7話 仕組まれていた選択
歪に変形した鉄の扉が奇怪な音を立てながら開かれる。止まることなく、何とか目的地に達したことに安堵しつつ、八潮は紅喰会アジトの九階に足を踏み入れた。
人の気配がほとんどしないフロア。
それもそのはずで、この階に住まう人間は今や誰一人としていない。
九階を取り仕切っていたのはラットだ。戦闘があまり得意ではない彼がボスに一番近いフロアを与えられていた理由は分からないが、九階は八潮にとっても馴染み深い場所と言えるだろう。
何せ、ラットの部下であった八潮もまた、この階で暮らしていたのだから。
このフロアの住人はラットと八潮の二人だけ。そして、そのどちらも今はもういない。
哀愁に近い感慨を覚えながら、無表情の八潮は真っ直ぐに十階へ通じる階段へと歩を進める。
一度、ラットに行くことを拒まれた階段。もう誰も止めることのない階段を八潮は一段一段慎重に登っていく。
侵入も、狙いがボスであることも、気付かれているはずなのに誰にも遭遇しないのが不思議だった。
もしかしたら、健が何かをしたのかもしれない。そんなことを考えながら進む。
「ようやく来たか」
分厚い扉を開けた八潮に一瞥をくれることなく、その人物はそう言った。
座っていても分かるほどに長身の男だ。引き締まった身体は真っ黒なスーツで覆われている。
シカほど体格はよくないものの、そのオーラが身体を一回りも二回りも大きく見せる。
「お前は確か、ラットの部下だったな」
「組織は抜けた。もう部下じゃない」
ぶっきらぼうに返す八潮を射抜く眼光は、反射的に身を固くさせられるほどに鋭いものだった。
空気に呑まれそうになる心を叱咤して、八潮もまた男を睨み返す。
ボス。紅喰会の頂点に立つ、狼と呼ばれる男を。
「さて、始めるか」
強者ゆえの気安さか、高級椅子からゆっくりを立ち上がった。
やはり大きい。
「どうした? かかって来ないのか」
「……っ」
そのオーラと威厳に圧倒されていた八潮は唇を噛み、促されるように前へ出た。
ブーツから抜き取ったナイフの一撃を狼は軽々と受けてみせた。
握られているのは反りの深い日本刀。蛍光灯の光を受けて輝く刀身はまるで三日月のようだ。
リーチの違う武器で果敢に挑む八潮を狼はすべて軽々といなしていく。
「……はっ」
これで何回目だろうか。
吹き飛ばされた八潮は壁に背中を打ち付ける。強かな衝撃に呼吸が一瞬止まり、滑るように地面に着地した。
「……んで、なんで、貴族街に……桜宮一族に手を出したんだ……? ラットさんだって、忠告していたはずなのに……!?」
届かない攻撃を何度も繰り返した八潮は荒い呼吸で問いかける。
すべての始まりとも言える狼の決断。
梅宮家を壊滅させたことで、幹部の一人は殺され、裏切りものへの報復として八潮は守りたかった者たちを殺された。
あの決断さえなければ、あの依頼を断ることを選んでいれば、こんなことにはなっていなかった。
紅喰会だって幹部の大半を殺される大ダメージを負わずに済んだ。
「お前は紅喰会の名前の由来を知っているか?」
悲痛な叫びのような問いかけに狼に驚くほどに静かな声音で答えた。
困惑を顔に出す八潮を前に続く言葉をゆっくりと紡いでいく。
「紅を喰らう。それが俺の最終的な目標だ。紅は桜宮家の、その当主の象徴だ。俺はあいつに報復してやりたいのさ」
「なんで、そこまで……」
「俺らはお前と同じ、貴族街にいた人間だ」
そうして狼は語った。
平穏に暮らしていた時のことを。そして、桜宮家当主に価値を見出され、親から引き離されたことを。
その先にあったのは地獄だったという。
人を道具としか見ていないような人間による非道な実験の繰り返し。一緒にいた者たちはどんどん死んでいき、最後の二人になった時、実験は失敗だと落胆気味に告げられた。
殺処分すると言った研究者を殺し、命からがら逃げ延びた。
「あれらには感謝している。失敗だと捨てられた実験の中で、俺らは人を超える力を手に入れたんだからな」
鋭い眼光に怒りを灯す狼。その途方もない復讐心に呑まれるように呆然と八潮は彼を見つめる。
「俺は復讐者だ。だからこそ、お前の復讐心も肯定してやる。好きなだけかかってくるといい」
強者としての姿勢を崩さないままに告げる狼に、ナイフを握る手が震える。
同情したわけではない。どんな理由であっても、八潮の大切な人たちを殺した罪は消えない。
許すことなんて決してできない。そのはずなのに心の中で燻ぶっていた炎が少しずつ小さくなっていく。
殺すための覚悟が強大な復讐心に飲み込まれ、消えていくような――。
「何となく想像はしてたけど、やっぱりそのパターンか」
呆れた声が状況に呑まれる八潮を叱責するように転がり込んだ。
まだ声変わりを迎えていない子供の声が聞こえた先、十に届くか届かないかくらいの少年がそこに立っていた。
「健? 他の幹部は……?」
「ちゃんと殺してきました」
おつかいをしてきただけのような口調で告げる健。服の乱れはあるものの、血の一滴すら被っていない。
何より、幹部二人を相手したにしては早すぎる。
「短期決戦は俺の得意分野なので」
無表情に浮かんだ笑みは底知れない何かを感じさせた。
「ふっ、桜宮の犬か」
「似たようなものですけど、その言い方は好ましくありませんね。俺はあれに心から尽くしてるわけじゃないので」
他者を委縮させる威厳を前にしても、健は態度を変えない。態度を変えるほどのものを健は狼から感じ取っていないのだ。
圧倒的な威厳によって作り上げられていた空気が、彼の登場によって瓦解していくのを感じた。
「お話は聞かせてもらいました。大変だったんだろーなーとは思いましたし、雀の涙ほどの同情ついでに良いことを教えてあげましょう」
無表情に笑顔が宿る。口元だけのものとは違う顔全体に行き渡った笑み。
短くも長い付き合いの八潮にはそれが貼り付けただけの偽物だと簡単に分かった。
「貴方は特別じゃない。貴方が語った物語はありふれた、どこにでもあるストーリーです。貴族街に限って言えばね」
挑発めいた言葉は聞く者の心を激しく揺さぶる。
無機質な瞳は相手の心根を的確に見抜いて、効果的な言葉を選んで紡いでいく。
「その程度の挑発で俺が乗るとでも?」
「さてね」
誤魔化すような健は横目で八潮を見た。刹那だけの視線を受けた八潮の中に幾ばくか遅れて理解がやってくる。
健の言葉を聞いているのは狼だけではない。
健が届けていた言葉は狼に対してではない。
いつの間にか手の震えはなくなっていた。燻ぶる炎が再び火を灯し、八潮の中に躊躇いが音もなく消えていくのを感じる。
「俺は自分の目的を果たすだけです」
そうだ、と。
肯定するように八潮は自身に術をかける。陰業の術、そしてラットから教えられたように気配を絶つ。
狼の意識は未だに健を向いている。強大なものを感じさせる健の得体の知れなさから目を逸らせないのは、八潮もよく知るところだ。
けれども、健は八潮の協力者。信頼して、思うままに行動を起こす。
八潮自身の目的を果たすために。
「ふむ、なるほどな」
「っ」
間近まで迫っていた八潮は鋭い眼光と目が合い、思わず息を呑む。
八潮の潜伏能力は完璧だ。それでもなお、見抜けるくらいの実力は紅喰会のボスとして当然持ち得ていた。
一旦、引くことを選んだ八潮と、三日月型の日本刀を振りかぶる狼の間に健が滑り込む。
生成したばかりの細身の剣で、鋭い剣撃を受け止める。重い一撃を受け止める細腕は、その衝撃を微塵も感じさせない。
「お前――」
鼻を鳴らした狼は何かに気付いたように目を細める。
「ふっ、その状態でよく戦えるものだな」
「何のことだか分かりませんね」
とぼける健はもう片方の手で生成したナイフを狼へと投げつける。すれすれを狙うナイフから距離を取った狼は再び鼻を鳴らした。
「俺は人より鼻がよくてな。匂いで他人の健康状態を知ることができる。今、お前がどんな状態なのかも……」
「匂いなんていくらでも偽れる。油断を誘おうとしているだけかもしれませんよ、っと」
一瞬で距離を詰め、細身の剣を横に薙ぐ健。鋭い金属音が部屋の中に響き渡る。
近寄ることで濃密になる香りはもはや嗅ごうと思わなくても鼻を擽り、狼はすっと目を細める。
「嘘と真が嗅ぎ分けられないとでも?」
恐ろしすぎる眼光の問いかけを健はものともしない。平然とした顔で首を傾げ、次々に攻撃を繰り返す。
高速で繰り出されるそれは、狼が嗅ぎ取ったものが嘘だと告げているようにも思える。
一人、戦場から離れた位置に立つ八潮は二人の会話の内容が上手く聞き取れず、眉を寄せる。
特別戦いに関係することでないのなら問題ない、と二本のナイフを構えて二人だけの攻防に割り込むべく地面を蹴った。
得意の潜伏技術で。
先程は簡単に見抜いた狼であるものの、健の相手をしながらではそれも難しいらしい。
健の攻撃は変幻自在に、次々と襲い掛かる。ブラフやフェイントが上手い具合に散りばめられ、意識を逸らすことを許しはしない。
それは最強の協力者によって作り出された最高のチャンスだった。
「――ふっ」
迫り来る八潮に遅れて気付き、回避行動を取る狼。しかし、それは健が許さない。
八潮の攻撃を防げば健が、健の攻撃を防げば八潮が、必ずどちらかが狼の命を刈り取れる状況。
血飛沫が舞った。
窮地に陥っても諦めることを知らない狼は同時に防ぐという無謀な手に出たのだ。その結果、八潮によって左腕が斬り飛ばされる。
肘から大量に血を流し、よろめくように戦線離脱を図ろうとする狼の傍で、何かが落ちる音がした。
日本刀である。三日月型の日本刀が半ばからぽっきりと折れ、その刀身が地面に落ちたのである。
「所詮は模造品ってところですかね」
折れた刃をそのまま蹴飛ばして一言。
武器を失い、片腕を失い、狼にもはや勝ち目などなかった。
それでも消えない鋭い眼光に打ち震えるように八潮は地面を蹴った。
「――」
体当たりの形で突っ込んだ八潮はそのまま狼に馬乗りでナイフを振りかぶる。決して外さない間合い。
それは狼にとっても同じことで、彼は残った力すべてを込めるように、折れた刀を八潮の肩口に突き刺した。
「くっ……そんなんで止まるかよっ」
激痛の中、ナイフを握り直し、狼の心臓へ深々と突き刺した。抵抗する右腕が緩むまで力を抜くことはせず、最後まで狼の死を見送った。
終わった、と。長かったような、短かったような復讐の終わりに息をついて立ち上がった八潮はふらふらと数歩歩き、へたり込んだ。
緊張感がずっと続いていたせいか、思っていたよりも疲れているらしい。
疲労感を隠そうともしない八潮は先程から無言の健の方へ視線を向けようとして、目を見開いた。
「いやぁ、よくやったな。流石、俺が見込んだだけはある」
「なん、なんで……」
目を向けた先には男が立っていた。先程倒したばかりのはずの男が。