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最終話 この胸に抱えたもの

「星司と華蓮に話があるんだ」


 それは楽しい日々が終わるその日に切り出された。ぎりぎりまで空気を壊したくないと思っていた海里はまさに当日、二人へと向かい合った。


 史源町の日々の中でもっとも多くの思い出を共有した二人へ、さよならを言うために。


「俺、今日でここ出ていかなくちゃいけないんだ」

「は? どういうことだよ!?」


 こんな風に問い詰められることは分かっていたので、ちゃんと理由も用意してある。


 本当のことを言えない代わりの理由。それも記憶を消されたらなくなってしまうけど、お別れはちゃんとしたかった。


「母さんのところに行くんだ」

「あえるのよね。出ていってもあえるのよね?」

「もう、会えないよ」

「なんで……っ」


 縋るような華蓮の声が悲痛に彩られる。悲しませたことに胸を痛めながらも海里は決して目を逸らさない。


「遠くに行くんだ。すごく遠く」


 声が震えてしまわないように努めた。

 決めた覚悟が揺らいでしまわないように心を叱咤する。

 決めたことだ。決めたことだから。


「いかないでよ。ずっとここにいて、海里がいなきゃいやだわ」

「約束だってあるだろ! なあ、海里?」


 二人はきっと海里が心変わりすることを望んでる。離れたくないと思ってくれている。

 それはとてもありがたくて幸せなことだ。


「ごめん」


 謝ることしかできない海里に華蓮は息を呑み、星司は悔しげに唇を噛む。噛んで、俯き、すぐに顔をあげた。


「剣道続けてたら会えるか?」


 震えた声の問いかけに答える言葉を海里は持っていなかった。


 会えるなんて軽率には言えなくて、それでも会えないとも言いたくはなかった。


「俺、ずっと剣道続けるから。いつか絶対、お前に勝ってやる。だからさ、お前も剣道続けろよ」

「……うん、約束」


 最後の最後に交わされた約束は、未来への期待だった。


 また会えるか、海里には分からない。記憶を消された先で会えても、二人にとって海里は赤の他人だ。


 それでも、もし。もしも偶然出会えて、二人とまた仲良くなれる未来があるのなら。

 そんな夢物語があればいいと海里はこのとき心からそう思った。


「っさようなら」


 涙声にならないように必死に堪えて、海里は二人に背を向ける。


 呼びかける声に耳を貸さず、前だけを見て歩を進める。止まって振り返りそうになる心を押さえ込んで、一歩一歩確かに進んでいく。


 人間としての海里の生はこの日、この時に終わった。これからは妖として生きていくことになる。

 決して振り返らないその姿勢は海里の覚悟の表れだ。


 前を見据える隻眼が揺れる。波立つ黒い瞳は捨てきれない海里の感情だった。


 聞こえる声は次第に小さくなり、やがて角を曲がった頃にはもう聞こえなくなっていた。無意識下で安堵の息を漏らす海里を一人の少年が待っていた。


「こんにちは」


 表情一つ動かさない少年は淡々としたの声でそう言った。


「こ、こんにちは」


 状況を理解するのに一拍ほどの時間を要し、戸惑いとともに挨拶を返す。


 彼は星司の弟だ。名前は確か、健。

 親友の弟でありながら、まともに話すらしたことがない。彼が人見知りだったというわけではなく、家にも学園にもいないことが多かったからだ。


 健のまとう空気は一つ下とは思えないくらいに老成している。ただ海里を見つめる無機質な瞳は必死に抑え込んだ感情を見透かしているようだった。


 得体の知れなさを感じつつも、親友の弟としてだけ認識している海里は状況を説明しようと口を開く――。


「消すんですか。兄さん達の記憶を」


 海里が口を開くより半瞬早く、淡々とした声が言葉を紡いだ。


 海里の抱えた問題をほぼすべて把握しているような口調で、海里のこれから先の行動を当ててみせた。

 驚く以上に心臓を鷲掴みにされたような衝撃が走る。


 何故、彼がそれを知っているのか。

 史源町で関わった人々の記憶を消すということを知っているのは母とレオンと、後はレオンと同じ部隊の数人だけだと聞いている。


 どこで、どうやって、と疑問が溢れる。

 人形めいた顔から真意を読むことは出来ず、海里の頭の中は混乱に支配されていた。


「どうして、それを」

「秘密です」


 淡々とした口調で淡々と答える健。

 尽きることのない疑問を解消してくれる気も、混乱の渦から海里を引っ張りあげる気もないらしい。


 だから海里は彼がそんなことを言い出した意味を自分なりに考えて答えを出す。


「止めにきた、の?」


 弟として兄の記憶を消されることを許せなかったに違いないと海里は考えた。


 感情を切り離したような表情見せる彼に、そんな感情的な行動は不釣り合いのように思えた。けれど、海里にとって健は星司の弟でしかなく、自分の中の常識に当てはめて考えるしかなかったのだ。

 得体の知れなさを感じつつも、彼は年下の男の子なのだと。


「違います。俺は記憶を消す手助けをしにきたんですよ」


 初めて表情を浮かべて、健は海里の言葉を否定した。浮かべられる笑顔はやはりどこか作り物めいていて、冷たさをまとう。

 人を安心させるもののはずの笑顔は海里の心を凍えさせる。


 恐怖だ。そこには恐怖があった。

 一つ下の少年に海里は強い恐怖心を抱いた。


「まあ、妖華さんほどの力だったら手助けなんて必要ないでしょうけど」

「なんで……?」


 恐怖のままに問いかけながら愚問だったと判断する。


 目の前の彼にこの質問は無意味な気がした。

 おそらく、海里は岡山健という人間の性質を理解し始めていたのだろう。


「強いて言うなら、好奇心のためってところでしょーか」


 その言葉が嘘か本当か判断できるほど海里は健を知らない。

 恐怖だってまだあって、それでも彼に自分に近いものを感じた。


 作り物めいた笑顔に少し違和感を覚えたからかもしれないし、健の性質をなんとなく感じていたからかもしれない。

 ともかく、海里は健の申し出を受けても悪いようにはならないと思ったのだ。


「分かった。お願いするよ」


 戸惑いを消して、了承した海里に健は少し驚いたようだった。

 それを見て、海里は自分の判断が間違っていなかったと悟る。悟って、胸の奥に溜まっていた暗いものがふっ、と消えていくのを感じた。


 そうか、と。

 海里は彼に期待したのだ。願いを託したのだ。

 彼はきっと海里が描いた夢物語を実現してくれるのだと理解したのだ。


 もう町を去ることを寂しいとは思わなかった。大丈夫だと胸の奥が教えてくれていたから。


「術の準備は万全です。本当によろしいんですね」


 健と別れた後、物陰から現れたレオンがそう問いかけた。


 事務的な最終確認の中にレオンの優しさが見え隠れしている。

 本当に優しい人なんだと思う。海里のことを心から気にかけてくれている。


「うん、お願いします」


 海里は笑顔で答えた。癖となっている、柔らかな人を安心させる笑顔だ。


 悲しいときも、苦しいときも海里は笑顔を浮かべる。自分でも理由が分からない癖。

 しかし、今の笑顔は無理をしているわけではなかった。


 健とのやり取りのお陰が今は胸が軽い。

 寂しさはある。悲しさもある。ただ重くのしかかる暗い感情はなくなった。


「みんなを悲しませたくないから」


 この町からもらったたくさんのものを抱いて海里はこれから生きていく。長い時間を経ても絶対に忘れることはないだろう。


 大切な、かけがえのない時間だった。

 それを海里が覚えていられるならそれで構わない。


「……誕生日、祝ってほしかったな」


 小さな後悔が零れる。


 約束をした。次の誕生日は絶対に祝うと。

 別れのときを知りながら海里は二人と約束を交わした。


 たった一つ、たった一つだけの、海里が史源町に残した後悔だ。


 守れなかった約束の代わりに交わした約束は希望で、健が連れてきた期待。

 後悔の代わりに海里はこの二つを胸の中に落とした。慈しむように瞬きを一つ。


 町に残したものがいつか未来に繋がるといいなと淡く思いながら、


「今日からよろしくお願いします」


 深々と頭を下げて、海里は妖としての一歩を踏み出したのだ。

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