様子を見せる相手は彼女くらいであろう。
「……お主は……お主らは、どうすれば離れず、我の傍にいてくれる……?」
酷く弱々しい問いかけに呆れを通り越して、笑ってしまいそうになった。
何百年、何千年と生きてきて、今更人間関係で悩んでいるらしい。
神と崇められ、まともに他者と関わることをしてこなかったツケがここに回ってきているのだ。
くだらないと一蹴することもできる。健は櫻宮のことが嫌いだし、普段かけられている迷惑を思えば、わざわざ手を貸してやる義理もない。
「沙羅さんの母君は病に臥せっているそーですね」
核心をつくものとして言葉を紡いだ。
娘二人は巫女として桜宮家本家に引き取られ、息子は心無として桜宮家本家に引き取られた。
腹を痛めて産んだ子供を一人として抱くことのできなかった母親。その心は数年前、長女の訃報により決壊した。
強すぎる巫女の力に器が耐えきれなかったのである。よくある話だ。
巫女の力は、櫻宮の血族であるが故に発現するものだ。本来の眷属を生み出す仕組みとはやや異なるため、力に押し負けて巫女が亡くなるケースは少なくない。
とはいえ、そんなことは我が子を奪われた母親には関係のない話だ。
彼女の母親は本家への憎悪で心を壊した。
「母のために戻るとでも言われましたか?」
本家の所業が彼女の母の心を壊したと思えば、自業自得だ。
ただ、巫女を引き取るのも理由があってのこと。心無として生まれたのは、血族婚を繰り返した歴史の結果だ。
不幸が積み重なっただけであり、すべて櫻宮の責であるなんて単純な話でもないのだ。
「沙羅を……沙羅を手放すことはできぬ」
苦渋を滲ませた我儘に息を吐く。
「――櫻宮」
名を呼んだ。その名を呼ぶ許可は栄誉なことらしいが、興味もない上に面倒なことの方が多いので呼ぶことのほとんどのない名だ。
紅い光を通し、桜に守られた土地でこちらを覗く存在の意識がこちらに向けられるのを感じる。
「櫻鬼」
重ねて、彼の本当の名を呼んだ。
呼ぶ者どころか、知る者がほとんどいない名だ。
向けられる意識が仄かに震えているようで、構わず言葉を続ける。
「一度離れることを覚えるべきだ。離れても消えないものを知った方がいーよ」
敬語すら外して、貴族街の最高権力者と向き合う。
「その先に櫻鬼が求めてやまないものがあるはずだよ。ずっと手元に置いてるだけじゃ、絶対に手に入らない」
「本当に……そうか? そう、なのか?」
「そーだよ。一度くらい沙羅さんのこと信じてあげなよ」
健は櫻宮がずっと求めているものを知っている。
彼の歩んできた道を哀れだと思う。歪んだ生き方を受け入れる気はない、彼のことは嫌いなままだが、哀れだとは思っている。
だから、せめてもの助言だ。
それが櫻宮に響いたのかは分からないが、紅く光る玉はそれきり何も言わず、闇の中に消えていった。
健はそれを見届け、何事もなかったように読書を再開させた。
●●●
桜宮家当主に呼び出され、沙羅は御簾越しにあの方と対面する。
映し出される影は、沙羅が幾度と目にした彼自身の姿のように思えた。
御簾を通して会うとき、櫻宮はいつも違う人間の身体を使っている。神の力で死体を操り、自分のふりをさせているのだ。
御簾に映し出される影はたびたび姿を変える。
今日もまた以前、見たものとは違う。
それもそのはずで、この日初めて沙羅は櫻宮自身の身体と御簾越しに相対している。
「宮様、お話というのは……」
「許可を出す」
問いを遮るように投げかけられた言葉は微かに震えていた。
頼りない雰囲気に驚き、端的な言葉の意味を咀嚼してまた驚く。
「ただし条件がある」
二言目はもう震えていなかった。
いつものように尊大で威厳に満ちたその声を、たった二人しかいない空間に響かせる。
「三年、それ以上は許さぬ。必ず、この地に戻ってこい」
「寛大なご配慮、感謝致します」
本当に許してもらえるとは思っていなかった。
沙羅の我儘に心を砕くその優しさに胸がいっぱいになる。
その顔は今どんな表情をしているのだろうか。
その心は今どんな思いを抱えているのだろうか。
この目で確かめられないことが、二人の間に隔てられた御簾がもどかしい。
叶うならば、今すぐ駆け寄って、頼りなく見える影を抱きしめて差し上げたかった。
けれども、それは望まれていない。ならば。
「必ず、戻ってまいります」
まだこの地に戻ってきたときに、その心に寄り添おう。
もう二度と離れないと、終わりのそのときまで傍にいると誓おう。
それが我儘を押し通すために沙羅が、あの寂しい人に差し出せるものだ。