5話 誓いのための選択
残すところは後五人。ボスとその側近、八潮が世話になったあの人と、殺し損ねた男が残っている。
それぞれに複雑な感慨を抱きながら、八潮は夜の世界に一人佇んでいる。
健は建物の影に身を潜めている。ツェツェバエの時とは逆の立ち位置だ。
今回の相手は殺し損ね、殺されかけたあの男で、自分がやりたいと八潮が自ら申し出たのだ。
断られることも覚悟した申し出を、健は逡巡すらなく受け入れてくれた。
出会ってからの数日間、彼と一緒に行動することは多いが、未だに何を考えているか分からない。
それでも構わないと思って、手を取ったのは他でもない八潮自身だが。
「誰かと思えば、お前か。……カメレオン」
宵闇をぼんやりと見つめながら、思索に耽っていた八潮を男の声が引き戻す。
立っているのは小太りの男。身長は低く、暗殺組織の幹部とは到底思えない身なりをしている。
オポッサムと呼ばれている男だ。オポッサムは、死んだふりが得意な動物なのだと、他でもない彼自身が言っていた。
死んだふりで油断させて相手を殺すというのが彼の常套手段だ。他でもない八潮自身が身を持って知っている。
「また殺されに来るなんて殊勝なこって」
「お前の戦い方は分かってる。もう騙されないし、油断もしない」
ブーツからナイフを引き抜き、両手に構える。一本で戦うことが多い八潮の本気の構えだ。
「はぁ、下から数えた方が早い俺に本気とか正気を疑うぜ? 体力は他の奴と戦うときに残しとけよ」
疲れたように息を吐くオポッサムもまた懐からナイフを取り出した。こちらは一本、片手に構える。
先に踏み込んだのは八潮だった。右手を振りかぶれば、盾のように構えられたナイフとぶつかる。互いの力は拮抗していて、いくら押してもびくともしない。
一度下がった方がいい、という考えは左手のナイフが打ち砕いた。
八潮は二刀流だ。片方が封じられたとて、もう片方がある。
「くそっ」
代わりに言わんばかりにオポッサムが後退する。逃がすつもりのない八潮は半瞬遅れて追いすがる。
届かない半歩。悔しさを映し出して目を細めた八潮のすぐ傍を銀色のものが通り過ぎた。
鮮血が舞う。
「くっそ、痛ぇ。お前、一人じゃなかったのかよ」
飛んできたのは小さな刃。掌に乗るほどのそれはオポッサムの腕を引っ掻き、想像以上に深い傷を残した。
叱咤されているようだった。後ろから八潮の戦いを見守る少年からメッセージだと。
考えていることが読みづらい彼の考えを読み取った八潮は、気を引き締めてオポッサムと向かい合う。
「弱いお前に構っていられる時間はもうない」
静かに告げる八潮の前で、彼が放った小さな刃が霧散する。それは目もくれず、二本のナイフを構え直した。
空気が変わった。
鋭く、けれども静かな殺意がオポッサムを貫く。
いくつもの修羅場を渡り歩いたはずの男はそれだけで身を固くした。大きく見開かれた目が恐怖を映し出して震えている。
「ま、待てよ。な、話し合えば」
騙し討ちはオポッサムの常套手段。その言葉すらきっと嘘だと、八潮は一瞬でオポッサムに詰め寄った。
逃げようとして転倒したオポッサムの腕にナイフを突き刺す。地面に縫い止められた小太りの男は歪な笑顔で何かを語り掛けていた。
全てをシャットアウトした八潮はただ聞き流し、渾身の力で心臓にナイフを突き立てた。
「ごほっ、く、そ……」
大量の血を吐き出し、突き刺されたナイフを抜こうと手を伸ばすオポッサムを無視して、地面に突き刺さっていたナイフで首筋を切った。
完全なる死を作り上げた八潮は肌を撫でる空気の変化に気付き、顔を上げた。
同時に聞こえてきたのは渇いた拍手の音。
「さっすが八潮やな。見事な手並みや」
そんな言葉とともに姿を現したのは八潮がよく知る人物だった。
八潮の人生の大半、ずっと傍にいた人物。強くなるための方法を八潮に教えてくれた人物だ。
今の八潮は彼が作ったと言っても過言ではないかもしれない。
「ラットさん」
鋭いだけだった気配が仄かに和らぎ、彼の呼び名を口にする。
「久しぶりやな。残りは四人ってところか? 俺を殺したら三人になるなぁ」
変わらない笑顔と口調でラットはそんなことを言ってのける。そこには、仲間を殺されたことに対する怒りも、組織を裏切った八潮への憤りも、何一つなかった。
ただ昔と変わらない親しみだけが込められていた。八潮は困惑することしかできない。
「いやぁ、ほんまに強なったな。これも健の指導のお陰って奴なんかね」
「ぇ……?」
のんびりとした口調の中に聞き捨てならない単語があった。
健、と。ラットは確かに口にした。
それは処刑人を名乗る少年の名前であり、ラットが知っている事実に驚きを隠せない。
いや、ラットは組織の情報屋だ。処刑人についても何か知っているようだったし、健について知っていてもおかしくはないのだ。
「俺は何もしてないよ」
動揺を冷静さで追いやる八潮の傍らに立ったのは、身を潜めていたはずの健だ。
ラットと対峙する健の姿は友人と話すような気安さがあった。
「またまたぁ、そんなんを言うて、いろいろ裏から手ぇ回しとったんやろ? 自分の常套手段やん」
「人聞きが悪いこと言わないでよ。俺はただ下準備を入念にしてるだけだよ。小心者だからさ」
まるで互いのことをよく知っている言わんばかりの二人の会話に、八潮は困惑を隠せないままだ。
二人は知り合い。紅喰会の情報屋と処刑人が知り合い。
この方程式から導き出される答えが八潮の心を激しく掻き乱した。
「ラット、さんは……ラットさんが処刑人に情報を流してたのか……?」
君江家が潰されたのは本当にただ冤罪だったのか。
ラットのことだ。こうなることくらい想定していたはずだ。想定した上で、利用した。
つまり八潮の本当の敵は――。
「待て待て待て。俺が敵やって断定するにはまだ早いやろ。まぁ、敵ではあるんやけど」
割り込むラットの焦り顔を見て、八潮は一先ずナイフから手を離した。いつでも攻撃を仕掛けられるよう、警戒は解かないままだったが。
「俺は確かに健と情報交換しとった。せやけど、それはお互いが不利にならん程度のもんや。その一線はずっと守り続けとる」
ラットの言葉が本当なのか、どうか、八潮には分からなかった。けれど、信じたいとは思った。
だって、ラットは八潮にとって家族同然の存在なのだ。ともすれば、家族よりも一緒にいた時間は長い。
「八潮、自分かて知ってるやろ。俺は手ぇ出すなとボスに忠告した。目をつけられるって、危険やって」
確かに知っている。君江家が潰される前、最初に幹部が殺された時よりももっと前。
梅宮家の壊滅を依頼された時だ。ラットは手を出さない方がいいと訴えかけ、最終的に押し切られる形で諦めた。
――お互い不利になる情報は流さない。そういう約束や。
そういえばあの時、ラットは同じことを言っていた。裏切る前の、ラットを慕っていた頃の八潮に彼が嘘をつく理由はない。
信じ、られる。今のラットの言葉は信じられるものだ。
「俺はあの時、ボスと一緒に潰える未来を選んだ。それ裏切るような真似はせえへん」
悲しい覚悟を語っていたことも、八潮は覚えている。
いよいよ警戒を解いた八潮に、笑みを浮かべたラットはすぐに眉を寄せた。それは悲しそうな色が込められている。
「君江家の一件は俺も悪かったと思っとる。もう少し早う気付けとったら対処できたんやけど……堪忍な」
「そんな、ことは……」
「八潮は組織を裏切るのは仕方のない話や。……ま、健と一緒に行動してるのは驚いたけど」
ラットから一瞥を貰った健は無表情で、無反応だ。静かすぎるほどに静かに状況を見守る健は、完全に八潮の意識から外れている。
「自分の意志で協力してるなら俺から言うことはあらへんけど。ほら、健って口が立つやろ? 上手ぁく八潮を騙して利用してるかもって思たら、居ても立っても居られなくてなぁ」
立場を悪くするような言葉にすら健は無反応だ。
本当に静観すると決めているようだと、ラットは続く言葉を紡ぐために口を開く。少しの不気味さを感じながら。
「俺は八潮に愛着がある。裏切った今でもそれは変わらへん。だからこその忠告や」
敢えて健から視線を外したラットは八潮だけに集中する。
「健は怖い人間や。目的のためならなんだって利用する。優しいふりをして、甘い言葉をばらまいて信頼を構築する。そうやって、貴族街を裏から仕切ってきた人間なんや」
「……」
「有用なもんになら、いくらでも優しくする。興味のないもんにはとことんドライに接する。だからこそ、君江家のことだって見逃した。そうやろ?」
畳みかけるような言葉の最後に、健本人へ問いかける。
八潮の根幹たる事件について触れられ、健へと向ける視線は疑いが込められている。
否定してほしい。そんな感情を見出しながら、健は逡巡すらせずに口を開く。
「そーですよ。可能性はずっと前から気付いていたし、事件当日だって近くにいた。でも、何もしませんでした」
「なんで……なんで、お前くらい強い奴が動いてたら、父さんや母さんが死ぬこともなかった……っ姉さんだって」
あんな辱めを受けることはなかったはずだ。
八潮が大好きだったものに手をかけることも、守りたかったものを破壊することもなかった。
守りたくて強くなった八潮の手に届かないところにあった守りたいものの、手の届く範囲にいたというのなら、手を出してほしかった。
「君江家は貴族街にとって重要ではなかったからですよ」
「っの」
なんてことのない口調で告げる健にどうしようもないくらいの怒りが込み上げてくる。
一瞬で詰め寄り、掴みかかった。無抵抗な健は驚くほど軽くて、簡単に壁に押し付けられた。
首元をきつく締め上げられながらも、その無表情は変わらない。目は無機質に八潮を見つめていた。
「……っおち、つきなよ」
こんな状況でも冷静に、そんなことを言える健が無性に腹ただしかった。
その無感動な目で、殺されていく両親や侵される姉の姿を見ていたのかと思うと、頭の中が怒りで真っ赤に染まった。
「まあまあ、落ち着けって。な?」
見慣れたラットの笑顔を見れば、昂った感情が少しずつ落ち着いていく。ほんの少しだけ冷静さを取り戻した八潮はそっと健から手を離した。
「ラットさんの言葉は事実です。でも、敢えて訂正するなら一つだけ――」
何度か咳き込んだ後、健は真っ直ぐに八潮を見つめて告げる。
「俺は貴族街を仕切ってきたわけじゃありませんよ。俺は、俺自身の目的のためにあの人の指示に従ってるだけです」
「目的?」
それについて答える気はないのか、健は仄かに笑みを返しただけだ。
「君江家は貴族街に、あの人にとって価値がない。わざわざ目を盗んでまで助けるほどの価値を、俺は見出せなかった」
怒るべきところなのだろうと思う。先程のように掴みかかって、憎しみをぶつけて――。
けれど、八潮の怒りは萎んでいく。力を失って静かになっていく。
事実だけを伝えるような淡々とした口調が、八潮の心を撫でて落ち着けているように思えた。
「俺は自分の目的と君江家を天秤にかけて、君江家を切り捨てた。これは言い訳のしようのない事実です。八潮さんには怒る権利がある」
無機質な目は殺されることを恐れてはいなかった。
八潮には殺せない。そう、高を括っているのとも違う別の輝きを持っている。
「でも、その前にやるべきことを果たしましょう。八潮さんが紅喰会への復讐を果たすまで力を貸すという言葉に偽りはありません。だから」
表情にも、声にも、感情らしい感情は読み取れない。
それなのに聞いている側の心はこんなにも揺れ動かされて、続く言葉に何て答えるべきなのか、明確に想像できる。
「――だから、一緒に行動する中で八潮さん自身が見極めてくれたらいい。最後に答えを教えてください。どんな答えでも、俺は受け入れます」
「……分かった」
言わされている言葉であっても、それでいいと思わせるほどの力が健の言葉にはあった。
感情なんて込められていないような気がするのに、信じてもいいと思わせられる。
「はぁ……ほんま、健には敵わんな」
話が上手くまとまり、息を吐いたのはラットだ。やれやれ、と言った感じで首を振り、観念を示す。
「どうして……」
「簡単な話や。二人と戦うて俺が勝てるはずがあらへん。せやから、信頼関係やら何やらを崩して、少しでも戦いやすくするしかないやろ?」
ということは、ラットが言っていたことは全て嘘だったのだろうか。
心配するような表情も、八潮の精神を揺さぶるための演技だったということだろうか。
ラットが口が上手いことは八潮だってよく知っている。他人を翻弄することが彼の強みであったことも。
知っていたのに見抜けなかったのは、八潮の中にラットを信じたいという甘さがあったからだ。そこを利用されたのだ。
「やけど、俺の言葉に嘘はあらへん。俺はほんまのほんまに八潮を心配しとった。こんなん、利用してから言うても遅いかもしれへんけどな」
「ラットさんの思いは俺も保証するよ? この人は本当に八潮さんを思ってる。だから、お守りあげたんでしょ?」
「お守り?」
こくりと頷いた健は八潮のポケットを指し示す。
そこに入っているのはかつて、ラットから貰ったお守りだ。
ビー玉のようなサイズの透明な玉。あの日に貰って以来、八潮はずっとこの玉をずっと持ち歩いていた。
特に理由があったわけではない。なんとなく、本当になんとなくだ。
「それ、俺が作った秘蔵品なんです。試作ですけど」
八潮の掌に乗せられた玉を見て、健は妖しげに笑んだ。
「持ち主に命の危険が迫ると俺に知らせてくれるようになっているんです」
「なんで……ラットさんが、それを……?」
「友好の証としてあげたんですよ。八潮さんの手に渡っていたのは少し驚きましたが」
だから、オポッサムに深手を負わされた時、健が助けに来てくれたのか。
思えば、意識を手放す間際、地面に落ちたこの玉が紅く光っていたような気がする。
ラットはこうなることを予測して、この玉を八潮に渡したのかもしれない。いざという時、健が八潮を助けてくれるように。
だとしたら、先程までの物言いも実は――。
「ラットさん、俺は――」
「その先は言うたらあかん。俺と自分は敵同士、自分が組織を離反した時点でこうやって事を構えるのは決まっとった」
迷いを映し出した八潮を一蹴するようにラットは笑う。
「なんでそこまで組織に肩入れするんですか? ラットさんなら他のとこでも……」
「俺はボスに忠誠を誓うてる。俺は、あの人に助けられた。それだけや」
その言葉を最後に二人の会話が終わる。ラットが懐から出した銀の刃が八潮を殺さんばかりに襲い掛かる。
素人が見れば速すぎる動きも、今も八潮には止まっているように見えた。
急所に躊躇いなく向けられた刃を軽く避け、ほとんど反射的に拾ったナイフを突き刺す。耳元で聞こえたラットの吐息は笑っているようだった。
「強く、なったなぁ」
脳裏にラットと初めて会った時のことが思い出されて、涙が零れる。
これしか道はなかったのだろうか。
そんなことを考えながら、八潮は崩れ落ちるラットの身体を抱きとめた。
油断しきった姿で、ラットが力を絞り出せば殺すこともできただろう。けれど、彼はそんなことはしなかった。
ただ笑って――笑って、命を終えた。
誰よりも尊敬していた。憧れだった存在の命が終わる瞬間を、八潮は一瞬たりとも見逃さないように見つめ続けた。
貰ったものは無駄にしないと心に誓いながら。