閑話 藍色の想い
悲痛の叫びを漏らす青年。それを襖越しに聞いていた幼い少女が、静止の声を振り切って走り出す。
青白く光るモニターが複数浮かぶ空間の中でそれを眺めた人物が大きく息を吐き出した。
藍色の髪を腰の辺りまで伸ばした青年である。黒と紺碧、左右で違う瞳の色も相俟って不思議な雰囲気を纏っている。
中性的な顔立ちはモニターに映し出されている金髪の青年と瓜二つだった。違うのは髪色くらいだ。
「……本当に世話の焼ける弟だな」
困ったような、呆れたような呟きを聞くことのできた人物は一人だけ。
青年と同じようにモニターを眺めていた少年はその呟きを聞いて口元を緩ませた。目元を細め、実に楽しそうな目を青年へと向ける。
「下ります?」
「いいよ。これは彼らの問題、俺らが介入することじゃない、だろう?」
モニターに映し出される二人はどちらも青年とは浅からぬ関係の人物だ。金髪の青年は双子の弟であり、幼い少女は実の娘であった。
感情だけで言えば、今すぐにでも駆け寄って言葉をかけてやりたい。けれど、立場がそれを許さないことを理性で知っていた。
もう終わった人間、それがこの世に干渉していいはずがないのだと。
生きているものたちの問題は生きているものたちで解決するべきだ。青年たちが動くのは、理を超えたものが動いているときだけ。そして生きているものたちが自分たちを見つけて力を欲したとき。今回はそのどちらにも該当しない。
冷静に己の役割を示す青年が対峙する蒼い瞳は肯定も否定もなく静かに佇んでいた。
「いーんじゃないですか?」
表情の読めない表情のまま、淡々とした声が紡いだ。
かつてこの世を創った帝天から管理権限を奪った、世界の主。万物を知る力を持つ出来損ないの神、知帝。
それなりの付き合いにはなるが、彼の考えは未だに読みきれない。
「海里さんも、一度くらい娘と会話したいでしょう?」
「それは、まあ……でも、分かってて俺はこの道を進んだんだ」
「海里さんの覚悟は俺も承知しています。だから、これはご褒美です」
読めない表情に反して知帝の口調は実に楽しげだった。よく見れば、口元も僅かに緩んでいる。
「働きのいい部下には適度にご褒美をあげないといけませんからね」
「……健君、楽しそうだね?」
「さて? ああ、でも会っていーのは娘さんだけですよ。他の方々は入り込めないよーに弄っておくので」
惚ける知帝の言葉を最後に青年――海里の意識は一度ぷつりと途絶えた。再び意識が戻ってきたとき、海里は見慣れた庭に立っていた。
「きらいっ、きらい、きらい、きらいきらいきらい」
蹲り、呪うように言葉を紡ぐ幼い少女がいる。黒髪の中、一房だけ色の違う髪を掻き毟りながら世界を呪う少女が。
「きらい、きらいきらい…っ…きらいきらいきらい、きら――」
「何が嫌いなの?」
初めて直接見た娘の姿。かける言葉は自然と思い浮かんで、柔らかく笑みを浮かべた。
今も昔も癖のように浮かべる、温かく人を安心させる穏やかな笑み。
涙でぐちゃぐちゃになった顔が驚いてこちらを見る。愛おしさが込み上げた。
「こんにちは」
今すぐ抱きしめてしまいたい衝動を抑えて、膨らむ愛しさは表情だけに留めた。
「だれ?」
「うーん、と……それは言えないかな」
いくらこの世を統べる神から許しを得たといっても、こちらに影響を与えるような情報は与えるべきではない。
死んだ人間がひょっこり現れたなんて、変に混乱させるようなことも言いたくはない。
『そこは君を救うヒーローとか、王子様とか言うところじゃないんですか?』
脳に直接響くように聞こえるのは今この状況をモニターで見ているであろう知帝のものだ。
かつて知帝がまだ人間だった頃、余生を過ごす間、逆の立場で海里もいろいろと助言していたのを思い出した。そして、彼が楽しげな理由もなんとなく悟る。
「なんか面白がってない? 今すっごく良い顔してるんだろうな」
助言を与える立場で面白がっていた自覚は海里にもあるので、それ以上は何も言うまい。
「だれとおはなししてるの?」
「神様、かな。ちょっと意地悪で、でも優しい……」
そこまで言って、悪戯めいた表情でこちらを見ているだろう彼に一矢報いる方法を思いついた。
「……うん、とても優しい神様だよ。彼のお陰で俺は今こうして君と話していられるんだ」
『俺は優しくないですよ』
思っていた通りの言葉が返ってきて思わず笑みが零れる。
どんなに言葉を尽くして、何度指摘しても、彼は自分の優しさを一向に認めようとはしない。自分は酷い人間だと主張する。
あまりにも頑なだから最近はその姿がいじらしく思えてきた海里である。
「隣、座っていい?」
小さな頷きを認めて、そっと横に腰かける。
「風斗は本当に困った子だなあ。君にそんな顔をさせるなんて……後でちょっと懲らしめておかないと」
神の御使いとなった海里は不用意にこちらへ干渉することは許されない。が、それを咎める人もいなければ、干渉する術も残されている。
知帝と自由に言葉を交わす権利を持つ友人を使って、ちょっと小言を言うくらいは許されるだろう。
風斗の名前を出したからか、少女が驚いた顔でこちらを見上げている。こんなに間近で、触れ合える距離で少女を見たのは初めてで、思わず手を伸ばした。
柔らかい髪を梳くように撫でる。込み上げる感情になんだか妙に泣きそうになり、心の中で知帝に感謝を告げる。
やっぱり彼は優しい。気紛れの悪戯を装って海里に娘と触れ合う機会を与えてくれたのだから。
撫でられて安心したのか、少女は海里にもたれかかった。まだ小さな身体を預けられた事実に驚き、また少し泣きそうになった。
こんなに涙脆くなかったはずだけれど。
「嫌いでも、いいよ」
傍にいられなくて、守ってあげられなくて、嫌われても仕方がないと思っている。
悩んでいるとき、苦しんでいるとき、海里は遠くで見ていることしかできないから。
「でも、覚えていて」
一房だけ藍色の髪を掬いあげる。
それは彼女が海里の血を引いていることの証のように思えて嬉しい。自分が残したものがちゃんと形になったような、自分は確かにこの場所で生きていたと証明してくれているような、愛おしくて堪らなく大切なもの。
でも、それを彼女にまで強制するつもりはない。だから覚えていてほしいことは一つだけ。
「みんな、君のことを愛してる。華蓮も、風斗も……代わりだなんて思っていないよ」
傍にいられなくても愛している。見守っていることができなくても、ずっと、ずっとずっと。
「少し寂しがり屋なだけ。だから、ね」
まだ海里がいないことをまだ受け入れられていないのだ。それもきっと時間が解決してくれると信じている。
風斗は決して弱くはないから、時間をかけてでもきっと向き合える。
「手を握ってあげて。大丈夫だって教えてあげて」
「う、ん」
頷く少女の体重が完全に海里へ預けられる。
安らかな寝息が聞こえてきて、小さく笑みを零す。堪らなく愛おしい存在を優しく抱きしめて、そっと縁側に寝かせる。
『海里さん、そろそろ』
「うん」
再び海里の意識は途絶え、馴染みのある空間に再構成される。そこには表情が乏しい、この世界の管理者がいて、
「健くん」
呼びかけに応える蒼い目を真っ直ぐに見つめて微笑む。
「ありがとう、鈴蘭に会わせてくれて」