氷水姉妹の里帰り 姉編
これは昔のお話、一人の男のもとに美しい女が訪れた。
透き通るような白い肌に美しい黒髪。瞳の色は淡く、容易く溶けてしまいそうな儚げな女であった。
男は一目で女に惚れ、二人は結婚する。
しかし、春になると女は突然姿を消してしまい、男は女に逃げられたのだとたいそう悲しんだという。
一人暮らしに戻った男は寂しさから別の女と再婚した。
寒い冬が訪れ、再び男の許を訪れた女は、別の女と仲睦まじく暮らす男の姿を見て何を思ったのだろうか。
各地に伝わる逸話では、女は怒り狂い、男を殺すなんて話もある。が、実際は違うことを流紀は知っている。
肌を撫でる、人間界とは異なる空気に懐かしさを覚えた。妖界に帰ってくるのはいつぶりだろう。
桜がまだ二十代の頃だったから数十年ぶりくらいだろうか。妖時間に換算すれば五年強、そう見れば大した時間ではないにしろ、人間界で長く過ごしてきた流紀にとってはそれなりの時間だ。
「ここはあまり変わらないな」
妖界の時間でいえば、両の手で数えられる程度の年数。記憶と寸分違わず姿で残る故郷を見て、そう呟いた。
撫でる空気は冷たく、吐き出す息は白く染まる。地面には霜が降りており、踏むたびにさくさくと音を鳴らした。
着物一つで歩むには寒すぎる土地を、流紀は特に堪える様子もなく進んでいく。
周囲を飾るのは氷で作られた家々だ。
イメージとしてはイグルーと呼ばれるドーム状の家が近い。雪のブロックを積み重ねて作るイグルーとは違い、ここの家は術で作り出したものである。
氷の家々が並ぶ様は美しく、観光地の一つとしても有名な土地だ。
その中を流紀は迷いなく進んでいく。あの男に引き取られて以来、一度として訪れることのなかった場所だが、案外覚えているものだ。
やがて一際華やかに飾られた氷の館へと辿り着く。淡く光を放っているような氷たちは花の形に切り出され、館を飾り立てている。
周辺には同じような館が並んでいるが、ここが一番華やかで美しい。その中に流紀は足を踏み入れる。
「悪いが、まだ店はやってないよ」
人の気配を感じ取った嗄れた声が無愛想に投げかけられた。
遅れて老婆が姿を現した。久方ぶりに会うというのに、まるで姿の変わっていない老婆はこの館の主であった。
「ムツ婆、久方ぶりだな」
そう投げかければ、老婆は目を細めて流紀の方をじっと見る。
老婆――ムツ婆の姿は変わっていなくとも、流紀は会わない間に大きく成長した。すぐには分からないだろうと思って言葉を続ける。
「私だ、リウカだ。覚えてるか?」
「ああ、セツカの娘か。悪くない育ち方をしたね、もう少し高値で売っとくべきだったか」
本人を前に悪びれることなく言ってのける守銭奴へ、不満や怒りは特に湧かない。
こういう人だ。一緒に暮らしていた時期は長くないが、悪い人ではないことも知っている。
「それで? どうしたんだい? 行き場がないとでも言うんなら、その見た目だ。雇ってやっても構わないよ」
言いながらムツ婆は流紀へと歩み寄り、その胸元を軽く叩いて鼻を鳴らす。
「胸は惜しいね。まあ、小さいのも好きな物好きもいるし、仕込めばどうにでもなる」
「余計なお世話だ。……というか、雇ってほしくてきたわけじゃない」
すぐに商売の話に持っていこうとするムツ婆に呆れながら返せば、落胆した表情を見せられる。
人のことを商品としか思っていない態度にはむしろ懐かしさが湧く。
「それで、何しに来たんだい? こっちも暇じゃないんでね」
「あからさまに態度を変えるな……」
先程までの乗り気な態度と打って変わって、迷惑そうな視線が投げかけられる。
店の利益にならないことには一切の興味を見せないのがこのムツ婆なのである。
「里帰り、みたいなものだよ」
「はっ、殊勝なもんだねぇ。里というほどいたわけでもあるまいに」
「それでも私にとってはここが里なんだ」
流紀がこの地で暮らしていた時間は五年ほど。
父親に引き取られ、水ノ館で暮らした十年弱。
父親の指示で命を狙われ、逃げ延びた人間界で過ごした五年強。
流紀の妖生を振り返れば、ここで過ごした時間は四分の一くらいのものだ。それも幼い頃に離れたので朧げな記憶しか残っていない。
それでも故郷として思い出すのはやはりここなのだ。
妖時間でいえば、もっとも長くを過ごした水ノ館は流紀にとって帰る場所とは程遠い。
今回里帰りするにあたって、共に妖界に戻った妹、レミから誘われはしたが、断った。
今更あの家に帰りたいとは思わないし、あの男に会いたいとも思わない。
残念そうなレミには申し訳ないが、幼き日を過ごした場所に立ち寄ることの方が流紀には重要に思えたのだ。
「セツカは奥にいるよ。客でも商品でもないヤツに居座られるのは御免だ。挨拶なりなんなりとっとと済ませて帰んな」
冷たい態度に苦笑して、流紀は店の中に入る。
迷惑だと隠さない態度ながらも、流紀を追い返すことはないムツ婆の優しさに甘えながら。
「部屋は変わってないよ」
背中に投げかけられた言葉と、幼き日の記憶を頼りに、母に与えられている部屋の方へ向かう。
まだ日が昇ってそれほど経っていない時間なので、眠っている者も多く館の中は静かだ。
起きているのは見習いの少女くらいで、雑用をする微かな物音を聞きながら、流紀は目的の部屋の前に立った。
扉越しに中の様子に欹てる流紀の耳に、微かな物音が聞こえてくる。
どうやら母は起きているらしい。自室にいることも含めて、昨夜は客をとっていないのだろうとノックをする。
「あら、誰かしら? 入ってちょうだいな」
記憶と寸分違わない母の声に思わず息を詰める。懐かしさとも違う感情が胸の奥から溢れ出す。
目頭が仄かに熱くなり、堪えるように一呼吸おいて扉に手をかける。
「まだ朝食には早い時間のはずだけれど――」
慣れた手付きで手早く化粧をしていた母、セツカが振り向き、息を呑む。
言葉は不要だった。
美しい氷の色を映した瞳が大きく見開かれ、波打つ。咄嗟に口元を覆った指先もまた震えていた。
「リウカ、なの……?」
「ああ」
別れたのはまだ幼く、身体付きも顔付きもあの頃よりもだいぶ変わった。
もしかしたら一目では分からないかもしれない。仕方のないことだと受け入れる準備はしてきた。
けれど、母は分かってくれた。言葉を交わす間もなく、流紀はその事実だけで胸がいっぱいになる。
「ああ……ああ、リウカなのね? 会いたかったわ。もっとよく顔を見せてちょうだい」
母の手が流紀の頬に触れる。冷たいその指先の感触がとても懐かしい。
「大人っぽくなったわね。それに綺麗になった」
「母さんの娘だ。当然だろう」
「あらあら、嬉しいことを言ってくれるわね」
笑う母、セツカの瞳から涙が零れる。
一筋、透き通った肌を流れたのを認識したと同時にその瞳はまた涙を溢れさせる。
次から次へと、氷色の瞳から涙が零れる。
「ごめんなさい、私ったら……どうして」
必死に笑おうとするが失敗し、セツカはそっと流紀から離れてその顔を覆った。
娘に情けない姿を見せたくないのだろうと察し、流紀は離れた分歩み寄った。
そして記憶よりも小さく見える母の身体を抱き締めた。肩は細く小さく、自分が成長した事実を実感して胸が震えた。
「好きなだけ泣くといい。私のための涙を情けないとは思わない」
流紀の腕の中でセツカの身体が仄かに震える。
「また……会えるなんて思っていなかったから」
「私も……きっとここに戻ってくることはないと、そう思っていた」
冒頭の話の続きだ。
寒い冬の間だけしか、姿を現すことのできない女。夫となった男が他の女と結ばれた姿を見て、彼女は涙を流す。
そして、金の花に誘われて、妖たちの国へと訪れた。
そこで彼女は娼館を経営する老婆に拾われて、娼婦として働くこととなる。
どれだけの年月が過ぎた頃だろうか。あるとき、高い妖力を持つ彼女の噂を聞きつけて一人の男がお忍びでやってきた。
男は彼女との間に子が欲しいと言った。
男はこの土地を治める権力者であり、老婆は積まれた大金ととともにその申し出を受け入れた。
その結果、生まれたのが流紀である。
流紀は五つになる年までこの娼館『氷華楼』で暮らし、のちに男からの使いに引き取られて男の屋敷――水ノ館で暮らすこととなる。
その後、男の最高傑作である娘が生まれ、流紀は不要――むしろ、悪影響を及ぼす存在として排除されそうになった。
逃げ延びた先で出会った人間、桜と霞たちの協力のお陰で難は逃れた。そのときにリウカは死に、流紀としての新たな妖生を歩むこととなった。
死んだことになっている以上、もう妖界にま戻れないと思っていた。
未練は母のことだけで、それもあの男に引き取られた時点で会えないだろうとは思っていたので今更だ。
「妹が帰ってこれるように……また、会えるように取り計らってくれたんだ」
己の領地をより発展させるため、強い子供を求めた男。その最高傑作として生まれ落ちた妹。
彼女は自ら鳥籠を抜け出して、再度舞い戻った。強い、あの男に対抗するだけの強さを手に入れて。
妹は流紀に対して出されていた殺害命令を撤回させて、妖界に戻ってきても問題ないよう取り計らってくれた。
そうして里帰りを、と流紀に申し出てくれたのだ。とうの昔に諦めてしまったことへの道を示してくれた。
「強くて……優しい、自慢の妹だ。いづれ、母さんにも会わせたい」
「リウカの妹なら、私の娘みたいなものだもの。歓迎するわ」
「それと……友人もできたよ。無愛想だけと優しい奴と、妙にウマが合う奴と、おしゃべり好きな奴と……みんなが、私を助けてくれたんだ」
実の父に命を狙われたなんて話は流石に口にはできないが。
「今はその友人のところで暮らしているんだ。流石に、会うのは難しいだろうけど」
「そうなの? 残念だわ。貴方を助けてくれた人ならちゃんと挨拶したかったのだけれど」
「いいよ、気恥ずかしいから」
そうかしら、と腕の中でセツカは首を傾げる。
友人に母親を紹介するのは想像するだけでも妙な気分になる。焔辺りは絶対からかってくるので余計に。
もっとも、桜がこちらに来ることも、桜の元にセツカが赴くことも、面倒なことになりかねないので実現することはないだろうが。
当代一の妖退治屋の肩書きは面倒なしがらみが多いのである。
なんてことを考えているとノック音がした。
誰かが来たらしいと流紀は咄嗟にセツカから離れた。流石にこの歳で母と抱き合っている姿を誰かに見られるのは恥ずかしい。
なんとなく赤くなっている気がする顔を他所に向ける流紀の横で、セツカは来訪者の応対をしている。
「婆様が今日は休むようにと……」
来たのは見習いの少女のようだ。
漏れ聞こえる話から、ムツ婆を気を利かせてくれたらしいことを察する。
流紀のことを邪魔そうに扱っていたわりに、こういうことをするから憎めない人である。
「お休みをもらっちゃったわ」
「なら、今日一日たくさん話せるな。実は母さんに話したいことがたくさんあるんだ」
会えなかった時間の分、話したいことは溜まっている。
きっと一日かけてもまだ足りない。
たくさん、たくさん離れていた間の話をしよう。
「ええ、聞かせてちょうだいな」
期待を込めたセツカの言葉が嬉しくて、流紀の心は幼子のように弾む。
とうに大人になった気がしていたけれど、母の前では子供の顔が覗くことに驚きながら、急くように考える。
まずは何から話そうか。ああ、そうだな。
「今、私は友人の孫の面倒を任されててな。そいつがなかなかに面白い奴で……」
話したいことがたくさんある。きっと今日一日では話し尽くすのが無理なほどに。
でも大丈夫。これで最後なわけではないのだ。
この先、何回も流紀は母に会いに来られるのだから。