2話 報いるための選択
性的暴行を匂わす表現があります
苦手な方はこのままスクロールして、後書きをお読みください
事件が起こったのは梅宮家壊滅任務が無事に遂行されたほんの一週間後だった。
幹部の一人、サイの遺体が狭い路地で見つかった。部下たちと少し離れた間の出来事だという。
武闘派で有名な幹部の死に組織内では動揺が広がっていた。
「動き出したってことやな」
「何が……?」
問いかけにラットはあの時と同じ表情を浮かべて、
「処刑人や」
と短く返した。
処刑人。それは貴族街で有名な都市伝説のようなものだ。
貴族街のトップに君臨する存在の命令によって動く殺し屋。その手口は鮮やかで、死体どころか、血の一滴すら残らない。
姿を見た者はおらず、男だとか、女だとか、若いだとか、老人だとか、様々な噂が飛び交っている。
八潮もただの噂程度にしか、その存在を認識していなかった。
「でも処刑人は何の痕跡も残さないんじゃ……。今回は死体だって残ってるし」
「見せしめ、だろうな。大人しくしてたらこれ以上、手荒な真似はしないっていうな」
ここまで言い切るラットが八潮には不思議で堪らなかった。
処刑人は噂でしか聞かないような存在だ。それをまるで知っているかのように――。
「死体の近くに桜の花弁が落ちとった話は自分も聞いたやろ? 季節外れの」
八潮の胸中に沸き起こる疑問を解消するようにラットは言葉を紡いでいく。
「仮に処刑人でなかったとしても、貴族街の連中が動き出したのは間違いない。桜は、貴族街の統治者の象徴やからな」
桜――桜宮家。
貴族街を統治しているのは春野家であるが、その後ろには真の統治者たる桜宮家当主がいる。そんな話はラットの下につくようになってから知ったことだ。
ほとんどを春野家に任せながら、気紛れにこうして顔を出すことがある、と。
そして、桜宮家に仇を為す者に一切の容赦をしない、と。
梅宮家は桜宮家の分家――所謂、桜宮一族と呼ばれる存在だ。それを壊滅させた紅喰会を桜宮家当主が許すはずがない。
「どうするんですか。その処刑人を殺す、とか……?」
「それは無理やろうな。ま、どうするかはボスの御心のままってとこや」
先程からまるで処刑人について知っているような口振りで話すラットに違和感があった。
紅喰会の情報屋たるラットが知っていてもおかしくないという思いと、それを隠そうとしているように見える違和感。
きっと何か考えがあるのだろう。ラットへの信頼からそう締めくくって、八潮は渦巻く違和感に別れを告げた。
それから数日後のこと。八潮は幹部会に呼び出された。
今までもラットの補佐役として何度か顔を出したことはあるものの、こうして直接呼び出されるのは初めてだ。
何度参加しても慣れない空気感に緊張しながら、八潮は今、ボスの目の前に立っている。
歴戦の猛者を思わせる佇まい。鋭い眼光は八潮を射抜き、何かされたわけでもないのに自然と身体が強張ってしまう。
「サイが死んだことはお前も知っているな?」
「はい」
返事の声が震えていないか、不安になる。
ボスだけではなく、他の幹部たちももれなく全て八潮に突き刺さっており、緊張を消す要素が一つとしてない。
ラットの視線すらも、今は安心材料になってくれない。
「幹部の座をいつまでも空けておくわけにはいかない」
重厚感のある声が一音一音、八潮の心や身体を揺さぶる。
「君江八潮、お前を幹部に任命する」
「え……っ!」
予想外すぎる言葉に一瞬、思考が飛んだ。呆けた顔をする八潮に突き刺さる幹部たちの視線に鋭いものが混じったのを感じ取って、すぐに我に返った。
「つ、謹んでお受けいたします」
こんな状況で、こんな空間で断るなんてことできるはずもなく、その日、八潮は紅喰会の幹部となった。最年少幹部である。
決まるまで、大分揉めたのだと後にラットは言っていた。
「堪忍な」
最後の挨拶に訪れたとき、ラットは心の底から申し訳なさそうな顔でそう告げた。
武闘派幹部であったサイの穴埋めと任命された八潮は実力も相俟って、これからたくさんの殺しの依頼を請け負うことになるだろう。
八潮は今の今まで、人を殺したことがなかった。
暗殺組織に所属していて、その実力を周囲から評価されていたというのに。
それは、ラットが守ってくれていたからなのだと今更ながらに気がついた。
情報収集やサポート中心の仕事ばかり任せることで、八潮の手が汚れることのないように気を遣っていてくれていたのだ。
「どうして……そこまで気にかけてくれるんですか?」
「大層な理由はあらへん。八潮のことを気に入ってる。それだけや」
何度も見てきた人好きのする笑顔はラットの姿を覆い隠す。
本当にそれだけなのか、もっと別の理由があるのか、八潮には分からなかった。
「そうや、これやるわ。餞別や」
「ブーツ、ですか……?」
渡されたのは革のブーツだった。怪訝そうな八潮を前に、ラットは悪戯好きの子供のような表情を見せる。
「ブーツナイフって言うてな、ここにナイフが装着してあるんや。自分の戦い方にぴったりやろ?」
「ありがとうございます……」
そこから八潮は、紅喰会幹部の一人としていくつもの殺しを請け負う日々を送っていた。
初めての時は緊張したものの、いざ標的の前に立つと冷静になる自分がいた。自分の手で命を刈り取られた死体を前に心ひとつ動くことなく、無感動なままに殺しを重ねてきた。
人を殺すたび、何かが零れ落ちていくのを感じながら昨日も、今日も、明日も。
ラットの許で過ごした日々は殺しを重ねる今でも生きていて、その潜伏技術は他の追随を許さないとまで言われた。一瞬に姿を消してしまう才能を称えて、カメレオンと呼ばれるようになったのはいつだろう。
会う度、物言いたげな視線を寄越すラットすら気にならなくなった頃、噂を聞いた。
「知ってるか? 裏切り者の話」
「お得意様の誰かが貴族街に情報を流してたんだろ?」
サイが死んでから組織内でよく聞くようになった話だ。興味なしと素通りしようとした八潮を続く言葉が引き止めた。
「それで貴族街の関係者を皆殺しにするって話だぜ」
「へぇ。もしかして今動いてるのってそれか?」
「そうそう。確か今日は――」
そっと息を潜めるようにして下っ端構成員の会話に耳を傾ける。
「君江だかって言う家に押しかける……っぐ」
「今、何て言った?」
たった一つの単語を聞き咎めた八潮はほとんど反射的に下っ端構成員へ掴みかかる。胸倉を掴み、尋常ではない力で壁へと押し付ける。
「か、カメレオンさん……! おお落ち着いて、ください」
「俺は何て言ったかと聞いているんだ」
最年少で幹部までの登りつめた八潮の眼光を受け、宥めようとした男は怯むように一歩下がった。
「そ、それじゃ、話せませんよ」
消え入りそうな声にしたうちで答え、八潮は投げ捨てるように胸倉を掴んでいた下っ端を解放する。そうして同じことを問いかけた。
「い、今から君江っていう家の人間を皆殺しにするって……ボスの命令で」
「そうか」
怯え切った二人にそれだけ言い、殺気を纏ったまあの八潮は無言で廊下を歩いていく。
目指すは最上階。ボスの場所だと歩を進めていた八潮の前に誰かが立ちはだかった。
「そんな怖い顔でどこ行く気や?」
聞き慣れた関西弁。久しく聞くことのなかった関西弁。
立っていたのはラットだった。大半のものが恐怖するような殺気を前にしても、その気楽な構えは崩さない。
「どいて、ください」
「悪いけど、それはできん」
ラットと事を構える気はなかった。まだそこまで冷静を失ってはいなかった。
「なんで……なんで、俺の家を、君江家を皆殺し、なんて……」
「殺された一件で、情報を流してる奴がおるって考えたんやろうな。可能性だけでも裏切り者を放っとくような組織じゃないのは自分も知ってるやろ」
少し考えれば分かることだ。八潮自身も裏切り者として証拠もない人間を葬ってきた過去がある。
理屈は分かる。けれど、感情が納得できるかは別の話で――今はラットのその冷静さすらも恨めしく思えてきた。
「くそっ……」
「どこ行く気や?」
「あんたには関係ない!」
八潮は殺気を消さないまま、来た道を引き返す。
ボスに直談判することが許されないと言うのなら、八潮にできることは一つだけだ。
誰に何を言われたって構わない。罰せられたって構わない。
だって、八潮はこのために強くなったのだ。このために人を殺し、組織にい続けたのだ。
怒りと縋るような感情だけに支配されながら歩を進めた八潮が辿り着いたのは懐かしい屋敷だった。
一番古い記憶は十年以上も前、家族の一員として過ごした幸福な日々。組織に入ってからは、ある程度の自由が許されるようになってから定期的に訪れていた。
何をするわけではなく、離れた位置で大好きな家族のことを見守り続けていた。
八潮にとって何よりも大切で、守らなければいけない幸福の象徴。――そこから、死の香りが漂っていた。
一足遅かった。もう裏切り者への制裁は始まっており、逸る気持ちで炎の中に飛び込んだ。
名前も知らない数人の使用人たちが廊下に倒れている。生きていないことは遠目で見ても明らかだった。
「……っ、父さん、母さん……姉さんっ」
大好きな三人に呼びかけながら、血に濡れた道を歩く。返事はない。
嫌な静けさを纏う屋敷の中を歩いて、父の仕事部屋へ飛び込んだ。
「父さん……」
追い詰められたように、窓の近くで事切れている死体があった。
ストレスのせいか、実年齢よりも老け込んだ顔は昔のように何かを怯えるような顔をしていた。
臆病で、不器用で、でも温かくて、笑顔が見たいとずっと思っていた。
数年前から不器用でも笑えるようになっていたのを知っている。影から見守る八潮は下手糞な父の笑い方が好きだった。
それももう見ることはできない。
――母の死体は廊下で見つかった。逃げる途中で襲われたらしく、背中には投擲用のナイフが数本突き刺さっていた。
いつだって優しかった母。八潮のために泣いてくれていた母。
温かくて大好きだった母の手が今は冷たくて、どうしようもなく涙が零れた。
「くそっ、なんで……」
父が裏切ったのか。組織の情報を流したのか。
臆病で優しい父は家族のために非道とも言える決断をすることがある。八潮自身がそれをよく知っている。
でも、八潮にはどうしても父が情報を流したとは思えなかった。
「姉さん、は……姉さんはどこに」
守りたかった最後の一人を思い浮かべ、よろよろと先へ進む。
幼い八潮を引っ張ってくれた手を覚えている。歩くのが少し早くて、いつも必死について行っていた。
「姉さん……うっ」
最初の心当たり、姉の自室の扉を開けた瞬間に流れ込んできた臭いに顔をしかめる。
おぞましい、性の臭い。
嫌な予感が脳裏を過ぎって、部屋の中に姉の姿を探す。
「……ぁ、ぁ」
姉はすぐに見つかった。微かに呻くような声が聞こえて、命までは奪われていないのだと確信する。
けれど、それを素直に喜べる状況ではなかった。
姉は全裸だった。内腿の辺りから溢れ出した白濁の液体が流れ出し、水溜まりを作っている。
念入りに手入れされた髪も、美しい肌も、活発そうな顔も、全てが白濁の液体によって汚されていた。
組織の中には、暗殺の依頼を受けた家で好みの女を見つけると犯す者たちがいる。自分たちが満足するまで犯した後、気に入ればアジトに連れて帰り、気に入らなかったら殺すのだ。
八潮もその現場を何度も見てきた。悲痛の声を上げ、助けを求める女を無視して、見て見ぬふりをしてきた。
これがその報いなのか?
姉はまだ息がある。見たところ、怪我も負っていない。
おそらく、お持ち帰りコースというわけだ。まだ屋敷にいるであろう連中が戻ってくる前にどうにか連れて逃げなくては。
一歩、近付くたびに性の臭いが強くなる。汚れるのも構わず、姉の傍でしゃがみ込んだ。
「姉さん……」
「ぁ、ぁぁ」
焦点の合わない目がこちらを向く。
どれだけの時間、どれだけの人数を相手にしていたかまでは分からないが、姉の心を壊すには十分すぎる。
恐れられても、拒絶されても、絶対に姉だけは助けると八潮は心に決め――。
「や、しお、ちゃん……?」
驚くべきことに姉はまだ正常な部分を残していた。何年も前に別れて、見た目だって大分変った八潮のことに気付いてくれたのだ。
心の奥底でそのことに喜ぶ八潮に姉は「おねがい」と消え入りそうな声で言った。
大丈夫。絶対に助けるから。
そう返そうとした八潮の心を続く言葉が打ち砕いた。
「……して……、わた、しを、殺して」
「なんで……」
「おね、がい……殺して。八潮ちゃん、私を殺して……おねがい、だから」
譫言のように「殺して」と訴える姉の目端から涙が零れ落ちた。白濁の液体で汚された頬に伝う涙は姉の最後の純潔を表しているようだった。
地面に落ち去った純潔は、八潮が守りたかった姉を連れ去ったように思えて――。
「分かった」
短い一言とともにブーツから抜き取ったナイフを大好きな大好きな姉の胸に突き刺した。
「やし、おちゃん……ありが、と」
最後の最後で笑顔を浮かべた姉はそのまま事切れた。
守りたかったものを一つも守り切れず、最後にトドメを刺したのは八潮自身だった。
何をダメだったのだろう。どこで間違えたのだろう。
家族を守るために組織に入った。
家族を守りたいから力をつけた。
それなのに、守るための力が命を奪ったのだ。
「ああああぁあああああああぁ」
絶望の声を高らかに。
八潮の中で何かが音をたてて切れた。いや、違う。最初からそんなものありはしなかったのだ。
もうずっと前から八潮の心は壊れきっていたのだ。今まではただ正常なふりをしていただけにすぎない。
八潮には人を殺す才能がある。
それは、ずっと前から分かっていたことだ。守るよりも、壊す方が性分なのだ。
ならば、八潮は守りたいもののために何をすればいい?
守りたかったものたちにどう報いればいい?
――答えは簡単だった。
八潮の掌から生み出された炎が床に落ちる。炎は瞬く間に広がっていき、やがて屋敷全体を包み込んだ。
守りたかったものの象徴が自分の手で壊されていく様を最後まで見届け、八潮はそのまま姿を消した。
(ざっくりとしたあらすじ)
処刑人によって幹部の一人が殺されたことにより、八潮が新しい幹部に任命された
依頼のままに殺し続ける日々を送る八潮の耳に君江家を襲撃するという話が届いてきた
君江家に向かう八潮。そこには両親の死体と、犯された姉の姿があった
懇願を受けて、姉を殺した八潮は屋敷に火を放ち、復讐のために動き出す