2話 花街デビュー
初日の仕事をともにしてから、やたらと夢羽から声をかけられるようになった。
すれ違って挨拶はもちろんのこと、食堂ではわざわざ八潮を見つけて前の席に座るほどだ。ほとんど夢羽が好きなように喋っていて、八潮はそれなりに言葉を返すだけ。
女は自分のことを話すのが好きなのだ、という話を思い出した。否定せず、適当に話を聞いてあげればいい、と。
それを忠実に従う八潮を、夢羽はより気に入ったようだった。
夢羽は門衛男子陣から新人とは思えない人気があり、八潮は門衛女子陣から密かに人気がある。
絶妙な注目を浴びながら、日々、二人の仲は親密になっていく――ように傍目からは見えているのだろう。
夢羽はともかく、八潮の心は初日から何一つ変わっていない。
この程度で心が奪われるなら、もうとっくのとうに彼女によって奪われているだろうから。
「悪い、電話や」
楽しげに話をしていた夢羽の言葉を遮るように立ち上がる。
残念そうな表情を見せる夢羽よりも八潮には優先すべきことがあった。
「話の続きはまた今度な」
それだけ言って、食堂から人気の少ない廊下へ。邪魔にならないように隅に立ちつつ、スマートフォンを耳にあてる。
『少しお願いがあるの』
何度聞いたか、分からない言葉だ。八潮の返事はいつだって決まっている。
電話越しでも劣らない美しすぎる声に二つ返事を返し、八潮は離れた位置で談笑している先輩門衛を一瞥する。
女性陣から絶大な人気を誇り、門衛内一の女たらし。八潮のことを可愛がっており、ことあるごとに花街へ誘う人物。
「谷地さん、少しお願いがあるんですけど」
「八潮か。お前がそんなこと言い出すなんて珍しいな」
「ここじゃ、ちょっとあれやし。場所移してもいいですか」
女たらしではあるが、谷地は人がいい。可愛いがってる後輩に頼られたことを喜ぶように頷いた。
「んで、話ってなんだ? ……あ、女の落とし方とかだろ。最近、夢羽ちゃんと仲良いもんな」
「あー、まあ、そんなとこです」
実際、谷地が想像している思惑は何一つないが、ここは話に乗っておいた方がスムーズにいく。
「ほら、俺ってあんまり女性経験少ないから今のうちにって思うて。谷地さんはその辺、経験豊富やし」
「そっか、そっか。お前もそっちに興味出てきたか。んじゃ、俺が面倒見てやるよ。今日の夜、空いてるよな?」
望んだ通りの問いかけに八潮は頷く。
「それで、その」
「分かってるって。誰にも言わねぇし、マンツーマンで教えてやるよ」
これで後は隠蔽の術を使えば、これから起こる二人のやり取りすべてが誰の記憶にも、記録にも残らなくなる。
谷地はやたらと嬉しそうな顔をしている。さんざん勧誘してきた八潮が花街に行く意欲を出したことが嬉しいのだろう。
その喜びに今だけは浸らせてあげようと思う。どうせ、今日ですべてが終わるから。
濃密なまでに甘い香りが鼻腔を陵辱する。これでもかと焚かれたお香が混ざり合い、花街特有の香りを作り出していた。
立ちのぼる煙が視界に紗をかけ、我を忘れたような表情の男性陣が通りを歩いている。
恐らく、この煙には催淫作用があるのだろう。八潮にはまったく効果がないが。
「どうだ、足を踏み入れただけでも興奮してくるだろう?」
お香の催淫効果にまんまと嵌っている谷地に八潮はそれらしく頷く。
催淫効果の他に中毒性もあるのかもしれない。その上、従順な美女を用意されているとなれば、男たちが足げく通うのも頷ける。上手い商売だ。
初めて訪れた花街に八潮が抱いた感想はそれだけだ。
「おんやぁ、谷地さんじゃないかい。そちらは見ない顔だねぇ」
「俺の後輩だよ。今日は手取り足取り、女ってのを教え込んでやろうと思ってな」
「へぇ、好きなだけ楽しんでいきな。今日は滅多に会えない上玉もいるからねぇ」
大胆に胸元を開けた衣装をまとった女性が不敵に笑う。
上玉と聞いて、谷地の顔は分かりやすくにやけて、八潮は何も知らない初心な青年を演じる。
「その上玉ってのは何処にいるんだ?」
「谷地さんには世話になってるからねぇ。特別に教えてあげるよ。あそこの店だ」
指し示された先、そこには一際小さな店があった。前に立っているのは小太りの男性で、谷地と八潮の姿を見つけていやらしく笑う。
「お客様はお目が高い。当店ではこの花街一の美女を扱っておりますからなあ、ゲヒヒッ」
花街の中でも一際小さな店。こじんまりとした店構えを前にして、男の言葉は信じ難い。
が、何かに吸い寄せられるように二人は店の中へと足を踏み入れた。
「お部屋に案内する前にまずは身体検査をさせていただきます。危険物や薬、玩具等の持ち込みは禁止であります故、ゲヒッ」
お店や用意された女のランクによって、こうして身体検査をされることがあるらしい。ランクが高ければ高いほど、決まりは厳しくなるがより良質なサービスが受けられる。
逆に低ければ、使い捨てるように女と遊ぶことが出来るらしい。不愉快な話だ。
花街によく来ている谷地は当然のように検査をパスした。
そして、八潮は――男の視線が八潮のブーツに注がれる。
ブーツナイフ。ブーツを鞘代わりにした暗器の一種は近付いてみれば、簡単に武器だと分かる代物だ。
値踏みするような男の視線を受けても、八潮の中に焦りは生まれない。
「どちらも問題ありません。では、部屋を案内いたします、ゲヒッ」
気付いてないわけがない男は特に追求することもなく、二人を奥の部屋へと案内した。
焦らすようにゆっくり開けられる襖から、よく知る甘い香りが溢れ、
「ようこそ、いらっしゃいました」
恭しく礼をした美少女が二人を迎え入れた。
まさに神の最高傑作。暴力的なまでの美貌がそこにはあった。
長い黒髪を背中に流し、完璧なまでに整った身体を布地の少ない衣装で包んでいる。薄い布だけで守られた身体は本来隠すべきところを透けるように見せつける。
男の情欲を掻き立てるために計算し尽くされた衣装だ。
「私のことはどうぞ、紫苑とお呼びくださいませ、旦那様」
柔らかい微笑みは妖艶で、紡がれる言葉は天使の囁きのように甘く美しい。
「こんな上玉がいたとはな」
熱に浮かされたように呟く谷地に紫苑と名乗った美女が擦り寄る。ほとんど剥き出しの胸を押し付け、弧を描く唇で耳に口付けをする。
「貴方様のような方のお相手をできるなんて光栄です。好きなだけ、私を愛してくださいませ」
通りを満たしていたのは別種の甘い香りが立ちのぼる。普段は抑え込んでいるそれは一瞬で広くはない部屋の中を埋めつくした。
容姿で、声で、香りで、谷地の五感を陵辱される。逃げることは許されない、いや、逃げようという発想すら谷地の中には生まれない。
脳がぐずぐずに溶かされ、判断力が奪われる。ただ目の前の美女の姿を、声を、匂いを焼き付けるように見つめる。
「何度見てもえげつないなあ」
甘く満たされた世界の中にいても、八潮の心は微塵も揺らいでいない。ただ目の前の光景をどこまでも冷静に見つめていた。
荒い呼吸を漏らし、頬を紅潮させた谷地は己の欲に翻弄されるように美女を押し倒す。甘い、甘い彼女を今すぐに味わい尽くそうと躍起になり、布地の少ない衣装を無理矢理にはぎ取ろうとする。
「堪え性のない人ね。おしおきよ」
自分が襲われている状況を楽しむように口角を上げる美女。
瞬間。
「ぐあっ……あっ、が、あああぁああ」
絶叫をあげて、谷地が後ろに転がった。その足にはカッターナイフの刃が剥き出しの状態で突き刺さっていた。
「快楽が激痛に変わる瞬間は最高でしょう?」
乱れた服を正しながら美女は妖艶に微笑む。細指で突き刺さったままの刃をなぞり、一気に引き抜いた。
「あがっ」
「あらあら、喜んじゃって。まだまだあるわよ」
言いながら、数枚の刃を谷地の目の前でチラつかせる。淡い照明に照らされる薄い刃たち。
「なんっ、なんで」
「それが分からないほどの愚か者ではないと思いたいわね。心当たり、あるでしょう?」
「……っつ、ほ、報復か」
怯えるような目がすぐに理解を示して、震えた声が答えを紡ぐ。
ただ谷地を連れてくることをお願いされていただけの八潮もまた、美女の答えを待つ。
「貴方が売り飛ばした女の子たち、今どうなっているんでしょうねえ」
「わ、悪かった。金に困ってて、つい。謝る、謝るから。だから……」
「そんな懇願を貴方は無視したのでしょう。聞き入れてもらえると本気で思っているの?」
「それは……あ、あいつらだってこんな花街で暮らすよりいい暮らしが出来るかもしれねぇだろ。俺は……そう! 慈善活動してやっただけだ」
謝罪から一転、開き直った谷地の言葉を美女はただ微笑みとともに耳を傾けるだけ。
この場から生き延びることに必死の谷地の目が思い出したように八潮を見た。
「八潮……っ! 助けてくれ。この女、狂ってやがる」
もはや、自分が何を言っているのか理解していないのかもしれない。先程から言っていることが支離滅裂だ。
「早く! 先輩命令だ。俺を助けろ」
ただ黙って見つめる八潮に焦れたのか、谷地が怒鳴り声をあげる。
どうするべきか迷って視線を向けた先に、楽しげに微笑む美女がいた。
その目が何を求めているのか悟って、ブーツからナイフを引き抜く。と同時に谷地の腕を両断した。
肘から先が地面に落ち、綺麗に切断された断面から大量の血が零れ落ちる。
「俺が従うのは一人だけだ。あんたじゃない」
門衛、君江八潮の仮面を外して、冷たく言い放つ。
そこにいるのは一人の処刑人。暗殺者として生きてきた人間だ。
「片付けが大変になるじゃないの」
「紫苑の嬢ちゃんがやれって言ったやん!?」
「やれ、なんて言っていないわ。目で訴えただけ」
同じ、だと美女もとい紫苑――夜を半眼で見つめる。返ってくるのは妖艶な微笑みだけだ。
理不尽さにため息を吐く八潮の表情はいつもと変わらない軽薄さを取り戻しており、逆にそれが異質を現していた。
「八潮、お前……裏切ったのか」
「裏切るも何も、俺があんたの味方だったこと一度もないと思うんやけど? 俺は最初からずっとあの人の味方やで」
門衛、君江八潮は最初からずっとただ一人の味方だった。
谷地に刃を向けることは彼への背信行為には繋がらない。だから八潮は裏切ってなどいない。
単純な理屈で結論付ける八潮に谷地が向けるのは恐怖だ。可愛い後輩へ向けてきた信頼の眼差しとは違う、怯えを映し出した瞳。
そこへ抱く感慨を八潮は持ち合わせていない。
「殺せばええの?」
「ええ。あまり部屋を汚さないようにね」
当たり前のように問いかける八潮へ、紫苑もまた当たり前のように答えた。
「面倒な注文つけるなあ」
恐怖に支配されているようだから激しく抵抗することもないだろう。
なら、なるべく血が出ない箇所を狙って早々にケリをつける。長年暗殺者をやってきた故の冷静さで相手を仕留める道筋を脳内で導いていく。
「や、やめっ……なあっ、お前なら八潮を止められんだろ!? 頼む、何でもするから……っなあ!」
「何でもする、ねえ」
命だけは助かろうと必死に懇願する谷地に赤い唇が確かめるように言葉を紡ぐ。
「勘違いさせてしまったみたいで悪いわね。八潮が従う唯一は私ではないの。私もまたその人の指示で動いているだけ。――それに、ね」
ゆっくりと時間をかけるように谷地の傍まで歩み寄り、耳元へそっと息を吹きかける。
「貴方の何でもに価値はないわ」
甘い香りだけを漂わせた言葉に谷地は息を詰める。瞬間、走った銀閃が躊躇なく谷地の命を刈り取った。
倒れ伏した谷地の身体から溢れる赤い液体に紫苑は不満げに八潮を見る。
「これでも考えたんやで」
「冗談よ。片付けは悠にでもお願いすればいいわ」
頬を膨らませて文句を言うであろう姿を思い浮かべつつ、無言を返す。
文句は言っても、引き受けはするだろうし、塵一つ残さない働きぶりを見せてくれることは知っている。
紫苑は右耳につけた桜の花弁を模したイヤリングを指先で軽く叩く。ほの紅く灯った光は通信が繋がった証だ。
「こっちは終わったわ」
『ん、こっちももーすぐ終わるよ。悠が頑張ってくれてるから』
端的な報告に淡白な声が返ってくる。
少し前に話題に上っていた八潮が従う唯一の人物。感情がこもっていないような声の裏で、誰かの断末魔が聞こえる。
「じゃあ、その頑張り屋の悠に終わったらこっちに来るように言ってもらえるかしら」
『分かっ――』
『あー! もしかしてまた僕に後始末させようとしてますね!? 今回こそおことわ……むぐっ』
『うるさいから黙ってて。……分かった。大船に乗った気持ちで任せてって悠も言ってるよ』
「あら、それは心強いわ。さすが悠ね」
本人も不本意極まりない褒め言葉で、悠は片付けの任を押し付けられる。紫苑はともかく、彼にまで言われてしまったら断ることはないだろう。
『細かい話はまた後で』
「ええ」
断末魔の代わりに聞こえてきた不満げな声を綺麗に無視して二人は通信を切った。
いつものことなので八潮も特に追求はしない。
「急に来てもらった悪かったわね、八潮」
「ええよ。――それが俺の仕事だ」
都合のいいときに呼び出されて、都合のいいように使われる、都合のいい人間。
それが八潮が望むことだ。今回のことが彼の助けになるのなら、どんなに急なことだろうが構わない。
たとえ最後に使い捨てられても、彼にとって都合のいい人間でいることが八潮の誇りだ。
それは暗殺者カメレオンから処刑人の君江八潮になったときに決めたことだ。