最終話 カメレオンだった少年の選択
慌てて狼の死体がある方を見るが、そこにはちゃんと倒れ伏す死体がある。
これは一体どういうことなのだろう。
狼とよく似た顔と人物は彼とは違う軽薄な笑みを浮かべて、健の首筋にナイフを突き立てている。
「よぉ、一応初めましてだな。俺は、鼠だ。今さっきお前が殺した男と一緒に紅喰会のボスをやってた人間だよ」
「ね、ずみ……」
その呼び名は知っている。ラットが組織外に飼っている部下のことをそう呼んでいた。
ラットの下で働いている時に、八潮自身も何人か会ったことがある。けれど、目の前の男はそのどれとも違う。
訳が分からなくて、疲労が蓄積された脳が限界を訴えていた。
「ラットって知ってるだろ? あいつは俺の直属の部下だ。俺の命令でお前を育ててた」
「なに、を」
何を言っているのだろう。
ラットが彼の部下? 彼の命令で八潮を育ててた?
ならば、ならば……。
「天才少年のことは俺の耳にも入ってたからな。ちょうどいいと思ったんだ。――狼を、兄貴を殺す人材として」
混乱に絵を描く八潮を前に男は上機嫌で言葉を続ける。
「最近の兄貴は少しやり過ぎなとこがあったからな。あの一族には手を出すなって散々言ったのになぁ」
鼠には狼ほどの執着心が貴族街になかった。今の生活を続けていられればそれでよかったのである。
もっと言えば、組織が大きくなる必要だってなかった。
けれども、兄である狼は聞き入れてくれず、仕方ないとずっと考えていた策を実行に移したのだと。
「梅宮家の依頼も俺がしたんだ。サイの居場所を流したのも俺だぜ。正確にはラットに頼んだんだけどな」
誰も止める者がいない鼠はぺらぺらとすべてを語り尽くす。狼が死んだ今、聞かれて困ることもないのだろう。
「ラットの奴は本当に優秀だった。お前をここまで育ててくれたんだからなぁ」
「っ……」
聞きたくないと耳を塞いでしまいたかった。
ラットと過ごした日々は、八潮にとって幸福の象徴だった。
幼い頃に家族と引き離された八潮にはラットこそが家族だったのだ。
それが全部嘘だったのだと知らせる鼠の言葉の一つ一つが鋭い爪になって八潮の心を掻き毟る。
「八潮さん、俺は……っ」
「言わせるかよ」
何かを喋りかけた健は首筋に突き立てられたナイフで口を閉じる。
見れば、白い首筋から赤い雫が数滴流れ落ちた。
「お前はそうやって言葉で相手を翻弄して従えるんだろ? 他の奴らと戦いをずっと見てたから知ってるぜ。ひ弱な人間の知恵って奴だな」
無表情のまま言葉を返さない健に、鼠の機嫌はさらに上を向く。
「流石の処刑人もこの状況は予想外だろ。お前みたいなタイプは予想外の出来事には弱いもんなぁ」
ゲラゲラと楽しげに笑う鼠を前に健は変わらず無表情。何を考えているのか、少しも読めはしない。
結局のところ、八潮も、健も、鼠に利用されただけなのだ。復讐に燃えていた日々すらも、鼠のシナリオ通り――。
「貴方はこの後どーするつもりなんですか?」
首筋にナイフを突き立てられてもなお、無表情を変えない健が平坦な口調でそう問いかけた。
鼠の言葉が何一つ届いていないかのように。
それすらも負け犬の遠吠えとして受け取る鼠は上機嫌を崩さないまま答える。
「紅喰会を一から作り直す。あんたの協力者になってもいいぜ、処刑人さん。欲しかったんだろ、優秀な協力者が」
「くすっ、なるほど」
「何がおかしい?」
笑みを消さないまま、「すみません。少し滑稽で」と答えた健は、ナイフなど存在しないかのように鼠を見上げる。
健はナイフを突き立てられ、抵抗できない。優位に立っているのは明らかに鼠なのに、八潮の目には健が場を支配しているように見えた。
「俺は、協力者にするだけの有能さを貴方の中に見ない。どちらかと言えば、お兄さんの方を選びます」
「おまっ……くっ、なに、を」
明確な殺意を宿らせた鼠の身体が唐突に弛緩する。尻餅をつくように後ろへ転倒した鼠の前で、自由の身となった健はアンプルを見せびらかす。
「ツェツェバエさんから拝借したものです。護身のために懐に忍ばせておきました」
「気付いていたのか、俺のこと。いつから……?」
「可能性だけなら、ずっと前から。でも、気付いたのは貴方が姿を現した時ですよ。それくらい上手くやっていました、貴方は」
「悪魔め……」
恨めしげに、恐ろしげに自身を見つめる鼠の視線を笑みとともに受け流す健。その姿はまさしく悪魔だった。
「さぁて、これで八潮さんの復讐も終わりになりますが、どうします?」
悪魔もとい健は笑みを無表情に戻しつつ、問いかける。
呆然と、状況を見ているしかできなかった八潮に。
八潮の復讐。それは、大切なものを奪った者たちを殺すことだった。
けれど、それすらも鼠の掌の上で転がされていただけの八潮に、彼は何を聞いているのだろう。
無気力に考え、無気力に視線を寄越す八潮に健は少しだけ悩むような素振りを見せて、再び口を開いた。
「カメレオン。八潮さんはそう呼ばれていたんですよね」
「……ああ」
「すごくお似合いの呼称だと俺は思います。だって」
一度言葉を切った健は真っ直ぐに八潮を見つめて告げる。
「――八潮さんはずっと状況に合わせて、自分の在り方を変えてきた人ですから」
言葉が突き刺さる。心が震えることを許さないとでも言うように、その言葉はど真ん中を射抜いてみせた。
「だから、紅喰会に売られることを選んだ。だから、ラットさんの下についた。だから、紅喰会の幹部になった。だから、人を殺すことに躊躇いなんて感じなかった。だから、迷うことなく姉を殺した。だから、復讐を始めた。だから、俺の協力を受け入れた」
一つ一つが鋭い針になって、八潮の心を突き刺していく。
八潮自身が気付いていなかった心の奥底を淡々と暴いていく無機質な声。感情が抜け落ちたような声は耳を塞ぐ気力すらも簡単に奪う。
まるで人形のように、健の言葉に耳を傾けているしかなかった。
「八潮さんは今まで自分で選択しているようで、何一つ選択してこなかった。選んできた全てに、八潮さん自身の意思なんて宿っていなかったんですよ」
諭すように、残酷な真実を告げるように、紡がれていく声。
反応の一つも返さない八潮には気分を害したふうもなく、健は無表情を突き付ける。
「だから、最後は八潮さんが選んでください。これからどうするか、自分で決めて作られた復讐劇を終わらせてください。――俺は一つだって選択肢を貴方に与えるつもりはない」
「俺は……」
状況は八潮に何の情報も与えてはくれない。どんな選択をすれば最善なのか、何一つ教えてくれはしない。
無数にある選択肢。そのどれを選んでも構わないと言われて、八潮は苦悩する自分に初めて気がついた。
頭の中を掻き乱し、胸を締め付け、焦燥感を湧き上がらせる苦痛は、今まで感じたどんなものよりも大きい。
そうか、と。
健が言っていたことはすべて正しいのだとようやく実感を持って、理解させられた。
理解したところで、苦悩が消え去るわけではない。何も読み取れない状況の中で、答えを出さないことを健が許してくれないことだけは痛いほどに分かっていたから。
「外じゃなくて、内に目を向けるといーと思いますよ」
頭を抱える八潮に降ってきた声は優しかった。
外じゃなくて、内。
意味が分からなくて、顔を上げた八潮に無表情の健は「深呼吸」と短く告げた。
促されるままに息を大きく吸い込み、肺が空になるほど吐き出した。そうして見えてくるものがあった。
それは、家族と過ごした幸福な日々であり、ラットのもとで強くなろうと足掻いた日々であり、無機質に人を殺し続けた日々であり、復讐者として生きてきた日々であった。
たとえ、誰かの掌の上で転がされていたとしても、そこに八潮自身の意思がなかったとしても、過ごしてきた日々は無駄ではなかった、と思う。
培ってきたものはちゃんと八潮の力になって残っている。残された力をどう使いたいか考えて、考えて――。
懐に仕舞い込んだ透明な石を握り込んで突き出す。
「俺は、お前について行く。――岡山健」
真っ直ぐに無機質な目を見つめて言い放った。
「俺に? 随分と思い切った結論ですね。理由をお聞きしても?」
わずかに目を見開いた健は、相変わらず感情の読み取れない顔でそんなことを尋ねてきた
「俺はお前を好ましいと思ってる、それだけだ。この選択さえもお前に誘導されたものだとしても、俺は俺自身が選んだこととして貫く」
無意識に空気を読んで選んできた選択肢を、意識的に選択する。これもある意味、八潮自身が選んだ答えだと言えるだろう。
少なくとも、八潮はそう思っている。
「なるほど、俺としても八潮さんが協力者になってくれるならありがたいですし、いーでしょう。受け入れます」
健は言いながら、突き出されたままの八潮の拳を小さな掌で包み込んだ。
「これは八潮さんが持っていてください……あ、でも少しの間、貸してくれます? いろいろ機能を付け加えたいので」
「あ、ああ。それは構わないが……」
急に変わった空気に戸惑いながら答える八潮に健は仄かな微笑を浮かべる。
「八潮さんは両親の愛が、お姉さんの愛が、ラットさんの愛が偽物だったって思いますか?」
「思わない。誰に何を言われたとしても、本物だったと俺はそう信じてる。これも俺自身の意思だ」
「そーですか」
笑みを浮かべる健が何を考えて問いかけたのかは、やっぱり分からなかった。それでも、浮かべられた笑みから優しさのようなものが感じ取れた。
どこか素っ気なくて、控えめで、でも意識すれば、確かに感じられる優しさ。
八潮はずっと健からその優しさを感じていたような気がする。だから、彼を選んだ。
「八潮さんって勉強とか得意な方ですか?」
「まあまあだな」
「んー。じゃ、大丈夫と信じて、これから門衛になるための勉強をしてもらいます。そんなに難しくないと思いますけど、頑張ってくださいね」
優しい笑みに悪魔のような雰囲気が混ざるのを感じて嫌な予感はしていたが、門衛になるための試験は死ぬほど難しかった。
実技はともかく、筆記が特に。
健が懇切丁寧に教えてくれたから何とかなりはしたものの、勉強漬けの日々は地獄のようであった。
でも、自分がした選択に後悔はない。むしろ、カメレオンではなく、君江八潮として生きていくという実感がして、とても心地いい。