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幸福はここにある

村越澪ちゃんのお話です

時系列は第二節1-7の後くらいになります

「たっだいまー」


 明るい声が薄暗い廊下に虚しく響き渡る。少し遅れて返ってきた祖母の声を聞きながら、(れい)は自室へ直行した。

 大して中身の入っていない鞄を捨てるように床を置き、ベッドへダイブする。半回転で仰向けになった澪は懐から二つ折りにされた紙を取り出した。


 今日の昼休憩、とある少年から貰ったものだ。情報提供のお礼として。

 紙を開いて、書かれているのは隣町にあるマンションの住所。澪がずっと探し求めていたもの。


「思っていたより近くに住んでたんだ」


 ぽつりと呟かれた言葉は渇いていた。

 そこに天真爛漫の文字が似合う澪の姿はなかった。


 人前だと演技している、というわけではない。明るく元気なあの澪も、今の笑顔の一つすら浮かべない澪もどちらも本物だ。無理しているわけでもなく、どちらも澪自身の本当だ。


 紙に書かれた住所は母親の居場所を示すものだ。数年前、弟を連れて、澪だけを置き去りにして家を出て行った母の。


 母が出て行った日のことは今も鮮明に覚えている。

 いつものように友達の誘いを断って家に帰った澪を出迎えたのは数か月ぶりに見る父の背中だった。


 父は写真家だ。趣味をそのまま仕事にしたような人で、一年のほとんどを日本中、世界中を渡り歩いて過ごしている。完全な仕事人間で、家庭を省みることはほとんどない。


 離婚届と書かれた紙を無感動に見つめていた父はやがて澪の存在に気付き、思い出したようにどこかへ電話をかけ始めた。


「ばあちゃんが来るから」


 端的にそれだけ告げると、父は仕事道具が入った黒い鞄と紙を持って家を出て行った。

 祖母が来るまでの間、澪は呆然と立ち尽くし続けていた。


 そうして祖母を暮らすようになって、両親が離婚したことを聞いた。別に何とも思わなかった。

 悲しさも、腹立たしさの一つも湧いてこなかった。


 ただ、澪の中にあったのは純粋な疑問だけ。どうして、という疑問だけ。


 どうして、母は自分を置いていったのか。

 どうして、弟だけを連れて出て行ったのか。


 分からなくて、分からなくて、――知りたいと思った。


 母の居場所を探し始めたのはそれからすぐのことだった。まだ小学生の澪にできることは少なくて、初めは上手くいかなかった。新聞部に入って、先輩から取材の仕方を教わって、今では学園の上位に食い込むくらいの情報通だ。


 まあ、澪の噂を集める才能ばかりあったようで、肝心の母に繋がる手掛かりは一つとして得られなかったわけだが。

 ともあれ、そんなこんなで探し求めていた母の居場所を記した紙が今、手の中にある。

 今では趣味となった噂集めたがもたらしたと思えば、澪のやってきたことも無駄ではなかった。


「これでお母さんに会える……明日、休みだし」


 行くか、行かないか。

 二つの選択肢を乗せた天秤が頭の中で揺らいでいる。


 どちらを選ぶか。そんなこと、ずっと前から決まっているはずなのに、今更悩む自分が少し情けなかった。

 怖いのかもしれない。母に会って、真実を知るのが。


「よし、行こう」


 行かない、を選択しては今までが全部無駄になる。

 ちゃんと会って、答えを聞いて、何年も胸の中に救っているもやもやとおさらばしよう。決着を、つけよう。


 ●●●


「やっぱり出てきた」


 いつも情報収集するときにように、「散歩してくる」と祖母に告げて家を抜け出した昼過ぎ。門を閉めた澪をその言葉で出迎えたのは、幼馴染の少女だった。


 澪の家庭事情を知っている唯一の友人である。

 他の友人も両親が離婚していて、祖母と二人暮らししているところまでは知っているものの、母が出て行った経緯まで知っているのは彼女だけだ。


「……弓歌(ゆみか)。どうしたの? 出待ち?」

「そう。昨日の澪、様子がおかしかったから気になって」


 さすがは物心つく前から知っている幼馴染。上手く誤魔化せていたと思っていたけれど、あっさり見抜かれていたようだ。

 空元気を振る舞うのは澪の得意技だったはずなのに。


「心配してくれてありがとー! 実は昨日、ちょっと体調悪くてさー。でも、もう大丈夫だから」

「嘘でしょう?」


 小学生とは思えない大人びた雰囲気を纏う弓歌は静かに問いかける。その凛とした瞳にこれ以上、誤魔化すことなんてできなかった。


「実は、お母さんの居場所が分かって……今から会いに行こうかなーって」

「私も一緒に行くよ」


 いくつか説明を端折った部分には触れず、弓歌は端的にそう告げた。

 逡巡なんてなかった。最初からそう決めていたようにはっきりと、弓歌たる所以の凛とした声で。


「強がらなくてもいいよ」


 全部お見通しだと言わんばかりの言葉に澪は作っていた笑みを消した。

 代わりに震える手で弓歌の手を握り、


「助かる」


 それだけ呟いた。


 覚悟を決めても、怖いものは怖い。

 弓歌がついてきてくれるのは純粋にありがたかった。


 誰にも見せられない弱い部分を見せられる相手だから。

 澪の弱さを見抜いても、気に留めない優しい人だから。


 握った手を通して、弓歌の温かい優しさが伝わって、少しずつの澪の心を落ち着けてくれる。

 バスに乗って目的のアパートの近くまで辿り着いた頃、ようやく弓歌の手を離した。


「ここで待ってて」

「大丈夫?」

「大丈夫、大丈夫。ちょっと緊張してるけど……大丈夫」


 へらへらと笑いながら答える澪を見て弓歌は薄く笑い、「頑張って」と小さく声をかけた。頷きで返した澪は深呼吸一つして、一歩踏み出した。


「ええと、二〇二号室は……と、あった」


 お世辞にも綺麗とは言えないアパートの二階。

 ようやく目的の場所へ辿り着いた。


 長かったかな、と思う。小さかった澪はあれから少しだけ大きくなった。まだ小学生のままだけど、来年には中学生になる。

 片手で数えられるだけの年数。それでも、やっぱり長かったような気がする。


 笑みを作って、インターフォンを押す。

 全然知らない人が出てきたらどうしようなんて、くだらないことを考える余裕も出てきた。


「はーい」


 少し遅れて返ってきた声は聞き覚えがあって、杞憂に終わりそうな心配を心の中で笑う。


「どちら様で……あ」

「ひさ、しぶり。久しぶり、お母さん」


 よかった。忘れられていなかった。

 そんな安堵の中、元気いっぱいの笑顔を作った澪は開口一番にそう告げた。


 驚いた母の顔が徐々に状況を理解して、口が開かれる。

 最初の一言。実はこれが一番怖かったりもする。


「……澪。大きくなったわね。どうしたの?」


 他人のふりをされるんじゃないか。帰れと言われるんじゃないか。

 渦巻いていた不安を打ち消すように母はそう言った。


「どうしてもお母さんに会いたくて……来ちゃった」

「そう、なの。上がっていく? 今はあの人もいないから」

「ううん。友達待たせてるし、聞きたいこと聞いたらすぐに帰るよ」


 母の言う、『あの人』が誰を指しているのか、なんとなく分かっていた。家の中から聞こえてくる無邪気な声が弟のものだけじゃないことも気付いていた。


「聞きたいこと?」

「大した事じゃないよ? でも、ずっと気になってたから……」


 上手く笑えているだろうか。明るい声を出せているだろうか。

 弓歌と繋いでいた手はまだ温かい。だから大丈夫。


「あの日、お母さんはどうして私を置いていったの?」


 問いかけに母は少し驚いて、それでも逡巡することもなく口を開いた。


「澪なら大丈夫だって思ったのよ。ほら、澪って昔からしっかりしてたでしょう? だから、一人でも平気だと思って」


 悪びれることなく答えた母の言葉に、澪は内心の驚きを隠せないでいた。


 母が大好きだった。だから少しでも母の助けになりたかった。

 友達からの誘いを断って、母の手伝いができるように毎日早く帰るようにしていた。家から明るさが消えないようにいつだって笑顔で振るまっていた。


 なるほど。それが悪かったのか。


 長年の疑問が晴れて、澪の心は――。


「そっか。そうなんだ。ずっと不思議だったんだよ。でも、すっきりした。答えてくれてありがとね」

「ううん、私の方こそごめんなさい。何も言わずに出て行ったから……」

「大丈夫、気にしてないよ」


 あの頃と変わっていないな、と思いながら、澪はやはり笑顔を浮かべる。

 明るさを詰め込んだ、みんなのよく知る澪の姿。


「ねえ、お母さん。今、幸せ?」

「ええ、とっても」


 答える母の笑顔は本当に幸せに溢れていた。

 大好きな母のずっと見たいと思っていた表情を見て、澪は――ずるいと思った。


「じゃ、もう行くね」


 最後にそれだけ言って、澪は母の前から去る。もうきっとこの家を訪ねることはないだろう。

 笑顔を作ったままの状態で歩いていた澪は、曲がり角に隠れるようにして待っていた弓歌の姿を見るや否や決壊した。


 唇が震え、笑顔のままの目から涙が零れ落ちる。


「頑張ったね」


 優しく迎える弓歌が温かくて、縋るように抱きついた。

 もう大丈夫だと思ったら、それは次から次へと溢れ出す。


「……じゃ、なかったっ、平気なんかじゃなかった」


 本当はずっと寂しかった。自分は捨てられたのだと思って、悲しくて哀しくて、どうしようもなかった。

 でも、置いていった母のことを嫌いにはなれなくて、嫌いになりたくなくて、悲しみも寂しさも「どうして」の疑問で塗り潰して気付かないふりとしてきたのだ。


 お母さんが幸せならそれでいい。

 そんなことを考えながら。


「ずるいよ、お母さんは……ずるい」


 実際に幸せそうな母を見て、よかったと思った。幸せになれてよかった、と。

 でも、それで終わらないのが人間だ。


 幸福に溢れた表情を見て、ずるいと子供じみた感情が湧き上がってきた。

 澪を置いていったくせに、澪に寂しい思いをさせてくせに、自分だけ幸せになるなんてずるい。


「おかぁ、さんの、バカ。バカバカバカ」



 ねぇ、お母さん。貴方は知らないでしょう?

 私だってずっとお母さんを必要としていたことを。


 知らないでしょう?

 お父さんがちゃんと貴方を必要としていたことを。


 お父さんね、帰ってくると毎日のように家族の写真を見てるんだ。私に隠れてこっそりと。

 その時のお父さんの目はすごく優しくて、悲しくて、見てると胸がいっぱいになる。


 私たちは愛し方が不器用で、分かりにくくて、きっとお母さんは分かりやすい愛の方がよかったんだよね。

 不器用者同士、二人でお母さんが見つけられなかった幸せを生きていくよ。



 泣き腫らした顔が落ち着くまで、弓歌とショッピングを楽しみ、家に帰った澪を迎えたのは見覚えのある光景だった。

 リビングに立つ父の背中。あの日とリンクする姿に小さく息を呑めば、父はゆっくりと澪の方が振り返った。


「おかえり」

「た、ただいま」


 感情らしい感情を読み取れない顔にそう返せば、父は少しだけ首を傾げた。


「澪、泣いたのか?」


 顔だってもうすっかり落ち着いて、弓歌に大丈夫のお墨付きだって貰ったのに。

 気付いてしまうんだ。


「ちょっとね」


 照れ隠しのように笑った澪の前に立った父は無言で、澪のことを抱きしめた。優しく抱きしめることに集中するようなその姿は温かくて、可笑しくて笑みが零れる。


「もう、泣いてないよ?」

「ああ」

「泣いて、ないのに……」


 黒縁の眼鏡の奥に隠された目から涙が零れ落ちた。涙は存在を主張するように次から次へと流れていく。


「私、お母さんに会ったよ」

「そう、か」

「すごく幸せそうだった」

「……そうか」


 父がどんな顔をしているのか、分からなかった。

 でも、傷付いていないはずがないことだけはよく分かったから、


「私も、今、すごく幸せだよ」

「そうか」


 涙声に返される言葉は淡白で、少しだけ嬉しそうだった。

 顔が見られないことを残念に思いながら笑みを浮かべる。泣き笑いの笑みだ。



 ねえ、お母さん。

 私、今、すご幸せだよ。幸せなんだよ。

 だから、ざまあみろ。――お母さんが見つけられなかった幸福はここにあるんだから。


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