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桜に魅入られた巫女姫

 貴族街には巫女と呼ばれる存在がいる。


 桜宮一族――貴族街の真なる最高権力者の血を引く一族の中で、紅き目の神の力を宿した者を巫女と呼ぶ。神の力を有するものが女性に限られるから巫女である。


 巫女はみな、生まれてすぐに桜宮家本家に引き取られる。そこで巫女としての力を制御する術を教えられるのである。


 沙羅もまた、生まれてすぐに本家に引き取られた。それからずっと、この百万の桜に守られた屋敷で暮らしている。


 ここ以外の世界は知らない。両親の顔すら知らない。それが異常だという認識もない。

 美しい結界に閉じられた世界こそ、沙羅の常識で日常で普通のことであったから。


「おや、こちらに人が来るとは珍しいですね」


 彼と出会ったのは、屋敷の広すぎる庭でのことだった。


 結界の役割を持つ桜に飾り立てられた庭園は、その美しさに反して立ち寄るものは少ない。ましてや、咲き誇る桜に近付く者などいない。


 この桜宮の屋敷において、桜は敬愛すべきものであると同時に畏怖の対象であった。

 この世あらざる雰囲気を持つ桜を人々が恐れを抱く気持ちは分からなくもない。けれど、沙羅の目には庭を飾る桜が美しく悲しいものとして映っていた。


「おや、言葉を話せないのですか?」


 不自然に黙したままの沙羅を訝しむ問いに首を横に振って応える。


 沙羅が紅き目の神――鬼神から賜ったのは声で人を操る力であった。

 まだ完全に制御できているとは言えず、迂闊に声を発することはできない。


 しかし、それを説明するにも声を発さずにはいられず、沙羅は困ったような表情で先客である青年を見つめる。


 不思議な青年であった。黒髪を一つに結い、体つきはやや細身。

 質のいい着物を身に纏っているところを見るとかなり身分の高い人物なのだろう。


 基本的に女性の方が高い身分として扱われる屋敷の中で、稀有な存在として沙羅の目には映った。

 といっても、沙羅はこの桜宮という一族の全容を把握しているとは言えず、彼の正体を断定することはできない。


「ああ。もしかして姫巫女様でしょうか? 声に纏わる力をお持ちと耳にしたことがあります」


 今度は首肯で答える。


 今の沙羅の肩書きは姫巫女。巫女の中では二番目に高い地位であり、この屋敷においては当主、大姫巫女に次ぐ地位にあるとされている。


 まだ十に満たない少女が選ばれるのは異例なことという話だ。それだけ沙羅の力が強いのである。未だ完全な制御できないほどに。


「でしたら、声を出されても問題はありません。私は神の力が適用されない、特異体質なのです」


 そのような体質の者が存在するのだろうか。


 首を傾げて見返す沙羅に青年は鷹揚に頷いてみせた。

 彼が特異な地位にいる存在であることは初見でも窺い知れた。その地位にいる理由が彼の言う特異体質というのも頷ける話だ。


「信用できないのであれば、試しに一つ、力を使ってみては?」


「ぁ……その場で、三回足踏みをして」


 恐る恐る命令を音に乗せた。紅く目を光らせた命令は間違いなく青年に届き、その身体を操るはずであった。


「本当に?」


 神の力が聞かないという言葉通り、青年は平然とした顔でこちらを見ている。

 胸を撫で下ろす沙羅は改めて青年へ向き直り、拝礼する。


「私は沙羅と申します。恐れ多くも姫巫女の地位を預からせて頂いております」


「恐れ多いだなんて、沙羅様の優秀さは私の耳にも届いております。そのご年齢で姫巫女に選ばれるなど、滅多にないことです」


 つらつらと並べられる世辞に沙羅は恐縮するばかりだ。


 優秀などと言われても、所詮力が強すぎるだけだ。それをまともに制御もできず、足りない我が身を思えば、並べ立てられる言葉を鵜呑みになんてできはしない。


「私は紅と申します。当主様の身の回りの世話を任されている者です」


「宮様の……」


 通りで見覚えのないはずだ。


 改めて沙羅は紅と名乗った青年を見た。

 質のいい着物は当主の側仕えをしている故のものか。


 見たところ、まだ若いが、浮世離れした雰囲気は本来の年齢を覆い隠す。見た目通りと言われても、何百年と生きていると言われても頷けてしまう。


 何より特徴的なのは紅い瞳であった。人非ざる光を湛えた瞳は、桜宮一族が信奉する鬼神と同じ色をしている。


「沙羅様はよくこちらにいらっしゃるのですか?」


「……はい。桜たちが寂しそうで……少し、気になって」


「桜が寂しそう、ですか」


 おかしなことを言っている自覚がある。

 それでも沙羅には、この美しく咲き誇る花々が寂しそうに見えるのだ。


 ひらひらと舞い散る花弁が涙のようで、堪らなく足を向けてしまう。

 どうしてそんなに寂しそうなのか、知りたかった。


「桜たちに元気になってほしいのです」


 ここにある桜たちは何百年も前から、桜宮家が誕生したそのときからこの地で咲いているという。

 何百年も、ともすれば何千年も前からこの地を見守ってくれているのである。


 長いとき、誰にも寄ることなく咲き続けているのは寂しいと沙羅は思う。ならば、沙羅だけでも桜を気にかける存在がいてもいいではないか。


「――紅様がいらっしゃるから、私一人というわけではなさそうですけれど」


「いえ……っ」


 否定を口にしてすぐ紅は驚いたように口を噤んだ。


 見開いた紅の目は自分の行いに大層驚いているようであった。その理由を考えてはみたけど、出会ったばかりの沙羅にはよく分からない。

 ただ、その眼差しは桜と同じでとても寂しそうに見えた。


「また……また、こちらに来たら、紅様にお会いできてますか?」


 紅目に宿る孤独の色に突き動かされ、問いかけた。


 見開く瞳はゆっくりと沙羅の問いを咀嚼して、やがて微笑を浮かべる。とても寂しそうな笑みを。


「ええ」


 多分、このときから沙羅はこの青年に惹かれていたのだろうと思う。


 そうして沙羅と紅の逢瀬はたびたび交わされた。

 お互いに忙しい立場ということもあって、頻繁にとはいかなかったが、それぞれに桜の許を訪れては言葉を交わす。


 何度も会っているうちに少しずつ彼のことも分かってきた。彼の正体も――。







「このたびは大姫巫女へのご昇進おめでとうございます」


 深々と頭を下げ、沙羅の昇進を祝う紅。


 初めて彼と出会ってから二年の月日が経っていた。十になる年で、沙羅は姫巫女から大姫巫女――巫女たちの纏め役に任命された。


 幼さすぎることを理由に反対する者も多かったと聞くが、当主の意向では逆らうことのできる者はいない。最終的には沙羅の昇進への不満を示す者は一人もいなくなった。


 誰もが命が惜しいのである。そうでなければ、当主に逆らった罪でその命を刈り取られた。


「宮様の配慮のお陰です。先代に比べれば、拙さが目立つばかりで、日々未熟な身を思い知らされるばかりです」


「沙羅様が先代に劣るなどとてもとても……皆が口を揃えて賞賛を零しているほどです」


 それはそうだろう。

 当主の寵愛を受けて大姫巫女になったような娘を、他の者がおいそれと非難はできない。


 今ある沙羅の立場はすべて当主によって作り上げられたものだ。


 何故、そんなに当主に気に入られたのか。

 強すぎる力だけが理由でないことは沙羅にも分かる。この桜の逢瀬が一つの要因であることも。


「そのような言葉ばかりに溺れていては、宮様のお力になることはできませんわ」


「本当に控えめなお方です。沙羅様は十分に宮様の力になっていらっしゃるでしょう」


「そんな、恐れ多い……」


 当主の力になれているなどと嘘でも口にはできない。

 本当にそうなら、今目の前にいる青年がこんなにも寂しそうな表情をしているわけがない。


 本来、当主に他者の力は必要ない。あの方ほどの力があれば、むしろ周りに人がいることこそ、煩わしさを生む要因になり得るだろう。


 それでも当主がこの桜宮一族を作り上げたのはきっと寂しかったから。

 独りで生きられる力を持っていても、独りで生きられる心は持っていないのだ、と。


 ならば、沙羅が当主のためにできるのはその心に寄り添うことであろう。

 そのために大姫巫女という役職が必要なのであれば喜んでその任に就こう。


「私が大姫巫女となれば……宮様のお心は晴れますか?」


「さて? 私には宮様のお心を窺い知ることはとても……」


「――紅様だからお尋ねしているのです」


 真摯に向けられる瞳に息を飲んだ気配があった。

 こちらを見返す赤目が瞬きを一つして、紅の纏う雰囲気ががらりと変わる。


 周囲に畏怖を抱かせ、他者を圧倒する覇気を浴びてもなお、沙羅は真っ直ぐに紅を、いや、桜宮家当主を見ていた。


「いつから気付いていた?」


「何度かお話しているうちに」


 御簾越しではあるが、沙羅は幾度も桜宮家当主と対面したことがある。実際に言葉を交わし、許可を得て傍まで寄ったこともある。


 声色も体格もまるで違うが、紅の身に纏う雰囲気や気配は間違いなく桜宮家当主のものであった。


「ふっ、その年で大姫巫女になるだけはあるか。よくぞ見抜いたものだ」


 言って、紅は沙羅に迫る。


 細くも男らしい指が沙羅の顎を持ち上げる。

 口では沙羅を褒めながらも、その顔には苛立ちが募っている。切れ長の目が鋭く、沙羅を睨む。


「小娘の分際で不遜なことを言うものだな。我の心なぞ、貴様程度が知る必要のないものだ」


 そのひと睨みで誰もが恐れ戦き頭を垂れる。

 どうにか怒りを鎮めようとあれこれと言葉を尽くし、あるいは怒りが収まることを祈りながらただ平伏して言葉を噤む。


 しかし、沙羅は表情一つ変えないまま紅を見ていた。一片の恐れもそこにはなかった。


「怖がらなくてもいいんです。私が宮様を害することはありません。有り得ません」


「戯言だな。我が恐れているなどと……」


「大丈夫です。何も心配はいりません」


 沙羅の目には、紅こそ沙羅を恐れているように見えた。


 己の心に他者が触れること、己の心の中に他者が踏み込むことを恐れている。同時に紅はそれを求めてもいた。


 孤独を恐れ、胸に空いた穴を埋める方法を求めているのに、いざ近付く誰かがいると恐れ拒絶する。

 それはきっと沙羅には想像できないほど長い時間を独りで生きてきた故の防衛本能なのだろう。


 拒絶されてもいい。この身を、心をどれだけ傷付けられても構わない。

 孤独を嘆くその心を救ってあげたい。


 独り蹲って泣いているこの人の傍に寄り添っていたい。

 今は届かなくてもいつか、彼の孤独が埋まるように。


「櫻宮だ」


「ぇ……?」


「櫻宮、と。お主に呼ぶ権利を与えてやる」


 それは桜宮家当主の名を呼ぶ権利であった。

 大半の者が音にするだけで処罰される名前を呼ぶ権利。それは紅の――櫻宮の傍にいることを許された何よりの証であった。


「感謝致します、櫻宮様」


 美麗な響きを音に乗せたとき、櫻宮が仄かに笑んだように見えた。

 初めて見る心からの笑みに、どうしようもない愛おしさが込み上げた。


 それを恋だと自覚するには沙羅はまだ幼い。けれども、いづれ沙羅はこの想いに恋と名前をつけることになるだろう。――いづれ。

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