4話 果たすための選択
コンクリートの地面とは思えない柔らかい感触が八潮の身体を包み込んでいた。
「…っ」
身じろぎをして走る痛みにひとしきり悶え、状況を確認しようと目を開けた。
もう何年も使われていない屋敷の一室のようだ。その割に掃除が行き届いており、埃一つ落ちていない。
ここはどこなのだろう。
古びた調度品はどれもそれなりの値打ちのものだ。おそらく、八潮はまだ貴族街の中にいる。
いる場所の推測ができたら、次は八潮をここまで運んできた人物について気になってくる。
意識が途切れる間際、少年の声が聞こえた気がした。まさか、少年が一人でここまで運んできたとは思えないので、誰か助けを呼んでくれたのだろうか。
スラム街に助けてくれるような人間がいるとは思えないが。
「あ、起きたんですね」
思考の渦に落ちた八潮を引き戻したのは聞き覚えのある少年の声だった。
間違いない。意識を手放す直前に聞いた声だ。
「傷の具合、どうですか?」
刺々しい空気を纏う八潮相手に表情を変えることなく尋ねる少年。
年は十歳くらいだろうか。幼い顔立ちに浮かんでいるのは仄かな微笑で、どこか大人びた印象を与える。
刺々しい空気に恐怖しないのは、幼くて気付いていないのではなく、恐怖する必要性がないからなのだと理解させられるくらいに彼の空気は静穏そのものだった。
「お前が手当てしたのか?」
「はい。と言っても、応急処置ですけど」
もはや、八潮の中に驚くという選択肢はなかった。
少し前までの、彼が助けを呼んだという考えが馬鹿らしく思えるくらいの心情である。
「お腹、空いてませんか?」
「え……?」
「ちょっと待っててください」
そう言って、部屋を出て行った少年はすぐにお盆を持って戻ってきた。
お盆の上には粥のようなものが入ったお椀が乗っており、身体を起こした八潮に差し出された。湯気が立っており、仄かな温かさが手に伝わってくる。
「こんなもので、すみません。ガスが止められてるから凝ったものは作れなくて」
「いや……」
完全に彼のペースに持ち込まれている気がする。
流されるままに粥を口に入れた。薄めの味付けが口の中に広がり、温かさが心を落ち着ける。
「君江八潮さん、ですよね」
「……っ」
急に名前を呼ばれ、思わず息をつめる。
「お前は……何なんだ……? どうして、俺の名前を知っている?」
「あ、まだ名乗ってませんでしたね。俺は岡山健と言います。処刑人と言った方が分かりやすいでしょーか」
「処刑人……」
貴族街に伝わる都市伝説。
まだ紅喰会にいた頃、ラットと話したことが蘇った。
この少年が組織への見せしめのために幹部の一人を殺したということだろうか。十歳前後の少年が。
そんな馬鹿な、と否定できない何かを彼は纏っている。見た目は十歳かそこらでも、中身は何百年と生きた老人だと言われても頷いてしまいそうだ。
「紅喰会の壊滅。より正確に言うと、紅喰会幹部の処刑が今の俺の仕事です」
「何故、それを俺に言う?」
「貴方の目的と同じだからですよ。簡単なお話でしょう?」
取り繕っても無駄だと目が物語っている。嘘偽りはきっと、その無機質な瞳に全部剥がされてしまうことだろう。
「俺より先に幹部を殺している人がいたので調べさせてもらいました」
「協力しようとでも言うのか?」
「悪い話じゃないはずですけど。単純計算でも殺す相手は二分の一になるわけですし」
「今まで通りだってそれは変わらないはずだ。俺はお前の邪魔をしないし、お前も俺の邪魔をしない。それで十分だろ」
冷たく返した八潮に健はきょとんとした顔で首を傾げた。ここに来て初めて見る年相応の表情だ。
「どーしてそこまで拒むんです?」
無機質だと思っていた瞳は子供らしい純真さを持って八潮を見つめている。
それでも変わらない嘘を見破る目だ。
「どうして……」
理由は八潮自身にもよく分からない。
八潮の目的は復讐すること。それさえ叶えられるなら、後は何もいらない。
たとえ、目的を果たした先で彼に殺されたとしても構わない。
思考を巡らす八潮は、彼に協力したところで自分が困ることは一つもないのだと最終的に思い至る。
この少年はおそらくかなり強い。情報収集能力も高いようで、協力者としてこれ以上の人材はいないと思える。
「……分かった。協力しよう。俺の復讐が果たされるまで裏切らないと誓えるなら」
沈黙の末にころりと変わった意見に少年、健は笑顔を見せる。
幼い顔に宿る大人びた、歳不相応の笑み。それなのにやけに似合う笑みだ。
「誓いますよ。これからよろしくお願いしますね、君江さん」
「……」
名を呼ばれた瞬間、何ともいない感情が沸き起こってきた。
脳裏に両親や姉の死体と炎に呑まれた屋敷が映し出され、掌に姉を刺した感触が蘇る。
君江家はあの日、全てが壊された。引き金を引いたのは紅喰会でも、最終的に全てを灰に変えたのは八潮だ。
――壊したのは八潮だ。
守れなかった八潮に、全てを壊した八潮に「君江」の名を名乗る資格なんてありはしないのだ。
いや、もっと前。八潮が君江家から出た幼き日からもう八潮に名乗る資格になんてなくなっていたのかもしれない。
「名前で呼べ」
ぶっきらぼうな声に健は「分かりました」とだけ言葉を返した。
深く踏み込んでこないその姿勢を、なんとなく居心地がいいと思った。
「それでは八潮さん。作戦会議といきましょーか」
作戦会議はまずお互いの情報を交換することから始まった。
八潮はアジトの内部や抜け道を中心に語った。後は幹部の能力についてだろうか。
と言っても、ラットの下にいたとき以降は一人での行動が多く、ほとんどが噂やラットから聞いたものばかりだったが。
健の持っている情報は、八潮よりも圧倒的に少なかった。ただ、情報を仕入れてからの分析能力は驚くべきもので、多くない情報のその先を冷静に分析していく。
そこに八潮が入り込む隙なんてなかった。
それでいいのかもしれない。
八潮が情報を提供し、健が作戦を練る。これが二人の協力の形なのだと、思考に没頭する健の横顔を見つめながら、八潮はそんなことを考えていた。
その人物は、暗い倉庫の中に呼び出された。人気のない、一昔前なら不良が入り浸っていそうな倉庫である。
立っているのはスーツの上に白衣を羽織った男性。神経質そうに眼鏡の位置を治しながら、強い警戒心を持って辺りを見回している。
「どーも、お待たせしてしまってすみません」
気の抜けた声で登場したのはまだ幼い少年だ。灰色のパーカーを羽織り、フードで顔を隠している。
胸元にある桜の花弁を模した石が怪しげに瞬いた。
「ガキか?」
十に届くか、下手したらそれよりも幼く見える少年。
男は拍子抜けた声で問いかけ、少年は微笑を返す。無邪気さを装ったそれがただ貼り付けただけの偽物だということを男は気付きもしないだろう。
それくらい精巧に作り上げられた偽物の笑顔だった。
「ツェツェバエさん、ですよね。急にお呼びだてしてすみません」
暗い倉庫の中、不釣り合いとも取れる平凡さが逆に警戒心を煽る。
こんな場所、しかも深夜に届くような時間に子供が一人でいるわけがないのだ。
幹部の中でも比較的頭が回るツェツェバエはそのことに思い至り、その目に剣呑なものを混ぜる。
「お前……サイやカマイタチを殺したヤツか?」
「半分当たりで、半分ハズレです」
長年に渡って殺し屋業を営んできた男だ。目に宿った剣呑さは殺気というもので、見る人を震え上がらせるだけの力がある。
しかし、少年もとい健は真っ向から受けても一切動じることはない。
それが圧倒的強者であるがゆえ、ということに果たしてツェツェバエは気付けているだろうか。
隠業の術と潜伏技術を駆使して身を潜めている八潮はただ二人のやり取りに意識を集中させる。
今回、八潮が与えられた役目はツェツェバエにトドメを刺すことだ。
隙は健が作ると言っていた。コンマ一秒でもそれを見逃すことは許されない。
「まあいい。別に思い入れがあるわけじゃねぇが、仇を討たせてもらう!」
空気が一変。眼鏡の奥の瞳が鋭さを持ち、ツェツェバエは懐から出したアンプルを健の前に叩きつけた。
ぶちまけられたのは特別希少でもない病原体だ。感染力を倍にし、症状が重くなるように改良してあるが。
「ふーん」
それだけ小さく呟いた健は表情一つ変えないまま、前に飛び出した。
散らばるアンプルの破片を飛び越え、何もないところから細身の剣を生み出す。無駄のない動きで一振すれば、金属音が倉庫の中に響き渡った。
「強いのですね」
目に狂気を宿らせたツェツェバエの口調が一変している。口の端から零れる笑みさえもどこか狂気的で、うっとりとした表情を見せている。
「是非とも、貴方様の血液を採取したいものです。……きっと素晴らしくおいしい」
涎を垂らすツェツェバエを見て、初めて表情を変えた健は一時避難と言わんばかりに距離を取る。
そして、物言いたげな視線が刹那だけ八潮に寄越した。
そういえば以前、ラットがツェツェバエはとんでもない変態だと言っていた。その時は、あまり気に留めていなかったが、こういうことか。
ツェツェバエは吸血ハエの一種である。おそらく、戦い方と血液採集という趣味を見て名付けられたのだろう。
「生憎、貴方にあげる血は一滴もありませんよ」
「そうおっしゃらずに!」
よく見るものよりも一回りほど大きな注射器を細身の剣でいなす健。金属同士が激しくぶつかり合う音が反響する。
戦う片手間にツェツェバエは涎を拭い、健は複雑そうに目を細める。
「なかなかに手強い御仁だ。ならば! これならどうでしょう!」
ツェツェバエは注射器を捨てる。先程よりも深く踏み込んだ彼の拳は強く握りこまれ、防ぐ細身の剣ごと健の身体を吹き飛ばした。
「っ……」
漏れそうになる息を噛み殺しながら見守る八潮の視界で、一回転した健は無事に着地する。そこへやってるくのが二撃目。
先程よりも速い。防ぐのは無理だと判断した健はまろぶようにして打撃を避ける。完全に体勢を崩した健へ襲い掛かるのは三撃目だ。
今まで通りの打撃が撃ち込まれると思いきや、ツェツェバエは二本の注射器を健の首筋に突き刺した。
吸血用のものよりも小さな注射器に入っていた液体が健の身体の中へと侵入していく。
「これ、は……」
「私が開発した毒です。悪寒や呼吸困難を乗り越えた後、とてつもない睡魔に襲われ、眠るように命を奪われる。素敵でしょう?」
無機質な目に紅を刹那だけ纏わせた健は膝から崩れ落ちる。浅い呼吸を繰り返しながら、恍惚とした表情を見せるツェツェバエを見上げる。
いや、違う。これは――。
健の視線は、ツェツェバエの肩を通り過ぎて八潮へ向けられていた。
「貴方様は丈夫なようで、少し多めに注入させてもらいました。大盤振る舞いですよ」
苦しむ健を観察し続けるツェツェバエの背後に忍び寄る八潮。そのままナイフを突き刺すとともにツェツェバエを蹴り飛ばす。
ツェツェバエの背中が消えた先には倒れ伏した健の姿があって――。
「だいじょ――」
「右に跳んで」
ほとんど反射で地面を蹴った八潮のすぐ横を銀閃が通り抜ける。ぶつかり合う金属音のすぐ後に、何かが落下する音が聞こえた。
「トドメを」
言われて八潮は片手に持っていたナイフでツェツェバエの首筋を掻っ切った。頸動脈から大量の血を噴き出しながら、膝を折るツェツェバエに大きく息を吐き出した。
「油断は禁物、ですよ」
「……悪い」
組織にいた頃は一撃で全てを終わらせていたものだから、つい気が緩んでしまう。それでもトップクラスの実績を残せていたのは、相手が素人ばかりだったから。
今の相手は歴戦の殺し屋たち。殺したと思っても、縋りついてくる執念深さを持っている。
これからはより一層、気を引き締めなければ、と八潮は自分に言い聞かせた。
「お前は大丈夫なのか。毒は……?」
先程までとは打って変わって平然とした顔をしている健に問いかければ、彼は捨てられた注射器を見るように促す。
毒を注入するのに使われた注射器二本。空になって捨てられたはずのそれには中身が入っていた。
まだ残っていたのとは違う。一滴も外に出ていないのだと気付いて、健を見る。
彼は悪戯好きの子供のような表情をしていた。
「認識操作みたいな感じですかね。五感を少しばかり操らせてもらいました」
健の目の一瞬だけ紅く輝いた気がした。その輝きは見覚えがあって、すぐに注射器の針を刺された時に見たのだと思い至る。
「一体、何者なんだ……お前は……」
「処刑人、ですよ。前も言ったでしょう?」
からかうような微笑みは十歳の子供がするものとは思えない妖しさを持っていた。