7話 刻限
それは息子たちが生まれた次の年の春のことだった。
胸の辺りに激痛が走り、海斗の意識は一瞬で刈り取られた。
「ついに……来てしまいましたか」
黒に染まる視界の隅で薄紅色の花弁が舞う。海斗の脳裏にかつて和幸とした約束が過ぎる。
――もし、私たちの子供ができたら、ここでお花見でもしましょうか。
それは他ならぬ海斗自身が口にした言葉だ。
それから時が経ち、和幸は結婚し、海斗には愛する人ができて、互いに子供も生まれた。
約束を果たすには十分すぎる条件が揃っているが、もう無理そうだと心中で呟いた。
「私は約束を破ってばかりですね」
自嘲気味な微笑みのその先で海斗は暗闇の中に立っていた。
単なる夢とは違うことは目の前に立つ存在が教えてくれていた。
その存在は海斗と瓜二つだった。顔立ちも背格好もまったく一緒。全身が白一色に彩られていることを除けば。
「ようやく尻尾を掴みましたよ」
自分とまったく同じ声音で紡がれえる言葉。どこか感情の曖昧ところすら同じだった。
「貴方は藤咲桜よりも余程巧妙だ。ここまで私の声を遠ざけた人間は初めてです」
その存在は帝天という。この世の創造主にして、今世の終わりをもたらす存在。
帝天には数十年前、熱心に口説いていた人間がいたという。それは彼の宿主となる運命を課せられた人間で、しかしその人物は役目を放棄した。
放棄して、隠しおおせるだけの能力を持ち合わせていたのだ。
その代わりとして帝天が目を付けたのが海斗だったのだ。
生まれたその瞬間、己の役目を理解したのと同時に、帝天は「なんでも望みを叶える」と海斗に語りかけた。
けれども、海斗に望みなんてものはなく、帝天の存在を意識の外と切り捨てて生きてきた。いつか諦めてくれるだろうと薄い期待をしながら。
当然ながら帝天が諦めることはなく、虎視眈々と海斗に隙が生まれるのを待っていたのだ。
隙――すなわち、海斗の中に強い欲望が生まれるその日を。
「このまま役目を果たして死ぬのは惜しくありませんか」
帝天のやり口は狡猾だ。
相手の心を揺さぶり、自分の思い通りの結果を引き寄せる。
声を聞いてしまったが最後、相対してしまったが最後、人は帝天の誘いに抗えなくなる。
「私が役目を放棄すれば、我が子に火の粉が降りかかります。それはごめんです」
「貴方の息子に降りかかる火の粉ごと守ることができる。私なら」
もしかすると龍王は海斗が帝天の誘いに乗ってしまう可能性を考えて、バックアップを用意したのかもしれない。
もしそうならば、とんでもない見当違いだ。
「その口車には乗せられませんよ。私は何を言われても考えを、生き方を変えるつもりはありません」
きっぱりと告げる海斗に、白き存在がたじろぐ気配があった。
「春野和幸を一人にしてもいいんですか?」
問いかけには焦りがあった。
「妖華を一人にしてもいいんですか」
焦りながら必死に冷静さを貫こうとするような。
「息子たちを置いて――」
「情に訴えても無駄ですよ」
淡々と返す海斗のその手には刀が握られていた。
かつて武藤家の先祖、ヤツブサが「あいつ」と呼ぶその人が作り出したという妖具。龍刀と呼ばれる刀だ。
使用者の意思に応える刀の切っ先を、自分の姿をした白き存在へ向ける。
「己の役目を全うすることはずっと前から決めていることですから」
その言葉とともに白き存在を斬り捨てる。
塵となって消える様を最後まで見届け、ふと後ろを振り返った。
気配があった。帝天とは違う、けれどどこか似た気配が。
海斗に役目を与えたその神は何か言うでもなく、ただそこに佇んでいた。
「――」
そっと海斗が伸ばした手は彼に届くことはなく、目を覚ました。
邪気とは違う黒く澱んだ気配を感じながら、海斗は目を開ける。
「カイト! よかったっ」
まず視界に映ったのは大量の涙で顔を汚した環の姿だった。灰色のからは絶えず涙が零れ落ちる。
「……タマ、心配かけたようですね。申し訳ありません」
柔らかな猫毛を撫でながら、海斗は奥でぶら下がるヤツブサへと目を向ける。
彼はいつも通り過ぎるほどにいつも通りだ。海斗はヤツブサが取り乱した姿を見たことがない。
「医者が言うには過労だってさ。最近働き過ぎだったしな、らしくなく」
「……そうですか」
過労と言われて思い当たるところはある。けれども、本当は過労ではないのだと脈打つような胸の痛みが教えてくれた。
医者が診断できなかったということは、ただの病気というわけではないのだろう。
ならば、このまま過労で押し通してしまえばいい。下手に心配をかけてしまうよりずっといい。
海斗の目にはもう、終わりが見えているから。
「おっ、来るとは思っていたがやっぱり来たな」
意味ありげなヤツブサの言葉に首を傾げる海斗の耳に控えめなノック音が聞こえた。
病人を気遣うようなその音に逡巡し、すぐに誰なのか悟った。
「入ってください」
返事するや否や、扉が勢いよく開かれた。焦燥を募らせたその人物を笑うように海斗は微笑みを浮かべる。
「倒れたって聞いたぞ。大丈夫なのか」
「ただの過労だと。心配をかけたようで、すみません」
「そう、か。あまり無理するなよ」
どうやら上手く隠し通せたようで、海斗の言葉を聞いた和幸はほっと胸を撫でおろしていた。
このまま最後まで、和幸にはすべてを隠しておこうと密かに考える心にはきっと気付いていない。
「幸は心配しすぎなんですよ。今だって念のため寝ているだけなんですから」
ほんの少し前に目覚めたばかりだということを嘯いて、安心させるように言葉を紡ぐ。
唯一、すべてを見抜いているようなヤツブサの視線だけが突き刺さった。
「あいつに会ったのか」
和幸も、環もなくなった部屋でヤツブサがぽつりと問いかけた。
「会ったというか、姿を見ただけのようなものでしたけど」
「そうか」
多くは語らない、多くは聞かないヤツブサの態度で、室内には沈黙は降り立つ。
ヤツブサの表情からは何を考えているのか読み取れない。そもそも天井下りとしての姿のままだと表情が読み取りにくい。
「人型にはならないんですか?」
「あの格好は肩が凝るんだよ。ちゃんとしなきゃねんねぇ気分になるし」
すべて分かっているくせにヤツブサはいつも通りの態度だ。だからこそ、彼の前では気負わなくで済む。
ふっ、と息を吐き出し、微笑みを浮かべていた顔に苦悶を宿らせる。胸を押さえ、喘ぐような呼吸を繰り返す。
「呪い、に近い何かだろうな」
苦しむ海斗を目にして、ヤツブサはただ冷静に言葉を紡いだ。
「俺にゃ、専門外だ。悪いな」
「っ……い、え」
謝罪なんて必要ないくらい、ヤツブサの態度に海斗は救われている。
ヤツブサの前でだけ海斗は何も執着していなかった頃の自分に戻ることが出来るのだから。
内に渦巻く感情すべてを捨て去って、運命を受け入れることができる。
と、美しい鈴の音が耳朶を打った。
「少し楽になったんじゃないかい?」
「五十鈴、来てくれたんですか」
「あたしの前でも無理する必要なんてないよ」
苦痛を消し去り、微笑みを貼り付け直そうとした海斗へ、五十鈴のデコピンが襲いかかる。
「早いものだねぇ。少し前まで赤ん坊だった気がするのにもう……寂しくなるねぇ」
彼女もまた海斗の運命を知っているのだ。そう息を落とした。
「あたしの鈴も気休めにしかならないが、あいつらを誤魔化すくらいはできるだろう。いつでも呼んどくれ」
デコピンを食らわせたその額に口づけを落とした五十鈴は、それだけ言ってその場を後にした。
海斗の身体を癒すためだけに来てくれたらしい。その気遣いがありがたく、小さく笑みを零す。
「――ヤツブサ、お願いがあります」
五十鈴のお陰で少しだけ軽くなった身体が呟いた。
ゆらゆらと身体を揺らしているヤツブサは答えない。でも、耳を傾けている気配だけは感じられたので言葉を続ける。
「私が死んだら、あの子たちのことを……海里と風斗のことをよろしくお願いします」
もう少し大きくなったら、人間界で暮らさせようと話していた。けれど、海斗がいなくなってしまえば、我が子が人間界で生きていく当てがなくなる。
だからその先をヤツブサに託したい。海斗の知り合いの中で、きっと彼が一番適任だから。
「……分かったよ」
小さく呟いたヤツブサは同時に大きく息を吐き出した。
「ったく、子守りは得意じゃないってのに。面倒なことを押し付けやがる」
吐き出した息とともにそんなことを言うものだから、可笑しくて笑ってしまった。
親と引き離された海斗を今の今まで面倒見てくれたのは他でもないヤツブサだというのに。
海斗の育ての親はヤツブサだと言っても過言ではない。だから頼むならヤツブサしかいないと思ったのだ。
面倒だと口にしながら、絶対に手を抜いたりしないだろうから。
そうして海斗の身体も、心も、終わりに向けて少しずつ準備していった。
普段通りに戻っても、すぐに体調を崩して寝込んでしまうから周囲にはかなり心配をかけたと思う。
――その日もまた体調を崩して寝込んでいた。
「お前、最近よく体調を崩すよな」
「疲れが溜まっているかもしれませんね。年でしょうか」
疑り深い和幸の視線にいつもの笑顔で答える。
藍の子は短命だ。ほとんどが三十代に届かず、命を落としている。
和幸もそのことを知っていて心配しているのだろう、と思う。
否定できたら一番いいのかもしれないが、海斗はこのことに関して嘘はつきたくなかった。だから誤魔化すような曖昧な言葉ばかりを選んで使っていた。
嘘でも大丈夫、死なない、なんて言ってしまえば、和幸はきっと救われたかもしれない。
死なないで済む方法を探せば、周囲を悲しませずに済んだかもしれない。
きっと自分は薄情なのだ。らしいと言えば、らしいけれど。
「どれだけ聞いてもお前は口を割らないんだろうな」
恨めしげにそれだけいって和幸は帰っていった。
「――環」
和幸を見送り、戻ってきた彼女の名前を呼ぶ。彼女もまた真実を知らない。
「少し頼まれ事をしてくれますか」
和幸と違って、環はどこまでも純粋だった。純粋で純真に、海斗の言葉を信じていた。
「大切なものを……とても、大切なものを探してきてほしいんです」
「それは、どこにある?」
「この世界のどこかに」
曖昧過ぎる表情に環は眉根を寄せる。
「貴方にしか頼めないことなんです」
「……分かった」
本当は海斗から離れたくなかったのだろう。それでも環は素直に頷き、武藤家を去っていった。
どこにあるのかも、形さえ分からないものを探しに。
「体よく追い出したってとこか」
「人聞きが悪いですね。本当に彼女にしか頼めない、大切な役目なんですよ」
嘘は言っていない。
環を追い出すために利用させてもらったのは確かだけれど。
本当にこの役目は環にこそ相応しいと思ったのだ。まだどこにもない、近い未来、世界に散らばる欠片を探す役目を。
「意地の悪い奴だな、お前は」
否定できなかったから、海斗はただ笑った。