海に焦がれた歌姫
海里の従妹にして良の妹、武藤美空のお話です
時系列は第2節と第3節の間
広い屋敷の片隅で身を隠すように縮こまり、惨めったらしく泣く自分をあの人は見つけてくれた。
光のような人だと思った。きらきらと輝く朝の海のような人だと。
笑顔が柔らかく、温かく、悲しみに囚われた胸を満たしてくれる。
自分を、欠点しかない自分を、「美しい空」と言って笑ってくれたあの人を、今も今でも恋い慕っている。
武藤美空は不出来な人間である。
顔立ちは平凡で、いつもおどおどしているせいでいっそう不器量に見える有り様。
勉強ができるわけでもなく、運動はむしろ苦手な部類。
強いて得意なことをあげるなら歌を歌うこと。
これも誰もが聞き惚れる類のもではなく、精々他の人に比べたら上手い方と言えるくらいのものだ。
なんでも器用にこなす兄と比べられて、いつもいつも父に怒られてばかりいる。
手をあげられたことすらあり、母はいつも見て見ぬふり。
兄は庇ってくれるけど、結局恐怖が勝って誰も父を止められない。
武藤美空は決して長くはないだろう人生を、ただ劣等感で塗り潰すように生きてきた。
暗い色ばかり溢れた美空の世界の中で、あの人だけ、武藤海里だけが鮮やかに彩られた光だった。
「ライブの招待状?」
「は、い。ぁのっ、よかったら……。ご友人の分もありますので」
あの人を目の前にするだけで早くなる鼓動に急かされるように早口で告げる。
こちらを見つめる隻眼がまた柔らかくて、優しくて、胸がいっぱいになる。
震える手で差し出したライブの招待状を、すらりとした長い指先が受け取る。そして笑った。
「うん。ぜひ行かせてもらうよ」
笑顔の温かさに堪らない気持ちになる。
上手い言葉も返せず、美空はただ顔を俯けるように頷いた。
その動きに合わせて、藍色に染めた髪がはらりと落ちる。
彼と同じになりたくて、強さが欲しくて染めた髪がどう思われているのか、怖くて確かめられもしない。
気持ち悪いだろう。美空も自分で気味が悪いと思う。
考えれば考えるほど、惨めでどうしようもなくなる。
「ここって結構大きな場所だよね。すごいなあ、遠い人になったみたいだよ」
「そっ、んなことは、ないです!」
音量を間違えた声に、彼の隻眼が大きく見開かれる。美空は羞恥に顔を赤く染め、再度顔を俯けた。
昔からそうだ。ちょっとした会話すらもまともにできず、醜態ばかりを晒してしまう。
「……そうだね。どこに行ったって美空は俺の大事な従妹だから、離れてもそれだけは絶対に変わらないよ」
俯く頭を撫でる手がある。
中性的で、男にしては細身なのに、ちゃんと男らしい手。大きなその手が繊細に美空の頭を撫でる。
いつまでも妹扱いされることへの不満と、変わらず接してくれることへの感謝が忙しなく心の中を揺れ動く。
一緒に暮らしていたのだって一年くらいで、その後だってほとんど連絡なんて取っていなくって、それでも変わらず見てくれることが嬉しい。
でも、優しい隻眼がいつまでも変わらない色で美空を見ることが同時に悲しくもあった。
痛痒を抱える胸に気付かないふりをして、息を吸う。
「新曲もあって……っそれを、聞いてほしくて…」
訥々と震え声が紡ぐ。
本当は新曲があるのは秘密にしなければならないけど、どうしてもこの人には伝えたかった。
彼のために、彼のことを想って作った歌だから。
「うん、楽しみにしてるね。美空の、UMIの曲はいつも素敵で魅力的だから、大好きなんだ」
大好き。たったそれだけの単語で馬鹿みたいに弾む心がある。
別に美空自身のことを言ったわけではないのに、ただ曲を褒められただけなのに、自分自身のことのように嬉しくなる。
ほんのり色づいだ頬のまま、こくりと頷く。
「あら、美空ちゃんじゃない。来てたのね」
「ほんとだ〜。こんにちは」
彼と美空、二人きりだった場所に賑やかさがやってくる。
美空とは比べ物にならない華やかさを持って現れたのは、彼の友人たちである。
気遣うような視線を寄越す美しい少女たちにか細い声で挨拶を返す。
「ライブの招待状を持ってきてくれたんだよ」
「みなさんの分もあるので、そのっ、よかったら……」
彼一人だけ誘うのは罪悪感があり、目の前にいる二人を含めていつも一緒にいる人たちの分も入れてある。
「本当!? 嬉しいわ。海里に薦められて聞いてから、すっかりファンなのよ」
嬉々として語るのは黒髪を高い位置で一つに括った少女だ。つり上がった瞳が少し苦手だけれど、悪い人ではないのは知っている。
自分のファンなのだと語る姿には素直に嬉しいと思えるし、ありがたいとも思える。
ただ苦手なのとは別の複雑な感情が彼女相手に沸き立つ。
「っありがとうございます」
顔を俯けながら、なるべく彼女の方を見ない方にしながら礼を告げる。
もともと俯きがちな性分なので、不審には思われていないようだ。
藤咲華蓮。名前の通り、華々しく美しい彼女は、美空が心を寄せる彼の恋人であった。
他の誰に対するよりも距離が近く、親しげに触れ合う姿に胸が痛くなる。大好きな温かな笑顔に宿る恋慕が苦しい。
沸き立つ嫌な感情を悟られないようにただ必死に顔を俯ける。
「あの、私はこれで……」
お辞儀をし、相手を反応を見るよりも早く立ち去る。
失礼だと思われてないだろうかと不安を過ぎらせながら、苦しくなるあの場所から逃げるように去る。
「……ちゃん、美空ちゃん!」
不意に腕を掴まれた。驚いて振り向いた先に可愛らしい顔があった。
琥珀色の髪を肩口で揺らす少女だ。さり気なくつけられた髪飾りが彼女の可愛らしさをいっそう引き立てる。
華蓮とはまた別種の美しさを持った彼女は春野月。先程、華蓮と一緒にいた人物である。
「ちゃんと前見ないと危ないよ」
言われて前を見れば、壁が目前に聳え立っていた。月に止められなかったら確実にぶつかっていたことだろう。
「ぁ、ありがとうございます」
「うん、どういたしまして」
か細い、聞こえるか聞こえないかの声ににこにこと笑って応える姿は人良さが窺える。
美空にはない愛嬌を全身に纏ったその人は、人に好かれる代表例であろう。
あまりにも完璧すぎるが故に一緒にいると自分の不甲斐なさをつきつけられているようで憂鬱になる。会釈をして立ち去ろうとしたところに「待って」と声をかけられる。
「ちょっとお話しない? 美空ちゃんの教室まででいいから」
可愛らしく問いかけられたら、断ることなんてできやしない。そもそも美空は大した理由もなく相手の頼みを断れる気概を持っていない人間だ。
こくり、と微かに頷き、「はい」と微かに返事するのが精一杯であった。
「美空ちゃんはさ、もしかして武藤君のことが好きなの?」
「……っ…!!」
予想だにしなかった問いかけに思わず声を詰まらせる。
図星を突かれ、挙動不審に目を泳がせながら、やはり微かな声で肯定を示す。嘘を吐いたり、誤魔化す気概も美空にはなかった。
「ごっ、ごめんなさい!」
「どうして謝るの?」
何気ない問いかけが拷問のように感じられる。
月は彼女の、あの人の恋人の親友だ。いらぬ恋心を抱く美空を責めるために来たのかもしれない。そう考えずにはいられなかった。
「ふ、藤咲さんがいるのに……恋人がいる人を、好きになるなんて…っお、おかしいですし、わわ悪いことです」
「そうかなあ」
一人罪悪感に苛まれ、紡ぐ震えた声に返されたのはどこか呑気にも聞こえるものであった。
「私はそうは思わないよ。人を好きになることは誰にも止められないもん」
愛らしい見た目に反して、瞳に宿る光は強いものであった。美空にはない意思の強さを宿している。
「華蓮は私にとって大事な人だから、武藤君と幸せになってほしい思ってるけど、美空ちゃんの想いも応援してあげたいとも思ってるよ?」
「それは……おかしいです」
「そうかもね。でもさ、一緒になることだけが想いを遂げる方法じゃないと私は思うんだよ」
矛盾したことを口にしながら、月の声はどこまでも誠実であった。
柔らかに語られる言葉は強く、曲がらない意思を示す。それは美空が憧れる人によく似ていた。
「自分の胸に正直になること。想いを全うすること、それが大事なんだよ」
「でも……それで、もし…っ」
それを口にするのは烏滸がましく、最後までは音にはできなかった。
美空の言わんとしていることを察して、月は「大丈夫」と笑み持って返す。
顔立ちが整っているわけでもなく、性格も暗くて褒められるところのない美空では、美人で華やかな彼女に勝てるわけがない。
浮かべられる笑みをその自信と受け取って、美空はそっと俯いた。しかし、月の言葉の意味は違った。
「最終的にどっちを選ぶかは武藤君次第だもん。それでもし華蓮が振られることがあっても大丈夫」
俯けていた顔をあげる。驚いて、目を見開いて、月を見た。
「落ち込む華蓮をいっぱい慰める。それも親友の、私の役目」
話の内容に合わない晴れやかな表情で月はそう口にした。
「だからね、美空ちゃんも自分の想いも全うしてね。ずっと溜め込んでると私みたいになっちゃうから」
「……ぇ」
「まあ、でも心配はいらなそうだね」
ふと月は立ち止まる。大きな瞳は美空を、奥の奥の心の内すらも見抜いて仄かに笑う。
「美空ちゃんはちゃんとケリをつける方法を見つけてるんだね。すごいね」
すごい、なんて歌以外で誰かに言われたことがない。お世辞という雰囲気でもなく、ただ呆気に取られた。
「じゃ、私はここまでだね。またね、ライブ楽しみにしてるから」
教室の前でそう言って、月は手を振って離れていく。不器用に手を振り返しながら、美空は遠ざかっていく月の背中を見届けた。
すごいね。そう言われた音を何度も反芻しながら、大事に咀嚼して呑み込む。
嬉しかった。長く思い悩み、ようやく決めた心を肯定された気分で、勇気を貰えた。
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深呼吸をする。何度もやっても慣れない緊張感を宥めるように深く吸って、吐き出す。
舞台袖からでも、客の気配が感じられる。昔はこんな大勢の前で歌うことになるなんて想像もしていなかった。
丁寧に梳り、整えた髪を所在なく触れる。染めあげた藍色は美空に勇気をくれる。
カラコンはまだちょっと慣れないけれど、空色を映し出した青の両目を開く。
「UMIさん、出番です」
「はい!」
最後に深く息を吐き出して、意識を切り替える。
オープニングの曲が流れる中、歓喜を最高潮に漏れ聞こえる歓声に笑みを浮かべる。
なんの取り柄もなく、惨めなばかりの自分もこんなにも多くの人が待っていてくれている。それだけで歌手としてデビューした甲斐があったと思う。
暗転したステージの中央に立ち、ギターを構える。
嫋々と掻き鳴らし、繊細な手付きで生み出されるメロディーに誰もが聞き入る。
あれだけ歓声をあげていた人々は息を零すことすらも忘れて美空の――UMIの演奏に耳を傾ける。
みんなが自分の曲を聞いている。みんなが自分の歌を求めている。
その感覚に酔い知れ、笑み崩れるままに口を開く。
一曲目は、もっとも知名度のある曲を選んだ。CMに使われている曲で、UMIのことを知らない人でも知っているような曲を。
前半は知名度の高い曲を中心にセットリストを組んだ。
まだUMIのことを知らない人に向けて、自己紹介のつもりで組んだ。
そして後半は美空が今、聞いてほしい曲を選んだ。
UMIのライブは派手な演出も、ダンスもなくて、ただライトアップされたステージで、バンドの方々を背に歌うことが多い。
人によっては退屈するだろう。でも、美空はこの音楽に集中するために作られた空間が好きだった。
客席の人々の顔が様々な表情に彩られていく姿を見ていると胸が高揚する。
この空間は、ここに集まった人々はみな、UMIのためにいるのだとそんな気さえしてくる。
「次は新曲です」
MCの時間はいつも緊張する。美空は話すのが得意な性質ではないし、ここには助けてくれる兄たちもいない。
でもここにいるのはUMIだから。弱い美空とは違う。あの人の面影を宿した強い自分だから。
「この曲にはとても大切な想いを込めました」
言いながら、何気なく関係者席の方を見る。
聞いてくれているだろうあの人に向けて、想いを届ける。
「聞いてください――『海に焦がれた空』」
期待を含んだ静寂の中、美空はギターを掻き鳴らす。
歌が好きで、自分でも歌が作りたくて始めたギター。無心に練習を重ねて、今では難しい譜面も弾けるようになった。
けれど、この曲はどちらかといえば、シンプルで簡単な譜面だ。美空の伝えたい想いに複雑で高度な技術は必要ない。
ただただ真っ直ぐに、想いを伝える歌――。
あなたとの出会いは必然じゃなかった
運命なんて語れない すれ違いの交差
それでも歌が届くのなら
輝く水面ただ見つめた
銀色纏う想いの彼方
あなたが映す空でいるから 美しい空でいるから
波立つ心の理由の願った
あなたが見つめる空でいるから ずっとここにいるから
旋律はどこまでも 意味が生まれる日を願って
あの人への想いを込めた。
ファンへの願いを込めた。
力強く歌声は響き、空間はUMIの歌に酔いしれる。
大丈夫。もう大丈夫。
歌がある限り、美空はもう寂しくはない。広いステージでも、背筋伸ばして立っていられる。
貴方が教えてくれた。貴方が気付かせてくれた。
美しいものに焦がれるばかりだった日々を輝かせる方法を、教えてくれたから。
この胸を震わせる愛おしい想いを歌に込めて。
答えはいらない。これが美空の告白、この想いのけじめの付け方。
好きでした。愛していました。貴方にずっと焦がれて、貴方のようになりたいと思っていました。
でも、大丈夫。もう美空は一人でも立っていられる。美空のまま、輝けることを知った。
このライブが終わったら、一人暮らしをしてみたいと父に話してみよう。
きっと反対されるし、昔みたいに暴力を振るわれるかもしれない。それでも諦めず、立ち向かってみよう。
そう思える強さを貴方が、歌がくれたから。