2話 猫
ある日、ふと猫の声が聞こえた。
微かな鳴き声に耳を澄ませて蔵の外へと出れば、建物の影に隠れるようにして座る白猫の姿があった。
美しい白い毛に、黒の絵の具を少しだけ零したような灰色の瞳。何より、二つに分かれた二本の尻尾が印象的な猫だった。
普通の猫とは違う浮世離れした気配に妖なのだと察する。
「そこは寒くありませんか?」
問いかければ、猫は驚いたように目を見開き、すぐに警戒を宿らせる。
「お前は誰」
人間の言葉が通じるか不安はあったものの、問題はなさそうだと海斗は笑みを浮かべる。
「武藤海斗と言います。そこの蔵で暮らしている者です」
「あそこはカナメの場所だ!」
激昂とともに霊力の刃が駆け抜ける。
それは避ける素振りを見せない海斗の頬に、肩に、容易く傷を残した。
痛みにも、流れる血さえも気に留めない海斗はただ笑顔を浮かべていた。温かみのある柔らかな笑みを。
「カナメさん、ですか。……前の代の藍の子でしょうか。よければ、お話を聞かせてくれませんか」
「なん、なんで、そんな平気な顔で」
「ああ」
猫の問いかけで初めて自分の傷に気が付いたように目を向ける。
「大した傷ではないようです。ご心配なく」
「別に心配なんてしない!」
「そうでしたか。それはすみません」
自分のことすらどこか他人事のように振る舞う海斗。笑顔を絶やさず、その手を猫へと差し出した。
「そこは寒いでしょう? 中でお話しませんか?」
自分のペースを貫く海斗にペースを狂わされた猫は差し出された手に渋々、肉球を乗せた。
それを肯定と受け取った海斗は猫を抱えあげ、蔵の中へと戻っていく。
「なんだ、新しい奴か」
今日も変わらず天井にぶら下がるヤツブサは、海斗が抱えあげた猫をじっと見つめる。
値踏みするとも違う視線を注いですぐにヤツブサは百足に似た身体を傾げた。
「……お前、叶雨の飼い猫か?」
「ヤツブサは彼女を知っているんですか」
「ああ。先々代くらいの藍の子が飼ってた猫だよ。屋敷に迷い込んだのを拾ったとかなんとか」
身体を捻り、記憶を掘り起こすヤツブサ。その姿を猫は無言で見つめている。
「叶雨の奴が死んでからはめっきり姿を見せなくなっていたが、妖になってたのか」
「……カナメの仇を討ちたかった」
ぽつり、と猫が言葉を落とした。
灰色の瞳には怒りと悲しみが複雑に混ざり合った感情だけが映し出されている。
「カナメは優しかった。だから他の人間に利用されて、騙されて、殺された。タマは仇を討ちたかった。……でも、カナメを殺した奴は知らないうちに死んでた」
大好きだった主人を殺されて、その憎しみから妖になったのだという。
必死に力を磨き、ようやく仇を討つために戻ってきたとき、相手が死んでいたことを知った。
妖と人間では時間感覚が違う。数十年も経てば、人間は死ぬなんてこと考えもしなかったのだろう。
病気で死んだと聞いて、猫の中には消化不良な憎しみだけが残った。
途方に暮れて、行く当てもなく旅をしているうちに自然と武藤家へ足が向いた。
「これからどうしたらいいか分からない」
「なら、やることが決まるまでここにいたらどうでしょう?」
「……人間なんて信用できない」
「信用する必要はありません。ただ雨風を凌げる場所を得られた程度に思っていただければ」
消えない警戒の色に微笑みかける海斗。その裏でヤツブサは小さく息を吐き出した。
お人好しとは違う。優しいのとは違う。
無関心で、無頓着で、執着心が欠落しているからこその振舞いだ。
「そういえばまだ名前を聞いていませんでしたね」
「タマ」
「タマさんですか。よろしくお願いします」
流されるままに生きる海斗の姿は妖に近いものがあるの。そのせいだろうか。
最初は警戒心を丸出しだったタマも、遠すぎず近すぎずもしない海斗の態度に絆されていった。
「カイトはカナメに似ているな」
ぽつりと零したタマの言葉。
首を傾げる海斗の後ろで、ヤツブサは一人感慨に耽っていた。
藍の子はみな、どこか似ている。
浮世離れしていて、自分へ関心が薄い。そして癖のようにいつも笑顔を浮かべている。
それはヤツブサがよく知る始まりの彼も同じだ。
ヤツブサは時折、海斗の中に彼の姿を見る。だからきっとタマも海斗の中に叶雨の姿を見ていたのだろう。
――妖と人間の平穏な日常。どこか歪な光景が崩れるのに時間はかからなかった。
すっかり日も落ちて、世界が闇に落ちる時間は妖の活動時間だ。
人間は眠る時間でもあり、妖に近い海斗であってもそれは変わらない。
部屋の主が眠りにつき、静寂が訪れた空間で白い影が動き始めた。微かな寝息を立てる人物へ近付いていく白い影。
「お前、何をする気だ?」
「……っ」
低い声でただ問いかけたヤツブサに影は瞠目する。
「た、タマは……」
藍の子は妖を寄せ付けやすい体質を持っている。甘く芳醇な香りが漂う霊力は妖を寄せ付け、惑わせる。
当の本人はそのことに興味すらなく、ヤツブサは人知れず、海斗に襲いかかる妖を撃退していた。
それがヤツブサが「あいつ」と交わした約束であり、武藤家に縛られている理由だ。誰にも話したことはないが。
「お前みたいな低級じゃ、こいつの霊力は毒と同じだからな」
「タマはそんなつもりじゃ……っ」
「言い訳する必要なんてねぇぜ? 海斗は寝てるし、俺は興味ねぇし」
妖側の事情などヤツブサにはどうでもいいことだ。ただ与えられた役目を淡々とこなしていくだけ。
「タマは……タマはカイトを守りたかっただけで」
タマの動揺に合わせて、彼女が纏う妖力が揺れる。
黒に染まりつつある妖力がゆらり、ゆらりと。
「誰かにやられるくらいならタマが……違う! そんなんじゃ、タマは……タマがっ」
「くそっ、ちょっと不味いな」
膨れ上がるタマの妖力に釣られて、外にいた低級の妖たちまでもが蔵の中に侵入してきている。
「……ぅ、騒がしいですね」
「起きたのかよ、お姫様。面倒な状況だから構ってやれねぇぜ」
「あれは…タマ、ですか? これは一体……?」
「面倒な状況だって言ったろ? おい、小鬼ども! お前らも手を貸せ」
海斗の枕元で未だに眠る小鬼たちを叩き起こす。小さな鬼たちは寝惚け眼で事態を見つめ、はっと目を覚ます。
「ったく、お姫様よりもぐーすー寝てんじゃねぇよ」
「そのお姫様というの、やめてもらえますか。私は一応、男です」
「今はそんな話をしてる場合じゃねぇっての」
ヤツブサの妖力でなんとか抑えてはいるが、それも時間の問題だ。
「小鬼ども、海斗のことは任せたぜ」
「わかった」「かいと」「まもる」「まかせろ」
頷き、息巻く小鬼たちは小さな手を重ねる。彼らの身体がひとつになり、手乗りサイズから人間の子供くらいの大きさへと成長する。
それを横目に見るヤツブサもまた、天井から離れ、その姿を変える。
「人型にもなれたんですね」
「まあな」
呑気な海斗の言葉に頷くのは若い青年だ。長く伸ばした青銀の髪を揺らす青年は宙から銀に輝く槍を抜いた。
「さて、と。久しぶりで鈍ってねぇことを期待すっかね」
言うが早いか、ヤツブサの身体が消失する。
超速を超える速さで銀槍を巧みに振り回し、次々と黒い靄を切り裂いていく。
その姿はあまりにも速く、青を纏う銀色の筋のみを世界に残す。
「雑魚はこれで全部かね」
刀身についたと汚れを振り払い、一息つくヤツブサ。
たったの数秒で集まってきた低級たちは一掃された。といっても、また少しずつ集まり始めてはいるが。
「今のうちにお前を討たせてもらうせ」
「タマがカイトを守る……!」
「お前が今やろうとしてんのはむしろ逆だろ」
熱に浮かされるように呟くタマをヤツブサは冷たく切り捨てる。
「ウガァ」
「おっと、あぶねえ」
鋭い爪を立て、襲いかかるタマを銀槍一つで軽く振り払う。
そこにははっきりとした格の違いがあった。
「タマが、タマがタマがタマがタマが」
妖力が爆発し、蔵の中を縦横無尽に荒らしていく。触れるだけですべてを切り裂くそれをヤツブサは軽い挙動であしらう。
「ジャマ、するナ」
「それは聞けねぇな。あいつを守るのが俺の役目で、約束だ」
横目で海斗の様子を確認する。
小鬼が尽力してくれているお陰で、妖力の嵐の中でも特に怪我をした様子はなさそうだ。
「この場所で俺に勝てると思うなよ、若造」
挑発。怒りに任せた一撃を振り払い、終わらせようと槍を構えた視界に藍色が過った。
「ばっ、おまっ」
タマとヤツブサの間に突然割り込んできた海斗の姿に、慌てて槍を空振りさせる。
「何やってんだよ、危ねぇだろ!」
「ヤツブサ、殺す以外の対処方法はありますか?」
「ないことはないが……。なんだ、あの猫に愛着あったのか」
「愛着とは少し違います。彼女を連れてきたのも、引き止めたのも私ですから、このまま終わらせてしまうのは申し訳ないと」
海斗には執着心が欠落している。けれど、親しくしていた者の死を目の前にして心が動かないわけではない。
そのことに初めて気付いて、ヤツブサは呆れたように笑った。
「お前の霊力は妖にとっちゃ、度数の強い酒みたいなもんだ。俺や小鬼みたいに耐性のある奴はどうってことねぇが、小物は傍にいるだけで泥酔しちまう」
悠長に話している時間もないので、ヤツブサは手短に言葉を紡いでいく。
「なら、耐性をつけてやればいい」
「どうやって?」
「簡単だよ。お前が、名前をつけてやればいい」
名前は一番短い呪だ。すべてのものは名前に縛られている。
名前の意味に、名付けた者に縛られる。
名前のないものは自由ではあるが、その分存在があやふやで力も弱い。
タマには元々、名前がある。だからこそ、そこらの低級ほど弱くはない。
けれど、名付けた者が殺され、その恨みから妖となったタマは同じくらい不安定な状態なのだ。
存在を安定化させるためにはより強く名前で縛る必要がある。海斗ほどの力を持った者ならそう難しくはない、はずだ。
「名前ですか……ふむ」
とはいえ、そう簡単に名前が思いつくものではない。
周囲に対しての関心が薄い海斗が名付けを得意としているとも思えない。
「時間は稼いでやるが、なるべく早く決めろよ。じゃないともたない」
「……。……タマ、環なんてどうでしょうか」
多少なりとも時間がかかるだろうと思っていたヤツブサの考えを裏切り、海斗はそう口にした。
「いいんじゃねぇか。元の名前とも近いし」
「そうですか。では――」
牙を剥くタマへ改めて向かい合う海斗。
ヤツブサは失敗したときに備えて、警戒を募らせる。
「環。私の友人になってくれませんか?」
特別何かしたわけではない。ただ一言、そう問いかけただけ。
それでも効果は覿面で、蔵の中を荒れ狂っていた妖力の奔流が一瞬にして消え去っていく。
正気に戻った灰色の目が自分のしたことに気付いて揺れる。海斗はそんなのお構いなしにタマ、いや、環を抱えあげて微笑んだ。
「答えを聞かせてもらえませんか」
「タマは……カイトを殺そうとして」
「私は気にしていません」
「でもっ、タマはまた、同じことするかも」
「環が私を殺すことなんてありませんよ」
環は海斗を殺さない。
無意識なのか、そうでないのか。海斗が紡いだ言葉はより強く「環」という名で白猫を縛った。
力強い海斗の言葉に泣き出した環を見つめながら、ヤツブサは人型を解く。
「しっかし、こんだけ荒れ果てた姿を見られた日にゃ、武藤家の連中は大騒ぎだろうな」
蔵の中は見るも無残な姿である。恐らくだが、音も外に漏れていたことだろう。
どうしたものか、と考えるヤツブサの耳が複数人の足音を捉えて、小鬼や環に隠れるよう指示する。
「片付けは間に合わねぇし、眠っている間に何かが入り込んだとでも言っておけ」
最後に海斗へそうアドバイスをしてヤツブサもまた、天井に引っ込んだ。