4話 忌子の弟
前話と同じ時系列
レオンは両親のことを覚えていない。
レオンを産んですぐに母は死に、忌子である姉弟を疎んだ父に追い出されたという姉から聞いた話だけがレオンの知る両親の情報だ。
母の死因について、姉は語らなかったが、なんとなく察することはできた。
忌子を二人も産んだ女がどんな扱いを受けるかなんて想像するまでもない。他殺か、自殺か、いずれにせよ、優しい姉がレオンに話すことはないだろう。
恵まれない生い立ちを抱えたレオンではあるが、自身を不幸だと思ったことはない。
なぜなら、姉クリスがいたからだ。
生まれて間もないレオンを抱え、外に放り出された姉。幼子が一人で生きていくことすら難しい場所で、姉はレオンをきちんと育て上げた。
お陰でレオンは五つになった。
姉がレオンと共に家を出されたのは四つの頃と聞いているので、どれだけ過酷な日々を強いてきたのかと思うと姉には頭が上がらない。
けれど、姉は一度としてお荷物でしかないレオンを邪険にすることはなかった。
「レオン、具合はどう?」
「だいぶよくなったよ、姉さん」
今、レオンは大きな屋敷の一室にいる。と言っても、レオンが行ったことのあるのはこの部屋とお風呂なので正確にどれくらい大きな屋敷なのかは分からない。
ただ、与えられる食事や衣服、部屋を飾る調度品の質から見ても、かなり裕福な家なのは想像できた。
「よかった」
ここに来た経緯をレオンはいまいち覚えていない。
熱を出し、意識が曖昧で、気付いたらふかふかのベッドに寝かされていたといった感じだ。
レオンを守るため、人一倍強い猜疑心を持った姉の判断だから信用はしている。
何より、スラム街に来ていたときからあの人は信頼できる人だと感じていた。
「クリス、そろそろ時間です」
そう姉に声をかけたのは長身の男だ。
鮮やかな緑の髪と白い肌。鍛え上げられた肉体は幼子程度なら簡単に捻り潰してしまうだろう。
彼は樺と言って、レオンの身の回りの世話を焼いてくれている。
怖い見た目に反して丁寧かつ繊細にレオンのことを気遣ってくれる。
ただ、声かけに対する姉の反応を見て、レオンの中で不審が強まった。
辛いことも苦しいこともレオンの前では笑顔でこなすあの姉が、樺の言葉を受けて一瞬渋い顔をした。
レオンはその一瞬を見逃さず、余程酷いことをされているのだと幼いながらに賢い頭脳が導き出した。
レオンを診てくれる条件として姉が何かを課されているのは想像に難くない。そして、レオンのためならどんなことでも受けるであろうことも。
「あのっ、姉さんに酷いことしないてください。……俺が代われることなら…俺がしますっ」
いつまでも姉に甘えてばかりではいたくない。そんな考えのもと、睨みつけるように樺へ告げる。
姉クリスはレオンの言葉に驚いたように目を丸くし、樺は妙に渋い顔をした。
二人というか、主に樺の反応を見て、後ろの方で様子を見ていた金髪の少女が笑い転げている。
この少女こそ、この大きな屋敷の主である妖華という名の妖である。
困惑するレオンを前に妖華の笑い声だけが響く。
「だ、大丈夫よ、レオン。姉さんは何も酷いことされてないわ」
数拍遅れて我に返ったように姉はそう告げた。だが、正直姉のこの言葉はあまり信用できない。
レオンのためならなんでも大丈夫と言う人だから。
ただ未だ笑い続ける妖華の声がレオンの考えに否を言い続けている。
「樺がそんな怖い顔をしてるから勘違いされるのよ」
笑い終えたのか、目端の涙を拭いながら妖華はそう言った。樺はさらに渋い顔を見える。
「元々こういう顔ですので」
「もうちょっとにっこり笑った方が子供的には親しみやすいものよ」
「…………善処します」
やはり渋い顔で頷く樺。
彼がにっこり笑顔で笑いかけてきたらそれはそれで怖い気もするレオンである。
樺の反応に満足げに笑いかける妖華の紺碧の瞳がこちらを向いた。それだけで妙に緊張する。
見た目はあどけない少女。けれど、それ以上の何かを感じさせる瞳だ。
スラム街の孤児すらも真っ直ぐに射抜くその瞳は本人が口にしたように柔らかな笑顔が浮かべられている。
「そんなに心配なら貴方も一緒に授業を受けるといいわ」
「妖華様っ」
「大丈夫よ。もうほとんど治ってるって話だし、ずっと寝ていても鈍ってしまうでしょう?」
幼子相手でも理解させることを忘れない妖華。
レオンをまだ休ませておきたいらしいクリスは、理解はできても納得できないという顔をする。
「それに学んでいて損はないわ。ずっとここにいるにしろ、出て行くにしろ、ね」
「……分かりました」
渋々と頷くクリス。満足げに頷く妖華。
自分のことなのにいまいち理解できていないレオンは二人を見比べて首を傾げた。
「さて、私はそろそろ仕事に戻るわ。樺、二人のこと、よろしくね」
そう言い残して妖華は去り、残されたクリスとレオンの姉弟は授業とやらをすることとなった。
いつもは別室でしているらしいが、クリスの意思を尊重してレオンが滞在している部屋ですることになった。
学ぶのは主に読み書きと簡単な計算、歴史、礼儀作法だ。読み書きや計算は元々できていたので基本的には歴史や礼儀作法が中心のようだ。
ここにクリスが渋い顔をしていた理由がある。
頭が良い人なので勉強自体は問題ない。ただ礼儀作法の授業が苦手らしかった。
スラム街での生活が長く、身近には粗野な人ばかりの環境で定着した立ち振る舞い。変えるのもそう簡単にはいかないようだ。
スラム街の人とほとんど関わりがなかったレオンの方がまだ抵抗なく受け入れられる。
「クリス、また背筋が曲がっています。足も、女性はそんな大股で歩いてはいけません」
樺の授業は厳しいものだった。妥協は許さず、一挙手一投足に拘って指導する。
それは主である妖華の命令を完璧に完遂するという決意の表れだった。
指摘されるたび、顔を顰めるクリスではあったが、嫌がっているわけではなく真摯に指摘を受け止めている。
樺の厳しさは意地悪めいたものでは決してなく、レオンたちを教育するためにしていることだと分かるから不満も湧かない。
礼儀作法を学べば、働き口も増える。今までのように盗みを働くのではなく、真っ当な方法で稼げるようになるのだ。
将来のことを考えれば、多少厳しいくらいの方がむしろありがたくもあった。
一週間近く経った頃、妖華がレオンの部屋を訪れた。
実の所、レオンはほとんど妖華と話したことがない。二人きりなんてのは今回が初めてだ。
妖華と会うときはいつもクリスや樺が一緒で、その二人と話しているのをレオンが見守るという構図が多かったのである。
優しい人なのは分かる。医者まで手配してくれて、温かい寝床を用意してくれて、感謝しきれない。
けれど、相対すとなると苦手意識にも似た妙な緊張感がレオンの中に生まれる。
スラム街の孤児が一生かけても目にかかることすらできない高貴な人。
どんなに親しみやすい笑顔を浮かべても、その文言だけで緊張が全身を支配する。
「身体の方はどう?」
「お、お陰様でもうすっかりよくなりました」
教えられた礼儀作法を片っ端から引っ張り出し、決して粗相がないように心掛ける。
「ふふ、そんなに固くならなくても大丈夫よ。取って食べたりしないから」
「はいっ」
やはり身を固くしたレオンの返事に妖華はただ笑った。
分かっている。どんなにクリスが無礼な振る舞いをしでも笑顔で受け止めていた人だ。多少の粗相は目を瞑ってくれる。
それでも緊張して、身体がかちこちに固まってしまうのだから仕方がない。
「レオンには何かしたいことはある?」
不意の問いかけに疑問符を浮かべて見返す。
「クリスから話は聞いていると思うけど」
昨日、クリスは今後の話を切り出した。
クリスはここで妖華のために働きたいとそう言った。レオンが反対しないなら、と。
レオンのために生きてきた人だ。やりたいところを見つけても、レオンから離れることはできないと思っているのだろう。
もちろんレオンはクリスの意見に賛成した。自分のせいで姉がしたいことをできないのは嫌だったから。
「私はね、貴方たち姉弟がずっと一緒にいなくてもいいと思っているの。互いを気遣って、言いたいことややりたいことを我慢する必要なんてないわ」
レオンにとって世界とは姉の傍で見ているもののことだった。クリスから離れた先、世界が広がっているなんて想像もつかない。
クリスもそうなのだろう。クリスはレオンこそ、彼女の世界のすべてとして見ていてくれる。
「互いを気遣うくらい貴方たちは強い絆で繋がっているわ。少し離れても切れることのない絆でね」
理解した。妖華はレオンたちの世界を広げてくれようとしているのだと。
可能性を説き、未来を歌い、その瞳はずっとレオンに向けられている。
「貴方たちはまだ幼い。すぐに結論を出す必要はないわ。ただよく考えて、やりたいこと、したいもの……できる範囲で力を貸すわ」
「俺……姉さんの力になりたい。働きたい、です」
ずっとずっと守られながら生きてきた。
姉は強く賢い。レオンの助けなど必要としていないことは分かっている。
けれど、守られてばかりは嫌なのだ。与えられてばかりは嫌なのだ。
「俺にもできることはありますか?」
「そうねぇ、じゃあまずは樺の下について使用人の仕事を覚えなさい」
レオンの訴えを受け入れて、妖華は最適解を示す。
「及第点を貰ったら王宮で雇ってあげる。自分でお金を稼げるようになったら、恩返しの方法も見つかるわ」
「がんばります……っ」
その日からレオンは樺の下について使用人として必要な技術を磨いた。貴人相手の最上級の礼儀作法を学び、内宮の使用人から仕事の手解きをされ、少しずつ身につけていった。
内宮、とくに妖華の私室近くを任されている使用人はそれだけ技術と信頼度が高い。
レオンは今後、外宮で働くことになる。内宮の技術を身つければ十二分以上に成果を出せるそうだ。
そうして外宮で成果を積んでいけば、内宮に配属され、最終的に妖華付きになれるのだとか。
レオンはそこまでの出世は目指しておらず、二人で暮らしていくだけの最低限の給金が貰えればいいと思っている。
そうして時間は流れ、十になる年にレオンは外宮の召使いとして雇われることとなった。
住まいは同じ召使いが多く暮らしている、安いアパートを妖華が紹介してくれた。そこでレオンは一人暮らしをすることになる。
この頃には姉はすでに妖華の私兵としての地位に収まっており、もう少し立地いい貸家で暮らしいている。レオンもそこで共に暮らしていたが、自立するという意味も込めてこのタイミングで一人暮らしをすることを決めた。
反対はされなかった。お互いにお互いなしでも生きられるようになっていたから。
「それじゃ頑張ってねぇ。いつでも帰ってきていいわよぉ、お姉ちゃんが抱きしめてあげる」
すっかり雰囲気の変わった姉、クリスに見送られ、レオンは新たに一歩踏み出す。
「いってきます」
その後、処刑部隊が作られ、幹部の娘と出会い、レオンが副隊長の座に収まるのはまた別の話。