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1話 屍の王

樺と妖華の出会いの話です

時系列は、ゼロのかなーり後……妖界がある程度安定してきた頃イメージです

 どこからか流されてきた死体がまた重なる。

 視線を動かして目に入るものはすべて死体ばかりだ。

 腐った身体は水にふやけ、中には時間が経って白骨化しているものもいくつかある。


 目が合うのは瞳孔の開いた瞳ばかり。

 その瞳に映るのが憎悪なのか、無念なのか、はたまた幸福なのか、そんなものはカバネが知ることではない。興味もない。


 ただ、流れ着いた新しい死体に、辛うじて新鮮さを残した肉にかぶりついた。

 広がるのは血の味ばかり。これはまだマシな方で、ほとんど腐りかけたものを食らうときもある。他に食べるものがないからだ。


 死体に塗れた川に魚などおらず、腐臭漂うこの場を訪れる動物もいない。草木は枯れ果て、唯一食せるものが流れ着く死体しかないのだ。

 命を繋ぐために食らう。けれど、カバネは命を繋ぐことに意味を見い出せていない。


 ただ本能に従い、襲いくる空腹に抗うべく死体を食った。

 生や死、それの意味することなどカバネには分からない。


 カバネはこの死に満ちた場所で生まれた。


 妖の生まれ方には大きく分けて二つある。一つは親から生まれるもの、もう一つは突然変異で妖になるものだ。

 前者は、一部の例外はあるものの基本は人間の生まれ方と同じ。

 後者は、なんらかの作用により、突然妖に変異するものだ。付喪神なんかが分かりやすいだろう。

 無機物が長い時を経て、妖として目覚める。

 恨みで妖化した動物なんかも日本に伝わる物語なんかではよく聞くものだろう。


 カバネはこの地に集う死、負の感情を煮詰めた邪気の突然変異で生まれた。

 質の高い邪気が集い、カバネのような知能のある一つの生命体が生まれ落ちたのだ。


 似たような存在は他にもいた。死が蔓延した町で生まれた死の化身は、例外なくこの町を構成する死体の一部となった。

 カバネもいずれ、彼らのように積み重なる死の一部になるのだろう。絶望的な未来を絶望とは思わず、終わりだけを見つめて生き続けた。

 新しく生まれる死の化身。時折町の外から来る妖たち。残らず、死体となっていく過程を眺めながら延々と。


「あら、生きている子もいたのね」


 薄汚れ、澱んだ空気の中に凛と声が響いた。

 また新たな犠牲者かと冷たく寄越した視線に鮮やかな金色が映し出される。


 初めて見る穢れの知らない美しい少女だった。

 小柄な身を美麗な着物で包み、身の丈以上もある金髪を流れるままにしている少女。

 腐った死体が転がる地面を引き摺られてきたにも拘わらず、その着物も、髪も汚れ一つついていない。

 透き通った肌が輪郭を描く顔は幼く、穢れを知らないと語る紺碧の瞳がじっとカバネを見つめていた。


「初めまして、私は妖華って言うわ。貴方は?」


 死体が積み重なり、歩きにくい道を危なげなく進む少女は微笑んでカバネにそう問いかけた。

 純粋無垢な薄紅の唇に対して、カバネは先程食した死肉の血で汚れた唇を開く。


「……カバネ」


 それが自身の名なのか、と言われたら分からない。

 時折訪れる妖たちが自分のことをそう呼んだから、そう名乗るようにしている。

 突然変異で生まれたカバネには名付けてくれるような存在はおらず、自覚するような名も持っていなかった。


「貴方は……そう。稀な生まれ方をしているのね」


 透き通った瞳が澱んだ瞳を見つめて呟く。

 無垢で綺麗で穢れを知らず、それでいてその瞳は深淵を思わせる何かを宿していた。


「妖華。あまり先を行かないで」


「ごめんなさい。生きている子を見つけたからつい」


 紺碧の瞳がつい、と別の方へ向けられる。

 そのことを惜しいと思いながら、カバネもまた彼女の視線の先を見る。

 そこには彼女とは別の意味で染まらない女性が立っていた。


 全身に黒を纏った女性。闇そのものを体現した、妙な恐ろしさを持った女性だった。

 真っ黒なドレスを纏い、黒いベールでその顔を隠している。紗幕越しに闇色の瞳に見つめられ、反射的に身を固くする。

 防衛本能に近い何かがカバネの中に沸き起こった。


「貴方、屍の王ね」


「じゃあこの子がオンラが言っていた?」


「そう。死の蔓延した地で、死に嫌われた子供」


 光と闇、それぞれ対象的なものを背負った二人の会話はカバネの理解を超えるものであった。

 カバネのことを話しているということまではなんとなく分かったが、示される肩書きは聞いたことのないものだった。


「ねぇ、オンラ。この子、連れて帰りましょう」


「また……妖華の拾い癖。私もそれで救われたから文句はないけれど……姫様は許してくれるの?」


「大丈夫よ。彼女は私には甘いから」


「妖華らしい。……二人が良いなら私は反対しない」


 見た目相応の笑顔を花咲かせ、妖華はカバネへと手を差し出した。

 穢れなど知らない白い肌。それを汚してしまうのが惜しくて、躊躇うカバネを和らいだ紺碧の瞳が見つめる。


 優しい瞳だ。優しいのに妙な圧を感じるのは気の所為だろうか。

 多分、カバネがその手を取るまで終わらない気がして、垢まみれ汚れだらけの手で穢れ知らずの美しい指先に触れた。


 指先にちょこんと触れるだけのカバネの手。

 妖華はそれをぎゅっと握りしめ、闇色の女性ーーオンラと呼ばれていた女性の方へ目を向ける。


「あとはこの地の浄化だったかしら?」


「本来はそっちが本命」


 平坦な指摘は意に介さず、妖華は辺りを見回す。透き通った紺碧の瞳が澱んだ世界をなぞる。

 死体が積み重なり、死臭と薄汚れた空気で満たされた空間を静かに見つめ、妖華は薄い唇を開いた。


「咲きなさい」


 凛、と広い空間に響き渡る声。

 死に支配された場所でその言葉に応える植物は存在しない。その事実を否定するように、妖華の声に応えた花々が一斉に芽吹いた。


 死体に埋め尽くされた一帯、視線の届く先よりももっと先まで美しい花が埋め尽くす。

 何年、何十年とこの地に刻まれた死の穢れなどものともしない花々が艶やかに空間を飾り立てる。


「……ぁ」


 澱んだ空気をその美しさで包み込んだ花々が一斉に花弁を散らす。

 その姿を惜しく思うカバネの心を置き去って、風に踊り、天高く登っていく。渦を巻き、やがて一つに纏まって弾けた。


 きらきらと澄んだ光が降り注ぐ。

 澱んだ空気を、積み重なる死体さえも呑み込んだ花々が光となって地面に降り積もりーー死んだはずの土地に小さな緑を植え付けた。


「こんなものかしら」


「ありがとう。これで私の憂いが一つ、なくなったわ」


 憂いを帯びたその顔でオンラはそう言った。

 黒いベール越しに見える美貌は悲しげで切なげで、多くを語らず生まれ変わった土地を見つめる。


「とはいえ、これも一時的なものよ。根本から正さないと同じことが繰り返されるでしょうね」


 幼い顔立ちに似合わない理知的な表情を宿す妖華は小さく息を吐いた。その唇が再び弧を描く。

 ネガティブな表情を浮かべるのを嫌うように彼女は鮮やかな笑顔をカバネに向けた。


「難しいことは後で考えるとして、一先ず戻りましょうか」


「そうね」


 頷き合う二人に連れられ、カバネは妖生(じんせい)のすべてを過ごした土地から離れた。

 死の町の外に行くのは生まれて始めてではあったが、長年過ごした土地を離れる寂寥感も、知らない土地を訪れる不安感もカバネの中に生まれることはなかった。


 カバネが情に乏しい妖だったというよりも、彼女に手を引かれているというのがすべてだ。

 死の冷たさに慣れたカバネの手に熱を与えてくれる妖華の手。それ以上に必要なものなど今のカバネにはなかった。


「ここは黒ノ国っていうの。妖界で唯一の島国で、ここにいるオンラが治めているのよ」


 道すがら、妖華はカバネが置かれていた状況について教えてくれた。

 カバネがいたのは黒ノ国の外れにある小さな町で、数十年前に滅んだまま捨て置かれた場所だったらしい。

 住人がおらず、川下にある町ということもあって、死体を処分する場として長年使われていたのだとか。


「死者は丁重に弔うべき。私が至らなかったから、悲しい町が生まれてしまった」


「オンラ、貴方はよくやっているわ。黒ノ国は闇に呑まれた者が集う場所ーーそれを取り纏めるのはそう簡単なことではないもの。それにーー」


 刹那、悲しみの色を宿した瞳がやはり光を纏って言葉を続ける。


「責があるのは私も同じよ。私はこの国を、妖界を統べる王だもの」


 己を立場と向き合う妖華は真っ直ぐに前だけを見つめている。

 その光は強い。どれだけ闇が積み重なろうとも消すことのできない強い光だけが彼女を取り巻いている。


「問題が起きたなら取り除けばいい。そして、同じことが起こらないように努める。それだけよ」


 簡単なことのように言うそれは決して簡単なことではないだろう。

 でも、彼女は屈しない。暗い感情を灯さない。

 圧倒的なまでに輝き、周囲を照らす。それが彼女の生き方なのだと、そう思った。


「ついたわ」


 聳え立つのは黒一色に染められた屋敷だ。

 拘り抜かれた装飾で飾られながら、それらを隠すように黒のみで構成された大きな屋敷。


 暗黒の屋敷を目の前にした途端、ぞくり、と怖気のようなものが全身に駆け巡った。カバネは生唾を呑み、見開いた瞳に警戒を乗せた。

 ここは何だ。一歩でも近付くことを全身が拒否している。


「大丈夫。ここは安全」


「怖いと思うのはこの屋敷にある防衛機能の一つよ。近付きたくないと思わせることで部外者の侵入を拒むの。……ちょっと効果が強すぎるのが玉に瑕ね」


「ここに貴方以外の来訪者はいないから平気」


 説明を受けても、カバネを支配する恐怖心は消えない。全身に鳥肌が立ち、呼吸が乱れる。

 あと一歩でもあの屋敷に近付けば発狂してしまう、そんな気さえしてくる。

 縫い止められたように動かない足は小刻みに震えている。


「うーん、術への免疫がないのね」


 悩ましげな声を出す妖華は掌に花を生み出す。開花すると同時に花弁が舞い落ち、妖華の掌には透明な球体が残る。


「はい、あーん」


 膝を折り、カバネと視線を合わせた妖華は生み出したばかりの透明なそれをカバネに食べさせた。

 恐る恐る食むカバネは緩慢な動きで咀嚼する。

 弾性のある噛みごたえ、味はない。


「これでもう怖くはないでしょう?」


 問いかけられ、改めて屋敷を見る。

 目の前にあるのは黒を基調に作られた普通の屋敷だ。どれだけ見ていても、恐怖心は少しも湧いてこない。


 小さく首肯したカバネに頷き返し、妖華は手を引いて屋敷のーー黒ノ館の敷地内へと足を踏み入れた。

 屋敷の中には黒い塊が何匹もいて、興味津々に見ていれば、


「あれはここの使用人。害はない」


 とオンラが端的に教えてくれた。

 掃除や洗濯など家事を行っている存在らしい。

 よくよく見れば、庭の手入れをしているものや掃き掃除、拭き掃除をしているものがいる。


「まずは……お風呂かしらね。身体を綺麗にしないと」


「その子についていって。手伝ってくれるから」


 そう言われて、目の前を進む黒い塊について行く。

 目や鼻はない。あれでどうやってものが見えているのだろうか。

 ついて来ているか確認するように時々振り返るので、視覚のようなものはあるのだろうが。


 やがて黒い塊は止まり、中へ入るように促された。恐る恐るその狭い部屋の中に入った。

 どうやら部屋の奥にもう一つ部屋があるようだ。

 すりガラス越しに部屋の存在を確認するカバネの袖を黒い塊が引っ張る。思いの外強い力で解けない。


「服を脱げってことか……?」


 言葉を持たないらしい黒い塊の行動の意図を少し遅れて理解した。

 引っ張っているというより、脱がそうとしていたようだ。素直に従って、カバネは纏っていた襤褸を脱いだ。


 近くにいた死体の服を奪って以来、ずっと着ていた物なので至る所がほつれ、元の色が分からないほどにくすみ、汚れている。

 何年にも渡って積み重なった汚れ。それは露わになるカバネの肌にも言えることだ。

 垢や土、乾いた血がこびりついた肌もまた元の色が分からない。ただ汚く汚れた貧相な身体を晒すだけ。


 黒い塊に誘われ、すりガラスの向こうにある部屋へ足を踏み入れる。ふわりと全身を襲う湯気に思わず顔を顰め、遅れて湯浴みができる場所だと悟る。――と。


「うわっ」


 頭上からお湯が降ってきて思わず声をあげる。程よい温度に調整されたお湯が、何かの術によるものが天井から降り注いでいる。

 そのお湯も不意に止まり、泡に塗れた柔らかい物体を押し付けられる。

 黒い塊は見た目に合わない無駄のない動きで、カバネの身体を柔らかい物体で擦る。

 強い力なのに不思議と痛みはなく、一先ずされるがままになっている。


 全身泡だらけになったところで再び頭上からお湯が降ってきた。瞬く間に泡が流れていき、汚れ一つない真っ白な肌が晒される。

 綺麗になった肌に抱くのは不気味さだ。死人を思わせるほど病的な白い肌、これでは汚れていた方とどっちがよかったかなんて分からない。


「何だ? 次は座れってことか……?」


 促されるままに座り、促されるままに目を瞑った。

 瞬間、頭に粘性のあるものをかけられ、すぐに掻き回された。

 状況の分からないまま、混乱するカバネの頭に再度お湯が降り注ぐ。また泡が流れ落ちていく感覚があって、お湯が止まった頃に目を開いた。


 視線の先ではどこから持ち出したのか、黒い塊が何か板のようなものを持っている。その板は目の前のものを映し出すものらしく、カバネは自身の姿を目にすることになった。


 純白と言っても差支えのない肌に、鮮やかな緑の髪。

 洗ったことで元の色に戻ったそれらを目にするのはこれが初めてだった。


「まるで死人のようだな」


 生きていながらその姿は屍。

 闇色の女性、オンラがカバネを『屍の王』も呼んでいた理由も頷ける。

 このような不気味な生者など他にいまい。


 自虐的に笑うカバネを、黒い塊が引っ張る。

 どうやら湯船に浸かるよう促しているようで、緩慢な動きで足をお湯の中へと入れる。


 今まで冷たい川で水を浴びるだけのカバネに湯船というものの知識がない。

 入って問題ないものなのか、確かめるような動きでゆっくりゆっくり身を沈めていく。


 程よい温度に設定されたお湯がじんわりと中からカバネを温める。不思議な感覚だ。

 温かなお湯が初体験の警戒を解き、溶けていくような安心感を与えてくれる。


 お湯に浸かってどれくらい経ったか。全身を包み込む温かさに絆されるカバネを、黒い塊がまた引っ張った。今度は湯船から上がるように促しているらしかった。

 本音を言えば、もう少しだけ浸かっていたかった。


 しかし身も心も解され、ぼーっとしてきた状態に危機感を覚える頭は辛うじて残っていて、強い力に引っ張られながら湯船を上がった。


 しっかり身体を拭い、用意されていた服を包む。

 新しいものらしい服に妙な緊張感を抱きながら元来た道を辿る。


 一歩進むごとに緊張が胸を締めつける。理由はカバネ自身にも分からない。

 ただ、屍同然のカバネの姿を彼女に受け入れてもらえるか不安だった。


 襤褸を纏い、元の色が分からないほど汚れきった身体のままなら気にならなかった。身体を洗い、綺麗になった今は途方もない不安が押し寄せる。

 あの美しい紺碧の瞳が失望し、軽蔑に変わる瞬間を想像して心臓の辺りが締めつけられる。


「まったく……そなたの拾い癖は天地創造以前から変わらぬな」


「ごめんなさい。でも、あの子は悪い子じゃないわ」


「その顔をすれば、妾が折れるとでも思っておるのか」


 部屋の前に差し掛かったとき、話し声が聞こえた。

 一人は妖華のもの、時々オンラと呼ばれていた女性の声も聞こえる。しかし、妖華と話しているのはカバネの知らない声だ。


「ダメ?」


「そなたの好きにするがよい、我が愛しの花よ」


「姫様は妖華に甘い」


「そなたも似たようなものであろう?」


 入っていいのか迷うカバネの背中を黒い塊が押す。二対の瞳が同時にこちらを向いた。


 澄んだ紺碧の瞳とベール越しの闇色の瞳。

 カバネは首を傾げる。確かに三人分の声が聞こえたのにこの場には二人しかいない。もう一人はどこに行ったのだろう。


 カバネの訪れに気付いた妖華はぱっと表情を花咲かせて、歩み寄る。腕を引っ張られ、彼女の隣の席に座らされた。


「綺麗な肌と綺麗な髪ね。やっぱり汚れているよりもこっちの方がずっといい。素敵よ」


 嘘など一つも込められない言葉で、妖華は屍同然のカバネの姿を褒めちぎった。


「もっとよく見せて」


 彼女の顔が近付き、紺碧の瞳がじっと見つめる。

 妙な気恥しさが込み上げて目を逸らすカバネのことなどお構いなしだ。

 彼女に受け入れてもらえるか、なんて考えは最早遠く彼方に吹き飛んだ。


「妖華、本題に入りましょう」


 オンラがそう促すまで、妖華はカバネの顔を見つめ続けた。その視線が外れた瞬間、緊張の糸が解けたように息を吐く。


「貴方の今後について話してたの」


 すぐに表情を切り替えた妖華に合わせて空気も張り詰めるように変わっていく。

 年相応の無邪気さを隠したその顔は底知れぬ威厳すらも感じさせる表情を宿す。


「貴方は屍の町で生まれた屍の王。黒ノ幹部である私の管轄。本来であれば、私が引き取るのが通例」


「でもね、貴方が望むなら私の許に来ない? ちょうど側近になれる子を探していたのよ」


 示される選択肢はオンラとともにいるか、妖華とともにいるかの二つ。

 元の場所に戻るという選択肢はない。多分、彼女が浄化したことであの死の町は事実上失われたのだろう。戻ってもあるのはあの花畑だけだ。


 カバネに故郷を思う心はない。他に行く場所がないから留まっていただけの場所が失われたところで浮かぶ感情は一つとしてなかった。

 故に示された選択肢に対しても不満もなく、自然な流れとして一考する。


「側近ってなんだ?」


「私の一番近くで世話をしたり、仕事の手伝いをする人のことよ」


「それになれば貴方の力になれるか?」


「もちろん!」


 どうなりたいも、何をしたいも、強く残る感情としてカバネの中には存在していなかった。

 強いてあげるなら、彼女の、妖華の力になりたい。

 薄汚れた闇しか知らないカバネに清らかに輝く光を示してくれた彼女の助けになりたいのだ。その光も守りたいと思った。


「俺は貴方と共に行こう」


「歓迎するわ」


 晴れやかに頷く妖華は名案を思いついたと手を合わせる。


「せっかくだから名前を改めましょう。屍なんて名前、貴方に相応しくないわ」


 屍の中に生まれた屍の王だからカバネ。

 誰が名付けたかも分からない名前にも思い入れはない。妖華が変えたいと願うなら変えても構わない。


 思案げな表情を見せる妖華は真剣にカバネの新しい名前を考えているようだ。

 じっと見つめる紺碧の瞳を、その薄紅に唇が開かれるの無言で待つ。


「樺なんてどうかしら? 人間界には樺っていう木があるの。白い幹に、緑の葉。まるで貴方のようだわ」


 美しいと彼女は言った。

 生気を感じさせない白い肌。まともな食事をしてこなかったせいで肉のついていない、皮と骨だけの身体。

 死人同然のカバネの姿を見て、彼女は美しいと笑う。


 きっとそれだけでいいのだ。

 光を見せてくれた彼女が笑顔を向けてくれるその時間を愛おしく思う。


「これからよろしくね、樺」


 差し出された手を取る。穢れの知らないその手を。


 今のカバネーー樺はまだ躊躇なく彼女の手を取ることはできない。綺麗なその手を、醜い手で触れることに躊躇いが生まれてしまう。

 でもいつか、その手を躊躇なく取れる自分になれるよう、樺の生を使おう。

 彼女の、妖華のためにこのすべてを。

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