3話 君は許さない
それから海里は人と距離を置くようになった。
どうせ一年くらいしかいられないのなら仲良くなっても仕方がない。別れるとき、誰かを傷付けたくはなかった。
最低限の付き合いだけで、後は突き放すように接しようと。
静かにそう考える海里の目には寝癖だらけの少年が映っていた。剣道の練習以外でも一緒に過ごすことが増えた少年は今、同年代の子供たちと楽しげに話している。
星司には友達が多い。元々、コミュニケーション能力が高い方のようで、海里がいなくても一人にはならないタイプだ。
だから、きっと海里が遠くても問題ない。
最初はきっと気にかけてくれるけど、時間が経てばすぐに忘れるはずだ。
星司は優しい、いい人だから海里のような化け物とは一緒にいない方がいい。
「ねぇ」
投げかけられた声はどこか無愛想だった。
つり目が真っ直ぐに海里を睨むように見つめている。
藤咲華蓮。星司の幼馴染だという少女だ。親に交流があり、春ヶ峰学園に入る前からよく顔を合わせていたのだとか。
人付き合いが得意ではない少女を星司が誘うことも珍しくなく、海里も何度か一緒に遊んだことがある。
「なんで、星司君といっしょにいないの?」
問いかけは純粋で真っ直ぐ。だからこそ、海里は返す言葉に詰まった。
誤魔化す言葉はいくつでも思いついた。けれど、海里を見つめるつり目がそれを許してくれないような気がする。
「どうしてよ」
なかなか答えない海里に声は苛立っているようだった。
「俺は一緒にいない方がいいんだよ」
「なにそれ、よくわかんないわ」
慣れたように笑顔を浮かべてようやく答えた海里を少女は両断した。
苦心して出した答えをばっさり切り捨てられた海里は驚いて、少女を見た。糾弾するような目から逃れるように視線を外していた海里はここで初めてちゃんと少女、藤咲華蓮を見た。
誤魔化すことも、逃げることさえその目は許してくれなかった。ただ海里を見ていた。
「俺は、化け物だから」
声を震わせないように苦心して出した言葉に華蓮は首を傾げた。分からないと言っているようだ。
突然、化け物と言われてそう簡単に納得できる人はいないだろう。だから海里は理解してもらうための言葉を考える。
突き放して、もう二度と海里と関わろうと思わないように。
「それがどうかしたの? あなたはあなたでしょ」
「――っ」
海里の胸中に渦巻く感情を何一つ理解しないままに放たれた言葉に殴られた。
悲壮な覚悟を決めていた心が粉々に砕かれる。
「それにね、あなたは化け物じゃないわ。化け物ってのはもっとこわいものだもの」
二の句が継げないままの海里に向けて華蓮は得意げに笑う。
何も分かっていないと海里に語りかけるように。
「あなたはぜんっぜんこわくないわ」
それは子供らしい単純な理屈だ。
海里が悩んで出した結論を彼女はあっさりと切り捨てた。否定する材料はきっとたくさんあるのに、それ以上に海里は救われた気持ちになった。
「私のお祖母様の方がずっとこわいわよ」
彼女はきっと自分の考えを口にしただけだったのだろう。
それでも、いや、だからこそ海里の心は救われた。離れようとしていた心が強引に掬い上げられたのだ。
すべてを遠ざけるように生きていた海里は周りに目を向けるようになった。
星司とまた競い合うように修練に励んだり、華蓮の家で意味もなく時間を過ごしたり。温かくて、柔らかなありふれた日常は頑なだった心を解かして、海里の中に余裕が生まれた。
その中で海里は遠ざけていたものへ目を向けるようになった。
「大丈夫?」
それは武藤家の広い屋敷の片隅だった。
庭木に隠れるように蹲る少女を見つけた。時折聞こえる鼻をすする音で、泣いているのだと思って駆け寄った。
海里より二つか三つ、下だろうか。まだ小さな少女はおそるおそる海里を見上げる。
そこにある微かな恐怖を読み取って笑いかけた。
「はじめまして。俺は武藤海里です。君の名前を聞いてもいいかな」
「ぐすっ、むと……みそら」
武藤美空。叔父の娘だ。
海里にとっては従妹にあたる少女とは、叔父の機嫌を取るように関わらないようにしてきた。けど、今は何度も叔父に怒られても、殴られても構わないと思っている。
それ以上に大切なことが、海里にはしたいと思えるものがあったから。
嗚咽混じりに答えた美空の頬は赤く腫れていた。
そのことを追求することもできたけど、海里は何も聞かないことを選んだ。誰の手によるものなのか、海里には分かったから何も言わない。
「美空ちゃん、少し俺の話し相手になってくれるかな。ちょうど暇してるんだ」
他者に対する怯えを瞳に映し出しながら美空は頷いた。
何の話をしようと考えて、ふと空を見上げた。青一色で塗られた空に、ふわふわと雲が漂う。
「あの雲、うさぎみたいだ」
話を振るというよりはただの独り言だ。
それでも美空は同じように空を仰いで「ほんとだ」と小さく呟く。
「あれは花かな。チューリップ」
「ぁ、お星さま」
「ほんとだね、星みたいだ」
青い空を見上げる目は涙を流していたことを忘れてきらきらと輝く。
ゆっくりと流れる雲を目で追って、楽しげに息を漏らす。怯えているようだった顔か笑みを零すのを見て、海里は隻眼を和らげる。
「あれはきのこ」
「くま」
「おはな。あれもおはな」
「ふふっ、花だらけだ」
二人で夢中になって雲に意味をつける。
朧気であやふやな姿でも名前をつければ、ちゃんとした形になる。そう見える。
「「あれは」」
声が重なって顔を見合わせる。海里が笑いかければ、美空も笑って二人の笑声が空へ登っていく。
「あれはおつきさま」
「だね。お月様だ」
空に浮かんだ白い三日月。輪郭がぼやけたそれを二人で指差して笑いあった。
「おそらはいいな……」
「どうして?」
「すっごくおおきくてきれいだから。わたしもおそらになりたい」
「なれるよ。だって美空ちゃんも空だから。美しい空」
言いながら海里は美空の名前を地面に書く。
「誰よりもきれいな空になれるよ」
一人で蹲っていた小さな少女の背中を押せるように願った。
化け物だからと息を吐いた自分を叱咤してくれたあの子のように。
誰も諦める必要なんかないんだ。未来は何も決まっていないのだから。
いつも一人で泣いていた少女は悲しいことがあれば海里のことに来るようになった。
海里はその涙を拭って、笑顔に変える。いつしか美空は悲しいことがなくても海里のもとへ訪れた。
蔵の中にある本を読み聞かせたり、広い庭を二人で冒険したり。
繰り返す毎日の中で、海里のもとに一人の少年が訪れる。海里より一つ下らしい、美空の兄だ。
「どうかしたの?」
蔵の中を覗き込む少年に後ろから話しかける。
少年は分かりやすく驚いて、動揺を隠しきれずに視線を動かす。
覗き込んでいたくらいだから海里に用があるのだろうか。
「いっ、いつも妹が」
「うん?」
「妹が、美空が、その……世話に、なって?」
もしかしたらただ興味本位で覗いていたのかもしれない。だとしたら悪いことをした。
しどろもどろで言葉を紡ぐ少年に海里は少し罪悪感を覚えた。
「よかったら少し話をしない?」
おいでおいで、と蔵の中へ少年を招き入れる。緊張している様子の少年は断れないという体で足を踏み入れる。とても、いい子のようだ。
「えっと、良くんだよね?」
武藤良。それが彼の名前だった。
武藤家現当主の息子にして、次期当主。
毎日厳しい稽古をしているという話を美空から聞かされていた。
その証明をするように良の手にはたくさんの豆が出来ていた。見ていて少し痛々しいほどに。
叔父が越えられなかった壁を良に越えさせようとしているのだ。課せられた期待はきっととても重い。
「良くんは剣道してるんだよね。美空から聞いたよ」
良は迷うように頷いた。
もしかすると海里とは関わるなと言われているのかもしれない。あの叔父なら有り得そうだ。
それでも断りきれなくて、素直に頷く姿はどこか愛らしく思える。
「俺もしてるんだよね、剣道。春ヶ峰学園の剣道部で教えてもらってるんだ。すごく教え方が上手な人がいてさ」
海里はあまり喋りが得意な方ではない。それでも止まらないように良へ語りかける。
課せられた重荷で潰れそうな少年へ、手を差し伸べる。
「よかったら良くんも来てみない?」
「おと、さんが……」
「叔父さんには俺から話すよ。だから、どうかな」
叔父を抜きにして、良の意見が聞きたかった。
ただ叔父の言うことだけを聞く機械のような人間にさせたくなかったのだ。
「すぐに決めなくてもいいよ。ゆっくり考えて、一緒にしたいって思ったときに言ってくれたらいい」
包み込む笑顔で語りかける。迷うように頷いた彼がいつか剣道を楽しいものだと思えるように願いながら、その背中を見送った。
確かな愛情を隻眼に宿す海里の横へふと気配が降り立った。金色の髪が仄かにたなびく。
〈どうして急に?〉
頭の中に直接響いた問いかけは美空への行動であり、良への行動に対してのものだ。
どうして急に二人と関わるようになったのか。今の今まで関わりを避けていたのにどうして、と。
「俺も誰かを救ってみたくなったんだよ。星司や、道さんや――あの子みたいに」
自分の抱えているものを見て、普通の道は歩めないと諦めていた海里。一人で生きようと思い上がっていた海里。
そんな海里を引っぱたいて、手を差し伸べて、欲しかったものをくれた人たち。
「俺がこの町にいられる時間は少ない。だからその少ない時間でもらったものをちゃんと返したいんだ」
海里を救った人たちは恩返ししてほしいわけじゃないだろう。そもそも海里を救った自覚すらないかもしれない。
だったら、海里はもらったものを次へ繋ごうと思った。
彼らが手を差し伸べてくれたように海里もまた誰かに手を差し伸べよう、と。
それは彼らに出会わせてくれたこの町への恩返しだった。
「俺がいた証をこの町に残したい。でもきっとそれは残された人を悲しませることになるだろうから」
恩返しをしたい。欠片を残したい。
でもそれが大切な人たちを苦しめることになるなら海里は別の選択肢を選ぶ。
「――だから、俺はこの町を去るときにみんなの記憶を消してもらおうと思うんだ」
たくさん、たくさん思い出を作ろう。この町で過ごした一年ほどの日々が永遠とも思えるようにたくさんの思い出を。
そして思い出を作った先で、みんなの記憶を消そう。
以前、レオンに連絡したとき、海里の母親ならできると言っていた。きっと海里が頼めば、力を貸してくれるだろうということも。
記憶を消して、海里の中だけに残った思い出を大事に抱えて生きていこうと思うのだ。
一人で生きていくとはまた違う、覚悟を決めて海里はそう結論づけた。
〈海里が望むならそれでいい〉
いつだって海里の気持ちを尊重する、半透明の少年は表情一つ変えずにそう言った。
そんな二人を天井から見つめる人物もまた表情を変えず、「馬鹿だな」と口の中で呟いたのだった。