6話 恋
海斗と和幸は当初から決まっていた通り、それぞれ当主となった。
貴族街と史源町と、生活圏が離れたので顔を合わせる回数は減ったものの、変わらずの友人関係を築いていた。
海斗の面倒臭がりは相変わらずで、顔を合わせるのは仕事か、和幸が武藤家を訪れたときのみに限られる。
海斗が来ない分、和幸は積極的に武藤家を訪れた。ここ最近は特に頻度が増している。
――それはきっと由菜を失ったせいなのだろう。
由菜が亡くなったとき、和幸は少しも悲しむ素振りを見せなかった。その代わり、周囲を守ろうという意識が強くなったように見える。
和幸は愛情をほとんど知らずに育った。唯一、深い愛情を注ぎ続てくれていた由菜の死は、大切なものを失う恐怖を和幸に刻み込んだのかもしれない。
つらつらとそんなことを考えながら、海斗は日課の日光浴をしていた。日差しの温かさに微睡む。
そろそろ和幸が来るはずだ。ああ、その前に。
ふと肌を撫でる気配がある。極限まで抑え込まれた妖力は今まで会ってきたどの妖よりも高貴で清廉としている。
これが五十鈴の言う美しいなのかもしれない。
「やはり今日も来ているのですね」
ほとんど口の中だけで呟いて、微笑む。
この気配の主は少し前からほとんど毎日のように武藤家を訪れていた。
訪れているといっても中に入らず、いつも外から様子を窺っている。気配は感じていても、海斗は気配の主の姿を目にしたことはない。
「会ってみたいとは思いまずが」
声をかけてしまえば、その姿を目にしてしまえば、この気配は永遠に消えてしまうような気がする。
「誰に会ってみたいんだ?」
不意にかけられた声に驚き、視界に映る姿を見て「幸ですか」と小さく呟く。
いつの頃からか、和幸は武藤家の中を自由に歩き回ることが許可されていた。
「今日も来たんですね。春野家当主の仕事はそんなに暇なんですか」
「日向ぼっこしてる奴に言われたくないな。……仕事はちゃんと終わらせて来てるよ」
和幸が仕事を終わらせるペースが日に日に早くなっている気がする。
それもきっと、なるべく多く武藤家に通うためなのだろう。
生への執着すらない海斗が、ある日急に消えてしまうのではないかと不安になっているのかもしれない。
自分自身ですら否定できないから、海斗は和幸の行動を言及しない。
「そうだ、今日はお前に会わせたい奴がいるんだ」
和幸がそんなことを言うのは珍しく、海斗は首を傾げる。
彼の紹介ならば、悪い人ではないだろうが――。
「おい、妖華! 出てこい!」
「ちょっと待っ、心の準備が……ああ、もうっ」
投げかけられた和幸の声に応えて、一人の少女が姿を現す。海斗がずっと会いたいと思っていた気配の主だった。
膝ほどもある長い金髪を背中に流し、巫女服のような衣装をまとっている。顔立ちは幼いが、何百年も生きてきたような不思議な貫禄が彼女にはあった。
「挨拶が遅れてしまってごめんなさい。私は妖華、妖界の王を務めている者です」
何か割り切ったように表情を切り替えた彼女の顔には威厳が満ち溢れている。
真正面で相対す海斗すら圧倒する姿に小さく息を呑み、静かに微笑んだ。
「ようやく姿を見せてくれたんですね」
そう呟いた海斗の表情はいつもの微笑みとは違う。思わず零れ落ちたような柔らかさを持っていた。
和幸も、そして妖華も、その微笑みの美しさに我を忘れて見つめていることしかできない。
「え、と……」
仄かに顔を赤くした妖華は助けを求めるように和幸を見る。
「自分からは声をかけられないから助けてくれって言われたんだよ」
「それは言わないでっていったじゃない!」
「隠してどうするんだ」
「恥ずかしいの!」
言い合う二人の姿を見て、今度は声を立てて笑う。
珍しい海斗の笑声に、妖華と和幸の二人は顔を見合わせて笑みを零す。
「また、遊びに来てもいいかしら」
「いつでもお待ちしています」
それが彼女との出会い――。
その日から妖華は定期的に武藤家を訪れるようになった。もう隠れるのはやめて、その美しい姿を海斗の前に晒した。
妖華と一緒にいると心が温かくなる。初めての感覚に驚きながらも、悪くないと思っている自分もいて、海斗はまた驚く。
「あ、そろそろ帰らないと樺に怒られてしまうわね」
「もうそんな時間ですか。早いですね」
「幸せな時間ってすぐに過ぎちゃうから困りものよね。また来るわ」
いつものように立ち去ろうとする妖華の姿を見て、もどかしい思いが込み上げた。
このまま離れてしまうことがどうしようもなく惜しい。
手放したくない。ずっとこのままに傍にいてほしい。
生まれた感情が行動となり、彼女の袖口に微かに触れた。
「どうかした?」
「いえ……」
驚いて手を引っ込めた海斗は刹那だけ自分の指を見つめ、そして微笑んだ。柔らかく、愛を注ぐように。
「……今度から、私から会いに行っても構いませんか? 仮初ではない、本物の貴方に会ってみたい」
妖界の王である彼女は、とある事情により、仮初の身体でしか人間界に来ることができない。
今まではそれでもよかった。彼女に会い、言葉を重ねるだけで十分過ぎるほど幸せだった。
けれども、今はそれ以上を心が求めている。もっと先を願っている。
膨れ上がった感情は、仮初の彼女ではもう満足できなくなってしまった。
「すぐに、とはいかないでしょうけど、もちろんよ。待っているわ、貴方のこと」
海斗の言葉に驚きながらも、笑顔を花咲かせて妖華はそう言った。
「妖華って名前はね、本当は私のものじゃないのよ」
妖界に通うようになってどれくらいが経ったころだろうか。
微睡むような時間の中で彼女はそう零した。
床につくほどに長い金の髪が日に透けてきらきらと輝いているように見える。
「貰いものなの。ほら、名前がないと不便でしょう? だから、私にあげるってその人は言ったわ」
身の内に潜む存在を慈しむように彼女はそっと自分の胸に触れる。
誰にも話したことのない秘密なのだと言って彼女は仄かに笑った。
海斗だから、海斗だけには教えたくなったのだと。
「なら、私は別の名前で呼んでも構いませんか」
「別の名前?」
首を傾げる彼女の姿がまた愛らしくて、愛おしさを膨らませながら海斗は考える。
自分の中に蓄積した知識を総動員して、彼女に相応しい名前を。
考えて。考えて、考えて、考えて、ふと一つの名前が浮かんだ。
「マリー」
囁くような音は二人きりの世界に溶け込んでいく。
「マリーゴールドという花が可憐で美しくて、まるで貴方のようだと思ったんです」
幼い頃を過ごした蔵の中には植物にまつわる本がいくつかあった。その中で見た花が彼女の姿と重なった。
微笑む海斗を、妖華は呆気にとられたように見つめている。
「すてきな……、ええ、本当に、とっても素敵な名前だわ」
その日から、二人はよりいっそう強い絆で繋がった。
妖界を訪れる頻度は増えた。妖華もまた武藤家に回数を増やし、二人は毎日のように顔を合わせていた。
いつしか妖華のお腹には二人の愛の結晶が宿ることとなった。
種族が違うから望みは薄いと思っていた二人の心を裏切って、生まれた愛の結晶は互いにそっくりな双子であった。
生まれたという知らせを届けた使者とともに駆け付けた海斗は、初めて見る我が子を見て小さく息を呑む。
「海斗?」
「――っ。――――。とても、貴方に似ていますね」
「あら、貴方にだって似ているわよ。私たちの子供ですもの」
幸福に彩られた表情の裏で、海斗は酷く動揺していた。それを悟られないように微笑みですべてを覆い隠す。
それでも目を離せなかった。生まれた我が子の、双子の片割れの、その髪の色から。
――藍色だった。その髪の意味を海斗は誰よりも知っている。
偶然ではないことも。海斗の髪色を継いだだけではないことを、本能が告げていた。
課せられた役目を果たすために一生を捧げるのが藍の子の宿命。
守らなければならない。この子が役目を果たす必要がないように海斗がすべてを背負って。
だって――生まれた我が子か、あどけない顔で眠るその子が自分のバックアップなのだと理解してしまったから。
「大切に、しましょう。私たちの宝物を」
「……そうね。ええ、大切な宝物だもの」
海斗の反応に何か感じたらしい妖華は特に追及することもなく言葉を返した。
もう少し大きくなったらこの子たちは人間界で育てよう。その方が幸せだと二人で話し合った。
ならば、まずはこの子たちの居場所を作っておかなければならない。
そして――。そして。
(ああ、私は――)
妖華と出会って、息子たちを授かって、芽生え始めていた感情に気付かないふりをして微笑む。
この感情はきっと誰にも気付かれてはいけない。胸の奥の奥にしまってずっと。
「こうなることも貴方の計算のうちなのでしょうか。貴方には全部、見えていたのですか――龍王」
屋敷へ戻り、誰もいない一室で問いかけた言葉に返ってくるのは無音。
気紛れにしか応答してくれない神へ小さく息を吐き、そして微笑んだ。
「私の役目は分かっています。今更文句は言いませんよ」
決められた未来に従うしかないのなら、素直に従おう。
そうすれば、きっと。
脳裏に浮かんだ顔に気付かないふりをして、海斗は笑顔を浮かべ続けた。