世話係と蒼
時系列は前話「銀と蒼」の少し後くらい
万物を知る神、知帝の朝は早い。というのは冗談で、界の狭間に常駐してる身にはそもそも朝という概念が存在しない。
神となり、人間としての死を迎えた知帝には睡眠すら必要なく、神としての生の大半を無数の画面に映し出される下界の様子を見ることに費やしている。
見るだけ、手は出さない。
この力を行使するのは、他の神の介入によって下界が大きく乱れたときか、下界に住まう人々の願いがこの身に届いたときだけだ。
世界の管理者とは、この世を統べる神というのはそうあるべきなのだと己に課した。
神の域に達した力は己の感情のままに振るっていいものではない。そう戒めた。
以来、知帝は自らの領域と定めた界の狭間で、一日という概念のない場所で永遠に下界の映像を見続けている。
なんて言い切れたらかっこいいものだが、実情は少し異なる。何故なら――
「邪魔すんぜ」
この空間には少々以上に来訪者が多いからである。
神としての生の大半を下界を見守ることに注いでいることは事実でも、すべてを費やすことは来訪者たちが許してくれない。
その中でも特に多いのが今訪れた彼、出来損ないの神、龍王の世話係である青年である。
青銀の髪を無造作に一つに纏めた鋭く冷たい印象の青年。しかし、実際はむしろ世話焼きな性格をしていることを知っている。
「龍王さんは一緒じゃないんですね」
「年がら年中一緒っつうわけじゃねぇよ。なんか、あいつに用でもあったのか?」
「いえ……あの人を野に放ってて大丈夫かな、と」
「姫さんのとこにいるから問題ねぇよ」
姫さんとは、出来損ないの神、妖姫のことである。万物を守る力を彼女なら能力的にも龍王を押さえられるし、そもそも精神的な意味で逆らうことも稀だろう。
何せ、龍王は妖姫にぞっこんなのである。
もっとも知帝が心配しているのは龍王が暴れることよりも、超がつくほどの天然っぷりで周囲に被害を撒き散らすことであり、その点でも妖姫のもとにいるなら安心だ。
たとえ龍王の振る舞いで第三者を混乱あるいは激怒させることになっても、彼女なら上手く取り成してくる、はずだ。
先程の知帝の、失礼とも取れる発言に気分を害するどころか、肯定的な青年ヤツブサの考えも似たようなものだろう。
もっとも知帝がまだ人間だった頃、この世界の管理者がまだ帝天だった頃は一人で動くことがほとんどだったようなので言葉で言うほどの心配はないのかもしれない。文字通り一人で動き、他者との関わりをほぼ持っていなかった故、問題なかったとも言えるかもしれないが。
「お前の方こそ、藍の親子はいねぇのか?」
「少しおつかいに出てもらっています」
端的な返答にヤツブサの視線がやや鋭くなる。理知的な光に緊張感が宿る。
「なんかあったのか?」
藍の親子こと武藤海斗、武藤海里は龍王の御使いとなった二人のことである。
本来、御使いであれば、主である龍王の傍にいるべきなのだろうが、当の神はその手のことに興味がない。
自らの御使いに好きにするよう言いつけ、それに素直に従った藍の親子は知帝の傍にいるようになった。
父の方、海斗は友人に託された故。
息子の方、海里は生前の好で。
知帝としては、有能な二人が傍にいることと、苦手なタイプが傍にいることの二つが混ざる複雑な気持ちである。
ともあれ、主である神が気にしないので、知帝は下界で厄介事が起これば、二人を派遣することがあるのだが。
「今回は本当にただのおつかいですよ。……久しぶりに和菓子が食べたくなったので」
「……お前」
言葉の意味を正しく受け取るヤツブサは物言いたげな視線を送る。
和菓子、その単語への共通認識として浮かぶのはとある店である。
生前、知帝が贔屓にしていた和菓子屋。海里と深い縁のある場所。
知帝も、御使いとなった藍の親子も、すでに人間としての生を終えた身であり、不用意に下界に関わるのは好ましくない。それが生前、深い関わりがあった場所であれば尚更。
終わった身が、悪戯に下界へ混乱を齎す真似は避けるべきである。だが、今回はただのおつかいだ。
「認識阻害はしてあるので気付かれませんよ」
あの店にはその手の感覚が鋭い者が多く出入りしているものの、知帝謹製の認識阻害を破れる人はそう多くない。
たまにくらい、近くで妻や娘の姿を見る機会があってもいいだろう。
海里は自分の立場を理解している。それ以上のことはしない信頼感があるから問題ない。
「常々思ってたんだが、お前ってわりと、というか、かなり情で動くタイプだよな」
「そーですか?」
「なんだ自覚なしか? だとしたら、厄介なことこの上ねぇけどよ」
言いながら、ヤツブサは健の前に腰を落ち着ける。話をする姿勢に断る理由もなく、暇潰し程度の感覚でヤツブサに向き直る。
「この際だ、一つ聞くぜ」
見た目だけで言えば、粗野で粗暴。冷静という言葉に似合わないヤツブサは、しかし誰よりも理知的に周囲を見ている。
そこから放たれる言葉を仄かに身構えて待つ。
「お前、本当はもっと早くに決着つけられてただろ」
「……」
「おかしいと思ってたんだぜ? 知識の神ともあろう人が、あんなギリギリの、ともすれば賭けみてぇな方法を選ぶなんてさ」
ヤツブサが言っているのは、知帝がこの世界の管理者権限を得ることになった戦い、いや、それ以前の話――知帝が岡山健として動いた神生ゲームのことである。
「俺を買い被りすぎですよ」
知識の神なんて言っても今の話に過ぎない。
人間だった頃は知識の神としての力――万物を知る力を完全には使えなかった。その上澄みを掬う程度のもので、少し賢い人間ってのが精々だ。
「本当にそうか?」
対するヤツブサは折れることを知らないと言わんばかりに問いを重ねる。
気付いているのだ。知帝の言葉があくまで場を流すために、話題を変えるために紡がれたものである、と。
「自分の寿命を削って、尽きかけの命をギリギリで延命し続けて、俺は正直本気で帝天に対抗する気があるのが疑問だったんだぜ?」
「元々、帝天にそー設定されていた以上、仕方のないことですよ」
「いや、違うね。お前はやろうと思えば、被害を最小限にもできたし、早くに決着することもできた。でも、それをしなかった」
のらりくらり躱すために紡ぐ言葉の底を、ヤツブサは見切っている。
相手の真意を見抜く目。ものの本質を見抜く目。
かつて万物を見る力を持つ出来損ないの神であった経歴は伊達じゃないと言ったところか。
「できなかったんだ、お前は。周りのためならいくらでも寄り道して、己を犠牲にする。見て見ぬふりなんてできない奴なんだ」
「俺は……目的のためならいくらだって周りを犠牲にする、そんな人間ですよ」
「確かにそういう面もある。だが、お前はその犠牲にした者の数を律儀に数えてるタイプだ」
図星である。ヤツブサの言葉はどれも的の中心を射抜く正確なものばかりだった。
ヤツブサの言う通りだ。本当は己の身体が限界に達するより早く決着をつけられていたし、そもそも限界を迎える時は本来ならばもう少し先であった。
それを知帝は計算違いと結論づけていたが、何故計算違いが起こったのかまでは考えないようにしていた。考える必要などないものだったから。
「別に責めるつもりはねぇよ。単なる確認だ」
返答がないことを肯定と受け取ったヤツブサが言葉を続ける。
「お前が情に素直なお陰で、神生ゲームは一先ず決着がついたわけだしな。むしろ、始まりに関わった者として礼を言わなきゃなんねぇ立場だ」
「俺が俺のために果たしたことです。謝意は不要ですよ」
「じゃあ俺が俺のために礼を言うのも、お前は止めらんねぇってことだな」
そう言われては知帝に返す言葉ない。にやついた顔にその心情まで見抜かれている気分で、やや面白くない気分だ。
「くくっ、お前、結構面白い奴だよな、おチビさん」
面白いという評価と、「おチビ」という呼称にやや不満はあるものの、今は敢えて触れない。代わりに別の言葉を紡ぐ。
「俺の方からも一つ聞いていーですか?」
ヤツブサは視線だけで続きを促す。
話題の変化、空気の変化を敏感に感じ取るヤツブサの反応を受けながら、知帝は言葉を続ける。
ヤツブサの問いがそうであったように、知帝が先の一件で気になっていたことだ。
「藍の親子のことを含め、龍王さんがいろいろ動いていたのは知っていますけど、どこまでヤツブサさんの指示なんです?」
桜が生み出した歪みから知帝は生まれた。そして、その誕生を悟った龍王は自分の魂を分けた存在を武藤家の子供として生まれさせた。
生まれた子供、海斗は知帝が人間としての生を終えるタイミングで、帝天の動きを抑制する核になった。
海斗が役目を果たせなかった際の代役、あるいは予想外の出来事に対する対策として生まれたのが海里。実際、海里は本人に自覚はないながらも、緩みかけた縛りを締め直す役割を担っていた。
龍王のこの動きがなければ、知帝が目的を果たすのに難儀していたことは間違いない。
万物を見ることのできる龍王が、先の出来事を見てここまで動けたことに不思議はないが――
「正直、龍王さんがあそこまで頭が回るとも思えないんですよね」
龍王は基本的に本能で動くタイプだ。あれこれ考えを巡らせ、予防線を張るタイプではない。
それは、ここ最近の付き合いで、よりはっきり認識できた彼の性質であった。
一言で言うなら天才。知帝にとってもっとも身近な出来損ないの神であるところの鬼神と似たようなタイプだ。
感覚的に動いたすべてが正解を引き当て、そうするために必要なことは周りがフォローする。鬼神の場合の周りは紅鬼衆であり、龍王の場合で言ったら目の前にいる青年である。
出来損ないの神、龍王の世話係。その肩書きは対人が不得手な龍王の世話をするばかりを意味するものではない。
必要とあれば、口八丁に龍王の考えを誘導することを知帝は知っている。
龍王の世話係とは、龍王の制御役であり、ブレーンを意味する肩書きだ。
「言っとくが、俺は海斗があいつの半身なんざ、知らなかったぞ。通りで似てるはずだと後で思ったくらいだ」
「では、すべて龍王が独断で行っていたと?」
「まーそう言い切っちまうのも少し語弊があるな」
ヤツブサが海斗の正体を知らなかった。そのこと自体が嘘であるとは思っていない。
海斗と何度か生前の話をする中で、ヤツブサが「あいつに似ている」旨の発言をしていたと聞いたことがあるからだ。
「お前さんが生まれて、波乱が起きるっつうことまでは神威に見えてた。んで、相談されたと」
万物を見る力を持ってすれば、知帝が生まれたことで起こる出来事をある程度見ることもできるだろう。
「動くべきか、放置するべきか。知っての通り、俺らには世界すべてを守る気はねぇからな」
守りたいものだけを守る。それは最初の世界、リセットされる前の世界から神生ゲームに関わる者たちに共通する認識である。
知帝もその考えには共感している。ただ少し守りたいと思う対象が多すぎるだけで。
それがヤツブサの言う、情で動くことの証左である自覚はあるので一先ず閑話休題。
「んで、いざとなりゃすぐに手を出せるように準備しつつ、様子見しとけばいんじゃねってアドバイスしたわけだ」
「その結果があれだと」
「自分の半身を置いときゃ楽だって思ったんじゃねぇの。姫さんのとこでも参考にしてさ」
妖姫の宿主にして、妖界を統べる王、妖華は元々妖姫が孤独を嘆いて生み出した半身である。
妖姫を慕っている龍王には参考にしやすい相手だったのだろう。
ヤツブサの言葉に嘘はない、と思う。一方的に否定や肯定できるほど、知帝は龍王のことを知らないのであくまで暫定的に。
「俺らは別に逐一報告しあってるわけじゃねぇしな。それこそ海斗の正体に気付いたのも自力だったし」
言いながら、ヤツブサは大きく息を吐く。
「結局巻き込まれて尻拭いしなきゃなんねぇんだから、最初から言っとけって思ってるくらいだよ」
「それだけヤツブサさんを信頼しているということでしょーね」
ぼやきに対する返答を耳にして、ヤツブサは驚いた目で知帝を見た。意外なものを見る目は刹那、すぐに和らいだ瞳はにやついているようだった。
「なんだ、慰めてるのか?」
「事実を言ったまでです。龍王さんのヤツブサさんへの態度は信頼と称するべきものでしょう。より正しく言うのであれば、甘えでしょーが」
龍王とヤツブサ、おそらく年齢的に言えば、それほど離れていない二人なのだろうが、傍から見た関係性は親子のようである。
まともな子供時代を迎えられず、親との関係が希薄だった龍王がヤツブサを親として認識している、知帝にはそう見える。
知帝にも少しだけその気持ちが分かる。
どんなに違うと意識していても、もっとも身近にいた大人を親のように思ってしまう気持ちは消せなかった。
「龍王さんが攻撃を避ける素振りもないのはヤツブサさんくらいですよ」
避けられる攻撃を避けないのは信頼と呼ぶべき行為だろう。
「そこまで言われるとこそばゆいな。まあ、でも」
遠くを見るように目を細めるヤツブサ。その瞳に映っているものは、いくら知識の神と言えども知ることはできない。
「あの日、声をかけたかいがある……のかもな」
柔らかく、あまりにも柔らかく微笑むヤツブサ。龍王との関係性を思い描き、沸き立つ感情で胸を満たす姿。
「神威に話しかけたのは隠れ蓑にするためだったけど、俺も……繋がりが欲しいって気持ちはあったからよ」
「ヤツブサさんも大概、情に弱いタイプですよね」
意趣返しというわけではないが、紡いだ言葉に鋭い視線が向けられるのを感じ、
「でも、俺はそういうヤツブサさんでよかったと思いますよ」
綻んだ口元で告げる。
ヤツブサが情に絆されて、龍王の傍にいることを選ばなかったら、彼の世話をする人がいなくなっていたことになる。それは少しぞっとする話だ。
鋭い目を見開いたヤツブサはすぐに相好を崩し、
「俺もお前が情で動くタイプでよかったと思ってるよ、おチビさん」
知帝が情に流されなければ、神生ゲームは今のような決着を迎えることはなかった、と。
お互いが似た言葉を交わして、柔らかな笑みを交わし合う。
そこへ
「ヤツブサ、来ていたんですね」
「ほんとだ。なんか……知らないうちに仲良くなってるね。何話してたの?」
おつかいを済ませ帰ってきたらしい藍の親子が絶妙なタイミングで声をかける。
知帝とヤツブサはほとんど同時に笑みを消して、視線を逸らした。なんというか、知り合いに見られるのは少々恥ずかしい状況であった。
「世間話ですよ」
「そうなんだ?」
首を傾げながら、息子の方、海里は買ってきた和菓子を手に、知帝の横に腰を落とす。
同じタイミングで、父の方、海斗が海里の正面に座る。
「それでは私たちも加わりましょう」
「せっかくお菓子もあるしね」
穏やかながら有無を言わせない強さの口調で藍の親子が二人の会話に加わる。
藤咲堂の和菓子を食べながら、四人の会話はまだまだ続く。