最終話 偽の恋人
谷地が行方不明だという話が、三日ほど経ってから門衛内で広まり始めていた。
夜中に一人で出かけて以来、帰ってきていないという。
そう、一人で、だ。八潮が一緒だったことどころか、食堂の近くで八潮と二人で話していたことすら誰も話題に出さない。
誰かと話していたことは覚えている。けれど、目撃者の誰一人としてそれが八潮だったことを覚えていない。
行方不明に関わっていながら何食わぬ顔で食事をとる。
きっと、この噂もそのうち消えてなくなるだろう、と。
貴族街では行方不明者が出ることなんて珍しくない。身分の高い者ならそこそこ問題になるだろうが、門衛くらいならよくある話として片付けられるのがオチだ。
今回は処刑人が関わっているから余計に噂が消えるのは早い。
「八潮センパーイ、お隣いいですか」
「ん、ああ、ええよ」
噂話に耳を傾けていた八潮は聞こえた声に二つ返事で返した。
いつもなら勝手に座ってくる夢羽は八潮の隣に座って、物言いたげにその横顔を見つめる。
「何か話でもあるん?」
「えーと、あの……その、八潮センパイって今日非番ですよね。あのぉ、この後少しお時間いただいてもいいですか」
「構わへんよ。相談事でもあるんか?」
「相談事……そうですね。私たちの未来についての相談というか、なんというか? とにかく、とぉっても大事な話なんです。二人で! 話しましょう!」
半ば勢いに気圧されるように了承する。
頬を紅潮させ、やけに気合いの入った夢羽の態度で彼女の話の内容はなんとなく予想がついていた。
いつもより少しスキンシップの多い夢羽との食事を楽しみつつ、断る方法について思考を巡らせていた。
「八潮センパイ! 私、センパイのことが好きなんです。付き合ってください」
人目につかない場所へと移動した先で夢羽がそう口火を切った。
予想していたことなので特別驚きはしなかったが、驚いたふうの演技はする。目をわずかに見開き、ゆっくりと言葉の意味を咀嚼する演技。
「あー」
照れたように頬をかき、どうしたもんかと考えるような演技。
「悪いけど、その気持ちには答えられへん」
「何でですか!? 私、好みじゃないですか」
八潮以上に驚いた顔で夢羽が返す。
話があると八潮を誘ってきたときの様子を見るに断られるなんて想像していなかったのだろう。
普段の行動からも分かる。彼女は自分が可愛いことを自覚していて、異性から好かれることを当たり前としていて、告白して断られるなんて想定外以外の何ものでもないのだ。
初めて会ったその日から今日まで、八潮の心が一ミリも動いていないことを想像すらしていない。
「恋愛とか興味ないんよ。せやから、堪忍な」
「あ、もしかして恋とかよく分からないっていう口ですか? だったら私が手取り足取り教えますよ。ね? 少しずつ恋人になっていけばいいんですから」
まだ折れることを知らない夢羽は縋るように八潮へ言葉を並べる。
何が彼女をそこまでさせるのか八潮には分からない。
「センパイがOKしてくれたら私の事好きにしてもいいです。こんなに可愛い子を好きにできるんですよ? めっちゃくちゃお得です」
言いながら夢羽は八潮へ一歩近付いた。
制服のボタンを外して、中のシャツのボタンを外して、はだけた胸元を八潮へ見せる。
「ね、八潮センパイ」
困惑する八潮のその手を優しくとって、夢羽は開かれたシャツの間に入れる。
ブラジャーの中にすら侵入させられた手が味わうのは柔らかな感触。吸いつくような弾力は男なら至福と思うものだろう。
このままうっかり絆されることもあるのかもしれない。けれど、八潮は違った。
――八潮、ちゃん。
おぞましい精の香りとともに、長い髪で顔を隠した女性が立っている。
名前を呼ぶ声はまるで八潮を責め立てているようで、必死に視線を外した。
「おっぱいだけじゃないですよ。こっちも好きにしていいんです」
言って、夢羽は規定よりも短いスカートを八潮だけに見えるように持ち上げる。
清楚な白い下着とは対照的に大胆な行動。
「そない、自分を安売りしたらあかんよ」
「安売りじゃないです。八潮センパイだけが特別なんです」
特別という言葉に男も女も弱いのだと知り合いの少女が言っていた。けれど、やはり八潮の心は揺らがない。だって。
――八潮ちゃん、幸せ?
八潮が犯した罪を証明するように立っている。幸せになることなど許さないと睨んでいる。
――私のこと殺したくせに八潮ちゃんだけ幸せになるんだ。
――守って、ほしかった……。
責め立てるその目から涙を溢れる。身体を汚されてもなお、残された最後の純潔。
――どうして?
止まらない姉の涙に八潮は否定するように首を振った。
違うのだと。八潮はずっと姉を、父を、母を守る気で、守りたいと思っていたのだと。
「センパイ? どうかしたんですか」
呼吸は乱れ、視界は明滅し、もはや夢羽を気にかける余裕すらなくなっていた。
覚えてる。殺した多くを忘れても、姉を刺したあの感触だけは鮮明に残っている。
燃え盛る屋敷の姿も。屋敷に充満した死の匂いも。
――燃やし尽くされても消えないわ。
違うと否定する。消え去りたくて燃やしたわけではない。
あれは八潮の決意の表れだ。
そのはずだったのに。
目の前に立つ夢羽の声がどんどん遠くなり、八潮の心は深みに落ちていく。誰も何も届かない暗闇へ。そこへ――。
「八潮」
何も届かないはずの世界に美しい声が響いた。
高級な楽器のごとき音色は現実から遠ざかっていた意識を柔らかく包み込んだ。
「約束の時間にはまだ早いけれど、貴方に会いたくて来てしまったわ」
緩慢に視線を向けた先に絶世の美女が立っていた。
ゴシックロリータと呼ばれる衣装を身に纏うことの多いその身体は、カジュアルなコーデで包まれている。相変わらずモノトーンよりではあるが。
あくまでゴシックロリータ姿は仕事用の言わば戦闘服で、普段はそこまで目立つ格好をしていないことを八潮は知っている。
一目でその美しさに心奪われる程の美女はまるで愛しい人を見つけたようにその頬を赤らめて八潮を見ていた。
「誰ですか、貴方」
自分より整った容姿を持つ相手を前にしたからか、どこか嫌悪を滲ませた夢羽が問いかける。
「私は紫苑。彼の、八潮の彼女よ」
勝ち組のように微笑んで、紫苑は真っ赤な嘘を堂々と告げた。
「貴方の方こそどちら様? 私の八潮と何かお話していたようだけれど」
「私は――」
「彼女は三和夢羽さん。俺の後輩や」
修羅場が始まりそうな予感を感じ取って、慌てて間に入る。
紫苑の登場で、乱れていた心はいつの間にか平常心を取り戻していた。
後輩と紹介された夢羽は不満げに頬を膨らませ、紫苑はやはり勝ち組のように笑む。
この二人をこれ以上、絡ませたらいけない気がする。
「八潮センパイは恋愛に興味ないそうですよ」
「あら、それはしつこく絡んでくる貴方を断るための方便ではないかしら? 私の前ではとっても甘えん坊だし」
あらぬ設定を付け加え紫苑が笑みを深めた。何度も見てきた仕草はよくない知らせだ。
「全然靡かなかったでしょう? 貴方程度じゃ、無理もない話ね」
「そこまで言うなら証拠見せてください。キスしてください。私の前で! 今すぐ! そしたら納得してあげます」
「いいわよ」
「は!?」
八潮の承諾もなく、二つ返事で引き受ける紫苑。甘い香りを仄かに漂わせる身体が状況に困惑する八潮へ近付いていく。
「八潮は動かなくていいわ。少しだけ口を開けて」
そんな囁きとともに柔らかな唇が八潮の唇に触れる。いや、触れるだけではない。
言われた通りに少しだけ開いた唇の隙間から紫苑の舌が侵入する。
艶めかしく動く舌は八潮の舌を絡めとり、互いの唾液を混ぜるようにいやらしく水音をたてた。
八潮はただされるがまま。けれど、夢羽には二人で愛し合っているように見えていることだろう。
紫苑は見せることにかけて天才的だから。
微かな吐息。絡み合う水音。わざと夢羽に聞かせているようだ。
どれだけ時間が経ったか分からない頃、紫苑の唇がそっと離れた。名残惜しそうに糸を引く唾液が陽の光を浴びてキラキラと輝く。
「これでご満足いただけたかしら?」
残った八潮の感触を慈しむように舌なめずりして、そう言い放った紫苑はまさに勝者だった。
何の戦いをしていたのか、八潮には皆目検討がつかないが。
「ぐぬぬ……わ、私、まだ負けてませんから!」
それだけ言って、夢羽は逃げるようにその場を去っていく。その後ろ姿を楽しげに見送った紫苑の目が八潮を向く。
「さて、デートに行きましょうか」
まだ恋人ごっこ続けるつもりらしい紫苑の誘いに頷いて、門衛寮から遠ざかる。
史源町へ繋がる門を抜け、何度もそうしたようにショッピング街への道を並んで歩く。
「来てくれて助かった。ありがとおな」
「お礼を言う必要はないわ。私と貴方の仲でしょう?」
「まだ続ける気なん? その恋人ごっこ」
「あら、仮でも偽物でも恋人がいた方が八潮にとって楽でしょう? 必要なときにいつでも呼んでくれたらいいわ」
こんな美女にそんなことを言われたら嬉しく感じるものなのかもしれないが、八潮の心にはありがたい以上のものは湧かない。
だからこそ、紫苑もそう言っているのだろう。
「私が花街まで来るように言ったせいでもあるでしょうし」
具体的な言葉を避けた紫苑の声は、八潮のトラウマについて言っていた。
恋愛や情欲、性が絡むような事柄に触れると突発的に起こる発作のようなもの。
気紛れに顔を出すそれは久しぶりに酷い症状が出た。そのことに多少の責任を感じてくれているのだろう。
「気にせんでええよ。嬢ちゃんがいたから全然平気やったし」
「あら、女性を口説く言葉としては上出来ね」
紫苑が傍にいるとき、健が傍にいるとき、八潮の心は何にも揺るがない鋼になる。
だから大丈夫だと告げる八潮に返ってくるのは妖艶な微笑だ。緩んだ唇を見つめて、少し前の行為を思い出した。
「俺なんかとキスしてよかったん?」
「八潮なら別に構わないわ。貴方は私が初めてを捧げてもいいと思える一人だもの」
「初めてって……えっ、初めてなん!?」
雰囲気だけは百戦錬磨なので、てっきり経験済みだと思っていた八潮である。
いくら女心に疎い八潮でもファーストキスが特別なものであることくらい知っている。
「ホンマに俺でよかったん? 初めては好きな人がいいって言うもんやないの?」
「心配しなくても唇以外だったら健にキスしたことくらいあるわよ」
横を歩く紫苑の顔はまったく気にとめていないと言った感じだ。
「八潮とキスしたって言っても気にするような人でもないし。少しくらい嫉妬してくれてもいいのに」
「俺が相手なら無理やろ」
紫苑と八潮の間に恋愛感情が生まれないことを彼は知っている。言ったところで、必要に迫られてとか、作戦のうちだと受け取られるのがオチだ。
「まあ、そういうところも健の魅力よ」
恋する乙女の悲哀を映し出した表情が一瞬で立ち直る。慰める隙もなく、頬を仄かに赤らめて、愛おしい人を思い出して幸せそうに笑う。
決して叶わない恋。けれど、それは悲劇ではないのだ。だから八潮は何も言わない。
「さて、健の話はおしまい。今の私の彼氏は八潮ですもの」
言いながら紫苑は八潮と腕を組む。
「楽しくデートしましょう。カップル割引があるお店があるの。下見に付き合って」
いつもより少し幼い紫苑の笑顔に八潮も笑った。
二人は偽の恋人。都合のいいときだけに互いを使うだけの恋人。
八潮にはこれくらいがちょうどいい。