月影のしるべ 前編
第二節第1章の月パートです
不安と緊張に苛まれながら教室に足を踏み入れた瞬間、沸き起こるのは歓声だ。
ほっと胸をなでおろしつつ、ホワイトボードに前に立った月は可憐な笑顔を浮かべる。
春野家の長女として、大勢の前に立って話することは何度もあったので自然体だ。
「みなさん、初めまして。春野月と言います。これからよろしくお願いします」
声。仕草。
厳しい教室によって、完璧までに整えられたそれは育ちのよさが十二分に感じられるものだった。
教室内に突然現れたお姫様に男子生徒は歓喜し、女性生徒は仄かに値踏みする。
多くの視線を受けながら、月は示された自分の席へ着いた。
「あたし、水川愛香。まなって呼んで。よろしくね、春野さん」
腰を落ち着けた月へ、隣に座る少女が笑いかける。
ぱっちりとした目を気の強そうに彩った少女だ。
「よろしく……えと、まなちゃん」
「ちゃん付けいらないよー。困ったことがあったらいつでも言って」
楽しそうに笑う愛香の姿に、初めての場所に緊張していた月の心も解かれていき、「よろしくね、まな」と愛らしい笑顔を浮かべるのだった。
愛香はいい人だった。まだ場所が分からないだろうと学校の中を率先して案内してくれたり、月を質問攻めにするクラスメイトを蹴散らしてくれたり、知り合いが多い方が楽しいと言って愛香の友人を紹介してくれたり。
「あたしも月って呼んでいい?」
「うん、いいよ」
気さくで明るい彼女と仲良くなるのにはそう時間はかからなかった。
簡単に、月の一番の友達に躍り出た愛香と、行きも帰りも学校のいる間もずっといることがどんどん増えていった。
「あたしさ、好きな人がいるんだ」
女子の間ではやはり恋の間というのがよく話題に上るらしい。
誰が誰を好きとか、誰には恋人がいるとか、この学校に入学してからいろんな話を聞いてきた。けれど、愛香自身の話は初めてで少し緊張する。
「そう、なんだ」
このドキドキ感を女の子は好きなのかもしれない。
誰かの好きを聞くと心が幸せになるから。
「同じクラスにいるじゃん? その……峰沢、くん」
人の顔と名前を覚えるのは得意な月にはすぐにその「峰沢くん」の姿が思い浮かべられた。
確か、運動が得意でテニス部に所属しているらしい。二つ下の妹がいるという話も聞いた。
ほかでもない愛香の口から。そこまで考えて、なるほどと自分の中で納得する。
「私、応援するよ」
心からそう思って、大好きな友人の幸せを願って紡いだ言葉。
それから月は愛香の恋路を応援しつつ、いつも通りに何気ない学校生活を送っていた。
春野家の人間として生きてきた月にはこの平穏極まりない生活も新鮮で、楽しいものだ。
けれど、それはあまりにも残酷な形で終わる。
「春野さん。俺、春野さんのことが好きなんだ。初めて見たときからずっと……」
頬を赤らめて、照れたように視線を動かして、そんなことを言うのは愛香が好きな「峰沢くん」だった。
「俺と付き合ってください」
「ごめんなさい!」
大事な友人の好きな人と付き合うことはできない。彼女を裏切ることはできない。
「他に好きな人とかいるの?」
「そういうわけじゃないけど……あ」
戸惑うように視線を動かした月の目が、窓越しに愛香の目と合った。
ショックを受けたように瞳を揺らす愛香は唇を噛み、逃げるように立ち去っていく。
「ちょっと用事を思い出したから……ごめんなさい!」
矢継ぎ早にそれだけ言って、月は教室を飛び出す。
走って逃げる愛香の背中を見つめ、月もまた走って追いかける。
教師に見つかったら怒られる光景だが、そんなこと気にしていられなかった。
「まな、待って!」
足は月の方が速い。すぐに追いついた月は必死の思いで、愛香の腕を掴んだ。
振り返った反動で、愛香の目から涙が散った。
「最悪」
涙を浮かべた目に憎しみを宿らせて、愛香はそれだけ言った。
「まな――」
「いいよね、お姫様は。ちょっと媚びればすぐに男が寄ってくるんだから」
それは悪意だけを煮詰めて固めたような言葉だった。
向けられる目に、紡がれる言葉に、数時間前まで溢れていた信頼は一つも残っていなかった。
驚いて、言葉を返せない月の腕を強引に振りほどいて愛香はそのまま立ち去っていった。
このとき、何かを返せていたら少しは変わっていたのだろうか。
あの決別以降、愛香と話すことはなくなった。それどころか――。
「きゃっ」
「あ、ごめーん。見えなかった」
突き飛ばされ、廊下に転んだ月へ嘲るような笑いが降ってくる。
楽しげに笑う数人は愛香の親しい友達だった。
「いつもみたいに媚びて、男子に助けてもらえばー?」
愛香と話さなくなってすぐに、月は学校内で孤立してしまった。
それどころか、月は愛香の好きな男を奪ったという噂を流されて、こうして悪意をぶつけられるようになっていった。
愛香は友人が多い。クラスだけではなく、学年全体が月の敵に回ってしまったみたいだ。
彼女たちが言うように助けを求められればよかったかもしれない。
けれど、月にはこういうとき誰かに助けを求める方法なんて分からない。
妹ならきっと、なんて自虐的に考えながら閉ざされた楽しい学校生活への道について考えていたときだった。
「ねぇ、一人なの?」
悪意を込められていない声を聞くのは久しぶりのような気がした。
「次、移動教室でしょ。場所が分からないなら私が一緒に行ってあげるわよ」
上から目線ともとれる口調で彼女はそう言った。
同じクラスの少女だ。気の強そうなつり目と、ポニーテールにされた艶やかな黒髪が特徴的な少女。名前は確か、藤咲華蓮。
「どうしたの……?」
「あ、ええと、うん。お願いしてもいいかな」
まさか、話しかけてくれる人がまだいてくれたなんて思っていなかったから、状況を飲み込むのに少し時間がかかった。
「でも、私と一緒にいて大丈夫? ほら、目をつけられたり……」
「そんなくだらないこと、どうでもいいわよ。……どうせ、私も友達いないし」
最後の一言は小さくて上手く聞き取れず、月は小首を傾げる。
「それに、ほら! 貴方、王様の娘なんでしょ。常連客の娘を気にかけるなんて普通よ」
「常連客……お店やってるの?」
「藤咲堂っていう和菓子屋よ」
その名前は確かに、父が贔屓している和菓子屋のものだ。よくよく考えてみれば、華蓮の名字も「藤咲」である。
「藤咲堂の和菓子、私も食べたことあるよ。すごくおいしかった」
「そうでしょう! お父様の腕は一級品だもの。今度来たとき、安くしてあげるわ」
お店を褒められて嬉しかったのか、華蓮は上機嫌にそう言った。
華蓮の反応はなんというか、一つ一つが分かりやすくて好感がもてる。
様々な駆け引きが横行している世界で生きてきたから、余計にそう思うのかもしれない。
「ねえ、貴方のこと、月って呼んでいいかしら」
「うん。じゃあ、私も華蓮って呼ぶね」
それから華蓮と話す機会は増え、休憩時間や登下校を当たり前のように一緒にいるようになっていった。
愛香の友人たちからの嫌がらせは続いていたが、華蓮と一緒にいるときだけは何もしてこなかった。
暗く閉ざすだけだった学校生活に、光が差し込み始めたとき、月は華蓮が二人きりで誰かと話しているのを耳にした。少年の声だ。
「華蓮さんがいてくれて助かったすよ」
聞き覚えのある声に、月は該当する人物を頭の中で探す。
「これで春野さんが孤立もなくなるだろうし、ありがとうございます」
自分の名前か出てきて思わず息を詰める。
話を聞くに、華蓮はこの少年に言われて月に話しかけるようになったようだ。
事実を知って、感じ始めていた友情が仄かに揺らぎ始める。
華蓮が月の傍にいてくれるのは、ただの同情なのだろうか。そう思うと悲しくて、苦しくなる。
少年の言葉を受けて、華蓮がどんな反応をするのか考えるだけでも怖くて、立ち去ろうとしたそのとき――。
「別に礼を言われる筋合いないわよ。私は月と仲良くしたいからしてるの」
鼓膜を震わせた声は真っ直ぐで、心が震えた。
そうだ。藤咲華蓮という少女はそういう子だった。同情だったのかなんて馬鹿なことを考えてしまった。
短い付き合いの中で感じた彼女の人となりを忘れかけていた自分を叱咤する。
「星司くんだって気になるなら声かければいいでしょ」
「いや、男の俺が下手に入り込むのはまずいじゃないっすか」
「知らないわよ、そんなの」
いろいろ考えてくれていたらしい少年の言葉を華蓮はばっさりと否定する。
「人付き合いを難しく考えようとしてるから躓くんでしょ、星司くんは」
「友達いない人に言われたくないっすよ」
「あら、友達ならいるわよ。春野月っていう、可愛い子が」
冗談のように交わし合う言葉を聞いて、月は嬉しくなって笑ってしまう。
友達。なんていい響きなんだろう。
はっきり断言する華蓮の声が心地よくて、心の中を温かいもので満たしながら月はそっとその場を離れた。