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2話 藍色の記憶

 襖の向こう側で大人たちが何やら深刻そうに話をしている。まだ五つにも満たない幼い少女は小さな耳を襖にぴったりとくっつけて盗み聞きをしている。


 大人たちが鈴蘭に隠れて、話し合いをすることは珍しくない。大好きなあの人が帰ってくるときはいつもだ。


 いつもなら中にいる大人の誰かしらが鈴蘭の相手をしてくれる。けれど、今日は鈴蘭自身が断った。

「お祖母ちゃんのとこに行く」と言えば、大人たちは安心して鈴蘭に構うことはない。


 鈴蘭の祖母は祖父とともに隣にある和菓子屋を経営する。接客をする祖母の手伝いをするのが鈴蘭のちょっとしたマイブームだ。

 常駐している和菓子の名前と値段はすべて覚えているくらいだ。


 今日はそのマイブームを利用させてもらった。

 鈴蘭を仲間外れにして話し合う大人たちの謎を突き止めるのである。秘密を握り、仲間に入れてと頼むのだ。

 期待を表情に映し出して、少しも聞き漏らさない意気込みで中の声に集中する。


「――もういっそ、彼に頼ったらどうかしら?」


 母の声だ。彼というのが誰かは分からない。

 鈴蘭の知っている人だろうか。母の知り合いの男の人をぽつぽつと頭に浮かべ首を傾げる。


「駄目だ……!」


 悲愴さを漂わせて答えるのはあの人の声。

 鈴蘭の大好きなあの人。優しくて強くて、とてもかっこいい。

 でも、襖越しに聞こえる声は鈴蘭に向けられる優しい声とは違った。


「俺はあいつを信用しない。できるわけないだろっ、あいつは……あいつは――を殺したんだ」


「風斗様、落ち着いてください。お気持ちは分かりますが……」


「お前たちに何が分かる……っ、あいつを守れなかった俺の気持ちの何が」


 とても悲しい声だった。そして、とても怒っていた。

 いつも穏やかで落ち着いているあの人とは考えられない感情的な声。知らない姿に胸がぎゅっと締め付けられる。とても嫌な感じがした。


「時間が経ったって変わらない。俺にとって――がすべてだった。あいつが俺の世界だった。――がいない世界なんて」


 聞いているだけで苦しくなる。これから先は聞きたくないのに身体が硬直して動かない。

 嫌だった。あの人の口からそんな言葉聞きたくない。ぎゅっと目を瞑り、耐えるように続く言葉を待つ。


「海里がいない世界なんて俺にはないのと同じだ。今ある世界に価値なんかないっ…」


「……ぁ」


 呼吸が漏れた。その僅かな声でようやく大人たちは鈴蘭の存在に気付いたようで、襖が開かれる。

 見上げた視線の先に揺れるあの人の瞳があって、伸ばされた手を拒絶するように鈴蘭は逃げた。立ち上がり、走ってその場から立ち去る。


 自分の名を呼ぶ声に聞こえないふりをして走った。無我夢中だったのに縁側に差し掛かった辺りで何故か足が止まった。


 乱れた呼吸を整えるように吸い込んだ空気は澄んでいて、清らかな空気が肺を満たした。それだけで胸の内をぐるぐると掻き混ぜていた痛みや悲しみが解けていく。


 ――海里がいない世界なんて俺にはないのと同じだ。今ある世界に価値なんかないっ…。


 つい今しがた聞いたばかりの声が甦る。

 価値がないのだと、あの人にとってこの世界は、鈴蘭がいるこの世界は価値がないのだと。鈴蘭では駄目なのだと。


 また胸が苦しくなって蹲る。短く切り揃えた髪が顔を覆って、藍色の一房が視界で揺れた。


「っ……きらい!」


 藍色なんて嫌いだ。母を、あの人を悲しい顔にさせるから。


 母も、同じなのだろうか。レオンも、レミも、クリスも……藍色の髪を切なそうに見つめるみんなにとってこの世界は価値のないものなのだろうか。


「きらいっ、きらい、きらい、きらいきらいきらい」


 髪を掻き毟り、呪いの言葉を吐き出す。


「きらい、きらいきらい…っ…きらいきらいきらい、きら――」


「何が嫌いなの?」


 穏やかな声が鼓膜を擽った。柔らかく温かな声音はすっ、と鈴蘭の中に溶け込み、顔をあげた。


「こんにちは」


 声と同じ、柔らかく温かな笑顔を浮かべた人がそこにいた。

 長い藍色の髪を腰の辺りまで伸ばし、中性的な顔立ちに浮世離れしたものを纏わせた青年。黒と紺碧のオッドアイがじっとこちらを見ていた。あの人とそっくりだ。


「だれ?」


「うーん、と……それは言えないかな」


 困ったような表情を見せた後、オッドアイが瞬いて更に困った顔をする。


「……なんか面白がってない? 今すっごく良い顔してるんだろうなあ」


 鈴蘭に合わせてくれていた視線が外れて、青年は困った顔のまま誰かと話しているようだった。

 辺りを見回してみてもそれらしい姿は見つからない。この場にいるのは鈴蘭と青年の二人だけのはずだ。


「だれとおはなししてるの?」


「神様、かな。ちょっと意地悪で、でも優しい……」


 再び視線を合わせてくれたオッドアイが柔らかく笑う。


「……うん、とても優しい神様だよ。彼のお陰で俺は今こうして君と話していられるんだ」


 ふと青年が笑声を零す。神様とやらに何か言われたのだろうか、少し楽しそうだ。


「隣、座ってもいい?」


 こくりと頷く。隣に座った青年の髪がふわりと揺れてとても美しかった。大嫌いなはずの藍色に思わず目を奪われる。


「風斗は本当に困った子だなあ。君にそんな顔をさせるなんて……後でちょっと懲らしめておかないと」


 あの人の名前を出されて思わず顔を見上げた鈴蘭に、青年の手が伸ばされる。

 思わず身構える鈴蘭を裏切るようにその手は柔らかく頭を撫でた。乱れた髪を梳くように、温かく柔らかく。


 不思議と警戒心が解けていき、そっと青年へもたれかかった。

 顔を見ていないのに驚いた気配は届いて、それが妙に嬉しく思えた。こうして青年と触れ合えていることが宝物のように感じられたのだ。


「嫌いでも、いいよ」


 上から落ちてくる声は抵抗なく鈴蘭の耳に滑り込む。


「でも、覚えていて」


 青年の指先が藍色の髪に触れていることに気付いた。

 一房だけ藍色の髪。鈴蘭が嫌いだと罵った髪だ。


 大切なもののように藍色の髪を掬いあげた青年。その温もりが、するりと耳に滑り込んで来る声が鈴蘭の心を満たした。


「みんな、君のことを愛してる。華蓮も、風斗も……代わりだなんて思っていないよ」


 上から振ってくる声に耳を傾けているだけ。それだけであんなに寂しくて苦しくて、痛くて、どうしようもなかった心の隙間がいなくなっていた。


 会ったことのない、知らない人の言葉なのに不思議と信じることができた。浮世離れした空気がそうさせた? 多分違う。

 青年と触れ合っていると、その声を聞いていると懐かしい気持ちが溢れてくるのだ。


「少し寂しがり屋なだけ。だから、ね」


 ああ、寂しいのだと。

 母も、あの人も、他のみんなも。当たり前のようにその事実を受け入れて、


「手を握ってあげて。大丈夫だって教えてあげて」


「う、ん」


 最後ちゃんと返事をできたのか曖昧なまま、鈴蘭の意識は途絶えた。


 目が覚めたとき、母やあの人が心配そうな、申し訳そうな顔で鈴蘭を覗き込んでいた。その姿が少し寂しそうに見えて、その手をぎゅっと握った。


「だいじょーぶ」


 寂しくないよ、と。あの青年の代わりに教えてあげたくて。






「やばっ、寝ちゃってた」

 ノートを見れば、計算式の途中から奇怪な線が描かれている。慌ててそれを消しながら、居眠りの最中に見ていた夢を思い出す。


 あれは小さい頃の出来事だ。

 現れた青年が結局誰だったのかは分からない。


 名前も知らず、顔も朧気。でも言われた言葉と温かさと、美しい藍色の髪だけは今もちゃんと覚えている。

 きっとあれは父だったんじゃないかと鈴蘭は思っている。


 鈴蘭が生まれる前に亡くなったという父。

 風斗の双子の兄で、美しい藍色の髪をしていたという。何度か写真を見せてもらって、鈴蘭の中ではほぼ確信に近い。

 きっと父が夢で会いにきてくれたのだと、そう思ってる。幼い頃の夢の夢を今見たというのはなんとも複雑な話だが。


「んー、眠気覚ましになんか飲もっかな」


 台所に行くくらいなら話し合いの邪魔にはならないだろう。

 なんとなく足音をたてないように部屋を出た鈴蘭は金に彩られた背中を見つけて目を丸くする。


「風斗兄、話し合いは終わったの?」


「ああ。お前は?」


「眠気覚ましになんか飲もうと思って」


「そうか」


 風斗は口数が少なく、会話もあまり弾まない。けれど、この静かで落ち着いた空気が鈴蘭は好きだった。

 風斗とならば沈黙もあまり気にならない。


「何かあったのか?」


「なんで?」


「妙に嬉しそうだ」


「んーと……えへへ、秘密」


 あの日あった出来事は誰にも言わないと決めている。鈴蘭と父だけの秘密。

 他のみんなは鈴蘭の知らない父との思い出をたくさん持っているのだからこれくらいはいいだろう。


「最近は物騒だ。あまり遅くに出歩くなよ」


 今どき珍しく、うちは門限が厳しい。友人たちは「文句言った方がいい」なんて口々に言うけど、鈴蘭はあまり不満を覚えたことがない。

 イベント事のときは特例として許してもらえるし、それ以外で遅くに出歩く理由も特にない。


 何より注意する大人たちの表情を見ていれば、不満なんて湧きようがない。心から鈴蘭を心配している顔、不安を滲ませた顔。

 彼らが安心できるのなら鈴蘭は厳しい門限を守っていようと思う。


「うん、わかった」


 部活も遅くならないようにしよう。そう胸の内で呟きながら鈴蘭は風斗の言葉に頷くのであった。

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