最終話 死 ※挿絵有
終わりがやってくる。
もう身体が思うように動かない。目も耳も遠くなり、少しずつ近付いていた死がすぐ傍にいることだけ感じ取れた。
生まれたときから覚悟してきたそれに今更思うことなんてなくて、微笑みとともに受け入れた。
「ヤツブサ」
名を呼べば、すぐ傍でぶらさがっていた存在が身体を揺らした。
「止めねぇよ」
「そうですね」
これから海斗は無謀な戦いに挑むことになる。海斗はきっと死ぬだろう。
それを知っていても、ヤツブサはもう止めることはない。止める理由はたった今なくなった。
「今までありがとうございました」
「礼なんていらねぇよ。湿っぽくなるだろ」
ぶっきらぼうに返すヤツブサに「そうですね」と笑う。
二人の間にそんな情緒的なやり取りは必要ない。
海斗はいつものように笑って龍刀を手に取り、ヤツブサはただそれを見送った。別れの挨拶はこれだけでいい。
重い身体を引き摺り、庭まで出た海斗は肌を撫でる妖気の正体を前にやはり笑った。
「おま、えが、妖華様を誑かしたんだ!」
どうやら相手は妖華を信奉している妖の一人のようだ。
妖華が人間と結ばれたことはすでに一部へ広まっており、許さないと考える妖はそれなりの人数がいるらしい。彼もその一人なのだろう。
海斗を許せないという思いを白き存在に上手いこと利用されたのだ。
「貴方も可哀想な人ですね」
多少の同情心はある。
運命を無理矢理捻じ曲げられ、海斗を殺す役割を与えられたことに。
望みを叶うのならばそれでいいのかもしれない。けれど、彼は望みを叶えた先できっと殺される。
それは妖華によるものかもしれないし、和幸によるものかもしれないし、ヤツブサによるものかもしれない。もしかすると相打ちなんてこともあるかもしれない。
ともかく、ただ役目を果たすためだけに生きてきた海斗には、歪められた役目に生に捧げる姿が悲劇的に見えたのだ。
「私も多少は抵抗させていただきます」
抵抗はする。目を白く輝かせる妖相手に、海斗は出来得る限りの反撃をしようと龍刀を構える。
でも、きっと勝てない。
もう身体が思うように動かない。目も霞んで、耳も遠い。息だってすでにあがっている。
何より、世界に散らばる銀色の光が、ここで死ぬ海斗の運命を教えてくれているから。
「では尋常に」
言うが早いか、海斗は地面を蹴った。
終わりが近い身体だとは思えない素早い動きで、相手の妖の懐へ踏み込む。
迷いなく線を描く切っ先を、妖は容易く受け止めて顔を歪めて笑う。
「遅いな。お前、弱い」
その手を血濡れにしながら、刀身を握る妖は龍刀ごと海斗を投げる。
吹き飛ばされる前に龍刀から手を離した海斗の身体が地面に転がる。そのまま回転するように距離を取って、印を描いた。
容赦のない炎が立ち昇り、妖を呑み込んだ。
「はっ、はっ、……りゅう、とうっ」
呼吸を整えながら龍刀を呼び寄せて、構える。
「弱い。弱い」
聞こえた声に反射で振り返る。構えた龍刀が重量級の一撃を受けて大きくたわむ。
療養生活の中ですっかり細くなった腕には重すぎる攻撃だ。
身体が使い物にならなくても、海斗には術を扱う才能がある。相手の足元に土を生成し、バランスを崩したところを斬り捨てる――はずだった。
「ふ、っく」
終わりを迎えようとしていた身体は限界を迎えるのも早い。
ほとんど寝たきりの生活を送っていた身体は急な激しい動きに悲鳴を上げている。
力が入らなくなった手が龍刀を落とした。押し寄せる悲鳴合唱に気を取られた一瞬はあまりにも致命的で――。
「これであの方も……」
大量の鮮血が描く世界で、海斗は自分が倒れていることに気付いた。
斬られた箇所が脈打つように痛い。咳とともに血を吐き出す。
妖はもう海斗への興味はなくなったように、ゆらりゆらりと遠ざかっていく。それを見届けながら、ただ笑った。
終わり、終わりだ。
海斗には昔から人の運命というものが見ていた。世界を縁取るように銀色の道筋がいくつも続いているのが見えていた。
それが運命と呼ばれるものだとなんとなく悟って、どうでもいいと切り捨てた。
自分の運命だろうが、親しいものの運命だろうが、そうなることが決まっているのなら変えることなんてできない。
そして今、海斗の行く末を指し示す銀色の道筋は綺麗さっぱり消え失せていた。
続く道はない。海斗はこの日、この場で命を落とすのだ。
決められた運命通りに。定められた役目どおりに。
「……おか、しいですね。とうの、昔に…っ受け入れ、たはずっ、なの、に」
こんなことならもっと妖華に会っておけばよかった。
子供たちの世話もあって妖華が人間界に来ることは少なくなっていた。会うときは海斗が妖界を訪れることがほとんどだ。
それも体調を崩してからはあまり行けていない。
術で繋いで通話することはあったけれど、実際に会うのとはやっぱり違う。
「あの、子たちに……おしえたい、ことが……っ」
愛しい子供たちにももうずっと会えていない。
子供の成長は早いという。会わないうちにきっと驚くほど成長していることだろう。
これからどんどん大きくなっていく姿をこの目で見届けたかった。
笑顔で成長を見守りながら、少しずついろんなことを教えていきたいと本気で願っていた。
「幸を…置いていくっ……わけに、は…」
大切なものを失うことに強い恐怖心を持つ彼を守ってやりたかった。
涙を流さず、ただひび割れる彼の心を守ってやりたかった。
彼の心をずっと守り続けていた由菜の代わりに自分が、と。
臆病で怖がりで、何より寂しがり屋な彼の心を。
「…っマリーを、独りに…っする、わけには……」
今までもずっと、これから先ずっと、大切な人の死を見届け続ける妖華。
なるべく長生きしてね、と彼女は悲しそうに笑っていた。
藍の子に短命という宿命が課せられるように。妖華には不老という宿命が課せられている。
死なないわけではない。しかし、老衰以外では死ねないような力を持っている。
だからこそ、見届ける側で永遠ともいえる時間を生き続ける彼女を独りにしたくなかった。
少しでも、一秒でも長い時間を彼女の傍で。
「死ぬわけには、いかないんです」
もうほとんど力の入らない四肢に力を入れる。爪で土を引っ掻き、足掻くように顔をあげる。
「死ぬ、わけには……」
目端から雫が零れる。
涙を流すなんていつぶりだろうか。いや、もしかすると初めてかもしれない。
「死にたくない……っ」
生まれたときから自分の役割を理解していた。
生きることも、死ぬことも、他人事のように受け流し、なるようにしかならないと思っていた。
でも、今は違う。出会いが海斗を変えた。
未来への望みがあった。置き去りにしたくない人たちがいた。
海里は死にたくないと、死ぬわけにはいかないと必死に生き足掻いている。
血を流しすぎた。もう無理だ、と諦める心が今は存在しない。ただ、生きるためにすべての力を注ぐ。
傷口へ治癒の術を施し、全身に命令を送る。
死ぬな、と。終わるな、と。
諦念なんかに身を任すな。なるようにしかならない未来を、消えてしまった道筋を変えてしまえ。
「――驚きです」
声が、消えた。
他の音が消失したように、その声だけが鮮明に海斗の耳に届いた。
銀色が舞い散る世界で、忽然と現れたその人にただ目が奪われる。
藍色の髪をしている。金の髪飾りでまとめられた長い一房が風に煽られて揺れる。
生成りの服をまとった青年は美しい銀色の瞳で、静かに海斗を見つめていた。
「貴方はただ受け入れるだけだと思っていました」
首を傾げ、感情の読み取れない表情で淡々と紡がれる言葉。
「でも、残念です。貴方には先がありません。道筋は消えています」
残酷とも言える事実を淡々と口にする青年。
海斗に見えていた銀色の道筋が彼にも見えていたのだ。
それもそのはずだ。彼は、彼こそが、万物を見る力を持つ出来損ないの神なのだから。
生き足掻くことをやめて、ただ声に耳を傾けていた海斗にその神は微笑んだ。
「貴方には役目があります。大事な役目です」
「分かって、いますよ」
ずっと、ずっと前から分かっていた。
それを果たすために今日まで生きて、少しずつ準備を重ねてきた。
海斗が役目を放棄すれば、息子へと受け継がれる。それだけは阻止しなければならない。
「幸や妖華に怒られてしまいますかね」
呟き、笑みを浮かべた。すべてを受け入れるような、柔らかく安らかな笑顔。それはどんな表情よりも海斗らしい。
「約束、守れなくてすみません」
その言葉を最後に海斗の命は費えた。
●●●
一人の男が立っている。その男は親友の死を嘆くように声を、身体を震わせている。
「仇はあいつが取ったか」
遠巻きにそれを眺めていたヤツブサは無感動にそう呟いた。
海斗を殺した妖の始末は自分の役目だと思っていたが、先を越されてしまったようだ。きちんと死んでいるのなら別にどちらでもいい。
「……海斗、少しは足掻いてくれよ」
自分の死すらも受け入れるような死に顔に震えた声が投げかけられた。
悲しみに彩られてなお、涙を流さない姿を幾ばくか見つめてすぐにヤツブサは踵を返した。
ヤツブサが彼にかけられる言葉などない。海斗が死ぬまでの一部始終を見ていただけのヤツブサには。
藍の子が役目を果たせるように守る。
それがヤツブサに与えられた役目だ。
あの場で死ぬことが海斗の役目だった。だからヤツブサは手助けをせず、死に損なったときに備えて近くで待機をしていた。
――死に損なったら、ヤツブサが海斗を殺せるように。
「さて、と。もう一つの役目を果たしに行くかね」
瞬き一つとともに人型に戻る。長い青銀の髪で軌跡を描きながら、ヤツブサは数年ぶりに武藤家を離れた。
向かうのは妖界。王の暮らす王宮だ。
「さっすが、でっかいねぇ。随分と立派になったもんだ」
感嘆の息を漏らしつつ、ヤツブサは視線を巡らせる。
妖界側から見れば、ヤツブサは部外者かつ不審者だ。話しかける相手は慎重に選ばなければならない。
なるべく話を分かる奴を。それでいて、それなりの地位にある奴を。
「あいつが良さそうだな」
吟味に吟味を重ねて、ヤツブサは一人の青年の方へ歩み出す。
「そこの、少しいいか」
真面目そうな青年はヤツブサの声に振り向いて、怪訝そうな表情を浮かべた。
見覚えのない顔だと思っているのだろう。微かな警戒の色をまとう彼からは仄かに海斗の匂いがした。
「俺は武藤海斗の知り合いだ。妖界の王と話がしたい」
「それは……分かりました。確認してきますので、少々お待ちください」
神妙なヤツブサの表情を見て、一度言葉を飲み込んだ青年は一礼ののち、身を翻して王宮の中へと消えていく。
思った通り、スムーズに話を進めてくれた。かの青年は中々に優秀な人物らしい。
「妖華様から許可をいただきました。どうぞ、中に。ご案内します」
十分も経たずして戻ってきた青年に案内され、ヤツブサはその日初めて妖界の王と対面した。
「いらっしゃい。久しぶりね。海斗から話はいろいろと聞いているわ。――今日は何の御用かしら?」
「話をする前に人払いをしてくれ。今いる奴らが信用できるなら別に構わないが」
ヤツブサを案内した青年の他に、手練れの匂いを漂わせる青年と、喰えない空気をまとう女性がこの場にいた。
後はベッドで眠る海斗と妖華の息子たちだ。
「ここにいる子はみんな、私と海斗の関係を知っているわ。安心してちょうだい」
すやすやと眠る息子たちを中心に形成される柔らかな空気。それを壊す言葉を海斗はこれから口にする。
「海斗は死んだ。妖に、殺された」
躊躇いはなかった。
言葉を選びもしない。端的に事実だけを告げるヤツブサの言葉に、見開かれた紺碧の瞳が音を立てて凍り付いたように見えた。
「そう。……なんとなく、そんな気はしていたの」
ほんの数秒、動揺を映し出した顔を平静に戻して妖華はそう呟いた。
感情の波を必死に抑え込んでいる彼女の姿を見ながら、ヤツブサはあれに怒られるだろうか、とぼんやりと考える。
あれは彼女に対して過保護だから。悲しませたヤツブサへ不機嫌な視線を注いでいることだろう。
「話は、それだけじゃないでしょう?」
「海斗の、あんたたちの息子の今後についてだ」
王として、母親としての立場を優先する姿をヤツブサはじっと見つめる。
難儀な性分だ。きっとヤツブサが知らないところで、様々な経験をしてきたのだ、と。
けれども、情が深く、美しい彼女の心情は決して消えたわけではないのだろう。
「俺は海斗に息子たちのことを頼まれている。予定通り人間界で暮らせるように、と」
「妖界で暮らすよりも安心、だものね。貴方が協力してくれるならありがたいわ」
「ま、しばらくの間は史源町を離れた方がいいだろうがな」
「そうね。その辺りのことは後でゆっくり話し合いましょう。その前に一つ、聞いてもいいかしら」
渦巻く情を完全に消し去って話を進める妖華。その目に刹那だけ悲哀が映し出された。
「海斗はどんな様子だった……?」
躊躇うような問いかけ。
対するヤツブサはやはり躊躇いなく口を開く。
「穏やかな死に顔だったよ。柔らかく微笑んで……」
「そう」
悔やむように視線を落とす妖華にヤツブサが口を開きかけたとき、赤子の泣き声が大きく響き渡った。
けたたましいサイレンのように泣き出したのは藍髪の方、海里と名付けられた赤子だ。
海里の泣き声につられて、弟の風斗もまた泣き始める。
悲しみに彩られていた空気が一瞬で破壊され、妖華は慌てて二人の息子の方へ駆け寄る。
ヤツブサ以外の面々が泣きじゃくる赤子をあやす光景を見ながら、小さく息を吐いた。
和幸も、妖華も、海斗の死姿を見聞きして無力感に瞳を揺らす。
何もできなかった、と。自分たちは海斗を変えることができなかった、と。
「そんなことねぇよ」
重なる赤子の声に隠れるようにしてヤツブサはそう呟いた。
(お前らはちゃんと海斗を変えてたよ)
知らないだろう。
まだ死ねない、死にたくない、と海斗が涙を流していたことを。
執着心を持っていなかったはずの海斗が愛おしいと思える存在を見つけたことを。
最後の最後まで生きるため、必死に足掻いていたことを。
ヤツブサだけが知っている。
生まれたときから死ぬその瞬間まで海斗を見守り続けてきたヤツブサだけが知っている。
ようやく泣き止んだらしい双子の目がこちらを見つめている。それを見てヤツブサは笑い、手を伸ばす。
「お前らのことは俺がちゃんと守るさ。それが役目で、あいつとの約束だからな」
そう言って、その小さな頭を撫でた。
そういえば海斗の頭を撫でることはなかった気がする。どうせなら一度くらいは撫でてやればよかった。
――それだけがヤツブサの心残りだ。