5話 父
五十鈴のお陰で、身体の調子はかなりよくなった。が、もう少し休むべきだという過保護な面々の意見に押され、海斗は今しばらく療養生活を続けていた。
療養生活を続けていて困ることもなく、むしろ、ゆっくりできてありがたいというのが海斗の本音だ。状況に甘えているとも言える。
「こうしていると周りがいろいろとやってくれるから楽でいいですね」
「お前って人を使うのが上手いよな……。いや、この場合、妖を使うのが上手いって言った方がいいのか?」
環やら、ヤツブサやら、小鬼たちやら、他にも五十鈴を含めた妖たちが海斗の許を訪れては世話を焼いている。
お陰で海斗はベッドの上からほとんど動かないまま、穏やかに日々を過ごしている。
おそらく武藤家にいた頃も、こんな風に妖たちに世話を焼かれていたのだろう。
「お前なら百鬼夜行くらい簡単に作れそうだな」
「それも面白いかもしれませんね」
台所の方から聞こえる賑やかな声をBGMに、親友二人は会話を重ねる。
現在、台所では由菜による料理教室が開催されている。参加者は環と小鬼だ。
時折、料理を作っているだけとは思えない賑やかすぎる声が聞こえてくる。気になりはするが、由菜がいるなら大丈夫だろうと無視を決め込む。
「おいおい、海斗に変なこと吹き込むなよ。こいつに使役されるなんてごめんだぜ」
料理教室に参加していないヤツブサは身体を揺らしながら文句を垂れる。
これもまた日常の一幕と言えよう。このまま穏やかな時間が続けばいいと和幸は密かに願う。
「使役なんてしませんよ。そんなことしなくてもヤツブサは傍にいてくれるでしょう?」
「っぐ、うぅ」
「すごい殺し文句だな」
海斗の言葉を受け、青い身体をみるみる赤く染め上げるヤツブサ。
「おい! 春野家の坊! どうしてくれんだ、お前のせいだぞ」
「いや、どっちかっていうとヤツブサのせいだろ。俺より付き合い長いんだから」
「それを言われると……ってか、この馬鹿の性格は周囲がどうこう出来るもんじゃねぇよ」
話題の渦中に置かれている海斗といえば、首を傾げて自分の発言を振り返っている。
何かおかしなことをいっただろうか。考えてみても答えには辿り着けず、疑問符を浮かべたままだ。
無意識にして無自覚。人たらしならぬ妖たらし、とヤツブサは密かに呼んでいる。
海斗の周りに妖が集まるのは、体質だけが理由ではないとここに証明されている。
「おやおや、賑やかですねぇ。幸様が楽しそうで何よりですよ」
「由菜か。環たちはどうした?」
「来客があったようなので対応しています。そろそろ来ると思いますよ」
来客という言葉に和幸と界とは揃って首を傾げ、ヤツブサだけが不審を目に宿らせた。
海斗の部屋に来る客人など、今いる面子くらいしか思い浮かばない。
妖はわざわざ玄関からは入ってこない。となると、龍馬が和幸たちを呼びに来たのだろうか。
それにしては少し時間がかかっているようにも思える。と、扉の奥から何かが倒れるような音が聞こえた。
「なんでしょうか」
「私が様子を見てきます。お二人はここで大人しくしていてください」
念を押すようにそう言った由菜は一人、部屋から出ていった。
玄関先まで足を向けた由菜は目の前に広がる光景に「なるほど」と小さく頷き、余所行きの笑顔を浮かべた。
来客と思われるスーツ姿の二人組。そして彼らに殴られたらしい環が床に倒れている。
相手は素人だ。環なら避けようと思えばいくらでも避けられる。
それでもまともに受けたのは海斗の立場を考えてのことだろう。
海斗のために人間としての生き方を少しずつ学び始めている環の姿はいじらしくもある。
「どちら様でしょうか」
環の想いに応えるつもりで由菜は真っ先に二人組へ問いかけた。
環に駆け寄りはしない。
どんな状況でも使用人の優先順位は一番下。それが貴族社会の常識だ。
「使用人ごときと話すつもりはない。海斗様に会わせろ」
二人組の片方、高級スーツをまとった男が高慢にそう言った。
高級スーツといっても、幼い頃から貴族社会のトップで生きてきた由菜から見れば、かなり安っぽいものだ。
お金はないけど、形だけでも貴族を装っている。そんな感じだ。
「申し訳ありません。素性の知れない方をお通しすることはできません」
「何を偉そうに! いいから通せ」
怒鳴るような声も、威圧的な態度も、睨みつけるその目も、由菜の心は乱せない。
弱き立場に威張る姿はまとうスーツと同じくらい安っぽい。
もっと凄いものを知っている。もっと恐ろしいものを知っている。その欠片にすら及ばない。
由菜にとって男の態度は陳腐で、退屈で、味気のないものだった。貼り付けた表情の下で呆れられていることなどきっと想像すらしていないだろう。
「名乗っていただけないのであれば、どうぞお引き取りください」
「生意気な!」
淡々とメイドとしての受け答えに徹する由菜へ、男の掌が飛んでくる。
環を床へ叩き伏せた男の一撃。本来なら受けるべきそれを由菜は平然と受け止めた。
「私の主は貴方ではありません。暴力を振るったとて、貴方の思い通りに動きませんよ」
使用人が貴族に逆らう。
主の品位すらも落としかねない問題行動である。けれども、由菜は気にしない。
この程度のことで落ちる品位なら落としてしまえばいい。
くだらない虚構の上に立つ存在など由菜が理想よして掲げる主には程遠い。
由菜の主ならば、呆れるなり笑うなりはしても、責めることは絶対にないと信じている。だから揺らがない。
「お引き取り願えますか?」
「……っ」
仄かな威圧とともに言い放てば、男はわずかに怯む。これが本物の威圧だと由菜は胸中で微笑んだ。
「武藤家当主、武藤元晴だ。ここを通せ」
「海斗様のお父上でしたか。では、確認してまいりますので少々お待ちください。……環さん、立てますか」
「うん」
威圧を一瞬で消し、営業スマイルでその場を後にする。
由菜のペースに持ち込まれ、苛立ちを見せる元晴を無視して、由菜と環は和幸と海斗が待つ部屋へ。
「海斗様、武藤元晴様がお見えになっています。お通ししますか?」
由菜が戻ってきた頃にはヤツブサは姿を消していた。小鬼たちの姿もない。
来客の気配を察して姿を消したのだろう、と特に気にすることもなく海斗へ問いかけた。
「元晴様が? わざわざ来ていただいて追い返すのは申し訳ありませんし、通してあげてください」
「分かりました」
父親を他人行儀に呼ぶことには触れず、由菜は一礼ののちに部屋を後にした。
間もなくして現れた元晴とその従者を、海斗は久方ぶりにベッドから降りた姿で迎えた。
「お久しぶりです。今日はどのようなご用件でしょうか?」
向かい合う二人の間には親子とは思えない他人行儀な緊張感が漂っている。
それがおかしいと理解できるものは生憎この場には一人としていない。
「病床につかれているという噂を耳にして、いても立ってもいられず、こうして馳せ参じた次第です」
「ご心配をかけてしまったようで申し訳ありません。見ての通り今はすっかり元気になりました」
少し前までベッドで寝ていた人物とは思えない発言をしながら微笑む海斗。
実際、体調はほぼ回復していたので、和幸や由菜もわざわざ突っ込まないでおく。部外者なのだから下手に口を出さない方がいいのだ。
「それで? ただお見舞いに来たというわけではないのでしょう?」
「流石は海斗様。ご慧眼です。私どもは海斗様を武藤家へ迎えに参ったのです」
「それは、アカデミーを退学しろということですか」
「ここは危険な場所です。倒れられたと聞いて肝が冷える思いでした。やはり海斗様には武藤家で過ごしていただく方が安全でございます」
頭を垂れるように告げる元晴。その身体から仄かに立ち昇る黒い澱みを由菜は冷めた目で見ていた。
あれは欲だ。欲という名のおぞましい、黒い澱み。
海斗を気にかけているようで、この男は自分のことしか考えていない。
いくら言葉や態度で取り繕っていても、由菜にはその薄っぺらさが手に取るように分かる。
さて、海斗はどういう対応をするのか。
「心配をかけてしまったことは謝ります。ですが、私は武藤家に帰るつもりはありません」
「何故っ!」
「ここは危険な場所ではありません」
「そんなことはない! 貴方は武藤家に、俺の傍にいないと駄目なんだっ」
声を荒げる元晴は冷静さを失ったように海斗へ詰め寄る。
怒りを募らせ、前に出ようとした環を海斗は視線のみで押さえる。
「なぜ分からない! お前は武藤家のためにいるんだ。武藤家のために……」
「落ち、着いて」
元晴の激情に応えるように彼のまとっていた黒い澱みが踊り狂う。
邪気とも呼ばれるそれは吸い寄せられるように海斗の身体を蝕む。常に浮かべられている柔らかな笑顔が苦痛に歪んでいる。
「ほらっ、やはりここは貴方には危険な場所です」
自分が原因であることに気付かない元晴は歪な笑顔を浮かべてみせた。
あの男も、この澱んだ空気も耐え難い。
「由菜?」
怪訝な声を出す主を無視して、由菜は海斗へと伸ばされた手を振り払った。
「お下がりください」
それはどこまでも冷たい声だった。
「なんだ、部外者は黙って……」
「私はお下がりくださいと言ったんです。聞こえませんでしたか?」
冷え込んだ由菜の声は元晴だけではなく、その場にいる全員の顔に緊張を走らせる。
「どうやらお二人の意見は対立しているご様子。ここは第三者に判断してもらうというのはいかがでしょう?」
浮かべられた笑顔に威圧感に元晴が二の句を継げないのをいいことに、由菜は傍観していた和幸の方へと振り向いた。
「ちょうどここには幸様がいらっしゃいますし」
由菜はあくまで使用人。使用人が場を支配することなどあってはならない。
らしくないなりに使用人としての心得をきちんと理解している由菜は、場を譲るように和幸の名前をあげた。
由菜の言葉は問いかけのようで問いかけではない。他者に決定権を委ねていない。
反対する理由のない海斗はもちろんのこと、元晴も頷くしかなかった。流れ弾のように担ぎ上げられた和幸ももちろん。
「一先ず、二人の意見を聞かせてもらおうか。貴方は何故、海斗を連れ戻そうと?」
「ここは危険な場所だからだ。海斗様は武藤家にいるのが一番安全だ」
「根拠も何もない意見だな。海斗は?」
元々和幸は海斗よりの人間だ。そんな相手に根拠のない言いがかりのような意見は響かない。
「私はアカデミーに入学したのは世間を知るためです。私は箱入りならぬ蔵入り息子でしたから……世間知らずなままでは武藤家を導くこともできません」
本当なのか、嘘なのか。
笑顔で澱みなく海斗は言葉を紡いでいく。
「元晴様、心配しなくても私は武藤家から逃げるつもりはありません。――私が、自分の役目を放棄することなどあり得ません」
元晴とは比べ物にならないくらい、海斗の言葉には力があった。
海斗よりでなくとも、どちらを選ぶかなんてはっきりしている。
「この話し合いは海斗の勝ちだな」
和幸の意見は至極真っ当なものと言える。けれど、それを全員が受け入れられるといったらまた別の話だ。
「っこの、若造がいい気になって――」
「無礼ですよ! この方を誰だとお思いですか!」
激昂する元晴を再び、由菜が押さえ込んだ。
「この方は春野家当主となられるお方。こと貴族街において幸様の意見を覆すことなど貴方にはできません」
決して大きくない声は部屋の中に響き渡る。
「どうぞ、お引き取りください。案内は必要ありませんね?」
最後にそれだけ言って、由菜は完全に元晴を追い払った。
部屋に残るのはいつもの馴染みの面子だ。
「こわ、かった」
「そうですよね? あっ、頬が赤くなってますね。すぐ、冷やすものを持ってきます……っ」
環の呟きでいつもの由菜に戻り、慌てたように台所の方へ姿を消した。
「環が怖がるなんて珍しいですね。元晴様は苦手でしたか?」
「違う。……由菜が、怖かった」
「「ああ」」
首を横に振って答える環の声に和幸と海斗の声が重なる。全員、同じ意見ということだ。
「ちょっと、なんで二人して同じ反応なんですか。環さーん、私は怖くないですよー。優しい優しい由菜ですよー」
濡らしたハンカチを手に持った由菜が不満げな声をあげる。
そんな姿に和幸と海斗は揃って笑い、由菜はまあいいかと息を吐く。
その後、諦めの悪い元晴からの連絡は度々あったが、この日ほど大事になることはなかった。
穏やかな日々を過ごし、海斗と和幸はともにストレートで桜稟アカデミーを卒業したのだった。
初のストレート卒業だと周囲は騒ぎ立てていたが、二人にとってはどうでもいいことだ。