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月影のしるべ 後編

第2節第1章の月パート

後編になります

 とめどなく降り続ける傘が地上を濡らす。雨音に耳を傾けながら、帰路につこうとした月は傘立てに自分の傘がないことに気付いた。


「あれ?」


 今日は朝から雨が降っていたから、忘れたなんてことはない。


 首を傾げて考え込む月の耳に、嘲りを含んだような笑い声が聞こえた。

 その先で月の傘を使って帰る少女の集団を目撃した。愛香とその友人たちである。


「どうしようかな」


 今日は掃除当番で、遅くなるからと華蓮には先に帰ってもらっている。他にこの学園で頼れる人など、月にはいない。


「よし、走って帰ろ」


 早々に結論付け、踏み出そうとした月の耳がふと聞き慣れた声を拾った。

 反射的に視線を向けた先にいるのは妹で、タイミングがいいと踏み出しかけていた足を彼女の方へ――。


「ごめんね、星。付き合わせちゃってさ」

「全然いいよ。私も楽しかったから」

「おっ、これは、新入部員会得のチャンス?」


 おそらくクラスでできたという友人だろう。そんな中に割って入る気にはなれなくて、月は気付かれないようにそっと身を潜めた。


 楽しげに話しながら通り過ぎていく二人。遠ざかる妹の姿に、締めておいた蓋が緩んだ。

 妹は、星はとても優秀だ。似てるなんてよく言われるけれど、月とはまったく違う。


 人の輪の中に簡単に入っていくどころか、気がついたらその輪の中心になっている星。

 愛香のことだって、星だったらきっと上手くやっていただろう。


 そう考えたら、どうしようもなく苦しくなった。届かない。届かない。

 同じ親から生まれていても、月は星には敵わない。小さくても強い光を纏った星の姿を妬ましく思う自分すらも月は大嫌いだった。


 暗いことを考えていれば、目頭が熱くなって流さないようにしていた涙が頬を伝った。

 誰にも気付かれないようにそっと踏み出して、雨の中に紛れた。


 紛れられたはずなのに。


「春野さん?」


 聞こえたその声が救世主のようで、心が震えた。

 涙で濡れた頬も、震えた心にも気付かれないよう、月は振り向かないまま精一杯の笑顔を作る。大丈夫。


「今日は華蓮さんと一緒じゃねぇんだ」

「うん。遅くなるからって先に帰ってもらったの」


 声が震えないように意識して、明るく聞こえるように意識して。

 今までだって何度も繰り返してきた、完璧なお嬢様を演じればいい。本当の完璧には永遠になれないけれど。


 星の姿を思い出して、また胸が苦しくなる。

 ダメなのに。今は崩れたらダメなはずなのに。


「傘ないなら、これ使って」


あの日、華蓮と話をしていたその人は当たり前のように自分の傘を月へ差し出した。


「でもっ、それじゃ岡山くんが濡れちゃう」

「俺はいいよ。丈夫だし、走って帰ればすぐだから」

「でも……」


 気にするな、と言うように手を振る姿に迷うように視線を揺らす。その間にもう彼は走り出そうとしていた。


「やっぱり、いいよ。大丈夫。私も丈夫だから」


 力こぶを作って、空元気を振りまいて、一度受けとった傘を突き返した。

 そのまま驚いた顔をする彼の横を通り過ぎようとして腕を掴まれた。


「別に頼ってもいいんじゃねぇの」


 何気なく放たれた声が胸に突き刺さった。


「俺は頼りない方だけど、傘のない女の子を放っておくほど甲斐性なしでもねぇし」


 掴まれたままの腕が引っ張られ、その先で傘が開く音がした。


「折衷案で相合傘。多少の噂ぐらいは目を瞑れよ」


 一気に近付いた距離に胸を高鳴らせているうちに彼は歩き出す。腕は掴まれたままで、月は速度を落とした彼の歩調に引っ張られる。

 何となく顔を見れば、少し頬が赤くて照れているようにも見えた。


「春野さんの家ってこっちだっけ?」

「かえりたくない」


 声は無意識に零れていた。

 家に帰ったら星がいる。星への暗い感情が溢れそうになっている今、星とは会いたくなかった。


 離れたかった。春野家という縛りから解放されたかった。

 頼ってもいいなんて優しい言葉をかけられたから、中に押さえ込んでいた心が溢れ出しそうになる。


「んじゃ、こっちだな」


 聞こえた声は素っ気ない。

 詳しく聞こうともせず、月の腕を引いたまま春野家の別荘とは違う道を歩き出す。


「なんで……?」

「帰りたくねぇなら帰らなくてもいいんじゃね? まあ、今日のところは俺ん家に泊まれよ。あ、連絡はちゃんとしとけよ」

「でも、迷惑が……」

「んなの、気にすんなよ。ダチが泊まることとか珍しくねぇし、むしろ女子なら姉さんが喜ぶだろうし」


 彼にとっては本当に当たり前のことなのだろう。

 逡巡の余地もなく、言葉を紡いでいく姿に月はそっと口を噤んだ。


 急遽泊まることになった月を、彼の家族は歓迎してくれた。彼の母親や姉なんかは、「女の子が来るなんて珍しい」と言って少しはしゃいだくらいだ。

 空いてる部屋を貸してくれて寝間着までも用意してくれた。本当に至れり尽くせりだ。





 夜、一人きりになった月は眠ることもできずに窓の外を見つめていた。


 星のことを考えて。愛香ことを考えて。


 何も答えを出せずに思考は暗い方向へと流されていく。不安になって、そっと部屋を出た。


 彼の部屋は隣だという。何かあったらいつでも来てくれとも言っていた。

 けれど、こんなすぐに頼ってもいいのだろうか。甘えが芽生え始めた自分の心に戸惑い、扉の前へ立ち尽くす。


「月さん?」


 突然声をかけられて肩が跳ねる。思わず、声にあげそうになるのをすんでのところで堪えて、振り向いた。


「健くん? なんで……あ、そっか。ここ、健くんの家だったんだね」


 立っていたのは、妹の婚約者である少年だった。

月よりも小さなその少年とは別荘でも、春野家でも何度も会ったことがある顔馴染みだ。

 よくよく考えてみれば、彼と健は同じ名字で顔立ちもどことなく似ている、気がする。

「兄さんに何か御用ですか」

「あー、えっと、別にそういうわけじゃ」


 何かいい言い訳がないかと必死に思考を巡らせるがいい答えが見つからない。

 その場しのぎの答えでは、賢い健には通用しないだろう。


 無機質な瞳は値踏みするように月を見つめ――彼の部屋の扉をノックした。


「えっ!?」

「後はごゆっくり。王様には内緒にしておくんで」


 片目を瞑ってそう答えた健はそのまま平然と去っていく。そっと開かれる扉の前に困惑したままの月だけが残された。


「春野さん?」

「あー、えっと、その……眠れなくて、少し話してもいい?」


 逃げることのできない状況に月はそう問いかけた。

 通された部屋の中は新鮮な空気で、男の子の部屋という感じがした。思えば、男の子の部屋に来るのは初めてではないだろうか。

 そう思ったら少しだけ緊張する。


「ごめんね、夜遅くに」

「いや、別に寝てたわけじゃねぇし」


 素っ気なくも優しい声が嬉しくて、そっと笑みを零す。


「ありがとう。岡山くんには助けられてばっかりだね」

「礼を言われるようなことは何もしてねぇよ」

「そんなことないよ。今日のこともそうだし……華蓮に声をかけてくれたのも岡山くんでしょ?」

「あー、あれ、バレてたのか。かっこわるっ」


 照れたような表情を見せる姿が可愛らしくて、またまた笑みを零す。

 彼の前だといつもより自然に笑えている気がする。


「私はかっこいいと思ったよ」


 少しの悪戯心を働かせてそういえば頬の朱色が増す。


「華蓮と仲良くなれたのは岡山くんのお陰だから、すごく感謝してる」

「――春野さんって考え方が真っ直ぐだよな。もう少し、ショック受けると思ってた」


 実際、知った当初はショックを受けていたので彼の言い分には間違いはない。ただ――。


「華蓮の態度に嘘がないことくらい一緒にいたら分かるよ。そういうことできるほど器用な子じゃないって」


 華蓮は良くも悪くも真っ直ぐだ。裏表がなく、嘘をつかれても簡単に見抜けるほど分かりやすい。


「まあ、華蓮さんは単純馬鹿だからな」

「ふふっ、華蓮に言いつけるよ」

「春野さんも笑ってんじゃねぇか」


 共犯者と言われ、月は仕方ないので華蓮には内緒にしておこうと決める。


「岡山くんって華蓮には敬語だよね。なんで?」

「昔、華蓮さんに言われたんだよ。幼等部くらいからの腐れ縁だからな」

「そうなんだ。ねぇ、小さいときの華蓮の話聞かせて」

「俺が言ったって言うなよ」

「言わない、言わない。約束するよ」


 いつの間にか、完全にリラックスしている自分がいた。彼と話していると不思議と落ち着く。

 小さい頃から今に至るまで、華蓮のいろいろな話を聞いた。中にはつい笑ってしまうような失敗談もあって、これを聞いたことは内緒にしておこうと心に決める。


「小さい時から華蓮と友達だったらきっと楽しかっただろうなあ」


 月の幼少期はお世辞にも楽しいものではなかったから。

 祖母の期待に、周囲の期待に答えるべく、必死に研鑽を積んできた日々。春野家の長女であろうとした日々は、あっさり無意味なものへと変わった。


「今からでも遅くねぇんじゃねーの」

「そー、だね。そうだね!」


 楽しい思い出はこれから作っていけばいいのだ。

 その思い出の中に彼が、なんて考えている自分がいて小さく笑ってしまう。


「夏になったら海に行きたいなぁ。あ、お祭りもいいかも。華蓮の浴衣姿はきっとすごくかわいいだろうな」


 そこから月は、彼と一緒に未来の話をした。

 何がしたいとか。その前にあるテストが憂鬱とか。たくさんいろんな話をして、夜はふけていく。





 そして、目が覚めたとき、目の前にある彼の顔に驚いて距離を取る。


「なんっ……あ、そっか。あのまま寝ちゃったんだ」


 男の人と夜を共にするなんて、春野家の令嬢としては失態もいいところだ。


 ましてや婚約者でもない人と。

 バレたら怒られてしまうと考えながら、心の中はやけにすっきりしていた。


「お世話になりました」


 まだ眠る彼へ深々と頭を下げて、そっと部屋を出る。家の人に遭遇しないように慎重に周囲の人影を確かめながら――。


「あ」


 小さな人影を見つけて、声をあげる。

 そこにいたのは月が彼の部屋を訪れるきっかけを作った人物。


「おはよーございます」

「お、おはよう」


 月のことを特に気にした様子もない健はそれだけ言って通り過ぎようとする。


「あっ、健くん! 昨日はありがとう」

「俺は大したことしてませんよ。あ、そうそう」


 素っ気ない謙遜を口にする健は思い出したように声をあげる。


「もし、必要であれば俺から王様に口添えしますよ」

「口添えって……?」

「この家に居候する許可、ですかね」


 月の心根を見透かしたようにそう言って、健は今度こそ通り過ぎた。

 一晩話をして、月はこの家で暮らしたいと、そう思い始めていた。帰りたくない、と。


 甘えるわけにはいかないと奮起していた心を見抜かれて唖然とする。

 健は月の父と親しい間柄だ。彼が口添えしてくれれば、居候の許可はきっと得られるだろう。


「……これ以上、迷惑かけるわけにはいかないよ」


 ただえさえ、我儘を言って泊めてもらったのにこれ以上を望むなんて月にはできない。


「迷惑って何が?」


 不意に聞こえた声に文字通り心臓が飛び出すかと思った。


「お、岡山くん……えっと、なんでもないよ?」

「ふーん」


 物言いたげな視線を寄越しつつ、弟と同じように通り過ぎる背中に思わず手を伸ばした。

 寝起きのまま、乱れた服を掴む。


「居候すればいいって健くんに言われたの。それだけ、だから」

「別にすればいいんじゃね?」

「そんな簡単に……」

「うちの親も気にしねえと思うし、姉さんは喜ぶだろ。俺も迷惑とか、そんなこと少しも思わねぇよ」


 大したことじゃないんだと言葉を紡ぐ姿に、頑なだった月の心が解かれていくような気がした。いや、きっと絆されているのだ。


「じゃ、じゃあ、ちょっと考えてみる」

「ん」


 苦心して出した答えに返ってきた声が優しくて胸のうちが温かくなっていくのを感じた。

 再び歩き出した大きな背中を見ながら、月はちゃんとカタをつけようと決める。


 ちゃんと愛香と話をしようと。


●●●


 翌日の放課後。誰もいなくなった教室に愛香を呼び出していた。

 返事をしてくれなかったから心配していたけど、ちゃんと応じてくれたようで安心する。


「何、話って」


 仲良くなった頃では想像できないほどの不機嫌な声。気にせず、月は真正面から愛香に向き合う。

 どんな結果になっても、向かい合って話すと心に決めていた。


「私、峰沢くんに媚びたりしてない!」

「は!?」

「ちゃんとまなのこと応援してたよ。まなの思いが叶ったらいいって」

「今更、そんなことを言って許してもらおうってつもり?」


 その目に激しい怒りを映し出した問いかけに月は首を振る。否定するように。


「あの時、まながどれだけショックだったか、私は知らない。だから許してなんて言わないよ。私も嫌がらせされたこと許してないから」


 本音をいえば、愛香と友人に戻りたいという思いはあった。

 けれど、心から分かり合うなんて難しいことは分かっているから。


「でもね、私は今もまなのこと応援してるよ。まなには幸せになってほしいから」

「なんで、そんな……許してないんでしょ。憎んでいるんでしょ」

「許してないけど、憎んではないよ。だって、私はまなのこと好きだもん。いっちばん最初に話しかけてくれて、友達になってくれて感謝してるもん」


 もう取り戻せないものだったとしても、愛香と過ごした日々は月にとって宝物だ。

 初めてできた友達なのだ。対等に向き合ってくれる同い年の女の子だったのだ。


 胸に残る温かな思いはどんなに嫌がらせを受けても消えることはなかった。それくらい愛香への感謝は深くて大きい。


「月は、なんでそんなに綺麗なの」


 声を震わせる愛香の目は潤んでいた。今にも涙が零れそうで、それを堪えるように言葉を紡いでいく。


「嫉妬、だよ。ただの嫉妬。だって月は綺麗で、可愛くて……敵わないって思っちゃったから」


 必死に堪える涙が零れて、頬を伝った。


「峰沢くんが月を好きなこと、気付いてた。当たり前でしょ? ずっと見てたんだから」


 大好きなその人の目はいつも月のことを追っていて、愛香はずっと気付かないふりをしていた。

 いつか月の傍にいる自分を映し出してくれるかも、と淡い希望を抱きながら。


 ぎりぎりで耐えていた心はあの日の出来事で崩れ去った。


「月を憎めば、すっきりすると思った。綺麗で可愛い月を汚せば、私の方が綺麗になれるって……馬鹿、だよね」


 自嘲気味に笑う目からまた涙が零れる。


「そんなことしても自分がもっと汚れるだけなのに……っ、わた、しも……私も綺麗になりたかった……っ」

「まなだって綺麗だよ」

「嘘っ、私は……っ」

「綺麗だよ」


 自分は汚いと、愛香が零す涙はどこまでも透明で綺麗だった。

 月に嫌がらせをしたことを本気で後悔する姿は綺麗だった。


 だから、月は愛香の身体を抱き寄せる。


「私、またまなと仲良くしたいの。友達でいたいの……」

「無理、だよ」


 否定する愛香の目には、彼女がしてきた嫌がらせの日々が映し出されている。


「無理じゃないよ。私に嫌がらせしてきたこと、後悔してるなら友達でいて。じゃないと一生許さないから」

「そんなの……罰でもなんでもないよ」

「私にとっては罰なの」


 月の目には愛香と過ごした短い日々が映し出されている。

 大事な思い出を抱きしめるように月は目を和らげて、「じゃあ、もう一個」と言葉を紡ぐ。


「私ね、好きな人ができたの。だから協力して」


 今もまで男の人に言い寄られることは何度もあった。

 春野家の娘という肩書きは月が暮らしていた世界では一級品で、パーティーに参加すれば、当たり前のように寄ってくる。


 父は変わった人で、月の思いを優先するなんて言っていたけれど、好きな人ができることはきっとないと思っていた。


だけど。


「好きな人って……?」

「あのね」


 素っ気なく、なんでもないことのように月の我儘を聞いてくれた人。

 彼と一緒にいられたら、そんなことを考える気持ちが「好き」ならば月はきっと――。

  

 これはまだ誰にも言っていない内緒の話。一番最初に話すのは愛香だと決めていた内緒の。


――春野月の初恋

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