最終話 刃が望んだその先に――
目の前で消えていく命を前にしてサイデの心は不思議と落ち着いていた。失われた悲しみも、奪った相手に対する怒りや憎しみも一つとしてない。
――自由に、なって。
――サイデのっ、好きなよ、に……ぃきて。
懸命に抑えつけていたものが解放される。膨れ上がった妖力は刃となり、刹那のうちに炎の鳥を切断した。
右翼、次は左翼。チーズを切り分けるように切断され、地に落ちた鳥にはもう興味がない。
「イイ目するじゃねェか。やっぱ、俺の見込ンだ通りだぜ」
殺意すら宿さず、ただ刃のような鋭さだけを宿した瞳を見て男は快哉を叫ぶ。
「俺の名前はフィロスだ。オ前は?」
「……サイデ」
ぶっきらぼうな声を聞き、口の端を上げたフィロスが長刀を抜く。それが攻撃の合図だ。
フィロスの姿が消失した。そう勘違いさせるほど素早い動きで迫るフィロスに、サイデは視覚を捨てる。ただ一つ、己の直感のみに従って刃を放つ。
切り裂かれる刃。同時に後ろに飛んだサイデは渾身の力で斧を投げつける。
「へェ」
長刀の切っ先から放たれた斬撃が斧を二つに割いた。面白いくらい綺麗に切断された斧が爆発し、飛び散った破片がサイデの肌を掠める。
武器はなくなった。しかし、悲観しない。むしろ、胸を占めているのは果てない高揚感だ。
赤らんだ頬が、鋭い朱色の瞳が、無意識に上がった口角が、高鳴る胸中を表すように輝きを増す。
襲いくる斬撃は変幻自在に力を変える。これがフィロスの力なのだろう。
斬撃が何度目かの爆発をする。もはや驚きもしない爆風を受けて、炎の鳥が吹き飛ばされた。翼を失い、地面に伏していた炎の鳥に抵抗する力はない。
「いいのかよ。仲間なんだろ」
「仲間? ちげーよ。アイつはただの奴隷、使エそオな力だったから飼ってただけだ。どオなろオが俺の知ったことじゃねェ」
「……そうかよ」
別にフィロスの言葉に文句はない。
弱肉強食。強いものだけが勝ち、弱いものは死んでいく。
死んだとしたらそれまでだっただけの話だ。炎の鳥も、村の人たちも、――シラハも、弱いから死んだ。
生き残りたかったら強さを証明すればいい。目の前の男を殺して。
攻撃を避けて、刃を放つ。それの繰り返しではフィロスには勝てない。
斧は壊された。ならば、代わりの武器の必要だ。
炎に埋もれた村の中を探せば武器になりそうなものが見つかるかもしれないが、サイデが求めているのはそんな急ごしらえの武器ではない。今、ここでフィロスを倒すための武器だ。
掌に意識を集中させる。サイデが使える術は妖力の刃を放つ一つだけ。
出来損ないのサイデに他の術を教えてくれる者などおらず、何よりサイデの自身が求めていなかった。
きっと本能で分かっていたからだ。必要ならば、力の方からやってくると。
掌で妖力が腕を巻き、形を成していく。大きく大きく膨れがあり、やがてサイデの手には巨大な鋏が握られる。
「それがオ前の得物か」
身の丈以上もある巨大鋏を生成したサイデを見て、フィロスは楽しげに笑う。
戦うための才能。それが開花した瞬間を目にしたのだ。これを喜ばずにはいられない。
フィロスが地面を蹴る。これまでなら見失っていたはずなのに今は追える。
頭が不思議なほどにクリアで、抑え込んでいたものが一気に解放された気分だ。
「……はは」
自然と笑みが零れる。ああ、こういうことか、と。
鋏を開いて閉じる。切っ先から生み出された不可視の刃が長刀に切り裂かれるのを横目に駆ける。
肌を叩く風が心地いい。金属同士がぶつかり合う音が安らぎ生み、長刀と鋏の歪な剣舞は加速していく。
舞う鮮血が世界を彩り、駆け巡る痛みに零れるのは笑みだ。
楽しい。愉しい。たのしい。
単調だった日々が嘘のように、今は途方もない快感が次々に押し寄せてくる。ずっと求めていたものだ。
「こンな楽しイのに出し惜しみしちゃァもったイなイよなァ」
フィロスの身体からどす黒い気が溢れ出す。それは邪気と忌まれるものだが、サイデの知るよしはない。
サイデとフィロスの実力差は怪我の量から一目瞭然だ。血塗れなサイデに対して、フィロスはかすり傷をいくつか負っているだけ。
その上、さらに強くなるというフィロスに抱いたのは絶望ではなかった。
出し惜しみされたことに対する不満と、さらなる快感を得られるのだという歓喜。
白銀に煌めく刃がサイデの腕を深く傷つけ、距離をとったところに爆撃が襲う。
避ける間もなく吹き飛ばされながらも、なんとか受け身をとって重傷を避ける。
「ちっ」
休む間もなく襲いくる斬撃。これを巨大鋏で受け止め、刃を掌から放つ。苦し紛れの一撃はフィロスの纏う黒い気によって見る間に消失する。
「ほらほら、こンなもンか。もっと面白くしてみせろよ、なァ?」
「言われなくても……っは」
斬撃を放った一瞬の隙をついて蹴りをお見舞いする。入った、と確信したサイデを嘲笑うように、フィロスはサイデの足を掴んでみせる。
「遅くなってきてるぜェ。疲れたか?」
「っるせー」
足を掴むフィロスの力は尋常ではなく、振りほどくこともできないままサイデは逆さ吊りにされる。
息は上がり、全身から血が流れている。疲労を訴える身体を快感のみで突き動かしていた。
それも限界だ。些細な事実がどうしようもなく悔しくて顔を歪める。
もっと、もっともっと戦いたい。ようやく得られた解放感をこれで終わりにしたくない。
「くそっ」
目の前で黒い気が揺らいでいる。透明なサイデの力とは程遠い禍々しい気。
大抵の者は恐れをなし、蔑むそれに魅了された。禍々しさがサイデの世界をさらに色付けてくれるような気がして、手を伸ばす。強く強く懇願した。
欲しい。欲しい。その力が欲しい。もっと強くなりたい。もっと、もっと強く。
〈強さを望むものよ、我が力を与えてやろう〉
そんな声が聞こえた気がした。
時間が静止する。永遠のような一瞬の中で、サイデは差し出された浅黒い手に触れた。
瞬間、サイデの身体を禍々しい気が包み込んだ。途方もない力を与えられたような感覚に陥り、冴え渡った視界でフィロスが楽しげに笑っている。
「オ前も力を与えられたみてェだなァ」
「与えられた?」
「声、聞こえただろ。俺のこの力だってそオだぜ? アイつに負けて途方にくれてた俺に、アの方が力を与えてくれたんだ」
見せびらかすようにフィロスの邪気が膨れ上がる。
あの方が誰なのか、サイデには分からない。けれども、どうでもいいと思った。
今、大切なのはまだフィロスと戦っていられる力があるということだ。
掌サイズの鋏で、己の足を掴むフィロスの腕を切り刻む。離れたと思った瞬間から距離を取り、完全に自分のものとなった邪気に命令を下す。
邪気は空間へ広がっていき、霧散した。
「なンだァ、失敗か」
嘲笑にも似たフィロスの声に、小さく笑んだ。
失敗? 違う。大成功だ。
何の攻撃も仕掛けて来ないと判断したらしいフィロスが地面を蹴った。凄まじい速さでサイデへと迫るのは経験済み。
フィロスは速い。冴えた視界でも捉えきれない速さが、今はそれが命取りだ。
踏み込んだ足に切り傷が与えられる。足だけではない、腕、顔、胴。至るところが次々に切り刻まれていく。
「どオゆウことだァ……? てめェ、何をした」
「何も」
そう、何もしていない。今は。
ただ迫るフィロスを無表情で出迎えていただけだ。
サイデの周囲には鋏がいくつも浮かんでいる。サイデの目だけにしか捉えられない不可視の鋏である。
近付いたものを切り裂き、サイデを守る鋏の結界。さしものフィロスも迂闊に気付けまい。
笑み、地面を蹴った。フィロスを切り裂いた鋏たちは当然ながら、術者のサイデを傷つけることはない。
巨大鋏の一撃を長刀で受けたフィロスの腕から鮮血が舞う。激しい攻防の一つとして彼には届かないが、フィロスの身体には面白いくらいに傷が刻まれていく。
「ウぜってェなァ!」
渾身の力でサイデを蹴り飛ばしたフィロスは長刀を横一文字に振るう。放たれた斬撃が爆発し、仕掛けていた鋏たちを破壊していく。
受け身を取ろうとしたサイデまでもが凄まじい爆風の影響を受けて、地面に転がるように着地する。
立ち上がるまでの数秒の隙。フィロスがそれを見逃すはずがない。
一瞬で間を詰めたフィロスの攻撃を巨大鋏で受け止め――想像以上の重い一撃は片刃を砕いてみせた。
「くそっ」
まろぶようにして離脱する。
不可視の鋏を配置しておけばフィロスも迂闊には近づけない。そのはずだった。
全身を切り刻まれながらも突進してくるフィロス。上がった口角が宿す狂気に魅せられるように、サイデもまた片刃を失った巨大鋏を構えた。
ぶつかり合う金属音。二人の鮮血が飛び散り、混ざり合い、舞台を盛り上げる。
フィロスの息も上がっている。お互い傷だらけで、それでも快感だけを理由に戦っている。
殺すことが目的ではない。
勝利を求めているわけではない。
ただ己の欲望のままに戦うことだけが最上の喜び――。
それも、もうすぐ終わる。
「っらあ!」
乱れた呼吸が生み出した隙。刹那の隙を見逃さずに渾身の力を叩き込む。
二つの銀が宙を舞う。サイデの手から離れた巨大鋏と、半ばで折られた長刀の破片が宙で交差し、地面に突き刺さった。
武器はなくなった。新たに生成する気力もない。勝利を確信して向かってくるフィロスをただ迎えることしかできない。
折れた長刀の輝きに魅せられたサイデは静かに息を吐き出した。
「っンだ、と……はっ」
大量の血を吐き出したフィロスはよろけながら後ろへと下がっていく。緩慢な動きで、自身の身体を見下ろした紫紺の瞳が大きく見開かれた。
胸のど真ん中に突き刺さった刃。それは、ついさっき折れたばかりの長刀の破片だった。
「はっ……はは、そオゆウことか」
「勝負は最後まで分からない。勝手に勝利を確信したことがお前の敗因だ」
剥き出しの刃を握ったせいで、サイデの手は血だらけだ。決して浅くない傷口からは今もなお血が溢れ出しており、脈打つ痛みが変わらない心地よさを連れてくる
「はは、ははははは……っ、げほっ。これ、は……完っ全に……俺の、っ負け、だ」
勝利の確信。それは勝負を放棄したのと同じだ。あの瞬間、フィロスは勝負を放棄した。
対して、サイデは最後の最後まで勝負から目を離さなかった。
二人の戦闘狂の勝敗を分けたのはたったそれだけの差だ。
手の届くところまでやってきた己の死を前にしたフィロスの口から笑声が零れる。
見下ろす少年の顔と、かつてフィロスを打ち負かした少年の子供の姿が重なった。
自分と同じ紫紺の瞳を持つその少年は平凡な顔に、朴訥とした表情を見てフィロスを見下ろしている。
「……たのしかったぜ」
「俺もだ」
瞑目し、呟いたフィロスの言葉への返答はぶっきらぼうなものだった。
あいつとは似ても似つかない反応に微笑し、とうとうフィロスは意識を手放した。
フィロスの死を最後まで見届けたサイデは思い出したように振り返る。
朱色の視線の先には、一人の少女が倒れている。
「っ……シラハ!」
火傷に塗れた少女。
いつだって自分を気遣っていた少女の死をサイデは今の今まで忘れていた。それなのに、後悔していない自分に気付いて愕然とする。
守りたいと思っていたはずなのに。確かにあったはずの悲しみは、戦いの余韻で高ぶる鼓動が消し去っていく。
慣れ親しんだ村が、血と炎の赤に染まっている。その中で横たわるシラハの死体は、まるで精巧な芸術品のように美しく気高いもののように思えた。
「……シラハ……っく」
ふらつく足を動かし、シラハに辿り着くより先に膝から崩れ落ちた。酷使された身体がついに限界を迎えたのだ。
激しい攻防によって蓄積された疲労。満身創痍の身体から溢れる血が地面に染み込んでいく。
霞んだ視界はシラハの亡骸だけをとらえ、必死の思いで手を伸ばす。
もっと違う未来があったのだろうか。
村を飛び出していれば、少なくともここで命が尽きることも、シラハが無残な死体を晒すこともなかったはずだ。
――せいぜい、大切なものを壊さないようにね、忠告だ。
今になって蘇る。あの男の言っていたことは正しかった。
村も、シラハも、サイデの理性を繋ぎ止めて守りたいと思わせてくれたものはすべて壊された。
壊した相手を憎む気持ちすら湧かないサイデ自身もとっくに壊れてしまっているのかもしれない。
「俺は……このまま、死ぬのか」
何にもなれず、求めた自由も手に入れることができないまま、大切なものだけを壊して。
死は恐ろしくない。けれど、ようやく届きそうだったものが離れていくのはひどく悔しかった。
「死にたく、ないな」
こんなことなら村を飛び出していればよかった。シラハと一緒に。
〈その願い、叶えてやろう〉
空から声が聞こえた。男とも、女とも、老人とも、若人ともつかない声。いや、その全てが混ざった声だ。
フィロスとの戦闘中、力を求めたサイデの耳に届いたものとは別の声。
〈僕に力を貸してくれたなら、貴方の望みを、叶えてあげるぜ。女の子を生き返らせることもできるわよ〉
「……んなの、必要、ねぇ」
死は終わり。それを覆してはならない。
シラハの命はあそこで尽きて、サイデは彼女の死をきちんと背負わなければならない。
何より、覆ってしまったら面白くない。死が終わりだから、命懸けの戦いは輝き、サイデに途方もない快感をもたらしてくれるのだ。
ふとサイデは視界の隅で赤いものが蠢いていることに気がついた。フィロスが連れてきた炎の鳥だ。
今にも命がつきそうな中、必死に生き足掻いている。
「……だったら、あいつを助けてやれよ」
〈承知〉
眩しいくらいの純白が炎の鳥とシラハの亡骸を包み込む。間もなくして炎の鳥の姿は消え、代わりにシラハが身を起こした。
火傷の跡は消え去り、色素の薄い髪は炎のような赤に変わっている。こちらに向けられる瞳はサイデと同じ色だ。
シラハ、いや違う。彼女の身体には別の存在が入っている。
〈お主の望みは、叶えたよ。今度は我の望みを、叶えてもらいます〉
「義理は果たす」
一、二もなく答えたサイデの身体が白い光に包まれた。
謎の声がサイデに求めたのは、ある存在の抹殺だった。そのために必要だという力を与えられたのだ。
炎の鳥も同じようで、シラハの身体が白い光に包まれている。
「お前、名前は?」
光がおさまった頃、サイデは赤い少女にそう問いかけた。
気の弱そうに瞳を揺らす少女からはシラハの面影は見つからない。それでいい、とサイデは思った。
「…芙楽、です」
紡がれた声も、シラハのものとは違うものだった。
「…あのっ、助けていただいて、その、ありがとうございます。お礼に何か――」
「いらねぇ」
「…でも」
譲る気はないと大きな目がこちらを見つめている。サイデは昔からあの目に弱い。
中身が変わっても、それだけは変わらないようだ。
「村を燃やせ。跡形残らず灰に変えろ」
「…いいんですか?」
「俺にお礼がしたいんだろ。つべこべ言わずに燃やせ」
「…分かりました」
どこか消沈した様子で芙楽は手を宙にかざす。生み出された火の玉が村へ放たれ、元々あった炎の勢いが増していく。
決して長くはない生を過ごしてきた場所が炎に飲み込まれていく様を眺めるサイデの瞳はひどく無感動だ。
なんの感慨も生まれない。喜びも悲しみもなければ、過ごしてきた日々が走馬灯のように駆け巡ることもない。
ただ、機嫌を窺うような芙楽の視線だけが鬱陶しかった。
「これでお別れだな。……じゃあな」
炎がおさまり、炭と灰に変わった村へ別れを告げ、踵を返す。
もうここに戻ってくることはない。
そんなことを考えていれば呼び止められた。ここでサイデを呼び止める存在なの一人しかいない。
「…これから、どうするんですか」
「旅に出る。一か所に留まるなんて性に合わねェからな」
小さな村で足踏みしていた自分を嘲笑うように答える。村を壊した男の口調を真似て。
「世界は広イ。きっと俺を満足させられる奴がどっかにイるはずだ。頼まれたこともアるしなァ」
「…わ、私はどうしたらいいんでしょう?」
やはり向けられるのは機嫌を窺うような視線だ。気に食わなくて舌打ちをする。
それだけ、びくりと肩を震わせる芙楽の姿はやはり鬱陶しかった。
「知らねェよ。てめェの生き方はてめェで決めろ。俺に委ねてンじゃねェ」
これからサイデは自由に生きていく。己の欲に忠実に、自分が望むことだけを選んで生きていく。
それは周囲に対しても同じだ。サイデから誰かに何かを強制するつもりは一切ない。周りの奴らもサイデのように自由に生きればいいのだ。
――サイデはもう、誰の命も背負わない。
「…じゃあ、お供してもいいですか?」
「言っただろ? 自分で決めろって。好きにしろよ」
つっけんどんな言葉を聞いた芙楽は、何故か嬉しそうに笑った。脳裏にちらついたシラハの笑顔と重なり、舌打ちをする。
芙楽はもうサイデの舌打ちに怯えたりはしない。ただ――。
「…お供します!」
やけに弾んだ声で、そう答えたのだ。